引用聖句:ヘブル人への手紙12章3節-10節
このヘブル人への手紙の個所とは、本当にすばらしい個所です。だれが書いたのか、だれもわからない。本人ではないでしょう。もちろんイエス様は分かっている。天国に行ってから初めて分かる。 けれどもこのヘブル人への手紙を書いた人は、やっぱり色々なことで悩みましたし、苦しみましたし、それからやっぱり、本当をつかんだのではないでしょうか。 今読みました個所の中で5節の後半。 ヘブル人への手紙12:5-6
と。また10節に、 ヘブル人への手紙12:10
夕べ、兄弟も言いました。すなわち、人間はだれでも色々なことで悩んでいます。色々な問題、色々な悩みや苦しみに会うものです。 そして多くの場合は、そのような色々な問題に直面すると、いかなる答えをも見いだすことができないのではないでしょうか。 多くの人々は山のような問題の前になす術を知らないで、大いに悩んでいます。 ドイツのある家族は、豊かで何の不自由もない、人間的には非常に幸せな家族をよくしていたのですけれど、その奥さんは、多量の薬を飲んで自殺を図ったことがありました。なぜ彼女がそのようなことをしたのか、結局だれも分からなかった。本人でさえも分からなかった。 私の親戚の家族は、非常に豊かで、大変な資産家で、多くの土地を持っていましたし、けれど奥さんはイエス様を信ずる、信ずると言いながら、けれど考えられないほどケチな者だったのです。 一人息子は知能が遅れているために、親の莫大な財産を受け継ぐことが出来なかったのです。親はもうすでに死んで、あの子はある施設の中で一生涯過ごさなければならない。なぜこういうふうになってしまったのでしょうか。この問いに対しても、だれも答えられないのではないでしょうか。 また、何回も日本まで来られた兄弟とは、本当に主を第一にする兄弟だったのです。何十年間、日本のために祈り続けましたし、やっぱりイエス様のご栄光だけが現われるようにという気持ちでした。 彼は店をいくつ持っていたかわからない。普通の店ではなくて、日本のデパートのような店を何軒も持っていました。けれども急に全財産は無くなったのです。 自分の子どものせいでもあったし、親戚のせいでもあったし、けれども人のせいにするのはおかしい。結局主は許したのだ。彼は何があっても言ったのです。「人はみな必要なものをもつ。必要なものをもつ。」 病気になると、「やっぱり必要か、主のせいです。」と。結局あの兄弟は、もう全部失った。けれども、「前よりも楽ではないか。主に頼ろう。」という態度を取り続けたのです。 ある姉妹は長い間、主のためにのみ仕えたいと思って、本当に模範的な姉妹でした。 けれど急に脳梗塞で倒れてしまって半身不随となり、一言も話すことができなくなってしまったのです。何年間も車椅子の生活でした。どうしてそのようなことが起こったのか、だれも分かりません。 このようにしばしば、色々な状況の前でなすべき術を知らず、またどうしたらそこから逃れることができるか。その逃れ道を見つけることもできず、半ば絶望的な状態に陥ってしまうというようなことが実際にありはしないでしょうか。 これはかつてのヤコブの体験でした。ちょっと創世記の42章を見てみましょうか。 創世記42:36
息子さんたちに言った。 創世記42:36
これは喜びの叫び、勝利の叫びではない。このヤコブのそれまでの生涯においては、自分自身の意思や自分自身の力に頼って行なったことがたくさんありました。 彼は長い間、ずる賢さや卑劣さでもって、ただ自分の利益ばかりを考えた男でした。けれどそのような、人を欺く者が欺かれたのです。主は罪を見過ごしにされない。これはヤコブが学ばなければならなかった厳しい教訓でした。 だからここで、「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」すなわち言い換えれば、全てのものが私に反対しているということです。ヤコブの場合のように、全てが失敗に終わりそうと思える時、いったい何がなされるべきでありましょうか。 いかなる態度が取られるべきなのでしょうか。まず最初に私たちが注意すべきことは、全てのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるに過ぎないということです。 ヤコブの場合もそうでした。なぜならばヨセフは確かに今もいないけれど、いつかは必ず会える。 シメオンもまた、確かに今はここにいないけれど、いつか必ず会うことができるということなのです。 私たちは人間的な見方をする場合、多くのものを正しく見ることができない。次のように言うでしょう。全てのものが私に反対している。全てのものが失敗に終わっている。 けれど本当は、その反対が真実です。すなわちこれらのことがらは、私たちに反対しているのではなく、われわれのためであるということです。 