2006年4月4日の学び


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/04/04)

引用聖句:詩篇119篇9節-16節、24節、67節、72節、92節、105節、111節、130節、151節、162節、165節
009どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。
010私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
011あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。
012主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。
013私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。
014私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。
015私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。
016私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。
024まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
067苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
072あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
092もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
111私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。
130みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
151しかし、主よ。あなたは私に近くおられます。あなたの仰せはことごとくまことです。
162私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
165あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。

今、読んでくださった個所とは、全部ダビデ王の告白であります。すばらしい証しです。
みことばとはダビデにとって、結局、すべてのすべてだったとはっきりわかります。このみことばを大切にしたダビデは、「主よ。私はあなたを慕います。あなたを愛します。」と言うことができたのです。

先週、私はまだバンクーバーにいまして、けれど吉祥寺で集まる兄弟姉妹のことをもちろん考えて祈りましたし、あなたがたの中の多くの方々もバンクーバーに集まった人々のために祈ったに違いない。
バンクーバーの集いは、もう何年間も若者の集い。若者の喜びの集いでした。今回、日本から60人行きまして、34人は若者だった。第二世代、いわゆるセカンドジェネレーションでした。もっと、もっと自分の子どもの救いのために祈るべきなのではないかと思います。
証しした、メッセンジャーがちょっと少なかったから、ちょうどよかったと思ったけれど、ですから若者にやってもらいましょうと思って、10の若い兄弟姉妹は、だいたいみんなクリスチャンファミリーで生まれ、前にバンクーバーに行った人々だったのですけれども、彼らに証ししてもらいました。

ある夜、ほかの人々と交わったあとで、集会所に入って一番後ろの列に座りました。隣の姉妹は泣いちゃったし、前に座った姉妹も泣きながら若い者の証しを聞いたので、一体、どういうことなのでしょうかと思い、聞いたのです。
「どうして泣くの。何があったの。」、「いいえ。喜びの涙です。若い兄弟姉妹があんまり正直で嬉しい。」という答えでした。
証しした内容は、自分のみじめさ、罪の恐ろしさとみことばのすばらしさ、イエス様の偉大さでした。結果として、まだ主に出会っていない12人の若い男、また12人の若い女性たちはイエス様に祈るようになり、イエス様こそ生きておられる本物だという確信が与えられるようになったのです。

バンクーバーではっきり新たにわかるようになったのは、聖書を信じたいと思っている人には、はっきりと語ってくださる聖書です。
いうまでもなく、信じたくない人には聖書は語ってくれない。聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、確信することができる。けれど、心を開いていない人には意味の無いものに終わってしまいます。
前にも何回も言いましたように、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断すべきです。聖書の絶対無比の性質は、霊感ということばで表現させます。それではいったい霊感とはいったい何なのでしょうか。前に読みました個所ですけれど、もう一回読みます。

テモテへの手紙第II、3:16
16聖書はすべて、

部分的ではない。聖書はすべて、

テモテへの手紙第II、3:16
16神の霊感によるもので...す。

ここで神の霊感と言われるものは、神が吹き込んだという意味です。
もう一ヶ所。ペテロの手紙第IIの1章21節。ペテロとは、別に聖書学者ではなかった。魚をとる漁師でした。けれど彼は何を書いたか。

ペテロの手紙第II、1:21
21預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。「主なる神が語られた。」と聖書が言っていることは、そのまま事実として妥当します。それを私たち人間が認めようが認めまいが、事実は事実なのです。主なる神が語られたことは、もちろん主なる神の啓示そのものです。
この間、神のみことばの一体性について少し考えたのです。主なる神ご自身が聖書の著者ですから、聖書は完全に統一を持った、一体的な福音そのものです。
1,600年の間かかって、色々な人々によって書かれた聖書の66巻は、モザイクの一つ一つの石のようにしっかりと結び付いて全体を構成しており、一体的な全体として主なる神の啓示そのものです。

旧約聖書は、主イエス様の目に見える啓示の準備でした。新約聖書は、イエス様について以前に語られた全てのことがらを表わして成就されたものとなっています。
聖書の中心はひと言葉で言いますと、ほふられた小羊である主イエス様です。ですから、創世記からヨハネの黙示録まで何回も「小羊」という表現が出てきます。
よく知られている二ヶ所を読みます。イザヤ書53章の4節から6節までです。

