世界の選ばれた者の解放と生活に対する奉仕


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/07/12)

引用聖句:ペテロの手紙第I、2章4節-5節
4主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
5あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

エゼキエル書44:15-18
15しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。――神である主の御告げ。――
16彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。
17彼らは内庭の門にはいるときには、亜麻布の服を着なければならない。内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織り物を身に着けてはならない。
18頭には亜麻布のかぶり物をかぶり、腰には亜麻布のももひきをはかなければならない。汗の出るような物を身に着けてはならない。

今日のメッセージとは、最近準備したものではない。多分54年前じゃないかなと思います。別に時代遅れになったのではない。その時いた2人の姉妹たちも今日見えてます。
祈りの目的とは、やっぱり主イエス様は、自分のからだなる教会を通して働くことができることです。
ですからその時の題名は、「聖なる神の宮である教会」だったのです。

ヘブル人への手紙3:6
6しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

教会、主なるからだ、神の霊的な宮はいろいろな面を持っています。一番大切なのは、言うまでもなく昇天された高く引き上げられたイエス様です。
初代教会の人々は当然、イエス様の死について、復活について多くを話されたでしょうけど、一番話されたのは、使徒の働きを見ると解かります。高く引き上げられたイエス様でした。
父なる神に、教会によりまた主イエス様によって栄光が世々限りなくあるように。そして主なる神は聖なる神の宮である、私達信じる者によって栄光をお受けになるようにということこそが、初代教会の兄弟姉妹の切なる願いまた祈りでした。

今日は、世界の選ばれた者の解放、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕について、少し一緒に考えてみたいと思います。
5つの点に分けて考えましょうか。

第1番目、神の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的であります
第2番目、父なる神の御子主イエス様の偉大さについて
第3番目、衝突の成り行きについて
第4番目、教会への任命について
第5番目、教会と御座の力について

第1番目神の霊的な宮の存在は、もちろん悪魔の攻撃の的です。
霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。選ばれた者というのは、天地の創られる前から主イエス様にあって選ばれたのであり、父なる神の選ばれた教会です。
そしてこの霊なる神の住まいである教会の目的は、この選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。これは主を信じる者の大きな使命なのではないでしょうか。

初代教会は、建て始まった時、地獄全体がこの選ばれた者を滅ぼそうと努めました。主の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の目標でした。悪魔の働き、方法は一方は詭弁的な内面的な働きであり、他方では暴動、暴行によってなのです。
初代教会に対する悪魔の始めの攻撃とは、アナニヤとサッピラによってでした。悪魔は秘密な詭弁的な内面的な働きによって、教会を妨害しようと努力していました。
しかし使徒ペテロはすぐ、これは悪魔の攻撃だと解かりました。彼は何と言ったかといいますと、「アナニヤよ。どうして自分の心をサタンに奪われたのか。」と言ったのです。

すぐ後で悪魔は、暴行行動によって教会を滅ぼそうと努めました。悪魔と教会は一緒に進むことが出来ないのです。教会の存在は、悪魔の敵対のしるしです。
今日の国々の出来事とは、ただ一時的また時間的なものではなく、この出来事は霊的な本質を持っていることがよく解かるのです。これは悪魔の働きです。
悪魔の最後の目的は、反キリストによる世界の支配です。これを考えると私達は、今の時代の厳しさを感じるのではないでしょうか。

人々の多くは、聖書の教えを受け入れたとしても、その人たちは悪魔の攻撃を感じません。またたとえ人が教会に来て、集会に出席しても悪魔の敵対に気がつかない。
けど、人がいったんよみがえりのいのち、すなわちイエス様の永遠なるいのちを経験すると、悪魔の絶望的な攻撃と敵対を認めるのです。
イエス様にある永遠のいのちは、悪魔の戦いの信号です。

教会の使命は悪魔の力を滅ぼすだけではなく、父なる神に、教会によりまたキリスト・イエスによって栄光が世々限りなくあるように、これが教会我々の使命です。
世界の選ばれた者の解放、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕こそが大切です。
ちょっとだけ、5つの点に分けて考えましょうか。神の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的でありますと今話しました。

2番目、父なる神の御子の偉大さについて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。
父なる神の目的は何なのでしょうか。御子は宇宙の座に引き上げられることと、教会はこの目的を達する道具として用いられることです。これは悪魔の力を滅ぼすことを意味しています。なぜなら高く引き上げられた主イエス様は、悪魔の敗北を意味していますから。
イエス様の高く引き上げられたことは、霊的な力によって実行される事実です。ですから私達は、生ける石となって霊の家に築き上げられました。