けれどそのことを私たちは、今はそのようなこととして認識することができないような性質の者ですから、隠された祝福とでも言えるのです。 今日の題名は、「隠された祝福」というものです。 なぜ私はこんなことを経験しなくてはいけないのでしょうか。なぜこんなことが私にふりかかっているのでしょうか。このように、苦しみながら、悩みながらいくら自問自答しても、何の解決をも見いだせないようなことがらが、実際には、数えきれないほどたくさんあるのではないでしょうか。 なぜか、何のためか、という問いについて確かに考えるべきなのではないでしょうか。聖書は少なくても三つの答えを出しているのです。 すなわち、全ての背後に支配しておられる主は、人間が救われるために、多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。 二番目。全ての背後に支配しておられる主は、救いにあずかるようになった、イエス様に属するようになった兄弟姉妹が与えられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。 もう一つ。三番目。全ての背後に支配しておられる主は、救われた者が本当に主に仕えるため、用いられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。 答えは、まず救われるため。二番目。変えられるため。三番目。用いられるためです。 まず主は悩んでいる、重荷を負っている、精神的に疲れている人々の救いを求めておられるから、色々な出来事を起こるがままにさせておかれます。 どなたかが病気になると、どうしてでしょうか。もちろん必要ないからです。全部主のせいです。 けれども主は人間の悩むこと、苦しむこと、いうまでもなく、永遠の滅びではなく、人間の永遠の幸せを望んでおられます。大切なことは、私たち人間が真理の認識に至ること、すなわち、イエス様に出会うことです。 どれほど多くの人間が暗中模索し、自分たちが真理を知らないのだということに気が付かないでいることではないでしょうか。ですから次のように考えるべきです。 人間は救われうる前に、一たび失われた状態になければならない。人間は、主が人間を救ってくださる前に、まず自分の失われた状態を認めなければならないということです。 物質的な物が満ち溢れ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているために、永遠のものや、生ける神について深く考える時間がない。このことが現代の特徴です。 多くの人は、救い主をもつ必要性に対して目くらです。たとえそのことを認めざるを得なくなったとしても、依然として逃げようとするのです。 その方々は静かになって、人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。 このことこそ主が多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することができないことをわれわれに認識させることの理由なのです。 このような主の導きの目的は、ご自身のもとに引き寄せること、また、赦しと人生の内容を与えてくださることにほかならない。 ちょっとみことばから二つの実例、すなわち旧約聖書と新約聖書の中の二つの実例をちょっと見てみたいと思います。二人の放蕩息子と言ってもいいかもしれない。一人の放蕩息子は、マナセ王さまでした。歴代誌第IIの33章をちょっと見てみましょうか。 歴代誌第II、33:2
すなわちマナセ王は、 歴代誌第II、33:2
主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。 歴代誌第II、33:9-10
耳があっても、聞く耳がなければ、従おうとしなければ悲劇的です。結果は次のようなものでしょう。 歴代誌第II、33:11
外国まで 歴代誌第II、33:11-12
大いにへりくだる者は幸せ。 確かに人間は後悔します。簡単に、「悪かった。」と言います。けれど大いにへりくだることとは違います。大いにへりくだる人々が捜し求められています。結果はすごいからです。 歴代誌第II、33:13
大いにへりくだった者として、 歴代誌第II、33:13
この王さまは、神のみことばに聞き従おうとしなかったため、主は仕方がなくて、やむを得ず、多くの苦しみを通して彼を導くしか、方法がなかったのです。 それですから、突然全てのものが失敗するように見えましたけれど、それは決して偶然ではなく、その背後に主が立っておられ、全てを御手の内におさめておられたのです。 今読みました11節をもう一回見ると分かるでしょう。 歴代誌第II、33:11
