引用聖句:詩篇119篇9節-11節、18節、67節、71節、81節、97節、105節、162節
今の読んでくださった箇所を通しておわかりになったと思いますけども、みことばの大切さについて少し一緒に考えたいと思います。いわゆる信仰生活の、ABCについて学びたいと思います。 今朝、パウロとペテロの書いた言葉を思い出しまして、結局彼らは別に新しいことを教えようとしなかったのです。みんな何回も何回も聞いたことをはっきり強調したのです。ピリピ人への手紙3章の1節。パウロの書いた言葉であります。 ピリピ人への手紙3:1
と、パウロだけではなく、ペテロもまったく同じようなこと書いたのです。 ペテロの手紙第II、1:12-13
ペテロの手紙第II、3:1
元に戻りましょ。これは使徒たちの絶えざる呼びかけだったのです。ちょうど一昨日、宗教改革の記念日だったんです。悪魔のわざでしょうけども、前にこの宗教改革の記念日が非常に大切にさるるようになったのです。最近、悪霊を拝むような祭りになったのです。ちょっと考えられない変化なのではないでしょうか。 宗教改革は、どういうふうに始まっていたかと言いますと、いかにして、恵み深い主なる神を自分のものにすることができるなのか。いかにして聖書に約束されてる救いの確信を得ることができるなのか。 この希望をもって、ドイツの宗教改革である、改革者であるマルティン・ルターは、宗教改革始めました。基なるものとは、もちろんみことばでした。ご存知のように彼は、カトリック教会のいわゆる祭司であり、博士でもありましたし、教会から離るる気持ちがなかったのです。 もうダメになってる教会を新しくしようと思ったのです。けども、彼は当時のカトリック教会のボスある法王に迫害されるようになり、彼を殺すと大いなる褒美を貰えるということでした。 彼は結局逃げなければならなかった。おかげさまで聖書を訳すことができたのです。 そのとき、ドイツでちゃんとした言葉がなかったのです。表現だけだったんです。標準語がなかったのです。ですから彼はまず、標準語を作らなければならなかった。大変な苦労だったのです。 それから、ひとりのメランヒトンという学者と一緒に、聖書をドイツ語に訳したのです。このメランヒトンという男は、新約聖書をギリシャ語で暗記したのです。ちょっと考えられない頭をもってたのです。 結局ルターは、聖書読みながら、教会の言ってることと聖書の言ってることは違うとわかるようになりました。例えば、ローマ人への手紙5章1節。みな暗記してる言葉ですけど、 ローマ人への手紙5:1
パウロは、未来ではなく現在、神との平和を得ていると言えたのです。主なる神との平和を得ているとはっきり言っています。主なる神との平和は、いわゆる使徒たちだけが持っていたのではなく、普通の信者も全部が持っていました。 またパウロは、エペソの信者たちに次のように書いたのです。これもみな暗記してる言葉ですけども、 エペソ人への手紙の2:8
ここでは、未来に救わるるであろう、なったという希望を述べてるのではなく、現在救われていると言ってます。ルターは、救いの確信を得るために、非常に闘いました。最後に、ルターは救いの確信を得て、これは自分にとって一番大きな宝であると喜ぶことができたのです。 ある若い青年が年寄りの信者に、「救いの確信ははっきりとつかむことのできないものだ。救いの確信は、私たちが毎日毎日、つかめなければならない。」と言ったのです。 これに対して年配の兄弟は、「私の家の庭にリンゴの木がある。この木は、陽が出ても、雨が降ってもリンゴの木です。これと同じように一度イエス様を自分の救い主として受け入れ、主なる神の子どもとなっていた者は、雨が降ろうが風が吹こうが神の子どもです。このように、救いの確信は一度持てば永久に続くものである。」と答えたのです。 けども聖書を見ると、ダビデはあるとき祈ったんです。「救いの喜びを返してください。」、なくしちゃったからです。もちろん救いの喜びがなければ、本当に救われてるかどうか、という疑問も出て来るなのではないでしょうか。 ある人は、何もわからなくなってしまったと言い、またある人は、はたして自分信仰の度合いとはしっかりしたものだったかどうかと疑ってます。たぶんそのようになった理由のひとつは、「この世と妥協した。」なのではないでしょうか。または、今までのこの世との関係をはっきりと決定していなかったのではないでしょうか。 もしこの世との妥協があったら、聖書を読むことも、祈ることも、証しすることもしたくなくなるのではないでしょうか。したがって、救われた兄弟姉妹の土台である救いの確信を、よく考えてみることが必要であると、おもにパウロとペテロは強調したのであります。 