イザヤ書53:4
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、

もちろん自分の罪のために罰せられ、

イザヤ書53:4-6
4神に打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、

父なる神は、

イザヤ書53:6
6私たちのすべての咎を彼に

十字架につけられた主イエス様に

イザヤ書53:6
6負わせた。

もう一箇所は、ヨハネの黙示録の5章12節です。

ヨハネの黙示録5:12
12「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

みことばの結果とは何なのでしょうか。
主なる神のみことばは人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理であるから、剣のように人間の心を刺し通します。
私たちはみことばを通して燃えるような主の目に出会い、主が語られると私たちは沈黙しなければならないし、また、サマリヤの女のように次のように言わざるを得ないでしょう。

ヨハネの福音書4:39
39「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」

と。ヨハネの福音書12章の48節を見るとイエス様は次のように言われました。

ヨハネの福音書12:48
48わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

みことばに対する態度とはいかに大切であるかを示すものではないでしょうか。
けれども、みことばを受け入れ、イエス様のうちに救いがあると信ずる者は、このみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをもつようになります。
だからペテロは当時の信ずる者に書いたのです。

ペテロの手紙第I、1:23
23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

使徒たちにとって、本当にみことばとはすべてでした。

今まで私たちはまず、主なる神ご自身がみことばの発起人、すなわち著者であることを見てまいりました。
そこで、これから第二番目になりますけれど、神のみことばは人間に与えられ、含まれたということについて、ちょっと考えたいと思います。主なる神が差出人であり、人間が受取人であるわけです。
今までは、主が語られたみことばについて見て来ましたけれど、これから今話したように、人間によって受け取られたみことばについて考えたいと思うのです。

主なる神は、ご自分との交わりを持つことができるようにと、私たち人間を造ってくださいました。けれども交わろうとすれば、ことば無しには不可能です。と言うのは、ことばの中にこそ本質が現われるからです。それですから、主なる神は、人間に語ってくださるのです。
主なる神は色々な方法で語ってくださいます。主は預言者の頑なさを砕くために、ろばを通して語られたこともありました。動物は話すようになった。
民数記の22章を見ると次のように書かれています。

民数記22:28
28すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

もちろん、この旧約時代で起こったことを使徒たちはみなそのままで信じました。
だからペテロは、ペテロの手紙第IIの2章16節に同じことについて次のように書いたのです。

ペテロの手紙第II、2:16
16しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

また主は壁にみことばをお書きになられたこともあったのです。よく知られているダニエル書の5章。当時のベルシャツァルという王様の経験だったのですけれども、

ダニエル書5:5-6
5すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、
6王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

ダニエル書5:24
24それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。

云々とあります。
今から次の三つのことを見たいと思うのです。

第一番目。みことばを宣べ伝える者としての預言者たちです。
第二番目。みことばを宣べ伝えるお方としてのイエス様です。
第三番目。みことばを宣べ伝える者としての使徒たちです。

今日はおそらく預言者たちとイエス様についてしか考えられないかもしれないけれども、先ほど例として挙げましたように、主なる神は人間以外の動物を通して私たちに語ってくださることもありますが、普通は人間を通して語られます。
主なる神は用いようとする人々をお選びになります。主によって選ばれた人たち、すなわち預言者たちに対して主は直接語ってくださり、したがって、預言者たちは主の声を聞き、みことばを受け取るわけです。
すなわち預言者たちは主のみことばを宣べ伝える者となるのです。

このようにして、特別に神によって召し出された人たちのことを聖書は「預言者」すなわち「宣べ伝える者」と呼んでいます。
したがって預言者とは、言わば神の通り良き管のようなものです。すなわち預言者はみことばを直接主から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。
つまり預言者の特別な使命は、主なる神から受け取ったみことばを私たちに伝えることにほかならない。

このように、聞いたことをそのままの形で伝えることを、聖書は「霊感」と呼んでいます。
一つの実例を挙げますと、それにやや近い形を旧約聖書の中に見ることができます。例えばモーセがアロンの口を通して語ったとき、アロンは言わばモーセの言葉の預言者、すなわち宣べ伝える者になったわけです。
宣べ伝えられたものはモーセのことばですけれど、それをアロンが宣べ伝えたわけです。出エジプト記の4章を見ると次のように書かれています。

出エジプト記4:16
16彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

それから7章の1節、2節。

出エジプト記7:1-2
1主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
2あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。

云々とあります。それと同じように主なる神はその口を通して主が語りたいと思う人々を選び出し、直接その人たちに語られます。
「このようにして主はモーセとともに、顔と顔を合わせて、人が友と語るように語られた。」とあります。

