引用聖句:ヨブ記42章2節
イザヤ書59:1
エレミヤ書32:17
ルカの福音書1:17
ルカの福音書18:27
ほかの国々ではちょっとわからないけど、ドイツのクリスチャンは、毎年特別な言葉を選ぶのです。どなたが選ぶのかわからないのですけど、毎年決まった言葉があるのです。 今年は、最後に読みましたルカの福音書18章27節です。「人にはできないことが、神にはできるのです。」 今年の合い言葉のようなもの、そして、覚えれば非常にいいのではないかと思います。 ヨブのように、あなたは、すべてができること、「あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」、今年、新しくこれを味わい知ることができれば、非常に大切なのではないかと思います。 不可能が可能となることです。不可能と思われることでも、すべてが、そのように不可能であることは考えられません。けど、絶対に不可能な状況も存在します。 それにもかかわらず、信ずる者にとってはすべてのことが可能です。どうしてであるかと言いますと、主に属する者は、不可能なことが何一つないお方を知っているからです。 人にはできないことが神にはできる。イエス様、ご自身がそう言われました。そしてイエス様は、ただ単に真理を語るだけではなくて、真理そのものです。すなわち、イエス様はうそをつくことがおできになりません。 聖書全体は、人間において全く不可能なことが、主においては容易に可能になるということの証明です。生きるまことの神は、イエス様において、ご自身を我々に啓示してくださいました。 この主なる神は、ただ単にすべてをご存知のお方、また限りなく愛していてくださるお方だけではなくて、全能なるお方でもあります。私たちは、この主と結びついていると、人間にとって不可能なことが神には可能であるということを体験するに違いない。 このルカの福音書18章の中では、すべてが真理を私たちに証明してくれるいろいろなことが、私たちの目の前で繰り広げられます。ちょっとだけ、簡単に7つの点について一緒に考えましょうか。 まず第1に、主は、差し迫って出された願いに必ず応えて下さるということです。 1節から8節の中で、私たちはイエス様によって語られたたとて話を見ることができます。皆さんよく何回も読んだ箇所ですけど、今年のために、やっぱり大切な言葉です。 ルカの福音書18:1-8
このたとえ話の根拠は、1節に書いてありますように、人はいつでも祈るべきである、失望してはならないということです。 このたとて話の中心は、一人の裁判官を責めてしまったやもめです。「私の相手を裁いて、私を守ってください。」、彼女は願いました。けれどもこの裁判官は長い間、彼女を無視したのです。聞く耳を持っていなかったのです。助けようとしなかったのです。 しかし彼女は何度も何度も、同じ訴えを持って行き続けましたので、裁判官はうるさくて仕方がないから、この女のために裁判をしてやることにしようと言って、譲歩しました。 このやもめは決してあきらめないで、願い続けました。祈り続けました。ですから、イエス様は、彼女の態度を誉めました。 聖書全体は、主が、差し迫ってひっきりなしに持ち出される願いを聞き入れて下さると何度も約束しておられます。私たちはいつでも祈ること、失望してはならないこと、あきらめてならないことを要求されています。 イエス様ご自身が聞き入れて下さると言う約束をお与え下さったので、私たちは祈り続けるべきです。主の約束が成就するのを経験するまでいつまでも祈るべきです。この態度をとることこそが要求されています。 マタイの福音書17:20
ウソを知らないイエス様の約束です。パウロは、このことを経験したのではないでしょうか。だから彼は刑務所の中で言ったのです。 ピリピ人への手紙4:13
