引用聖句:詩篇119篇9節-16節、24節、67節、72節、92節、105節、111節、130節、151節、162節、165節
今、読んでくださった個所とは、全部ダビデ王の告白であります。すばらしい証しです。 みことばとはダビデにとって、結局、すべてのすべてだったとはっきりわかります。このみことばを大切にしたダビデは、「主よ。私はあなたを慕います。あなたを愛します。」と言うことができたのです。 先週、私はまだバンクーバーにいまして、けれど吉祥寺で集まる兄弟姉妹のことをもちろん考えて祈りましたし、あなたがたの中の多くの方々もバンクーバーに集まった人々のために祈ったに違いない。 バンクーバーの集いは、もう何年間も若者の集い。若者の喜びの集いでした。今回、日本から60人行きまして、34人は若者だった。第二世代、いわゆるセカンドジェネレーションでした。もっと、もっと自分の子どもの救いのために祈るべきなのではないかと思います。 証しした、メッセンジャーがちょっと少なかったから、ちょうどよかったと思ったけれど、ですから若者にやってもらいましょうと思って、10の若い兄弟姉妹は、だいたいみんなクリスチャンファミリーで生まれ、前にバンクーバーに行った人々だったのですけれども、彼らに証ししてもらいました。 ある夜、ほかの人々と交わったあとで、集会所に入って一番後ろの列に座りました。隣の姉妹は泣いちゃったし、前に座った姉妹も泣きながら若い者の証しを聞いたので、一体、どういうことなのでしょうかと思い、聞いたのです。 「どうして泣くの。何があったの。」、「いいえ。喜びの涙です。若い兄弟姉妹があんまり正直で嬉しい。」という答えでした。 証しした内容は、自分のみじめさ、罪の恐ろしさとみことばのすばらしさ、イエス様の偉大さでした。結果として、まだ主に出会っていない12人の若い男、また12人の若い女性たちはイエス様に祈るようになり、イエス様こそ生きておられる本物だという確信が与えられるようになったのです。 バンクーバーではっきり新たにわかるようになったのは、聖書を信じたいと思っている人には、はっきりと語ってくださる聖書です。 いうまでもなく、信じたくない人には聖書は語ってくれない。聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、確信することができる。けれど、心を開いていない人には意味の無いものに終わってしまいます。 前にも何回も言いましたように、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断すべきです。聖書の絶対無比の性質は、霊感ということばで表現させます。それではいったい霊感とはいったい何なのでしょうか。前に読みました個所ですけれど、もう一回読みます。 テモテへの手紙第II、3:16
部分的ではない。聖書はすべて、 テモテへの手紙第II、3:16
ここで神の霊感と言われるものは、神が吹き込んだという意味です。 もう一ヶ所。ペテロの手紙第IIの1章21節。ペテロとは、別に聖書学者ではなかった。魚をとる漁師でした。けれど彼は何を書いたか。 ペテロの手紙第II、1:21
聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。「主なる神が語られた。」と聖書が言っていることは、そのまま事実として妥当します。それを私たち人間が認めようが認めまいが、事実は事実なのです。主なる神が語られたことは、もちろん主なる神の啓示そのものです。 この間、神のみことばの一体性について少し考えたのです。主なる神ご自身が聖書の著者ですから、聖書は完全に統一を持った、一体的な福音そのものです。 1,600年の間かかって、色々な人々によって書かれた聖書の66巻は、モザイクの一つ一つの石のようにしっかりと結び付いて全体を構成しており、一体的な全体として主なる神の啓示そのものです。 旧約聖書は、主イエス様の目に見える啓示の準備でした。新約聖書は、イエス様について以前に語られた全てのことがらを表わして成就されたものとなっています。 聖書の中心はひと言葉で言いますと、ほふられた小羊である主イエス様です。ですから、創世記からヨハネの黙示録まで何回も「小羊」という表現が出てきます。 よく知られている二ヶ所を読みます。イザヤ書53章の4節から6節までです。 イザヤ書53:4
もちろん自分の罪のために罰せられ、 イザヤ書53:4-6
父なる神は、 イザヤ書53:6
十字架につけられた主イエス様に イザヤ書53:6
もう一箇所は、ヨハネの黙示録の5章12節です。 ヨハネの黙示録5:12
