私たちはすでに神の子です


ベック兄

(秦野家庭集会、2004/01/22)

引用聖句:ヨハネの手紙第I、3章1節-3節
1私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

今言われたように、大きな会社の中で、悩んでる人は多いと言われたんですけど、ちょっと違うかもしれない。悩んでいない人はいない。ひとりも。
人間はもし、天の使いたちに聞くことができれば、「みなさん。いったい、あなたがたは人間について何を考えてるの?みなさんの意見はどうですか。」、おそらく、みんな口をそろえて、「人間は悩む者です。」と言うのではないでしょうか。

けども、人間はみな、救われたい。けども、人間の考えてる救いと聖書の言ってる救いとは違います。人間の願ってる救いとは、一時的な問題の解決なのではないでしょうか。
主人とあまりうまくいってない。子どもも大変だ。金も足りなくなっちゃった。体もあんまり丈夫じゃない、云々と...。やっぱり大変な問題なんですけど、聖書の言ってる救いとは、そういうちっぽけなもの、問題ではない。
結局、根本問題が解決されなければ、平安がないんです。一時的に問題が解決されたとしても、「ああ、よかった。救われた。」と言われるかもしれないけれども、それでもって人間は変わらない喜びを、あらゆる不安、心配から解放されることを経験しないでしょう。

人間にとって一番大切なのは、安心して、将来に向かうことができる。結局、生き生きとした希望をもつことではないでしょうか。
先週、吉祥寺で葬儀がありまして、ひとりの六十二歳の姉妹は召されたんです。もう二十五、六年前から知ってるし、三十四歳になったとき、結局重病人になったんです。
ご主人は牧師の息子だったんですけど、彼にとってあんまり面白くなくて、奥さんの家族を捨ててしまって、他の女性と一緒になっちゃっていなくなったのです。それから彼女は二十八年間、病気でした。ちょっと考えられない。

けども彼女は結局、悩むことによって、苦しむことによって心の平安を得るようになり、変わらない喜びを自分のものとすることができ、そして本当に安心して死に向かうことができた。
遺言の中でもやっぱり、自分の葬儀の中心になってもらいたいお方とは、もちろん自分の代わりに死なれたイエス様だけです。やっぱりイエス様が紹介されてもらいたいと、こういう生涯とは、満たされたものなのではないでしょうか。
人間は悩むとやっぱり、励ましたい気持ちもあるし、けども、実際問題としてできません。けども、聖書が与えられてるから、本当にありがたい。

聖書こそがもちろん、勉強しなくちゃいけない教科書じゃないんです。元気のもとです。人間に与えられてる最もすばらしい宝物とは、いうまでもなく聖書です。詩篇の作者は、次のように書いたところがあります。

詩篇107:20
20主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。

みことばによって彼らは救われた。みことばの力とは、もう考えられないほどすばらしいものです。
今お読みになった箇所も、やっぱり信ずる者を励ますために、力づけるために書かれてるものです。いわゆる新約聖書の手紙とは、もちろんいうまでもなく、もうすでに主イエス様を体験的に知るようになった人々のために書かれたものです。結局イエス様を知ることとは別に立派になることではないよ。

イエス様を知るようになった人々こそが、戦いの中に投げ込まれているのです。この戦いの中に投げ込まれた人々を励ますために、ヨハネはおそらくもう、百歳くらいだったんですけど、このような手紙を書いたのです。
もちろんここで複数形に書いてるんですけど、もし、私たち一人一人は、この箇所を自分の証しとして単数形で読むことができたら、すごいのではないでしょうか。

私が神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私は神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私を知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私は、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私はキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私はキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

ここで、「私たちは、わかっています。」となっているんです。原語を見ると、もっと強い表現が使われています。私たちは確信する。
結局私たちは、どういう確信をもつべきなのでしょうか。ここで三つのことが書かれていますね。

第一番目、私たちは今すでに神の子どもです。
第二番目、私たちはキリストに似た者となる。
第三番目、私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる。

結局、現在について一つの事実が述べられています。すなわち私たちは、今すでに神の子どもです。それから、将来について二つの事実が述べられています。すなわち、第一番目、私たちはキリストに似た者となる。もう一つは、私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる。
現在について一つの事実、将来について二つの事実が述べられてるから、現在よりも将来は、ずっと大切であると、はっきり書き記されています。
この三つの事実について、少しだけ一緒に考えたいと思います。

