引用聖句:マタイの福音書4章4節
ヨハネの福音書17:17
ヨハネの黙示録19:11-16
私たちの最近のテーマは、「神のみことばは神のことばです。」、昔的な表現かもしれない。本当は、「聖書は神のことばです。」と言いたいのです。 主は語ってくださった。この主の語ってくださったみことばを、いわゆる預言者たち、使徒たちが聞いて、そして言われたとおりに書いたのです。だから聖書は神のみことばです。 この間言いましたように、最近ドイツで新しい聖書が出て来たのです。もう悲劇的です。 例えば聖書の中で普通、「主は語った。」、「彼は語った。」、新しい聖書の中で、「彼は語った。」と書いていないのです。「彼女は語った。」、差別だそうです。 もちろん神は男でもないし、女でもないし、けれどもやっぱり、ちょっと考えられないほど、決して神のみことばではない。 もちろん前からヨーロッパはもう全然ダメ。希望がまったく無い。近いうちに反キリストが出てくるに違いない。そのための準備だけなのです。 聖書とは本当に考えられないほど大切です。何年前だったかちょっと忘れましたけれど、ある兄弟は証ししたことがあります。次のようなことだったのです。 「私は62歳までまったく聖書と関係のない男だった。性格の弱い人たちだけが聖書を読む。稼いで、うんと遊ぼう。これが私の考え方でした。 今は、聖書は私にとって一番面白い本になったのです。普通の本はだいたい一回だけ読むもので、あとでべつに読む必要はない。内容がわかっているから。普通の本は二回読んでも、途中でやめるかもしれない。もう次のことがわかったから。しかし聖書はいくら読んでもすごいのです。」 聖書とは「THE BOOK」、すなわち本の中の本そのものです。比べられないすばらしい宝物です。 もちろん聖書のすばらしさは、おそらく召されてから初めて、本当の意味で知るようになるのではないでしょうか。 今読みました個所の中で、イエス様は祈りながら告白してくださったのです。「あなたのみことばは真理です。」、これこそがイエス様の証し、また告白でした。 イエス様のように、みことばを大切にした人間はいません。イエス様にとってみことばとは、結局すべてのすべてでした。 イエス様はみことば無しに生きることができなかったのです。だからイエス様は言われました。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と。 最後に読んでもらいました個所の中で、イエス様の一つの名前は、「神のことば」と書かれています。イエス様が公に、空中再臨のあとで公に来られると、もちろん裁き主として、ユダヤ人の王として来られると、イエス様の名前とは「神のことば」です。 はっきり言えることは、聖書を信じたく人々にとって全く役に立たないものです。語ってくれないものです。 信じたいと思えば、聖書は生き物になります。聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、理解することができ、確信を持つことができるのです。心を開いていない人には、聖書だって全く意味の無いものになってしまいます。 聖書を読むと、いつもひとつの大切な覚えるべき原則があります。すなわち、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断すべきである。 人間の考えていること、思っていることは別にどうでもいい。大切ではない。私たちは何があってもイエス様の態度を取るべきではないでしょうか。あなたのみことばは真理です。 私はわかっても、わからなくても、理解できてもできなくても関係ない。 聖書の絶対無比の性質は霊感ということばで表現されています。ペテロは次のように書いたことがあります。 ペテロの手紙第II、1:21
神のみことばは、 ペテロの手紙第II、1:21
聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。「主なる神が語られた。」と聖書が何回も、何回も言っています。そのまま事実として納得しますと、私たちが認めようが認めまいが、事実は事実です。主なる神が語られたことは、主なる神の啓示そのものです。 多くの人々は、「主が色々なことを語った理由とは知識を与えるためである。」と。けれど決してそうではない。主はどうして語ったかと言いますと、自分自身を明らかにするためです。 主のみことばは人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理であるから、剣のように人間の心を刺し通します。私たちはみことばを通して燃えるような主の目に出会い、主が語られると私たちは沈黙しなければならない。 イエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書12:48
ことばが裁き主になる。イエス様を受け入れ、イエス様のうちに救いがあると信ずる者は、このみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをもつようになります。 今まで私たちはまず、主ご自身が語ってくださった。主ご自身がみことばの発起人、すなわち著者であることを見てきました。また、主のみことばは人間に与えられたことについても考えてまいりました。 主はご自身との交わりを持つことができるようにと人間を創造されたのです。交わろうとすれば、ことばなしにはちょっと不可能ではないでしょうか。というのは、ことばの中にこそ本質が表われるからです。 それですから主は人間に語ってくださったのです。 主は私たちのような者と交わろうと心から望んでおられます。主は用いようとする人間をお選びになります。 主によって選ばれた人々とは、聖書の中で預言者たちと呼ばれています。主は預言者たちに対して直接語ってくださり、したがって預言者たちは主の声を聞き、みことばを受け取ったのです。預言者たちは主のみことばを宣べ伝える者となりました。 このようにして、特別に主によって召し出された人々のことを聖書はいつも、預言者、宣べ伝える者と呼んでいます。 したがって預言者とは主の通り行く管のようなものにすぎない。すなわち預言者たちは主のみことばを直接主から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。つまり、預言者の特別な使命は、主から受け取ったみことばをそのまま伝えることにほかなりませんでした。 このように、聞いたことをそのままの形で伝えることを聖書は霊感と呼んでいます。 主は語った。預言者たちは聞いただけではなく、聞いたみことばを宣べ伝えるようになったのです。 