我々信じる者は、イエス様のいのちを持っています。この教会にある主イエス様のいのちの完全な啓示によって、イエス様は栄光をお受けになるのです。
選ばれた者は、あらゆる死の力に対する勝利を得なければならない。そうしたら初めて、イエス様は全宇宙の支配者となるのです。教会の勝利によって、イエス様は栄光をお受けになるのです。
悪魔の力を滅ぼすことが問題であり、父なる神の御子である主イエス様の偉大さを表すことが問題です。聖書を読むとこれがよく解かります。

出エジプト記3:9-10
9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

けども聖書をみるとわかります。パロは心をかたくなにして、イスラエルの人々を去らせなかった。10回、同じことばが書いてあります。すなわち、主はモーセに言われた。「あなたはパロのところへ行きなさい。主はこう仰せられる。わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」と主は言われました。
けどこの主の命令に対する答えは、「パロは心をかたくなにして、イスラエルの人たちを去らせなかった。」と書いてあります。
一つの疑問が起こります。主なる神はいったいどうして、最初に一撃のもとに悪魔を殺してしまわなかったのか。

出エジプト記9:16
16それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。

パロが心の内に持っている悪い思い、すなわち「私はイスラエルの民を去らせたくない」という悪い思いが実現しなければ、神はパロに対して判決を下すことができなかったからです。悪い思いが実現されて、その次に主の判決が下されます。
パロは10回、主の命令に反抗して自分の心をかたくなにしました。パロの主に対する敵対は、完全に表した時、初めて主の判決が下されました。悪魔の力を滅ぼすことが問題であり、父なる神の御子である主イエス様の偉大さを現すことが問題です。
一つのことが明らかです。パロたちまたは他の独裁者の問題のみならず、問題なのは悪魔の力です。

私達の戦いは、結局、悪魔の軍勢に対する戦いです。あなたは改心した時、両親または友達が敵対心のある立場をとって、あなたを妨げようと努力したかもしれない。けどこれは両親または友達のみならずこの後ろに悪魔の力が働いたのです。
教会の戦いは、悪魔に対する戦いです。そして教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすことです。それによって父なる神に、教会によりまた主イエス様によって栄光が世々限りなくあるように。
イエス様を受け入れた兄弟姉妹の内にある永遠のいのちは、悪魔の戦いの目標であり信号です。

私達信じる者の戦いは、目に見える世界もちろん人間に対するものではない。悪魔に対する戦いです。
聖なる神の宮である教会の使命は、主の道具として器として御子イエス様の偉大さを現すことです。
ですから私達教会によって、悪魔の完全な力は疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように、これは我々の使命なのではないでしょうか。

御子イエス様は、父なる神と同じようにご自分のうちに生命を持っています。この生命によってイエス様は死に打ち勝ちました。
我々の内に永遠のいのちは、死より強いということを啓示しなければなりません。すなわち明らかにならなければならないのです。
主の霊的な宮の存在は、悪魔の敵対の信号である。この霊なる神の住まいにある永遠のいのち、すなわちイエス様のいのちは、悪魔の攻撃の的です。目的です。そして教会の使命は、主の器として悪魔の力を滅ぼすことです。

けどそれは恐るべき戦いです。教会でさえも悪魔の大きな力を経験しなければなりません。悪魔の激怒を感ずるでしょう。
けど悪魔の大きな力、また恐るべき激怒は、終わりを意味していません。終わりは御子すなわち主イエス様の偉大さを現すことです。
今日のテーマは、今話したように「世界の選ばれた者の解放、すべての信じる者の生活に対する奉仕」であります。

第1番目神の霊的な宮の存在こそ、悪魔の攻撃の的。2番目父なる神の御子主イエス様の偉大さについて、3番目衝突の成り行きについて、ちょっと一緒に考えましょうか。

ヨハネの手紙第I、3:12
12カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

ルツ記を読むと、ハマンという男が出てきます。このハマンという男がユダヤ人を全部殺そうと努めました。悪魔はどんな時代でも悪魔のような模倣者を持っていて、主なる神の民を滅ぼそうと努力しました。
けど主なる神は、献身した心を全うした模倣者を持っておられました。そして彼らの一人びとりの証しによって、悪魔は自分の力はダメだと自分の敗北を認めなければならなかったのであります。
アベルは悪魔の力に対する勝利を得ました。なぜならば、殺されていっても証ししているからです。