第一番目、信ずる者の幸せの根拠は、何なのでしょうか。ここで書かれているように、私たちは、今すでに神の子どもです。
神の子どもとなることこそが一番大切です。いわゆる、ヒューマニストたちは、平気で言います。「人間はみんな、神の子どもです。」
聖書は違うと言ってるのです。人間はみんな神の被造物です。もちろん、主がいのち与えるお方であるからです。けども、神の被造物である人間は、神の子どもにならなければ、人生はまったく虚しいものであります。

唯一の生きるまことの神は、天と地を無から、材料なしにお造りになった、万物の造り主であり、すべての背後にはっきりとした目的をもって、支配なさるお方です。
この方は、主イエス様をとおして、救いの道を開いてくださいました。信ずる者は、自分の過去を振り返ってみると、必ず次のように言わざるを得ないだろう。すなわち私たちは、主なる神を知らなかったし、もちろん知ろうともしなかったし、神を恐れなかったし、拝もうとしなかった。真理を信じたよりも、真理に逆らう者でしたと。
けども主なる神が恵んでくださった、自分のような者をお置きになってくださったと。つまり、主なる神の前に罪がある。自分は主の怒りのもとにいる。自分は主なる神から遠ざかっているということを分かるようになることとは、救われる必要条件なのではないでしょうか。

神なき人生の無意味さ、また虚しさを認識する者は、やっぱりあわれんでもらえなければおしまいだと、はっきり分かります。また、いかなる人力も努力も自分のわがままの問題を解決することができません。
上からの光に照らされた者として、自分の破産を宣告し、自分のわがままをイエス様に告白すると、恵みにあずかるようになります。
聖書とは、確かに色々なこと言ってるのですけれども、簡単にまとめてみると、主なる神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与える。

私たちの信仰生活の始めとはいったい何だったのでしょうか。私たちは、十字架につけられた主イエス様を心の目で見たのです。聖書は、次のように言っています。
「見よ。罪を取り除く神の小羊。」、すなわちイエス様が三十歳まで大工さんとしてお働きになりまして、三十歳になってから初めて、公に福音を宣べ伝えるようになったのです。
このイエス様を初めて紹介した男とは、イエス様の親戚でもあったし、バプテスマのヨハネでした。彼はどういう言葉でもってイエス様を紹介したかといいますと、「世の罪を取り除く神の小羊」
主イエス様とは決して宗教家ではない。偉大なる教師だけでもない。人間の罪を取り除く、預言されたメサイアであり、救いの神です。
信ずるとは、十字架につけられた主イエス様を、自分のために死なれたお方として見ることです。もちろん人間は、イエス様は私のために死なれたと思うようになるとやっぱり、希望が湧いてきます。

火曜日だったんですけども、ある母親は、悩んでる娘と一緒に来まして、娘はまだ若くて、十六歳なんです。けどもやっぱりすぐ分かった。ああ。悩んでる子。何の喜びもない。
お母さんはイエス様を信じていて、やっぱりイエス様しかないと分かったんですけど、あのお母さんは色々なこと話しれてくださったんですけれども、次のことも言ったんです。
「私はイエス様を殺した者です。」、もちろんみんなそう言わなくちゃいけないんですけども、われわれのわがままのゆえに、イエス様は犠牲にならなければならなかったのです。
私たちは永遠の世界に入ると初めて、この意味を分かるようになるなのではないでしょうか。
生きるまことの神が人間になり、自分のために犠牲になり、自分の受けるべき天罰をお受けになり、罪とされ、のろわれ、捨てられたのです。
考えられないことですけども、本当なんです。ですから、聖書の呼びかけとは、自分の救いのためにたとえば、聖書を勉強しなさい、しっかりしなさい、立派になれと言っていないんです。

イザヤ書45:22
22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。

十字架につけられたイエス様を仰ぎ見ると救われます。十字架にかけられた主イエス様こそ、私たちが仰ぎ見なければならないお方です。仰ぎ見ることとは、もちろん受け入れることです。
ヨハネの福音書の1章の12節に、受け入れるという表現が出ています。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ここで、主イエスを理解した者は、神の子どもであると書いてないんです。受け入れた者、信ずる者は、私たちは、今すでに神の子どもですと喜びをもって、告白することができます。生きるまことの唯一の神の子どもとなることは、最大の喜びです。