私たちが祈るとき、全宇宙を動かす方の御手が動きます。そして、そのことによって不可能なことが可能となります。イエス様は、大いなることをなし、むつかしいことも成し遂げて下さると約束しておられます。だから祈り続けましょう。 おそらく、私たちはむつかしい人のために、また人間的に見れば不可能と思われるために長い間、祈っているかもしれない。 失望しないようにしましょう、イエス様だけを仰ぎ見ましょうと言うのは、人間にとって不可能なことも、イエス様にとってはたやすいことだからです。 2番目の事実は、イエス様にとってどんなにひどい罪人さえも、救ってくださるお方です。 絶えず祈ることを呼びかけておられるこのたとて話し、ルカの福音書18章1節から8節との関連で、ルカの福音書18章9節から14節で、パリサイ人と取税人とのたとえ話しを話されました。 ルカの福音書18:9-14
聖書全体の内容は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」の一文書にまとめられているのではないでしょうか。意味は、神は、高ぶる者を退けざる得ない。へりくだる者に恵みを下さるお方です。 たえず祈ることを呼びかけておられるたとえ話との関連で、イエス様は、パリサイ人と取税人のたとえ話を話されました。このパリサイ人は、非常に、宗教的でしたが生けるまことの神を知らなかったのです。 彼は、自分のことだけを考え、自分の立派な生き方や、良い行いのことだけを考えたのです。祈りの中でさえ、彼は、自分のことだけしか考えなかったのです。 それですから、次のように言われたのです。彼は自分に向って心の中で祈ったとあります。もちろん彼は、神の御名を使ったでしょうが、神の御名の栄光のことは、少しも考えていなかったのです。 けれども、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言ったのです。こんな罪人の私を憐れんで下さい。これこそが、御心にかなう祈りです。 取税人は、ただ単に罪人であっただけではなくて、そのことをよく知っていました。彼は、次のように言いました。神様、罪人の私。あなたが、憐れんで下さらなければ、もうおしまい。彼は、自分が最もひどい人間であると思ったのです。最もひどい闇の中で永遠の滅びに至るに値するのですと彼は思いました。 けれども、イエス様がここで次のように言っておられます。この罪人が義とされ受け入れられ、罪を赦され、神の家族の一員となったのですと。 しばしば私たちは、この人が救われるのでしょうか、あの人が救われるのでしょうかと疑うかもしれない。けど、イエス様の救いの力は、誰をも贖うのに十分です。 イエス様の血と力は、どのような人の罪も赦すのに、本当に十分です。 ヨハネの手紙第I、1:7
私たちは、まず自ら主を汚す者、迫害者、暴力をふるう者と言い、その上、自分を罪人の頭と自称したサウロのような人を考えてみると良いのでしょうか。 いろいろな話しを聞くときに、ときどき言うのです。けどサウロほどには、ひどくないんじゃないの。サウロでさえも、パウロに変えられました。だから、どういう人間にも希望があります。 パウロは、喜んで証ししました。 テモテへの手紙第I、1:13
パウロが言えたのは、それだけです。「私は、あわれみを受けたのです。」 テモテへの手紙第I、1:14-15
このサウロは、私たちの主イエス様の熱烈な証し人のひとりとなりました。 私たちが、家族、親戚、友人など、イエス様から遠く離れている人のことを考えると、次のことを忘れてはなりません。人間にとって不可能なことも、イエス様にとっては、可能なのです。 イエス様は、一番ひどい罪人でさえも救って下さるのです。 私たちはみな、イエス様は不可能を可能にしてくださることを経験したのではないでしょうか。信仰に導かれた方は、イエス様が不可能を可能にして下さることの生ける証明なのではないでしょうか。 私たちは、私たちが救われたことを考えるなら確信をもって、再び他の人のために祈り続けることができるのです。 テモテへの手紙第I、1:15