敵国の 歴代誌第II、33:11
全部主のせいでしたでしょう。主が、連れて来られたと書いてあるのです。これは偶然ではなかったのです。そしてこれは、マナセの逃亡生活の終わりを意味していたのです。全てが失敗しただけではなく、これは本当の終わりにほかなりませんでした。 けれど、そのような主の導きの目的は、のろいや滅びではなく、永遠の救いにあずからせるために、心の目を開いてくださることでした。 彼は大いにへりくだったから、一度敵の捕虜になってしまったけれど、自分の国に帰れるようになっただけではなくて、また王になったのは、普通考えられないことです。 多くの苦しみを通して、放蕩息子であるマナセ王は、このように考えられないほど、回復されたのです。 おしまいではない。大いにへりくだれば、主は道を開いてくださるに違いない。 今度は、新約聖書の放蕩息子のことをちょっと考えましょうか。みなさんご存知ですけれど、新約聖書の放蕩息子は、自信に満ちて親の家を去ってしまったのです。 意識して、彼は自分が選んだ道に出てしまったのです。隣の町に行っても良かったのに、けれど隣の国ではなくて、遠い国まで行ったのです。彼は何ものからも束縛されず、自由に自分の人生を楽しもうと思ったのです。 自分自身の道を行きたいと思う者に対しては、主は、好きなようにさせます。自分勝手な道に行きたければどうぞ。けれども必ず帰るように。放蕩息子の父はそれを分かったのです。必ず毎日、首を長くして、今日帰るのではないか。 たとえ、最初は全てのことが望みどおり上手くいくように見えたとしても、やがて全てのことが失敗に向かう時がやってまいります。そしてその結果、突然全てのものが自分の反対しているように思われるのです。 お金は間もなく使い果たして、それまで友だちと思われた人々からは捨て去られることになってしまったのです。全てのものが失敗してしまったのです。 ルカの福音書15章です。14節から読みましょうか。 ルカの福音書15:14
偶然に起こったのではない。主のせいでした。大ききんが起こり、 ルカの福音書15:14-15
ユダヤ人にとって、一番嫌な仕事です。 ルカの福音書15:16
けれど、この導きによって、すなわち、この深みへと導かれたことによって彼は、ただ単に自分自身に立ち返っただけではなく、そのことによって父の住まいへ戻ることになり、まことに満ち足りた幸いな人生へはいることができたのです。 多くの場合、人生の途上には、恐ろしくたくさんの困難が横たわっていますけれど、主は常に一つの目的をもっておられます。すなわち、私たち人間をゼロの点にまで低くすること、あるいは破産すること。 これが主の取られる方法であり、その限りにおいて全ての者は、自分自身の助けとなるものを失い、心から悔い改めることにより、また、イエス様を信ずることにより、主のみもとに行くことが可能となります。使徒の働きの中で書かれています。 使徒の働き2:37-38
大いにへりくだれば、主はあふれるばかりの祝福を与えてくださる。なぜか、どうしてか、何のためかとか考えると、今見ましたように、結局、まことの救いにあずかるために必要です。 二番目の答えは、裏で導いてくださる主は、信ずる者が変えられるために、主の御姿に変えられるために、多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。 いうまでもなく、未信者だけではなくて信ずる者もまた、いわゆる運命のなすわざを経験します。 信ずれば問題が無くなるのではない。信じたとしても、やっぱり悩みがある。困ったことがあると聖書ははっきり言っているのです。 すなわち、信ずる者も失望、落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することが出来ない場合に遭遇いたします。なぜ主は、信ずる者が厳しい試練に会うことを赦されるのでしょうか。それは、彼らの教育のためです。彼らの聖めのためです。また彼らはイエス様の御姿に変えられるためです。 それをはっきり知るために、ちょっと二ヶ所見てみましょうか。ローマ人への手紙8章28節。みんな暗記していることばですけれども、28節だけではなく、29節も続いて読むべきです。 ローマ人への手紙8:28
すべて、アンダーラインすべきことばではないでしょうか。すべてのことを ローマ人への手紙8:28
損としてではなく ローマ人への手紙8:28
確信する。 ローマ人への手紙8:29
主イエス様 ローマ人への手紙8:29
