引用聖句:テモテへの手紙第II、3章16節
ペテロの手紙第II、I:21
今日の題名は「神のみことばは神のみことばです」というものです。どうしてこの題名について話すべきかと言いますと、二つのことがあったのです。 一人の男性は、彼は「私は無神論者です。」、結局神がいないと言いながら、「キリストだって神に遣わされた者にすぎない。釈迦と全く同じです。」、「神はいない。」と言いながら、「神に遣わされた者だ。」と言う。 けれど、「旧約聖書を読みたいから聖書はないか。」、と言うので送ったのです。 彼を紹介した兄弟は、病気になっても悩みながら喜んでいる。これはやっぱり普通ではない。けれどもそのとき、やっぱりもし聖書がなければもうお手上げなのです。あの出会いを通して聖書の尊さを新しく知るようになったのです。 もう一つのことがあって、最近聞いた話なのですけれど、ちょっとがっかりでした。ある集会の兄弟は次のようなことを言ったそうです。「自分の子どもが未信者と結婚しても問題ではない。なぜならば、家族になるから。そして家族の救いは約束されているからOK.。プラスアルファ、聖書は厳しすぎる。」困ってしまう・・・。 ですからやっぱり、神のみことばは神のみことばです。 今の問題について神のみことばである聖書は次のように言っています。 コリント人への手紙第II、6:14-18
こういう個所を見ると、やっぱり自分で考えたり同調したりすると悪魔の勝利になるのではないでしょうか。 今読んでもらいました二ヶ所、今ぼくが読みました個所はコリント人への手紙第II、6章の14節から18節まででした。けれども先に司会者が読みました個所の内容とは、聖書はすべて、神の霊感によるものです。 まず聖書の霊感についてちょっといっしょに考えてみたいと思うのです。 聖書は今日もっとも普及した書物であり、またもっとも近代的な書物です。疑いもなく聖書にひかれる動きはどこの国でも進行しています。 現代の悩みと混乱にあって多くの人々はしっかりとした支えを求め、聖書を読もうという飢え渇きを持っています。なぜ聖書が求められるのでしょうか。この書物の比類なき内容はいったい何なのでしょうか。聖書はどういう点でほかの書物とは比較にならないほどすぐれているのでしょうか。聖書にはどのような特別な知恵が与えられているのでしょうか。私たちはこういう問いに従事したいと思います。 すなわちその問いとは、まったく簡単に表現すれば次のように言えるでしょう。「聖書とは何か」ということです。いったいだれが私たちにこの問いに対する答えを与えることがおできになるのでしょうか。 聖書よりも高い権威あるものだけがこの問いに対して有効な解明を私たちに与えることができるのです。けれどもそれはいったいどこに見出されるのでしょうか。 私たちはすべての国を巡り歩き、すべての時代を探索しても、聖書より高い権威をこの地上で見出すことはできません。聖書よりも高い権威あるものとはいったい何でしょうか。われわれのちっぽけな人間の理解力がそれなのでしょうか。いえ、決して決してそんなことはありません。 人間の理解力というちっぽけなものをそんなに大きなものと考えるならば、それは全宇宙を顕微鏡の下に置こうとするのと同じほど愚かなことでしょう。 私たちに残されているただ一つの道は、聖書とは何かを知ろうとするならば、聖書そのものに問わなければならないのです。したがって、聖書とは何か。、という問いを次のように言い換えることができるはずです。 すなわち聖書そのものは何と言っているのか。聖書はどのような要求をするのか。このことを通じて私たちは聖書に語らせたいと思います。 けれども聖書はどなたにでも語るのでしょうか。はっきりと言えることは聖書を信じたいと思っている人にははっきりと語ってくれる聖書も信じたくない人々には語ってくれないということです。 聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、知ることができ、確信することができますが、心を開いていない人には意味のないものに終わってしまいます。 マタイの福音書の中でイエス様は次のように言われたことがあります。 マタイの福音書13:11-13