パウロは、「わたしは罪人のかしらです。」そう言っただけではなくて、本当にそう思ったのです。 多くの人々は、「いやー、私はだめです。何もできません。」と言いますけど、本当は、そう思っていない。もしそう思ったなら、もっともっと、主に頼るなのではないでしょうか。 ルカの福音書7章に出てくる罪の女は、イエス様の非常に深い愛を経験し、救われました。「あなたの罪は、赦されている。」、そう彼女は言われたのです。 ルカの福音書19章に出てくるザアカイは、金銭欲の強い男でしたが、イエス様との出会いによって、完全に解放され、変えられました。 7つの悪霊にとりつかれていたマグダラのマリヤは、イエス様を通して大いなる解放を経験したのです。 私たちは、こう言った例を次から次へと、いくらでも続けることができます。イエス様は今も、同じことをなさってくださるからです。 わたしたちが、決して期待できないような人々をも、瞬間的に変えられます。なぜなら、その人々は、イエス様に信頼を置いたからです。 人間にとっては不可能なこと、全く絶望的で何も期待できない場合でさえも、全能者である主イエス様は、ご自身を啓示してくださり、奇蹟を行ってくださいます。わたしたちの主は、生きておられます。私たちは、まずまず主に信頼しようではありませんか。 3番目に、主は小さな子供にまでご自身を啓示してくださるお方です。 ルカの福音書18:15-17
子供の回心を信じない人々がいますが、現実は、その人々にもっと良いことを教えてくれます。サムエルは、彼が主を全く個人的に経験した時、まだ子供でした。 今日も、若い時にキリストに出会った多くのキリスト者がいます。ある人々は、5才、6才、7才のときに回心を経験しています。 そして、その時の回心は、後になってからも本物だったことが判明しています。すべての両親にとって、このことは大きな励ましとなるはずです。 子供達の中で働いてる兄弟姉妹も、このことは、大きな刺激となるはずです。 子供が、両親を愛し、両親と話し合うことができる年頃になれば、イエス様を愛し、イエス様と語ることができるようになります。 もちろん救われるのに、誰も年をとりすぎることはないということも、同じように強調されなければならない。 誰かが救われるには、あまりにもボケてしまっているということもウソです。ここでもまた、人間にとって不可能なことも、主にとって可能であると言う命題が当てはまるのではないでしょうか。 誰でも、救われるのに若すぎることはありません。同じように、主イエス様を経験するのに年をとりすぎることもありません。 人間的に見れば、いろいろな疑問がもちろん現われてきます。けど、イエス様の次の約束を忘れてはなりません。主なる神にとっては、すべてのことが可能であり、経験できるのです。 4番目、主は、この世の誘惑から解放してくださいます。 ルカの福音書18:18-27
ここで、残念ながら世の誘惑に負けてしまった一人の金持ちの話が出てきます。 彼は非常に宗教的であり、子供の時かた戒めを守ってきたと思っていたのです。彼はイエス様を求めて来たということ実は、彼が心の中で飢え渇きを持ち、本当に、求めていたということを示しています。 彼は、これを聞いて非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。・・金持ちになると、金持ちであることは、聖書の中に別に禁じられていません。けれども救われるため、主イエス様に従って行くための妨げとなるならば、この富は、もちろん罪です。 それを明らかにするためにイエス様は、はっきりとおっしゃいました。裕福な者が神の国に入ることは、なんとむつかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を入る方がもっとやさしい。 自分の富にしがみつき、自分の富を神にしてしまう人は、この金持ちが経験したのと同じ経験をします。非常時悲しんで、イエス様から離れ去ったのです。 その結果、罪の赦しを頂くことができず、主なる神の平和を得ることができず、まことの満たしを与えて下さるお方を知ることができなかったのです。 主なる神の替わりになるものは、すべて偶像です。私たちを全く満たしてくださるお方、私たちの愛と崇拝の全部を欲するお方、このお方だけに私たちが仕えるべきです。 この方こそ、生けるまことの主です。金と富が、私たちを捕らえてしまうならば、この偶像崇拝は罪です。 パウロはテモテに書いたのです。 テモテへの手紙第I、6:10