われわれの人生の途上にあるもの全て、また、われわれの人生の中に入り込んで来るもの全ては、主によって用いられており、したがって、無価値なもの、無目的なものは、一つも無い。 確かにだれでもが過去を振り返ってみると、ああやっぱりダメだった。横道だったと思うでしょう。主の目から見ると、真っ直ぐだと思います。 大切なことは、私たちが新しく造り変えられること、主イエス様に、イエス様の御姿に似た者となることです。 確かに今話したように、われわれの人生の中に偶然というものは何一つありません。全ての背後にイエス様が立っておられ、主がそれぞれの場合に応じて、大切な導きをなしていてくださるのです。 全てが益となる、このことを私たちは常に新たに覚えるべきではないでしょうか。 良きことや、最も良きことは、私たちが造り変えられることではないでしょうか。造り変えられること、主の御手によって練られることは、確かに痛みを伴なうことがあります。 すなわちそれは、自らが砕かれること無しには、あり得ないことであるからです。 人はその時、失望、落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちですけれど、このようなことは自分の思い通りにならない時、目先のことしか考えない時に、起こることです。 その時、今読みました29節をおぼえるべきではないでしょうか。 ローマ人への手紙8:29
イエス様はこの目的をもって背後に導いてくださるのです。 主が目指しておられるご目的は、何とすばらしいものではないでしょうか。この目的から常に目を離さないことは、非常に大切です。 ヘブル人への手紙12章3節です。 ヘブル人への手紙12:3
すなわち、十字架の上で犠牲になられたこと、父に捨てられたイエス様のことを ヘブル人への手紙12:3
イエス様のことを考えなければ。イエス様から目を離すと、もうおしまい。 ヘブル人への手紙12:10
それは決して天罰ではない。 夕べ、兄弟が何回も言ったのです。運命ではない。天罰ではない。愛されている証拠です。それが分かると、もう嬉しくなります。 結局主は、ご自分に属している者たちを限りなく愛してくださるから、まさにそのために私たちを懲らしめ、教育なさるのです。 主の教育は、私たちが主の聖さにあずかるように。ご自身のみもとに引き寄せたく思っておられることです。 私たちの主は完全であり、主の導きもまた完全です。おそらく私たちは全てを理解することは出来ない。挫折してしまう危険に直面し、また、自分自身を同情してしまうというような場合も多くあるのではないでしょうか。 どうして私はこんなことを経験しなくてはならないのか。どうして次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか。 どうして私はこんなにたくさんの困難や理解できないことを経験しなくてはならないのでしょうか。 ヘブル人への手紙12:11
現実だけを見ると確かに嫌です。面白くない。疲れます。ここで、「後になると、」私たちは主といっしょになると、今の人生について、色々苦しいことについて考えると、もう驚くでしょう。主を礼拝せざるを得なくなる。 やっぱり良かった。完全だったと必ず言わざるを得ないのではないでしょうか。 ここで大切なことは、そのときは、一時的に、悲しく思われるものですが、しかし、後になると、それが結果的に幸いになるということです。 次に私たちは次のことがらを覚えましょうか。すなわち私たちは、決して主のための実験用モルモットのようなものではなく、主が常に最善のみを考えておられる幸いの子であるということです。 ですからこのヘブル人への手紙の12章の中で、わが子よ、と書いてあるのです。たとえ、実際に全てのことが失敗したとしても、私たちは主によって愛されているということを知ることができるのです。 また、主の試練、主の懲らしめこそ、主の愛の証拠です。私たちは今、そのことを理解することができなくても、けれど、後になると、そのことを主に感謝し、礼拝するに違いない。 ダビデも同じようなことを経験したのではないでしょうか。一番長い詩篇ですけれど、119篇の67節に次のように書かれています。 詩篇119:67
苦しんだのは結局良かったとダビデは言えたのです。人間はどうして色々なことで悩むか、苦しむかと言いますと、結局まず、救われるために必要だからです。 「医者を必要とする者は病人だけ。わたしを必要とする者は、精神的に悩むようになり、罪滅ぼしのためにどうしたらいいかと分からない人々だけ。」とイエス様は言われました。 それから、どうしてせっかくイエス様の救いにあずかるようになった人々も、相変わらず悩まなくてはいけない、苦しまなくてはいけないのでしょうか。答えは、変えられるためです。 最後にもう一つの答えは、結局用いられるために必要なのです。 多くの、せっかく救いにあずかるようになった兄弟姉妹は、実を結ばない木のようなものです。主は彼らを用いることがおできにならない。その原因はいったい何なのでしょうか。 彼らは、主なしでも何とかやれると考えているからです。