ヘブル人への手紙11:4
4信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

これらの神のみことばを全うした人々みんなが、悪魔と死の力に対する勝利を得たのです。彼らは見るものによらないで、信仰によって歩いている人々でした。こういうふうに彼らの信仰によって、父なる神は栄光をお受けになったのです。
今日の世界の国々の出来事を見ると、悪魔は何と大きな力を持っていると認めざるを得ない。
悪魔は実に言い表すことのできないほどの大きな力とまた自由を持っています。けど主なる神は悪魔の力を許しているがゆえに力を持っています。

悪魔の力は、主なる神の支配のもとにあるのです。
悪魔が心の内に持っている悪い思い、「私は霊なる神の住まいにいるイエスキリストのいのちを滅ぼそう」という悪い思いが実現しなければ、神は悪魔に対し判決を下すことができません。
まず悪い思いが実現されて、その次に神の判決が下されます。

創世記15:16
16そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。

どうして悪魔は、言い表すことのできない大きな力と知恵を持っているのでしょうか。悪魔の悪がまだ満ちないからです。悪魔の悪が満ちると、主なる神の恐ろしい判決が下されます。
主なる神は、悪魔の力を許しているがゆえに力を持っていますけど、悪魔の悪が満ちると判決が下されるということを、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。
前に私達は、子供と成人した息子の区別について考えました。今日もう一度、他の方面からちょっと見たいと思います。

聖書を読むと、新約聖書の時代、ギリシャでは子供であって、僕とともに生活し、また父の跡継ぎとしての資格を持っていませんでした。成人して初めて息子として、父の跡継ぎとなる資格が与えられるのです。
この子は始めは子供だったんですが、成長し、成人となり始めて息子となったのです。
これと同じように、まことの新生を経験した人は、神の子です。この新生した子は、聖化、変化、成長によって息子となることが出来るのです。

成長したキリスト者だけが、すなわちイエス様を主として受け入れた者だけが、キリストとともに遺産を受け継ぎ、冠をいただき、主の座に着くことができ、豊かな報いを受けます。
成熟した者だけが、霊なる神の住まいとしてご自分の最高の権威と栄光を現すことができるのです。
けども成熟した息子、娘が主なる神の目的だけではなく、悪魔の目的でもあります。マタイの福音書23章、イエス様の当時の聖書学者に対する厳しいことばです。

マタイの福音書23:15
15忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。

この最後のゲヘナの子、すなわち地獄の子というのは、ギリシャ語では地獄の息子となっています。
といいますのは、地獄の成熟した息子を意味しています。何という恐ろしいことでしょう。
主の恐るべき判決の前に悪魔に属している奴隷は、地獄の成熟した息子にならなければならないのです。

悪魔の悪が満ちると、判決が下されるということを覚えるべきです。
主なる神は悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っているということをたえず考えるべきなのではないでしょうか。悪魔の悪が満ちると、主なる神はこの悪魔の言い表すことのできない大きな力に対して、教会を立ち向かわせます。
悪魔は教会によって、自分の力は疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように、これは私達の使命です。そうしたら初めて、父なる神に、教会によりまた主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるようにとなります。

世界の選ばれた者の解放、すべての信じる者の生活に対する奉仕について考えました。
第1番目、主なる神の霊的な宮の存在こそ、悪魔の攻撃の的であり、2番目父なる神の御子すなわち主イエス様の偉大さ、そして3番目、衝突の成り行きについて考えました。
今度は、4番目、教会への任命について考えましょうか。

教会の任命はいったい何なのでしょうか。今まで述べたことと、教会の任命との関係はいったいどういうものでしょうか。
霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。すなわち一言で言いますと、とりなしの奉仕です。
当時の信じる者のためだけじゃなくて、現代の信じる者のための大切なことは、ペテロの手紙第I、2章9節です。

ペテロの手紙第I、2:9
9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

今日の悪魔の働く方法は、一方は詭弁的と内面的な働きであり、他方は暴行によってなのです。
私達はこの悪魔の攻撃に対して、はっきりとした態度を立場を取らなければならない。すなわち私達は、とりなし人とならなければならない。
だからヘブル人への手紙の著者は、当時の信じる者に薦めたのです。