全能なるお方は、私たちを神の子どもとしてくださった。この方は、イエス様のゆえに自分の父となってくださった。もはや決して独りぼっちではない。イエス様はいつもついててくださると確信できる人は、本当にすごいのではないでしょうか。

何年か前に、ある重病人に会いまして、女性で、結婚していなかったけど、非常に成功した女性でした。大学の先生で、彼女は、運転しながら脳溢血になっちゃったんです。想像できるでしょ?とんでもない事故になってしまったんです。
幸いに、ほかの車がいなかったし、人間もいなかったし、見舞いに行ったとき、結局もう話すことができなかった。泣いてばっかり。結局もうおしまい。けども、今会いますと、やっぱり、イエス様はすごいとしか言えない。

この事故になったから、イエス様を知るようになった。病気になったから幸せになったと、喜んで言えるようになったのです。
結局自分は、神の子どもであるという事実について考えると、本当の意味で、どういう悩みがあっても、苦しみがあっても、喜ぶことができるのです。

私たちは今現在、もうすでに神の子どもだよと、ヨハネは当時の信ずる者に書き送ったのです。どうして大いに喜ぶことができるかといいますと、自分の汚い過去が清算され、自分の過ち、またわがままは、イエス様の流された血によって洗い消されたからです。
イエス様は赦すと忘れます。人間の決してできないことです。赦すことは、しようと思えばできます。けど赦してもまた思い出す。人間はみな、そういう者です。イエス様は赦すと忘れます。だから聖書の中でよく出てくる言葉は、わたしはあなたの罪を決して、決して心に留めない。

現代人にとって一番大切なのは、私はこの大宇宙を創造されたお方の子どもであるという確信をもつことです。
将来について何を書かれてるかといいますと、前に話したように、私たちはキリストに似た者となる。それも考えられないし、どういうもんかさっぱり分からない。一体どういうふうにイエス様に似た者となることができるなのでしょうか。

今話しましたように、救われるために、すなわち、神の子どもとなるためには、私たちはただイエス様を自分の救い主として見上げることです。「イエス様、ごめん。不完全で、過ちを犯す者で赦してください。」、「この砕かれた気持ちがあれば、OK。」と、聖書は言っているのです。
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。見よ。あなたの罪を取り除かれた、約束されてる主イエス。イエス様は次のように約束してくださいました。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

結局イエス様は、「わたしを見ると救われます。わたしを仰ぎ見ると永遠のいのちを持つ者となります。」
救われた人々について、私たちはキリストに似た者となると約束されてますけど、どういうふうに変えられるなのでしょうか。キリストに似た者となるなのでしょうか。もちろん答えは同じです。イエス様を仰ぎ見ることによってです。
コリント人への手紙第IIの3章の18節で、パウロはコリントにいる人々に次のように書いたのです。

コリント人への手紙第II、3:18
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

自分の努力の結果ではない。御霊なる主の働きによるのであると、ここで書かれてます。結局イエス様の御姿に変えられる秘訣は、代わりに死なれたイエス様、復活なさったイエス様、昇天なさったイエス様、高く引き上げられたイエス様、また再び来られるイエス様を仰ぎ見ることによって変えられます。
主を見上げると、知らないうちに変えられるようになり、大いなる祝福を得ることができるのです。詩篇の作者であるダビデは次のように書いたことがあります。

詩篇34:5
5彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

主を仰ぎ見ると、輝く。
私たちの目が探し求めてるものは、私たちの人生を反映するでしょう。私たちの目が向けられてるものに、私たちはついて行き、その姿に変えられます。イエス様を見上げない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して満足することはできません。
主イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き、支えてくれるものは何一つありません。神の敵である悪魔は、もちろん人間をずっと攻撃します。

悪魔の誘惑の目的とは、知らず知らずのうちに、イエス様を見上げることから、自分自身だけを見つめるようにとわれわれをいざなうことです。イエス様を見上げることをしないで、自分だけを見つめる者は、気の毒です。
傲慢になるか、ふと、どこかに陥るかのどちらかです。私たちは、イエス様の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。