もちろん彼らは、知らず知らずやれると考えているのです。けれども、彼らは自分自身の力と自分自身の知恵に拠り頼んでいます。 確かに多くの信ずる者は、主のために何かをやりたい。主のために一生懸命に何かをやりたいと思いながら、そのことや、あのことをしたいと主に願ったりするのですけれど、結局彼らはこのことや、あのことを自分がしたいために、結局、イエス様を利用しようとしてしまっているのです。 けれども実際は、主が信者をお用いになりたいと思っておられます。ご自分の器として、単なる道具として用いようと望んでいます。 永遠に残る、実を結ぶ奉仕は、主のためのわれわれの努力ではなく、われわれを通して主が、主ご自身がなされるみわざでなければなりません。これこそ多くのものが、われわれに逆らっているように思われたり、主がわれわれを厳しく取り扱われなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因です。 ちょっと二つの例を見て終わりたいと思います。 一つの例は、みなさんご存知なのですけれど、ペテロなのです。ペテロの特徴は何であったかと言いますと、いわゆる自信です。独立心です。 彼は自分の能力に自信を持っていました。主はそういう人々を用いられ得ない。ルカの福音書の22章。 ルカの福音書22:31-33
自信と独立心に満ちたペテロ。 ルカの福音書22:34
半年あとではない。きょう ルカの福音書22:34
シモン、シモン、見なさい。悪魔が、あなたたちを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。そしてわたしはそれに反対しません。 これは、まことに厳しく、つらいことでしょうが、あなたが破産して、本当に自分自身に絶望するために、どうしても必要なことです。 ここで注意していただきたいことは、色々な人格と順番、あるいは順序です。 今の聖句によると、悪魔、二番目、わたし、すなわちイエス様。第三番目、シモン・ペテロおよび、あなたの兄弟たち。こういう順番になっています。 主はペテロを通して、彼の兄弟たちを、初代教会の兄弟姉妹たちを強めようと思われた。ペテロを用いようと望んだ。けれどそのためにペテロは、砕かれることがどうしても必要でした。 そのために悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、しかしその時でも主は、絶えずペテロのために祈ったのです。 したがって悪魔は自分がしたいことを何でもするということはできません。私たちは完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全、その意味です。それですから主は、悪魔とペテロの間にお立ちになったのです。 ペテロは、本当にすべて失敗してしまいました。彼は最後の土壇場に立たされたのです。そこにはもはや、一筋の希望の光も差し込まず、すべての望みが消え失せた。まったく絶望的な状態が支配した。 けれどもこの訓練は、どうしても必要でした。ペテロはもはや自分の力に拠り頼むことができなくなってしまったのです。それから初めて、主はペテロをお用いになることができました。 そのよい例が、五旬節ではないでしょうか。その時ペテロの簡単な証し、旧約聖書の聖句を引用しただけなのですけれども、このペテロの証しを通して、3,000人以上の人々が救われたとあります。 これこそすごい、大した証しでないのに、3,000人救われることだって。けれども、もっとも大きな奇蹟とは、ペテロは傲慢にならなかったのです。自分の失敗を忘れられなかったのです。 やっぱり彼が用いられるために、どうしても必要だったのです。 イエス様を知らないと言った時、彼は、外へ行って激しく泣いた。その場だけではなく、それからの三日間は真っ暗やみでした。もう食べたくない。寝られない。もうおしまい。 悪魔も誇ったでしょう。あいつはもうダメ。とんでもない話。この失敗がなかったならば、必ず傲慢になって用いられなくなったに違いない。 最後にもう一つの例は、パウロではないでしょうか。結局パウロもペテロと同じように、深みを通って行きました。すなわち、三日間、ペテロと同じように、暗やみの中に生きたのです。そのことをあとになってパウロは次のように証ししたのです。 コリント人への手紙第II、3:5-6
私たちはみな、実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち、自分自身を否定して、自分に対して死ぬことです。 もちろんおもに、イエス様についてのみことばなのですけれど、われわれにも当てはまるのではないかと思うのです。 ヨハネの福音書12:24