みことばの結果とは何なのでしょうか。 主なる神のみことばは人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理であるから、剣のように人間の心を刺し通します。 私たちはみことばを通して燃えるような主の目に出会い、主が語られると私たちは沈黙しなければならないし、また、サマリヤの女のように次のように言わざるを得ないでしょう。 ヨハネの福音書4:39
と。ヨハネの福音書12章の48節を見るとイエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書12:48
みことばに対する態度とはいかに大切であるかを示すものではないでしょうか。 けれども、みことばを受け入れ、イエス様のうちに救いがあると信ずる者は、このみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをもつようになります。 だからペテロは当時の信ずる者に書いたのです。 ペテロの手紙第I、1:23
使徒たちにとって、本当にみことばとはすべてでした。 今まで私たちはまず、主なる神ご自身がみことばの発起人、すなわち著者であることを見てまいりました。 そこで、これから第二番目になりますけれど、神のみことばは人間に与えられ、含まれたということについて、ちょっと考えたいと思います。主なる神が差出人であり、人間が受取人であるわけです。 今までは、主が語られたみことばについて見て来ましたけれど、これから今話したように、人間によって受け取られたみことばについて考えたいと思うのです。 主なる神は、ご自分との交わりを持つことができるようにと、私たち人間を造ってくださいました。けれども交わろうとすれば、ことば無しには不可能です。と言うのは、ことばの中にこそ本質が現われるからです。それですから、主なる神は、人間に語ってくださるのです。 主なる神は色々な方法で語ってくださいます。主は預言者の頑なさを砕くために、ろばを通して語られたこともありました。動物は話すようになった。 民数記の22章を見ると次のように書かれています。 民数記22:28
もちろん、この旧約時代で起こったことを使徒たちはみなそのままで信じました。 だからペテロは、ペテロの手紙第IIの2章16節に同じことについて次のように書いたのです。 ペテロの手紙第II、2:16
また主は壁にみことばをお書きになられたこともあったのです。よく知られているダニエル書の5章。当時のベルシャツァルという王様の経験だったのですけれども、 ダニエル書5:5-6
ダニエル書5:24
云々とあります。 今から次の三つのことを見たいと思うのです。 第一番目。みことばを宣べ伝える者としての預言者たちです。 第二番目。みことばを宣べ伝えるお方としてのイエス様です。 第三番目。みことばを宣べ伝える者としての使徒たちです。 今日はおそらく預言者たちとイエス様についてしか考えられないかもしれないけれども、先ほど例として挙げましたように、主なる神は人間以外の動物を通して私たちに語ってくださることもありますが、普通は人間を通して語られます。 主なる神は用いようとする人々をお選びになります。主によって選ばれた人たち、すなわち預言者たちに対して主は直接語ってくださり、したがって、預言者たちは主の声を聞き、みことばを受け取るわけです。 すなわち預言者たちは主のみことばを宣べ伝える者となるのです。 このようにして、特別に神によって召し出された人たちのことを聖書は「預言者」すなわち「宣べ伝える者」と呼んでいます。 したがって預言者とは、言わば神の通り良き管のようなものです。すなわち預言者はみことばを直接主から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。 つまり預言者の特別な使命は、主なる神から受け取ったみことばを私たちに伝えることにほかならない。 このように、聞いたことをそのままの形で伝えることを、聖書は「霊感」と呼んでいます。 一つの実例を挙げますと、それにやや近い形を旧約聖書の中に見ることができます。例えばモーセがアロンの口を通して語ったとき、アロンは言わばモーセの言葉の預言者、すなわち宣べ伝える者になったわけです。 宣べ伝えられたものはモーセのことばですけれど、それをアロンが宣べ伝えたわけです。出エジプト記の4章を見ると次のように書かれています。 出エジプト記4:16
それから7章の1節、2節。 出エジプト記7:1-2
云々とあります。それと同じように主なる神はその口を通して主が語りたいと思う人々を選び出し、直接その人たちに語られます。 「このようにして主はモーセとともに、顔と顔を合わせて、人が友と語るように語られた。」とあります。 出エジプト記33:11