金銭を持つことではなくて、愛すること。お金を持っていることは、別に悪いことではありませんが、その金が自分だけのものであると思うなら、もちろん間違っています。 私たちの持っている物は、預かっているに過ぎない。それが、どのように使われるかを、私たちは決めることができません。主だけがこの権利を持っています。 私たちは主のものですから、私たちが持っているものも主のものです。まさにそうですから、私たちの日々の祈りは次のようなものでなければならないでしょう。 主よ、私は、何をしたら良いのでしょうか?私に教えて下さい。 私には、わかりません。あなただけしか、わかりません。 あなたの望むことだけを願います。 ルカの福音書14:33
ルカの福音書14章33節の意味は、そう言うことでしょう。ここで書かれている捨てると言う意味は、一般に使われている意味の捨てると言うよりは、すべてを主に捧げる言う意味です。 わたしたちのお金、家、車、家族、妻、子供すべては、主に捧げるべきです。実際、私たち自身の命でさえ、私たちのものではありません。 私たちは、私たちがしたいことや、楽しみとなることをすることはできません。私たちは高い代価を払われた、代価で買い取られた者です。だから私たちは主のものです。私たちは聖霊の宮であり、主の住まいです。 ヨハネの手紙第I、2:15-17
5番目に、主は、ご自身のためになされたすべての犠牲を償い、それに報いてくださるのです。 ルカの福音書18:28-30
いつの時代でも、主イエス様のために自分の故郷を捨てて、家族を捨てて、高給を断り、さらにイエス様のことのために、すべてを捧げるために結婚をも断念する多くの人がいました。 イエス様を知らない人は、「そのような人達には、何かが欠けている。もったいない。」、そう言うでしょう。 ベタニヤのマリヤが高価な油をイエス様の頭に注いだとき、弟子達の判断は、「なんと、もったいないことをするのだろう。」と言うものでした。私たちは、それが決して浪費ではなかったことを知っています。 それと同じように、イエス様のいのちほうが、エジプトのすべての財宝よりもはるかに大きな富であるとみなすなら、それは決して計算違いではありません。主のために犠牲を捧げる者は、損をしません。その人は豊かに償われ、報われます。 29節に「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」とあります。 それと同じことは、つぎの箇所にもみられます。 マタイの福音書19:29
これこそ豊かな償いです。それは、何百倍もの償いになります。主イエス様は、すべてを考えられない程、すばらしく報いてくださるのです。 イエス様のために生きることは、生き甲斐のあることです。また、イエス様のことを知らない人がいるのですから、その人達が福音を聞くと言うのであれば、どんな犠牲を払っても損をすることはありません。 イエス様の愛によって、駆り立てられることを後悔する人は一人もいない。 コリント人への手紙第II、5:14-15
コリント人への手紙第II、5:18
コリント人への手紙第II、5:20
私たちの誰もが、キリストの代わりの使節となるべきです。 私たちの誰もが、「自分の置かれた環境に於いて、主の僕として和解を受け入れなさい。救われることは可能です。イエス様の所に来なさい。イエス様は赦してくださいます。主は、新しく作り変えてくださいます。主は、解放してくださいます。」、そう叫ぶ者となるべきなのではないでしょうか。 私たちの誰もが、与えられた召しにふさわしく忠実に歩みますと、豊かに報われるようになり、次のような主の言葉を聞くでしょう。 マタイの福音書25:23
第6番目に、主は、あらゆる約束を果たしてくださいます。 ルカの福音書18:31-34
私たちは、イエス様がこれから受けるべき苦しみと死が、三日目のよみがえりと同じようにすでに何百年も前に預言者によって預言され、主の経験なさることが旧約聖書の預言の成就のとおりであるとおしゃっているのを読むことができます。 イエス様の預言は正しかったでしょうか。イエス様が、預言されたことがすべてそのように起こったのでしょうか。聖書を見るともちろんわかります。その通りです。すべては、預言されたように正確に実現されました。 そのことから私たちは、主なる神の時において、すべての約束が成就されるという結論を引き出すことができます。 将来については、信じる者を迎えるためのイエス様の再臨、死を見ずしてすべてのまことの信者の携挙(けいきょ=空中再臨)、さらに、イエス様の目に見える形での再臨、そして1,000年間に続く平和の国の確立、それからイエス様が裁き主として、すべての者を裁くようになると預言されています。 私たちは、多くのことを想像できません。けれども、すべてのことは成就するのです。と言うのは、人間にとって不可能なことも主にとって可能だからです。 処女マリヤにとっては、彼女が約束された救い主の母となるなどということは不可能なことでした。このことが御使いを通して彼女に預言された時、彼女は次のようにしかいうことができなかった。 ルカの福音書1:34