救いを自分のものにするには、「救いを得よう」という目的をもってしなければならない。 今ここに子どもがいます。本当に欲しいものがあって、それをクリスマスにお父さんからもらうのを心待ちにしています。クリスマスのとき、お父さんは約束どおり、それを子どもに与えました。子どもはそれを自分のものにした喜びでいっぱいです。 救いを、まことの救いを自分のものとした結果が、今話した救いの確信です。したがって、次のことがらがまず起こらなければならない。 まず救いの事実を知ること。 第二番目。救いの提供。 三番目。救いを自分のものにすること。 最後に、救いを持つ。 もちろんその後で、救いの確信が自分のものとなります。 私たちは、救いの歴史的事実は疑うことができません。神の子として主イエス様がこの地上に来られ、十字架の上でみわざを成し遂げられたことは疑うことはできません。聖書では、救いの道を教えています。 ですから二番目の、救いの提供もあるわけです。この救いの道を自分のものにするかどうかは、人間にかかっています。その人間が手を差し伸べ、つかみ、それを自分のものにする。これが、聖書の言われている信仰です。 その人が空気だけをつかんだか、または聖書の約束だけをつかんだか、それとも永遠に朽ちない救いを自分のものにしたかが問題です。私たちは、信じていない人が、今信じたとしたら、その瞬間に救いの確信を得ることができるということを疑いません。もし救いを自分自身のものとしたら、救いの確信も与えられます。 前に述べた四つの点についてもう少し考えたいと思います。すなわち、救いの確信の土台は何なのでしょうか。それから救いの確信の内容なるものはいったい何なのでしょうか。また救いの確信の成り立ちとはいったいどういうものなのでしょうか。 それから救いの確信の結果についてちょっとだけ考えたいと思います。御霊が人間の霊に働きかけると、まことの救いの確信があります。これとともに、悪い救いの確信ももちろんあります。本物があれば、偽物もある。 この、悪い救いの確信は人間のたましいから出るものですから、結局人間の作ったものです。 いいキノコと毒キノコの見分けがつかないように、まことの救いの確信と偽の救いの確信も、非常によく似てます。 救いの確信の土台とは、いったい何なのでしょうか。ふたつあります。 そのひとつは、主の言葉であり、二番目はイエス様のうちにある、神の人格です。すなわち、イエス様の成してくださった救いのみわざです。 救いの歴史的事実と、救いの個人的経験については、聖書だけがそれをはっきり教えています。聖書は救いの事実と、救いの確信は両方とも必要なものであり、このふたつは結びついてると言っています。 福音書は、おもに救いの事実を教える特別な書物であり、書簡、使徒たちの書いた手紙は、おもに救いの経験を教える特別な書物です。 けども、福音書は救いの事実を言ってるだけではなく、救いの経験についても多くのこと言ってます。例えば、ヨハネの福音書の20章を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書20:30-31
ここではっきり、救いの経験についても書かれています。そして同じく、使徒たちの書かれた手紙も救いの経験だけを語っているのではなく、救いの事実についても、例えば次のように書かれています。 ヨハネの手紙第I、5:13、20
救いの事実を語っている言葉は、救いの経験の土台です。聖書は神の言葉です。この言葉に私たちは安心して信頼することができます。主の言葉は完全な権威をもっています。聖書を神の言葉と信じていない人には、救いの確信は決してできません。 いかに道徳的にすぐれた人であっても、聖書の言葉のひとつを人間の言葉ととらえているならば、救いの確信はいっぺんにダメになってしまいます。救いの確信は、したがって人間の外にあります。救いの確信は、全然人間にかかっていません。 船の碇は外に投げ込まなければ、役に立たない。 救いの確信は、本当に人間にかかっているものではない。確信の土台なるものとはみことばだけです。偽の救いの確信は、主の言葉と主イエス様の成されたみわざにあずかっていません。偽の救いの確信は、人間の中にその土台を置いています。例えば感情、理解力、または何かある体験や経験。人間の内にあるものにその土台を置いてます。 この土台は、しっかりとしたものではなく、揺れ動いているものです。まことの救いの土台は、主イエス様のなしてくださった救いのみわざであり、また神のみことばである聖書です。 私たちは、どうしたら救われたということを確信することができるなのでしょうか。それは、主のみことばによってのみできるのです。主の血潮がわれわれを救い、みことばがわれわれに確信をもたらします。 ヨハネの手紙第I、5:13