とあります。イエス様でさえ、聞く備えのある弟子たちに話す場合と、聞く備えのない当時の聖書学者たちに話す場合とでは話し方を変えておられました。 すなわちイエス様は弟子たちにお話しになるときには大切なことを直接お話しになったのに、聖書学者たちに話すときは、たとえ話でお話しになりました。新しく生まれ変わっていない人は、聖書の奥義について語ることは全くむなしい努力に終わります。 聖書の奥義は聖霊を通してのみ知ることができます。だから聖書を持っていない人は聖書を理解することができない。そのことをパウロは次のように証ししたのです。 コリント人への手紙第I、2:14
したがって、聖書の真理を知りたいと思うならば、次のことが前提条件としてどうしても必要です。イエス様はヨハネの福音書3章3節に言われました。 ヨハネの福音書3:3
いくら聖書を勉強しても無駄です。何にもならない。それではいったい新しく生まれ変わるのはどのようにして可能なのでしょうか。 聖書全体の言わんとしていることは、ヨハネの福音書3章の16節にまとめられているのではないでしょうか。 ヨハネの福音書3:16
とあります。そのことを切に望む者は新しく生まれ変わろうと思えば、だれでもこの瞬間にイエス様を自分の救い主として受け入れることができます。というのは、イエス様のうちにこそイエス様の流された血潮による罪の赦しがあるからです。 初代教会の人々の喜びのもととは何だったのでしょうか。エペソ人への手紙1章の7節を見ると次のように書かれています。 エペソ人への手紙1:7
現在、赦されたと確信できる。 エペソ人への手紙1:7
自分の聖書の勉強の結果でもないし、報いでもない。主イエス様は切に望む人にはだれに対しても永遠のいのちを与えてくださいます。 主のみことばを真剣に受け取る者は主のみことばに基づいて新しく生まれ変わっていることを主に感謝することが赦されています。信ずる者は持ちます。すなわち悔い改めた人は罪の赦しを持ち、イエス様を受け入れた人は永遠のいのちを持つことができるのです。 イエス様を信ずる兄弟姉妹はみことばを通して語ってくださる聖霊により、聖書とは何か、そして聖書はいかなる要求をするかについて宣べ伝える責任を持っています。どうしても必要なことは、聖書を通して主のみことばを聞くことです。 イエス様を信ずる者として人間の理性の力で聖書を理解し、把握しようとすることは本当は間違いであり、罪であると言っても言い過ぎではありません。 どんな外科医の名人でも、生きている人の体を切り刻んで解剖することはできない。その外科医はまず、患者さんが死んで初めて解剖することができるのであって、死体には命がないと言ってもそれは当然のことです。 ちょうど外科医が人間をまず殺してから、死体を解剖するのと同じように、人間の理解力で聖書を理解しようとする者は、聖書をまずいのちのない書物にしてしまい、それから小さく切り刻んだ一部分を顕微鏡で調べるのと変わりないわけですけれど、そこにいのちがないというのは当然のことです。 私たちは聖書を死んだものにしたいとは思いません。聖書はいのちであり、生きることばとして私たちに語りかけてくれるはずです。 そうすると、聖書が主体で私たちが客体。すなわち聖書が中心で、私たちが対象物になるわけです。私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断するのです。 聖書の絶対無比な性質は霊感ということばで表現されます。それではいったい霊感とは何でしょうか。霊感とは、神が吹き込むという意味です。前に読みました個所をもう一回読みます。 テモテへの手紙第II、3:16
とパウロはテモテに書いたのです。聖書はすべて、神の霊感によるものです。ここで神の霊感と言われるものは、主なる神が吹き込んだという意味です。 それから前に読んでもらいました個所、 ペテロの手紙第II、1:21