しかし、それにもかかわらず彼女は御使いの福音を信じました。そしてマリヤは、みことばの真理を経験しました。 人にはできないことが、主にはできるのですと。この巌のように確固とした確信は、私たちの日常生活の特徴となるべきなのではないでしょうか。 主は、私たちの信者のために、私たちの体なる教会のために、イスラエルの民のために、世界の諸国民のために素晴らしい約束を与えてくださいました。 民数記23:19
マタイの福音書24:35
人にはできないことが、神にはできるのです。 最後に、主イエスは、奇蹟をなさいます。 ルカの福音書18:35-43
ここで、バルテマイと言う名前の盲人が癒されたことが記されています。この男の人は全盲でした。けれども、「見えるようになれ!」と言うイエス様の命令により、彼はたちどころに目が見えるようになったとあります。 私たちは、このことを理解できませんが、人にはできないことが主にはできるのです。 アブラハムとサラにとって、彼らがたいへんな高齢でなお一人の息子が与えられるということは考えられませんでした。しかし、主はこのことを預言なさいました。主は、奇蹟を為し賜うお方です。 創世記18:11
創世記18:14
当時、アブラハムはすでに100才、サラは90才でした。従って、人間的に見るなら子供ができるということは全く不可能でした。 私たちはアブラハムの信仰とその信仰の土台について、つぎのような聖句を読むことができます。 パウロは、ローマ人への手紙の中で書いたのです。 ローマの福音書4:17-21
不可能なことが可能になる。アブラハムとサラは、ひとりの息子を授かったのです。 主に不可能なことがあろうか。主にとって、むつかしすぎる状況があるのでしょうか。主が解決できないような問題があるでしょうか。主が、救うことのできない頑固な罪人がいるのでしょうか。 主が、回復できないような堕落した人間がいるでしょうか。主の能力を超えるようなことが何かあるでしょうか。 おそらく、なたの状態はもうどうにもならないと思い込んでしまう程、ひどいものであるかもしれない。もう遅すぎると思われるような状態であるかもしれない。 確かに人間的に見るならば、すべては全く絶望的かもしれませんけど、次のようなみことばはそれにまさっているのです。 人間的に見ればと言うよりは、主の目から見ればということになりますと、すべては全く違ったものとなると言うのです。なぜならば、全能者なるイエス様にとって不可能なことは何一つないからです。人にはできないことが、神にはできるのです。 終わりにひつの問いを考えてみましょう。 私たちは、ルカの福音書18章を通して、次のことをはっきりと見ることができます。 第一番目、主は答えてくださる。差し迫って出された願いに。 2番目、イエス様は救ってくださる。どんなに酷い罪人でさえも。 3番目、イエス様は、ご自身を啓示シテ下さる。幼子にさえ。 4番目、イエス様は、解放して下さる。この世の誘惑から。 5番目、イエス様は、償って下さる。すべての犠牲を。 6番目、イエス様は、成就して下さる。あらゆる約束を。 そして、イエス様は奇蹟を為してくださるお方でです。 そして、今、次の問いがなされます。私たちのイエス様はいかに大いなるお方なのでしょうか。私たちは、イエス様の偉大さと力を認識しているのでしょうか。 私たちは、イエス様の偉大さと力を見るならば安心して、すべてをイエス様にゆだね、次のことを経験するでしょう。私たちの主イエス様は、生きておられる故に、私たちの人生において不可能なことが可能となるのです。 この主を仰ぎ見ると私たちは本当に、安心して、この新しい年に入ることができるのではないでしょうか。 |