原語を見ると、「確信するためです。」となってます。これはあなたがたが望んだり、予感したり、考えたりするためではなく、あなたがたに悟らせる、確信するためである。このいい気持ちを私はあなたがたに贈った、とは書いてない。私はこれらのことを書いたとあります。 結局土台なるものとはみことばだけです。けど、何が書かれてるなのでしょうか。例えば、ヨハネの福音書6章の37節にイエス様は、次のように言われました。 ヨハネの福音書6:37
あなたは行きましたでしょうか。もしあなたがもうすでに行ったのなら、あなたは今どこにいるなのでしょうか。内側でしょうか。外側でしょうか。 イエス様は、決して拒みはしないと約束しておられます。イエス様があなたを拒みはしないのなら、あなたを受け入るるに違いない。 ヨハネの福音書1:12
すなわち主イエス様を ヨハネの福音書1:12
とあります。主イエスを受け入れた人は神の子どもです。理解できなくても、気持ちもついて来ないでしょうけども、間違いなくそうです。結局すべては、主のみことばにかかっています。 私たちの感情は毎日変わるかもしれない。私たちは今日救われたと感じ、明日には失われてると思うかもしれない。けど、感情にこだわらないでください。みことばにだけ頼ってください。主の言ってることを信じてください。書かれてることを信頼してください。 神のみことばは、決して変わることがありません。 ローマ人への手紙10:17
と書かれています。もしあなたが、愛で信ずるなら、御霊はあなたの霊に、あなたが神の子であることを証しします。そこで、あなたは自分の救いを確信されます。 二番目の質問は、救いの確信の成り立ちとはいったいどういうものなのでしょうか。 救いの確信は、本当の救いの経験の結果です。ですから私たちが救いの訪れを聞き、救いの確信の土台である神のみことばと、主イエス様のなされたみわざを信ずることだけが要求されてます。いかにして、これが実現するなのでしょうか。答えはふたつです。 第一番目。聖霊によってです。 第二番目。信仰によってです。 聖霊の働きによって、またみことばの力によって、救いの事実から救いの経験へと移っていくことができます。ま事実から経験へ移ることを、私たちは経験することができるのです。 例えば、電気に触れれば感電します。電気があるという事実に手を触れて、感電し、電気があるということを経験したわけです。まだ熱いストーブに触って、ストーブが熱いということを経験しますし、お腹が痛いとき薬屋さんに行って、「一番良い薬だ。」と言われた薬を飲みます。すると、言われたとおりに治り、その薬が良い薬であったことを経験します。 この移ることは、非常に大切です。救いの事実から救いの経験へ移ることは、重要です。この移ることは、主の、主なる神と人間が会うことです。この変化は、上から来る聖霊と下からの信仰によって行なわれます。 ちょっと間違ってるかもしれない。信仰も上から来るものなんです。イエス様は信仰の創始者と言われています。けども、人間は与えられた信仰をもって、みことばに信頼すると主は働くことができるのです。 イエス様はある夜、人間のために救いを成し遂げてくださいました。この救いを人間に与えるのが、結局御霊です。御霊は、主イエス様の救いを人間に証しし、提供し、教え、告げ知らせ、人間のものとさせます。 信仰とは、その差し出された救いを受け取ることを意味してるのです。信仰が、自分の心を開き、そのとき御霊が救いをその心に入れることができるのです。御霊が、人間の霊に働きかける、これが救いの確信の成り立ちです。 偽の救いの確信は、人間の権威によって、人間の努力によってやって来るもので、これはしばしば人間を驕心におとしいれます。驕心とは根拠のない目的。達することができない目的をつかんでるものです。 第三番目。救いの確信の内容とは、いったいどういうものなのでしょうか。救いの確信の内容は、主イエス様が、われわれのために成し遂げられた救いです。この救いを私たちは経験します。けど私たちは、今行なわるる救いの経験と、将来行なわるる救いの経験を区別しなければなりません。 イエス様は完全な救いを成し遂げられました。その中には、われわれの霊も肉体も入っていますし、国々、全自然、全宇宙の救いももちろん、含まれています。 けど私たちは、今行なわるる救いの経験と、将来行なわるる救いの経験を区別しなければならないのです。 聖書は、救いの経験について私たちが過去に何を得たか、現在何を持っているか、そして未来に何を持つかをはっきり言ってます。過去について、聖書は次のように言ってます。 ローマ人への手紙5:1