ヘブル人への手紙4:16
16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

祈ろう、主のところへ行こう。

エペソ人への手紙3:12
12私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

誰でも。
私達への任命は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕ですから、大胆に主に近づきましょう。
悪魔が我々をとりなしの奉仕から引き退けようと努力しています。この目的を達するのに訴えることによって、悪魔は教会の力を滅ぼそうと努めています。

多くの信者は悪魔の訴えによって、そして「自分はダメだ。あまり役に立たない者だ。罪にまみれた存在だ。」と感ずることを覚えて、主との交わりは必ず失われると思い込んでいます。これは悪魔の働きです。
悪魔が我々をとりなしの奉仕から引き退けようと努力しています。私達がイエス様の血潮の最も尊い価値を、もっともっとよく悟らなければなりません。そうしたら初めて選ばれた者の解放と生活に対する奉仕をすることができるのです。
けどこれこそが、悪魔の大嫌いなことです。したがって悪魔は、私達に「あなたがたは、もうダメだよ。役に立たない。あきらめたほうがいい。主との交わりは完全にダメになる」と訴えます。とりなしの奉仕から引き退けようと努めているのです。

けど大胆に主に近づかないことは、弱さだけではなく、イエス様の尊い血潮を否定することも含まれています。私達の祈りの生活に対する悪魔の攻撃は、選ばれた者にたいする力を持つことを意味しています。
こういうふうに悪魔は、教会の任命を滅ぼし、教会の力は失われてしまいます。
ところで、霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。これこそが教会の任命です。もし、悪魔の訴えに対する私達の答えが、小羊の血であるならば本当に幸いです。

ヨハネの黙示録12:11
11兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

教会の権威、確信、信頼、力の源は、尊いイエス様の流された血潮です。
私達が、新しい権威、確信、信頼、力を求める時、尊い血潮のために感謝すべきです。
イエス様にあって私達は、神に対する信仰によって、血潮に対する信仰によって確信を持って、大胆に主に近づくことができるのです。

もし、私達が本当に生きておられる主の子供であるならば、私達は主にある聖なる宮の中で、生き生きとした石であり、主イエス様のからだである教会で、このからだの肢体なのです。
したがって私達の使命は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。
パウロはこの事実を次のことばで言い表しました。これは当時の信じる者のためのパウロの心からの祈りであり、叫びでした。

エペソ人への手紙3:18-19
18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

我々の使命は、世界の信者たちの解放と生活に対する奉仕、すなわちとりなしの奉仕です。
あなたは個性的な信者ではなく、あなたは主にある聖なる宮の部分です。これは、あなたはとりなし人とならなければならないことを含まれているだけではなく、これは悪魔に対する恐るべき戦いをも意味しています。これは本当に覚えるべきなのではないでしょうか。
あなたは信じる者になった時、あなたは聖徒たちの家族の一員となりました。だからあなたは今、個性的な信者ではなく、主にある聖なる宮の部分です。

コリント人への手紙第I、12:12、12:27
12ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

あなたはイエス様のからだの一つの肢体です。私達はみんなが主イエス様のからだであり、一人ひとりはその肢体であると聖書ははっきり言っているのであります。
からだの肢体の一つだけでも病気になったら、からだ全部が病気です。一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感ずるでしょう。一人の信者が失敗して教会全部が前進しません。
ご存知のように幾人かの兄弟姉妹が離れました。イエス様のからだから離れたのです。離れた彼らは、まことの喜びを持っていないし、平和を持っていません。

私達は彼らに対して無関心ではないでしょうか。彼らのために真剣に祈るのでしょうか。それともこの兄弟姉妹に対して無関心でしょうか。
私達の無関心によって、悪魔は勝利を得ます。兄弟姉妹に対する無関心のために、私達は恥ずかしくないでしょうか。
孤独な個性的な信者はあり得ないことです。馬鹿げたことです。

私達全部はイエス様のからだであり、一人ひとりはその肢体です。からだの肢体の一つだけでも病気だったら、もちろんからだ全部が病気です。決して前進しないのです。
絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目を覚ましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈り続けなさいとあります。すべての兄弟姉妹のために祈り続けなさい。
またそのように祈ることがまだ始まっていないのでしょうか。けど、いかにしてすべての聖徒のために祈ることができるのでしょうか。この質問に答えるためのパウロの祈りは、すばらしい。

ピリピ人への手紙1:3-6
3私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、
4あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
5あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。
6あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