自分自身を見たり、他人を見たり、おかれてる環境について考えたりすると、みんな悩みます。落ち込みます。どうしようという気持ちになります。けども、自分のために死なれ、自分のために生きておられるイエス様について考えると、希望が湧いてきます。
信ずる者は本当に幸せです。どうして?今すでに、神の子であるからです。

二番目、キリストに似た者になると約束されているからです。
問題は、いつなるのでしょうかね。私たちはキリストのありのままの姿を見るようになるとここで書かれてます。そのとき初めて、キリストに似た者となります。
イエス様は昇天なさる前に、はっきり弟子たちに言われたのです。「わたしはまた来ますよ。あなたがた、信ずる者を迎えるために来ますよ。」と言われたのです。
もう少しで、イエス様をありのままの姿で見ることができるという事実について、いくら考えてももちろん考えられない。けども、考えられないすばらしい事実です。

私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。そのとき私たちは想像もできず、説明することもできませんけど、私たちはイエス様のもの、イエス様に似た者となります。もちろん私たちは、主の御姿に似た者とされることが自分の手柄ではない、主の恵みによるのであることを知るようになると、やっぱり主を崇拝せざるを得ません。
私たちが造り変えられるために、私たちがすることのできること・・・

(テープ A面 → B面)

周囲の人々からも目をそらし、イエス様おひとりだけを見上げること。そして、主のみことばがわれわれの心に働くことができることを、妨げないことです。
おそらくみんな思うでしょう。多くの不十分さ、未熟さ、欠点、不完全さをもって、みじめなあわれな自分の姿を見て、日々痛いほどに、その自分自身の姿を示されるとき、その自分が、イエス様の姿に似た者となることなど、どんなに考えても考えられないことであり、自分のうちには、そのような可能性がひとつもない。と言わざるを得ないなのではないでしょうか。
けど、聖書はそう言ってるから、必ずなる。

私たちはキリストに似た者となることが分かっていますと、ヨハネは書いたのです。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。結局私たちは、望んでる、期待してる、じゃないよ。分かってる、確信してる。どうして確信できるかといいますと、聖書はそう約束しているからです。
聖書の中で理解できないこと、いっぱい書いてる。本当は、ピンとこないことばっかり書いてるんじゃないでしょうか。つかめないよ。想像することもできないけど、大切なのは、自分の考えではないでしょ。

ですから、だれでもいつか経験すべきだと思う。イエス様を本当の意味で信ずることとは、自分を信じないことです。自分の考えてること、思ってることは別にどうでもいい。聖書は、何と言ってるかという断固たる態度取ると、もう解放されます。嬉しくなります。
確かに私たちは、多くのことを理解することができません。けども、主は自分の約束を守るお方です。たとえば、ローマ人への手紙8章の29節見ても、同じ事実について次のように書かれてます。

ローマ人への手紙8:29
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が

主イエス様が、

ローマ人への手紙8:29
29多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

イエス様は、この世に遣わすことによって、神の御ひとり子と呼ばれるようになったのです。このひとり子が、長子になるために必要なのは、ほかの弟、妹さんたちが必要なのではないでしょうか。
私たちは、イエス様の御姿に変えられるようになると、約束されています。聖書はそう言ってるから、私たちは安心して、それを信ずることが許されています。

人生においていわゆるわれわれの重荷となるもの、われわれの力を無力にするものがあります。その結果すべてを投げ出して、諦めてしまいたいと思うようになる可能性はもちろんあります。
けどもイエス様がわれわれのうちに新しく形造られるべきである、という切なる願いをもって、イエス様の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難をも通り抜け、新しく形作られるようになります。

確かに私たちは、五分あとのこと分からない。明日のことも分からない。けど将来のことは分かる。私たちは、キリストの似た者となる。
いつでしょうか。イエス様に会う瞬間。この会う瞬間とは、いわゆる、空中再臨のときです。この空中再臨についてイエス様は、少し話されたのです。ひとりは取られ、ひとりは残される、云々と。
結局、イエス様に属する者は、教会員になった者なのではない、キリスト教に入った者でもない、洗礼を受けた者でもない、イエス様に属する者は、本当に主の恵みによって、悔い改める恵みにあずかるようになった者は、あるとき姿を消すんです。体もいなくなる。