どこにも、多くの重荷を背負っている人、いかなる逃れ道をも見いだせず、絶望的な状態になっている人々がいます。どうして私はこんなにたくさんの困難を経験しなければならないのか。どうして私は失敗してしまうのでしょうか。 おそらくそれは、まだはっきりとした救いの確信を持たず、イエス様こそ私のもの、かけがえのないものと言うことができないからではないでしょうか。 もしかするとそれは、あなたの救い主が、あなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。 大切なのは救われることだけではなく、聖められることです。あるいはそれは、あなたが今までに、主を利用しようとしていた。けれど今や主があなたを主の御手の中にご自身の器としてお用いになろうとしているからではないでしょうか。 旧約聖書の申命記の中で面白いことばが書かれています。8章の15節です。イスラエルの民の経験についてです。 申命記8:15
道を塞ぐ岩、すなわち障害物から、あるいは理解できない困難や、私たちが感謝しなければならない心痛、すなわち心の痛み、これらのものから主は水を湧かせようとしておられるのです。 このような経験を通して私たちは、主のみもとに行くのであり、このような経験を通して私たちは、祝福されうるために、祝され、また、いのちを与えられるのです。 生ける水の川となって私たちよりも流れるべきであるとあります。 旧約時代に主はご自分の民に向かって、次のように言わなければならなかった。非常に悲しいことです。エレミヤという預言者を通して、主は次のように言いました。 エレミヤ書2:13
異邦人ではない。主を知らない人々でもない。 エレミヤ書2:13
それだけではなく、 エレミヤ書17:13
わが民は二つの罪を犯す。一つは、湧き水の泉であるわたしを捨てたこと。第二は、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分のために掘った。このようにして主は悔い改めて、立ち返ることを呼ばわれました。 イエス様を知らない人々は、悔い改めて、主のみもとに立ち返らなければならない。救われるため。 イエス様を知るようになった人々は、主のうちにとどまるために、また、用いられる道具となるために、同じく悔い改めて、立ち返らなければならない。イエス様のうちにとどまる者だけが、主と結び付いているのであり、このいのちの泉の通りゆく管となることによってイエス様は、ご自身を現わすことがおできになるのです。 私たちは鉄から鋼を作ることをよく知っています。すなわちそれは、非常な巧によってのみ可能です。 それと同じように、主は不十分な人間を満ち足りた人間となさるために、多くの困難や試練を用いなければならないことを、よくご存知であります。 今のこの時の試練はまさに、死後の世界に至るための準備期間のものにほかならない。 主は何ものも御手から失いません。主はとこしえに、すべてを支配なさるお方です。暗やみの夜にも、困難な涙の時にも、主の御手は私たちを守ってくださいます。失望、落胆したことも必要です。 そういう者はなぐさめられ、喜ぶことができます。なぜならば主は、とこしえに主であられるからです。そして主は決して過ちを犯しません。 私たちには理解できないことがたくさんあるとしても、主はわれわれにとって必ず、最も益となることを考えていてくださるのです。私たちは一日のうちにも何回も、徹頭徹尾、主に信頼できるように祈るべきです。 私たちは主によって助けをもらったり、祝福してもらったりすることを主に願いますが、反対に主が私たちから何かを要求され、ご自分の器として私たちを用いようとなさる時に、私たちは簡単に挫折してしまうのです。 私たちはみな次のように祈りたいものです。 「主よ。私をあなたの器にしてください。 私が、私を憎む人を愛することができるように。 私をのけ者にする人々を助けることができるように。 私が、私をのろう人々を祝福することができるように。」 パウロは確かに多くのことで悩みました。けれども彼だけではなく、彼を通して導かれた人々は、一致して言えたのです。ローマ人への手紙8章18節です。 ローマ人への手紙8:18
コリント人への手紙第IIの4章を見ても、当時の兄弟姉妹のあかしになります。コリント人への手紙第II、4章8節から。 コリント人への手紙第II、4:8-10
そして16節から。 コリント人への手紙第II、4:16-18
旧約聖書のハバククという預言者は、ある意味で変わった男でした。 すなわち彼は、悩みながら大いに喜んだのです。目に見える現実を大切にしようとしなかったからです。ハバクク書3章17節。それを読んで終わります。 ハバクク書3:17
結局、こんなことがみんな私に降りかかってくるのだ。もう大変だと彼は言わなかった。 ハバクク書3:18-19
悩みながら喜ぶことこそが、人を引き付ける証しではないでしょうか。 |