これら二つのみことばは次のような三つの事実を含んでいるのではないでしょうか。 第一番目。主なる神は聖書の発起人。すなわち著者そのものです。 第二番目。神のみことばは人間に与えられ、吹き込まれたものです。 第三番目。彼らは、いわゆる預言者たちは、与えられ、受け取ったものをさらに伝えていきました。すなわち宣べ伝え、書き伝えました。 霊感としての聖書はこれら三つの事実を特徴として持っています。これら三つの面は、実際は一つの統一的なものを形成しています。すなわち 第一番目。遣わすこと。 二番目。受け取ること。 三番目。さらに伝えることです。 あるいは同じことを次のように言うこともできるでしょう。 第一番目。語られたみことば。 第二番目。受け取られたみことば。 第三番目。書かれたみことば。です。 私たちはこのことを次のように図解することもできるでしょう。A,B、Cにしましょうか。Aはすなわち差出人。Bはすなわち受取人。Cは宣べ伝え、書き伝えられたこと。すなわち聖書です。 聖書は旧約聖書と新約聖書の中で次のような要求をしています。すなわち、A=C。つまり、語られたみことばは書かれたみことばに等しいという要求です。 私たちはこういう聖書の要求を、聖書の完全な霊感と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが主なる神のみことばなのです。神によって書かれたみことばは少しも変わることなく、人間によって書かれたみことばに等しいものとなっています。 ヘブル人への手紙の1章1節を見ると次のように書かれています。 ヘブル人への手紙1:1
このみことばの中に霊感の三つのことが要約されています。 第一番目。神が語られたということ。 第二番目。預言者たちを通して語られたということ。 第三番目。先祖たちに語られたということです。 はっきりしていることは、預言者たちを通して主は語られました。すなわち、すべての預言者たちを通して語られ、しかもすべての預言を全体によって語られたということです。すなわち聖書は間違いのない主なる神のみことばそのものです。 それではこれから霊感の、これら三つのことについてちょっと聖書に語ってもらいましょう。まず第一番目に、主なる神はみことばの発起人、すなわち著者です。このことについて私たちは三つに分けて考えてちょっと見たいと思います。 第一番目。父なる神が語られたこと。 第二番目。主イエス様が語られたこと。 第三番目。聖霊が語られたことです。 なぜなら、主なる神は唯一の神ですが、三つの異なった人格、すなわち、父なる神、御子主イエス様、また聖霊を持っているお方であるからです。 「神のみことばは神のみことばである。」という命題は何と当たり前のことでありましょう。けれども今まで長い歴史の中でどれだけ多くの人たちがこの当たり前のこと、すなわち「神のみことばは神のみことばである」という命題を否定するためにがんばったことでしょう。 しかし結局、主なる神のみことばの否定を徹底的に証明することはできませんでした。 例えばドイツで始まった聖書批判は、「A=Cではない。」、すなわち、「神の語られたみことばと聖書に書かれたみことばは等しくない。」ということを証明しようとしたものです。 しかし、主なる神はみことばの発起人、すなわち著者です。「神が語られた。」、これこそ聖書が全く当然のこととして行なう要求であります。 神が語られたと聖書が伝えているとき、語っているものが本当に神であるかどうかを証明する必要は全然ありません。聖書は神が語られたことをそのまま私たちに伝えています。ですから神のみことばは本当に神のみことばであるということを証明してもらいたいということは、何という侮辱でしょうか。 聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。「主なる神が語られた。」と聖書が言っていることはそのまま事実として妥当します。 それは私たち人間が認めようが認めまいが事実は事実です。主なる神が語られたことは、主ご自身の啓示です。それは上から与えられたものです。 人間の言葉は下から来たものであり、主のみことばは上から来たものです。ひとつのことばが同時に上からと下からと両方から来ることはあり得ません。主なる神のことばと人間の言葉とは、その本質上、全く違った性質のものです。 主なる神が語られたと聖書が言うとき、それは聖書が私たちに伝えているみことばがその本質上、人間の言葉とは全く違っていることを私たちに証しします。 「主なる神が語られた。」と聖書は言っていますが、その実例をいくつか聖書の中からちょっと見てみましょうか。創世記から。 もう数えられないほど、主が語られた、仰せられたということばが何回も、何回も、何回も出てきます。 創世記1:3
創世記1:6
創世記1:9
創世記1:11
創世記1:14-15