この若者であるヨシュアは、結局、主のご臨在の中にいたかった。 しばしば主はみことばをただ単に聞かせるだけではなく、見させることもなさいます。主は人間の言葉で表現することのできないことがらを預言者たちに見させるのです。したがって預言者たちは主の啓示を聞く者であり、また見る者でもあります。 例えばサムエル記第Iの9章9節を見ると次のように書かれています。 サムエル記第I、9:9
とあります。 預言者のひとりは、神のみことばを受け取った時の様子を私たちに正確に書き記しています。今度は民数記の24章3節、4節をお読みしたいと思います。 民数記24:3-4
云々とあります。 預言者は神の啓示を直接見たり聞いたりします。主なる神は行動するお方であり、みことばを与えてくださるお方です。これに対して預言者は、単に受け身的に参加し、見たり聞いたりするのです。主のことばは、いわば預言者たちを襲ったのです。 決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではない。このことによって本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。 本当の預言者は、主のことばを受け取るときに全く受け身的にあずかります。けれど偽りの預言者たちは神の啓示を自分の意思で作り変えてしまおうとします。偽りの預言者は心に偽りのことばを抱きます。イザヤ書を見ると次のように書かれています。 イザヤ書59:13
とあります。 主なる神の最も嫌われることは、主から直接に受け取ったみことばをではなく、自分勝手なことばを神のことばとして言いふらす、偽りの預言者のことばです。 エレミヤ書の14章。この偽預言者について書かれています。 エレミヤ書14:14
主なる神は、偽りの預言者のことばを藁に過ぎないと仰り、まことの預言者のことばを麦と呼んでいます。この麦と藁という言葉が出てきます。 エレミヤ書23:28
とあります。 私たちが主のみことばを判断するとき、本当の預言者と偽預言者との間の明確な区別をするよう、注意すべきです。 主のことばは人間の言葉として説明するならば、それは大変な債務となります。主のことばの霊感がただ単に人間の意思とは無関係であるのみならず、人間の理解力とも関係がありません。 霊感と啓蒙とは全く異なったものであり、聖霊の働きの結果という点でも両者は全く異なったものです。 主が語るときに用いられた人間たちは、主のことばをごく一部分しか理解できないことがしばしばありました。みことばは多くの場合、人間の理解力をはるかに超えていたのです。 したがって、みことばを極めて小さな基準でしか理解できなかったのです。啓蒙と霊感は本質的に違ったものです。 全ての信者は、ある程度まで啓蒙されています。しかしながら、極めて少ない信者だけが霊感を受けて、主のみことばを宣べ伝えるように召し出されます。 啓蒙は段階的であり、啓蒙はしたがって信者の認識には成長がありますけど。霊感は段階的ではなく、常に全体的です。 ことばは主のことばであるか、ないかのどちらかです。その中間はありません。 啓蒙は持続的で、霊感はあるときだけ与えられるものであると聖書ははっきり言っているのです。 「主のことばが私たちに臨んだ。」と預言者たちは言いました。そして彼らの語った言葉を直接上から聞いた言葉と言いました。 すべての預言者たちは自分がまことの預言者であるということに大きな価値を得ています。そのために多くの預言者たちは、自分の召された歴史を詳しく私たちに語り、ほかの預言者たちは彼らが宣べ伝えている言葉を直接主から受け取ったことを、はっきりと私たちに証ししています。 ひとつの証しをちょっと読みますか。イザヤは自分の召しについて色々なことを書き記したのです。 イザヤ書6:1-8
私は主を見た。私はわざわいなるかな。と言った。 私は主の声を聞いた。すなわち、イザヤは主を見、そして聞きました。イザヤは大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に汚れた者として立ちました。 けれども彼は聖められ、彼のくちびるは火の炭で触られ、聖められました。このことを通して彼は主に用いられる器となりました。 エレミヤもまた同じことを経験しました。主のみことばが彼に臨んだのです。けれども全く直接臨んだのです。彼は、私は若いからだめ。若者はだめなのではないか。 けれども主はこの言い訳を受け取ろうとしなかったのです。エレミヤ書の1章の9節を見ると、次のように主は答えてくださったのです。 エレミヤ書1:9