(テープ A面 → B面) ・・・いのちであり、神のいのちそのものであり、すなわちイエス様です。イエス様は、わたしはいのちそのものであると言われたのです。 またローマ人への手紙8章の11節を見ると、将来に経験する救いについて次のように書かれています。 ローマ人への手紙8:11
結局、われわれのからだとは、いつか栄光のからだ、よみがえりのからだに変えらるるようになると約束されています。ヨハネの手紙第Iの3章の2節に、ヨハネは当時の信ずる者に、この将来の完全な救いについて次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、3:2
確信できる。過去で経験したこと、現在もってること、未来に経験すること、このいずれも私たちは知ってる。確信できる。なぜならば、救いはひとつであり、ひとつの御霊がそのいずれのを啓示するからです。 その確信について、幾つかのみことばをちょっと見てみましょうか。 ヨハネの手紙第I、5:20
...確信する。 ヨハネの手紙第I、5:20
また、 ローマ人への手紙8:38-39
もう、安全です。コリント人への手紙第Iの2章12節。ここでも、「私たちは知ってる。」、すなわち確信しているという言葉も出てきます。 コリント人への手紙第I、2:12
はっきり、「知るためです。」、またパウロはテサロニケにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。 テサロニケ人への手紙第I、5:2
確信してるのです。また、 ヨハネの手紙第I、2:20
意味は、動かすことのできない確信をもっているのです。また、 ヨハネの手紙第I、3:14
私たちが今経験できることは、罪の債務と罪の力から解放され、新しく生まれ変わる、聖霊を宿す者となることです。私たちがこの死のからだから解放され、からだの本当の救いを生む日が未来に来ます。 われわれの信仰は目に見えるようになります。本当の救いの確信の内容は、主イエス様のなされた救いです。これに対して、偽の救いの確信の内容は、人間のなしたことです。その人は道徳的、または宗教的なやり方で救いを得ようとするものですけど、それでは決して救いはやって来ません。 最後に、救いの確信の結果とはいったい何なのでしょうか。救いの確信の結果、新しく解放され、自由な信仰の生活は始まります。これはその人の新しい生活によく見られます。救いの確信の結果は、まず新しい生活、それから新しい奉仕です。 救いの確信をもっていない人は、いつも勇気なく、失望してる人間です。救いの確信からその救いを現わす勇気が生まれます。もし大金持ちであれば、すこしぐらいづつ施しても何ともありません。 救いの確信もそのようなもので、施しても施しても限りがありません。救いの確信を得た人は、その喜びを周りの人々に与えれば与えるほど、ますますイエス様から恵まるるのを知るようになります。 救いの確信は、主との新しい関係に引き入れます。すべてが実に新しくなり、祈りの喜びをもつようになります。ヘブル人への手紙の著者は当時の信ずる者に、次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙10:19
救いの確信を得た人は、イエス様が自分のうちに何をやったかを喜んで証しします。主イエス様の救いの事実を宣べ伝えるとき、その救いを経験していますから、証しに愛と力が加わります。 救いの確信がなければ、決して喜びに満ち溢れた証し人とはなれません。私たちの歌う歌は、救いの確信から出た喜びの歌です。救いの確信をもってる人は、大喜びで歌うことができるのです。 さて最後に救いの確信は、われわれの奉仕の原動力です。経験したことをほかの人に言うことができます。自分で経験しましたからほかの人に伝えるために、行かざるを得ません。 偽の救いの確信の結果は、自分は大丈夫だと言い、傲慢になります。そのような人は、何か起こると自分のことをまったく絶望してしまいます。 信仰の土台、救いの確信の土台は、いったい何なのでしょうか。信仰をさせようとする人間的な努力の結果は、実際は信仰を強めるのではなく、弱めることになってしまうのです。すなわち信仰の土台は、決して目に見えるもの、人間の理解、考慮、感情ではありません。 正しい信仰の土台は、イエス様ご自身とイエス様のなされた救いのみわざ以外にありません。そのことについて聖書は忠実に告げ知らせています。主のみことばは、いかなる場合でも絶対に変わることのない真実なるものであります。 信仰の土台、確信の土台が、私たちが理解したことや、感じたことではなく、偽りのない真実なみことばそのものです。 |