どうして信じたか。目に見える現実を見ようとしなかったからです
。主は高く引き上げられたからです。「わたしはわたしの教会を建てる」と約束してくださったからです。
このパウロの確信は本当にすばらしい確信です。この確信こそが、すべての聖徒の聖徒のための祈りの秘訣なのではないでしょうか。

ご存知のようにこのピリピに住んでいる兄弟姉妹は、みな本当に模範的な信者ではなかった。ピリピ人への手紙を読むと解かります。
争い、妬みなどがありましたけれど、パウロは「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるにちがいない」と確信したのであります。
結局、目に見える現実はどうであれ主は生きておられる、働いておられると確信したからです。

確かに私達は、幾人かの兄弟姉妹を思いますと悲しくなるでしょう。けど、この兄弟姉妹の内に良い業を始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるにちがいないと確信しているのでしょうか。
どうでしょう。イエス様は必ず完成されます。私達みんながイエス様と似た者となります。
この偉大なる日を大きな喜びを持って待ちましょう。

その時、離れた兄弟姉妹はイエス様の義の衣を着るのです。彼らは小羊の血を崇め、感謝するにちがいない。
その時、今離れている兄弟姉妹は、自分たちの救い主を崇拝するのです。妨げているものは、その兄弟姉妹は主イエスをもっともっとよく知ることは、彼らのただの願いです。
この瞬間を想像して大喜びで待ちましょう。

その時、私達はみなイエス様を見ることができます。何という瞬間でしょう。その時、私達は他の人を見て判断すること、あるいは妬みと傲慢は全く知らなくなります。私達みながイエス様だけを見て、主なる神を礼拝するのです。
私達は永遠にわたり、小羊によって行われた救いを褒め称えるのです。
全国の兄弟姉妹の内に良い業を始められた方が、主イエスの日までにそれをまちがいなく完成してくださるにちがいない。確信できる者は、何という幸いでありましょうか。これこそが、高価なとりなしへの道です。

救霊者になりたいのでしょうか。そしたら毎日家族の一人ひとり、あるいは友達のために祈って感謝してください。
「イエス様、あなたは私の家族の人々を救われましたことを感謝します。友達を救われましたことを感謝いたします。」と感謝したらどうでしょうか。
イエス様はあなたを決して失望させません。これはあつかましいことではないのです。感謝することは決して破廉恥ではないのです。信仰です。このような信仰だけが、奇跡を締結することができます。主の全能を信じる信仰だけが主に喜ばれる信仰であります。

エペソ人への手紙6:18
18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

主の目的を達するために、これは絶対に必要です。
霊なる神の住まいと生命のない死んだものではなく、生き生きとした能動的、霊的な宮なのです。したがって、あなたはどんな時でも、すべての聖徒のために祈らなくてはいけません。
あなたはこれが好きかどうかが問題なのではなく、霊なる神の住まいの際立っている特徴は、とりなしです。

神の子の性質は、とりなしによって現れます。教会の際立った特徴は、霊的な祈りです。生命は自動的です。そしてとりなしの生命の部分です。したがって、聖霊は我々の生命の支配を持てば、我々はとりなし人であるはずです。
そしたら祈りも自発的です。イエス様にあって、「私達は神に対する信仰によって確信を持って大胆に主に近づくことができるのです」と聖書ははっきり言っています。
だから、とりなし人となりましょう。悪魔の訴えと告訴に耳を貸さなくてもいい。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞くがよい」とあります。

ヨハネの黙示録3:12
12勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

私達は御霊の声を聞きましょう。「兄弟たちよ。こういうわけで私達はイエスキリストの血によって、はばかることなく、聖所に入ることができるのである」とヘブル人への手紙10章19節に書いてあります。
流されたイエス様の血は、救いのために必要なものだけではない。最後の勝利のために、とっても大切であると聖書は言っています。
「兄弟たちは小羊の血によって、悪魔に打ち勝った」と書いてあります。小羊の死によって、悪魔、兄弟らを訴える者は投げ落とされたとあります。霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕、すなわちとりなしの奉仕です。

もし私達がこの目的を達しないと、悪魔は選ばれた者に対するすなわち世界の信者たちに対する力を持っています。
私達は世界の信者たち、そのすなわちすべての聖徒たちのために、責任を持っています。私達はこの私達の任命を認めなければ大変です。どうかこの事実について真剣に考えてもらいたい。
今日、今、天上にある諸々の支配や権威が教会を通して、とりなし人を通して神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、私達の主にあって、実現された神の永遠の目的にそうものです。




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