私たちは普通、イザヤからマラキまでの預言者たちを、文字通り預言者と呼びますけれど、聖書は、主なる神が直接お語りになられた全ての人々を預言者と呼びます。 彼らはただ単に、将来起こるべきことだけではなく、現在のこと、あるいは過去のことをも宣べ伝えます。彼らは神から受け取ったことばを宣べ伝えます。 ですから、モーセも自分のことを預言者と呼んだのです。申命記の18章を見ると次のように書かれています。 申命記18:15
ですから、いわゆる預言者と呼ばれている者は、預言者であっただけではなく、モーセもそうでした。 もちろんダビデも預言者と呼ばれ、そして大部分ダビデによって書かれた詩篇は、主の直接のことばと呼ばれます。ちょっと使徒の働きから一ヶ所見てみましょうか。 使徒の働き2:30-31
旧約聖書全体をまとめようとすると、モーセと預言者たちということが一般に言われているわけですけれど、したがってまた歴史的な書物も預言者によって書かれたものであるゆえに、神のみことばとなるわけです。 使徒の働きの1章の16節、ちょっとお読みいたします。 使徒の働き1:16
聖霊が預言した。ダビデの口を通して。 使徒の働き1:16
使徒の働き3:18
神は、預言者たちの口を通して。 使徒の働き4:25
云々とあります。この証言は本当に力強いものではないでしょうか。 旧約聖書の統一された証言は、神のことばです。これは、まことに主が預言者たちに語られたみことばです。 預言者たちのことば、すなわち旧約聖書が神のみことばであるということが歴然として事実であるとすると、そのみことばを聞く者は、真剣に聞く耳を持つべきであり、主のみことばとしてそれを絶対に肯定することが要求されます。 したがって、旧約聖書全体の誤解されない要求は、「聞け、従え。」というものです。 申命記18:19
詩篇の95篇7節、8節を見ると次のように書かれています。 詩篇95:7-8
聞け。従え。 もう一ヶ所。 エレミヤ書7:23-24
とあります。預言者たちが宣べ伝えられた神のみことばに対して従順であるということは、旧約聖書の道徳すべての土台です。 今まで私たちは神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについてちょっと見て来ましたけれど、最後にもう一つの点。神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス様について、最後に見てみたいと思います。 私たちは旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは新約聖書によって、神が新約聖書の預言者を通してお語りになったかどうか、尋ねてみたいと思います。 新約聖書の比類なき預言者は、いうまでもなくイエス様ご自身です。イエス様は完全な認識を持った父なる神の預言者でした。 イエス様はこの地上に来られたとき、父なる神は自らイエス様を公に認めました。いかなる人間もイエス様が偉大なる預言者であることを認めることができなかったので、父なる神は天を開き、聞き取ることのできる声で仰いました。 「これは、わたしの愛する子。汝らは聞くべし。」と。マタイの福音書の17章5節を見ると次のように書き記されています。 マタイの福音書17:5
主イエス様はただ単に時間に制約されて、神のことばを聞いたり、啓示を見たりしただけではなく、上から来られ、すべてをご存知であり、完全な認識を持った預言者でした。 イエス様の口から出たことばは、いずれも直接父のみことばでした。イエス様は預言者として比類なく、地位を占めており、したがって、ほかの預言者と同列に呼ぶことができません。 イエス様について次のように言われています。 ヨハネの福音書1:18
ここでイエス様は「ひとり子の神」と呼ばれています。 ヨハネの福音書3:31-34
とあります。イエス様自らご自身について、上から来られ、完全な啓示、すなわち父なる神のみことばを伝えなければならないと証しなさいました。 ご自身についての主の証しは、何と力強いことでしょう。 ヨハネの福音書8:23
ヨハネの福音書8:28
ヨハネの福音書12:49-50
ヨハネの福音書17:8
このようなみことばを読むと、イエス様が比類なき預言者であることがわかります。父は御子主イエス様を通して語られましたが、それは動かすことのできない事実です。 最後にもう一ヶ所読んで終わります。 ヘブル人への手紙1:2
私たちはイエス様の口を通して、言い表わすことのできないすばらしい神の啓示を見ることができるのです。 |