出エジプト記33:11
11主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

この若者であるヨシュアは、結局、主のご臨在の中にいたかった。
しばしば主はみことばをただ単に聞かせるだけではなく、見させることもなさいます。主は人間の言葉で表現することのできないことがらを預言者たちに見させるのです。したがって預言者たちは主の啓示を聞く者であり、また見る者でもあります。
例えばサムエル記第Iの9章9節を見ると次のように書かれています。

サムエル記第I、9:9
9今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。

とあります。
預言者のひとりは、神のみことばを受け取った時の様子を私たちに正確に書き記しています。今度は民数記の24章3節、4節をお読みしたいと思います。

民数記24:3-4
3彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。
4神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

云々とあります。

預言者は神の啓示を直接見たり聞いたりします。主なる神は行動するお方であり、みことばを与えてくださるお方です。これに対して預言者は、単に受け身的に参加し、見たり聞いたりするのです。主のことばは、いわば預言者たちを襲ったのです。
決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではない。このことによって本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。
本当の預言者は、主のことばを受け取るときに全く受け身的にあずかります。けれど偽りの預言者たちは神の啓示を自分の意思で作り変えてしまおうとします。偽りの預言者は心に偽りのことばを抱きます。イザヤ書を見ると次のように書かれています。

イザヤ書59:13
13私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。

とあります。
主なる神の最も嫌われることは、主から直接に受け取ったみことばをではなく、自分勝手なことばを神のことばとして言いふらす、偽りの預言者のことばです。
エレミヤ書の14章。この偽預言者について書かれています。

エレミヤ書14:14
14主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。

主なる神は、偽りの預言者のことばを藁に過ぎないと仰り、まことの預言者のことばを麦と呼んでいます。この麦と藁という言葉が出てきます。

エレミヤ書23:28
28夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――

とあります。
私たちが主のみことばを判断するとき、本当の預言者と偽預言者との間の明確な区別をするよう、注意すべきです。
主のことばは人間の言葉として説明するならば、それは大変な債務となります。主のことばの霊感がただ単に人間の意思とは無関係であるのみならず、人間の理解力とも関係がありません。
霊感と啓蒙とは全く異なったものであり、聖霊の働きの結果という点でも両者は全く異なったものです。

主が語るときに用いられた人間たちは、主のことばをごく一部分しか理解できないことがしばしばありました。みことばは多くの場合、人間の理解力をはるかに超えていたのです。
したがって、みことばを極めて小さな基準でしか理解できなかったのです。啓蒙と霊感は本質的に違ったものです。
全ての信者は、ある程度まで啓蒙されています。しかしながら、極めて少ない信者だけが霊感を受けて、主のみことばを宣べ伝えるように召し出されます。

啓蒙は段階的であり、啓蒙はしたがって信者の認識には成長がありますけど。霊感は段階的ではなく、常に全体的です。
ことばは主のことばであるか、ないかのどちらかです。その中間はありません。
啓蒙は持続的で、霊感はあるときだけ与えられるものであると聖書ははっきり言っているのです。

「主のことばが私たちに臨んだ。」と預言者たちは言いました。そして彼らの語った言葉を直接上から聞いた言葉と言いました。
すべての預言者たちは自分がまことの預言者であるということに大きな価値を得ています。そのために多くの預言者たちは、自分の召された歴史を詳しく私たちに語り、ほかの預言者たちは彼らが宣べ伝えている言葉を直接主から受け取ったことを、はっきりと私たちに証ししています。
ひとつの証しをちょっと読みますか。イザヤは自分の召しについて色々なことを書き記したのです。

イザヤ書6:1-8
1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
4その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
7彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

私は主を見た。私はわざわいなるかな。と言った。

私は主の声を聞いた。すなわち、イザヤは主を見、そして聞きました。イザヤは大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に汚れた者として立ちました。
けれども彼は聖められ、彼のくちびるは火の炭で触られ、聖められました。このことを通して彼は主に用いられる器となりました。

エレミヤもまた同じことを経験しました。主のみことばが彼に臨んだのです。けれども全く直接臨んだのです。彼は、私は若いからだめ。若者はだめなのではないか。
けれども主はこの言い訳を受け取ろうとしなかったのです。エレミヤ書の1章の9節を見ると、次のように主は答えてくださったのです。