創世記1:24
創世記1:26
創世記1:29
云々とあります。何回も、何回も、何回も、主は仰せられた。とあります。 2章をちょっと見てみましょうか。 創世記2:16-18
創世記3:14
創世記3:22
創世記4:6
創世記4:9
創世記6:13
創世記7:1
創世記8:15-16
創世記8:21
創世記9:1
創世記9:8
創世記11:6
創世記12:7
結局何回も、何回も、何回も、主は仰せられた、主は語ったとあります。 出エジプト記の中には何度も繰り返し、繰り返し、主はモーセに語られた、主はモーセに仰せられたということばが出てきます。 例えば3章の4節、7節、12節、14節。4章2節、11節。6章10節。7章1節。8章1節。9章1節。 それからレビ記の場合も同じように、主はモーセに語られたということばで新しい章が始められています。 旧約聖書の中で、「主は語られた。」という表現にアンダーラインを引いてみると、その数がいかに多いか驚くほどです。 今日は読む暇がないけれど、申命記1章6節、34節。4章12節。5章5節。イザヤ書1章2節、10節、11節、18節、24節。6章8節。8章11節。13章1節。40章1節。 エレミヤ書の中で、五百回以上、「主は語った。」と書いてあります。 一番おもだった個所は7章1節。9章12節。11章1節。13章15節。21章11節。26章1節。27章1節。30章1節と4節。50章1節です。 それからサムエル記第IIの23章2節。列王記第Iの12章22節。歴代誌第Iの17章3節。ダニエル書2章23節。8章28節。 それからエゼキエル書1章3節。3章22節。8章1節。2章1節。4章7節。3章14節、16節、23節。45章9節と18節。ヨナ書1章1節。3章1節。アモス書3章1節。ゼパニヤ書1章1節。ハガイ書1章1節。ゼカリヤ書4章1節。5章5節。8章1節。マラキ書1章1節。次々と、もう何回も、何回も数えられないほど「主は仰せられた。」、「主は語った。」とあります。 このように、旧約聖書における預言者の書を見ると、私たちは本当に主が語られたことを認めざるを得ません。そして預言者たちが書き記したことばは確かに神のみことばであると言わざるを得ません。 例えばエレミヤ書の中でも、「主は語られた。」とか、「主からエレミヤにあったみことばはこうである。」という個所にアンダーラインを引くならば、その数もまた驚くほど多いことがわかります。 旧約聖書の中では、「神が語られた。」という表現が象徴的に使われているのに対して、新約聖書では、「イエス様が語られた。」ということばで表現されているのが特徴的です。至るところで、「イエス様が語られた。」という個所を見出すことができます。 前に読みましたヘブル人への手紙の1章1節、もう一回読みます。 ヘブル人への手紙1:1
主イエス様のことばは神のことばです。それはちょうど預言者たちのことばが神のみことばであるのと同じように確かなことです。 イエス様が語られたことばは上から、すなわち父なる神から与えられたみことばです。それですからそれらのみことばは霊といのちなのです。 ヨハネの福音書6章63節にイエス様は言われました。 ヨハネの福音書6:63
主のみことばによって生かされた者は永遠のいのちを持っています。そしてそのような永遠のいのちを持っている人にとっては、イエス様のことばは単なる教えではなく、力であり、喜びです。 ヨハネの福音書7章46節を見るとわかります。当時の人々、そして役人たちでさえも、主イエス様のみことばに接したとき、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」と言わざるを得なかったのです。 そして今日までイエス様のみことばを超えるものは何もありません。すなわち主イエス様は父なる神の完全な認識を持っておられ、常に愛に満ちて語られます。主のことばは少しの疑いもない、明確な真理なのです。 今日に至るまで主のみことばは時代遅れに古くさいものとはならず、何一つ変えるべきものもなく、削除するべきところも、撤回するところもありません。 主のみことばのひとつひとつがいのちそのものであり、いのちをつくるものであり、心を開いて主のみことばを聞く者はだれでも計り知れない神の力を経験いたします。 イエス様が地上で語られたことは、父なる神ご自身が御子を通して語られたことばでした。イエス様の声は父なる神の声にほかなりませんでした。 今まで私たちは神が語られたということ。そして次に二番目、イエス様が語られたということについてちょっとだけ聖書から見てきましたが、最後に、聖霊が語られたということについてちょっとだけ見てみたいと思います。 イエス様はこの地上を去る少し前にもうひとりのなぐさめ主、すなわち聖霊がイエス様の代わりに語られるようになると仰いました。 ヨハネの福音書16:13-14