空中再臨は、人間の歴史の中で、一番大きな混乱になるものなのではないでしょうか。アメリカの会社、飛行機会社は、五、六十年前の話ですから、今は分からないけども、そのとき、もしパイロットはイエス様を信ずる者であったならば、必ず、副パイロットは無神論者として雇ったのです。
なぜならば、イエス様を信ずる者は急にいなくなると大変でしょ?飛行機は高価なもんだよ。飛行機会社は、人間なんて別にどうでもいいけど、飛行機は高いものですから、やっぱり無神論者雇ったほうが安全だと。
例えば運転する人は、イエス様を信ずる者だと急にいなくなる。車、いるんですよ。考えられない混乱になります。それは遠い将来じゃなくて、近いうちに起こる可能性は、十分あります。

この出来事について、テサロニケ人への手紙第Iに次のように書かれています。結局当時の人々とは、イエス様の前に、イエス様の再臨の前に、人々は死ぬと一体どういうことになるの?云々と、色々なこと考えて、パウロに尋ねて、そして結果として彼は、聖霊の導きによって次のように書いたのです。

テサロニケ人への手紙第I、4:13
13眠った人々のことについては、

結局、先に死んだ人々のことについては、

テサロニケ人への手紙第I、4:13-18
13兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

ね。悩んでる兄弟姉妹がいると、どういうふうに慰めたらいいか。「もうちょっとで、イエス様が来ますよ。」、そうするとやっぱり、だれでもまた元気になります。

将来とは、すごい将来になりますから。私たちは、いつまでも主とともになる。結局イエス様は、空中再臨のとき、この地上まで来られない。空中までだけ。だれも見えない。
けども結果として、例えば墓の壺を見ても、信ずるものであれば、壺は全部空っぽです。なぜならば、灰の中からよみがえりのからだ、復活のからだが出ると聖書は言っています。
そして先に天にいった霊とたましいと一つになる。そのあとで、この地上にいる、悔い改められる恵みにあずかった人々も姿を消すんです。いっぺんに引き上げられるようになります。

初代教会の人々は、どうして当時の迫害を我慢することができたか。どうして悩みながら、苦しみながら大いに喜ぶことができたかといいますと、彼らは、「主は、また迎えに来る。」と確信したからです。私たちはいつか、天国行くために救われただけじゃなくて、イエス様の再臨を待ち望むために救われたと、彼らは確信したのです。
パウロは、もちろんここでも、「私たち。」、「私たち。」、「私たち。」と何回も言ってるんです。けども、当時のテサロニケにいる人々とは、本当に模範的な兄弟姉妹でした。彼らは主イエス様を大事にした人々でした。自分で無視されても別にいいよ。イエス様が中心になればありがたい。

結局自分のためにもう十分です。生きたくない。イエス様のために生きたい。彼らはそういう人々だったのです。もし、パウロはほかの教会に同じことについて書いていなかったならば、私たちは知らないうちに、間違った結論を出すことができる。
いやー、あのテサロニケの人々は立派だったから、模範的なキリスト者としての生活を送ったから、彼らはOKだけど、私はちょっと危ないじゃないですか。けどもパウロは、同じ事実についてコリントにいる人々に書いたから、これこそ、ありがたい。なぜならば、コリントにいるイエス様を信ずる人々とは、もう全然ダメ〜な人々でした。もう、どうしようもない人々だったのです。

コリント人への手紙第I、15:51-52
51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

結局、イエス様によって受け入れた人々とは、イエス様のからだの死体となった者は、みんな例外なく、引き上げられるようになる。そしてもちろん、同時にイエス様に似た者となる。
われわれの将来とは、本当にすばらしいものです。私たちはいつまでも主とともになる。

大切なのは結局、自分を見ないで、イエス様を見上げることです。ヘブル人への手紙の12章を見ると、次のような言葉が書き記されています。勝利を得る道、重荷から解放される秘訣についての箇所です。

ヘブル人への手紙12:2
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様から目を離すとおしまい。離す瞬間、おしまいです。けどもイエス様を仰ぎ見ると、希望が湧いてきます。どういう状況に置かれていても、安心して、前進することができるのです。イエスから目を離さないでいなさい。




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