エレミヤ書1:9
9そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

私たちは普通、イザヤからマラキまでの預言者たちを、文字通り預言者と呼びますけれど、聖書は、主なる神が直接お語りになられた全ての人々を預言者と呼びます。
彼らはただ単に、将来起こるべきことだけではなく、現在のこと、あるいは過去のことをも宣べ伝えます。彼らは神から受け取ったことばを宣べ伝えます。
ですから、モーセも自分のことを預言者と呼んだのです。申命記の18章を見ると次のように書かれています。

申命記18:15
15あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

ですから、いわゆる預言者と呼ばれている者は、預言者であっただけではなく、モーセもそうでした。
もちろんダビデも預言者と呼ばれ、そして大部分ダビデによって書かれた詩篇は、主の直接のことばと呼ばれます。ちょっと使徒の働きから一ヶ所見てみましょうか。

使徒の働き2:30-31
30彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
31それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。

旧約聖書全体をまとめようとすると、モーセと預言者たちということが一般に言われているわけですけれど、したがってまた歴史的な書物も預言者によって書かれたものであるゆえに、神のみことばとなるわけです。
使徒の働きの1章の16節、ちょっとお読みいたします。

使徒の働き1:16
16「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された

聖霊が預言した。ダビデの口を通して。

使徒の働き1:16
16聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

使徒の働き3:18
18しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

神は、預言者たちの口を通して。

使徒の働き4:25
25あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

云々とあります。この証言は本当に力強いものではないでしょうか。
旧約聖書の統一された証言は、神のことばです。これは、まことに主が預言者たちに語られたみことばです。
預言者たちのことば、すなわち旧約聖書が神のみことばであるということが歴然として事実であるとすると、そのみことばを聞く者は、真剣に聞く耳を持つべきであり、主のみことばとしてそれを絶対に肯定することが要求されます。
したがって、旧約聖書全体の誤解されない要求は、「聞け、従え。」というものです。

申命記18:19
19わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

詩篇の95篇7節、8節を見ると次のように書かれています。

詩篇95:7-8
7主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、
8メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

聞け。従え。
もう一ヶ所。

エレミヤ書7:23-24
23ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』
24しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

とあります。預言者たちが宣べ伝えられた神のみことばに対して従順であるということは、旧約聖書の道徳すべての土台です。
今まで私たちは神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについてちょっと見て来ましたけれど、最後にもう一つの点。神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス様について、最後に見てみたいと思います。
私たちは旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは新約聖書によって、神が新約聖書の預言者を通してお語りになったかどうか、尋ねてみたいと思います。

新約聖書の比類なき預言者は、いうまでもなくイエス様ご自身です。イエス様は完全な認識を持った父なる神の預言者でした。
イエス様はこの地上に来られたとき、父なる神は自らイエス様を公に認めました。いかなる人間もイエス様が偉大なる預言者であることを認めることができなかったので、父なる神は天を開き、聞き取ることのできる声で仰いました。
「これは、わたしの愛する子。汝らは聞くべし。」と。マタイの福音書の17章5節を見ると次のように書き記されています。

マタイの福音書17:5
5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

主イエス様はただ単に時間に制約されて、神のことばを聞いたり、啓示を見たりしただけではなく、上から来られ、すべてをご存知であり、完全な認識を持った預言者でした。
イエス様の口から出たことばは、いずれも直接父のみことばでした。イエス様は預言者として比類なく、地位を占めており、したがって、ほかの預言者と同列に呼ぶことができません。
イエス様について次のように言われています。

ヨハネの福音書1:18
18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

ここでイエス様は「ひとり子の神」と呼ばれています。

ヨハネの福音書3:31-34
31上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
32この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
33そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。
34神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

とあります。イエス様自らご自身について、上から来られ、完全な啓示、すなわち父なる神のみことばを伝えなければならないと証しなさいました。
ご自身についての主の証しは、何と力強いことでしょう。

ヨハネの福音書8:23
23それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。

ヨハネの福音書8:28
28イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。

ヨハネの福音書12:49-50
49わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
50わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

ヨハネの福音書17:8
8それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

このようなみことばを読むと、イエス様が比類なき預言者であることがわかります。父は御子主イエス様を通して語られましたが、それは動かすことのできない事実です。
最後にもう一ヶ所読んで終わります。

ヘブル人への手紙1:2
2この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

私たちはイエス様の口を通して、言い表わすことのできないすばらしい神の啓示を見ることができるのです。




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