ヨハネの福音書15:26-27
聖霊は教えてくださるお方であり、思い起こさせてくださる方でもあります。 ヨハネの福音書14:26
とあります。イエス様は昇天され、高く引き上げられて天に戻られてから、これからは聖霊が語り手であるということを重ねて仰ってくださいました。 ヨハネの黙示録の2章。何回も、2章と3章を見ると何回も、何回も同じことばが出てきます。 ヨハネの黙示録2:7
御霊の語ることは大切だということです。 新約聖書の多くの作者たちは聖霊が自分たちを通して語っておられるということを常に意識していました。彼らは自分たちが考え出したことではなく、上から与えられた神の啓示を宣べ伝えなければなりませんでした。 そして彼らは旧約聖書に書かれている事がらだけではなく、自分たちを通して聖霊が語られたみことばも同じ権威を持っていると要求しました。 ペテロはイエス様の霊が預言者たちを通して語られたこと、そしてまた同じ霊が自分たちを通しても語っておられると私たちに証ししています。 ペテロの手紙第Iの1章から、ちょっと二、三節を読んでみます。 ペテロの手紙第I、1:10-13
パウロもまた、同じようなことを強調したのであります。その福音の発生についてそれが自分の考えではない。主によって上から与えられたものであることをパウロは強調したのです。 コリント人への手紙第Iの2章4節からお読みいたします。 コリント人への手紙第I、2:4-7
もう一節。12節です。 コリント人への手紙第I、2:12
パウロはここで書いたこと、語ったことは取りも直さず神のみことばにほかならないと断言しています。 もしも自分の考えに過ぎないのであれば、パウロの言っていることはとんでもないことになってしまいますが、本当に神のみことばが語られているのであれば、それを明らかにしないことが大変な大きな債務になってしまうわけです。 イエス様の語られたことばが神のみことばであるのと同じように、聖霊が語られることばもまた、神のみことばです。新約聖書のたくさんの手紙の中に明らかにされている神の啓示は聖霊の証しにほかならない。すなわちそれは、上から与えられた神のみことばです。 聖書の最後の書であるヨハネの黙示録についても、一言だけ申し上げたいと思います。ヨハネの黙示録もまた、上からの要求、したがって、神のみことばであるという要求をしているのでしょうか。 ヨハネの黙示録1章1節。これは、神がキリストにお与えになったものであると、ヨハネの黙示録の最初に書かれていることから明らかなように、過去に書かれていることもまた、すべて神のみことばです。 このようにして聖書は最後のところでも、また再びそれらのみことばが神のみことばにほかならないことを強調しています。もう一ヶ所読んで終わりましょう。 ヨハネの黙示録22:6
ヨハネの黙示録22:16
聖書は統一を持った神のみことばです。聖書は神が語られたことをそのまま私たちに、すなわち私たちに伝えています。 父なる神は語られました。父の御子である主イエス様が来られ、そして語られました。聖霊が遣わされ、証しをし、そして宣べ伝えました。 主なる神ご自身が聖書に記されているヨハネの黙示を書いたお方です。 ある、非常に悩んでいるひとりの姉妹がいます。ご主人は家から出たし、云々と、大変です。けれどもあの姉妹は何を書いたかと言いますと、「私はみことばを食べています。私はイエス様が大好きです。」 別の姉妹は、「みことばはいのちそのものです。主は本当にすばらしい方です。偉大な方です。」 結局聖書は勉強するために書かれているものではない。元気の素です。 みことばに頼るとだれでもが必ず元気になる。人間に与えられる最高の宝物は間違いなく聖書です。 この聖書が与えられることをおぼえて、毎日感謝すべきではないでしょうか。 |