結局、預言者たちは主の啓示を直接見たり、聞いたりします。主は行動するお方であり、みことばを与えてくださるお方です。 これに対して預言者たちは単に受け身的に参加し、見たり聞いたりするのです。主のことばは、言わば預言者たちを襲ったのであります。決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではない。 そのことによって本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。 本当の預言者は、主のみことばを受け取るときに全く受け身的にあずかります。偽りの預言者は、神の啓示を自分の意思で作り変えてしまおうとします。 ですから聖書を書いた人々とは結局、聞いたことだけ書いたのです。わかったことではない。おそらく大部分は自分の書いている内容にピンと来なかったでしょう。理解できなかったでしょう。 なぜなら将来のこと、だいたい将来のことについて書かなければならなかったのです。けれども自分で別にわかっても、わからなくても関係ない。主は語ったから仕方がなくて書こう。 主のことばは、人間の言葉として説明するならば、それは大変な債務となります。 主のみことばの霊感はただ単に人間の意思とは無関係であるだけではなく、人間の理解力とも関係がありません。 どうして大部分の聖書学者たちとは悪魔の道具になったのでしょうか。2,000年間の教会歴史を見ると、もうがっかりです。 まことの神の最大の敵は、いつも聖書学者でした。読んでわかったと思えばおしまい。わかるものではない。けれど信ずればもう、力の源である。生きる希望になります。 預言者たちは、「主のことばが私に臨んだ。」とよく言いました。そして彼らの語ったことばを直接上から来たことばと言いました。 すべての預言者たちは、自分がまことの預言者であるということに大きな価値を置いています。そのために多くの預言者たちは自分たちの召された歴史を、経験したことを詳しく語り、ほかの預言者たちは彼らが宣べ伝えていることばを、直接主から受け取ったことをはっきりと証ししたのであります。 例えばイザヤは、「私は主を見た。私はわざわいなるかな。」と言ったのです。「私は主の声を聞いた。」、すなわちイザヤは主を見、そして聞きました。 彼は大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に汚れた者として立ったのです。 エレミヤも同じことを経験しました。「主のみことばが彼に臨んだのです。」、しかも全く直接臨んだのです。 聖書は、主なる神が直接お語りになられたすべての人々を預言者と言います。 もちろん、いわゆるカリスマ的な教会の多くは、「やっぱり昔の預言者たちは十分ではない。私は直接主の声を聞いた。ああだ、こうだ。」と言います。 それは100%間違っています。聖書が与えられているから、今の時代で預言者だって必要がない。書かれているみことばだけ宣べ伝えれば十分です。 聖書に言われている預言者たちはただ単に将来起こるべきことだけではなく、現在のこと、あるいは過去のことも宣べ伝えたのです。 彼らは主から受け取ったことばを宣べ伝えただけです。だからモーセも預言者と呼ばれています。ダビデも預言者と呼ばれています。 ルカの福音書の16章の29節。次のように書かれています。 ルカの福音書16:29
ここで、「モーセと預言者」とあります。彼らは結局、みことばを宣べ伝えたのです。 使徒の働きの1章16節を見ると次のように書かれています。ダビデはやっぱり預言者であったことを示すものです。 使徒の働き1:16
聖霊がダビデの口を通して預言した。 使徒の働き3:18
使徒の働き4:25
この証言は力強いものです。 旧約聖書の統一された証言は、「神のみことば」です。これはまことに主が預言者たちに語られたみことばです。預言者たちのことば、すなわち旧約聖書が主のみことばであるということが歴然として事実であるとすると、そのみことばを聞く者は真剣に聞く耳を持つべきであり、主のみことばとしてそれを絶対に肯定することが要求されます。 もちろん、普通の特別に選ばれた人々とは、預言者と呼ばれただけではなく、最高の預言者とはわれわれの主イエス様ではないでしょうか。 主イエス様はこの地上に来られたとき、父なる神は自らイエス様を公に認めました。 いかなる人間も、イエス様が偉大なる預言者であることを認めることができなかったから、主は天を開き、聞き取ることのできる声で言われたのです。 マタイの福音書17:5
イエス様の口から出たことばは、いずれも直接父のみことばでした。 イエス様は預言者として比類なき地位を占め、したがって、ほかの預言者たちと同列に置くことができません。 イエス様について次のように言われています。 ヨハネの福音書1:18
ここでイエス様はひとり子の神と呼ばれています。 ヨハネの福音書12:49-50
今まで、旧約聖書で召し出された預言者たちについて、またちょっとイエス様について考えたのですけれども、もうちょっと、新約聖書に出てくる使徒たちについてちょっと考えたいと思います。 主は新約聖書における使徒たちを通しても語ってくださいました。すなわち私たちは、新約聖書においても主のみことばを受け、彼らのことばが旧約聖書の預言者たちのことばと同じように、権威あることを正当に要求できる預言者たちを見いだすことができます。 イエス様は12弟子をお選びになりました。主イエス様は彼らを「使徒」とお呼びになったのです。預言者と同じ意味です。ルカの福音書の6章13節を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書6:13
使徒、すなわち遣わされた者たちはイエス様ご自身によって召され、特別に呼び出され、装備を与えられ、彼らの口に主のみことばを与え、大いなる権威をもお与えになりました。 例えばマタイの福音書の18章を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書18:18
と書き記されています。同じく、 マタイの福音書10:19
主は語ってくださっただけではなく、主は語るお方です。 ルカの福音書の10章16節。すべての福音書の中で似ていることばがいっぱい出てきますけれども、 ルカの福音書10:16
ヨハネの福音書20:21
使徒たちは主のみことばを委託された宣教者です。このことについてイエス様は祈りの中で次のように仰いました。同じくヨハネの福音書17章14節。 ヨハネの福音書17:14
ヨハネの福音書17:18
イエス様は祈りの中で告白してくださったのです。 イエス様が使徒たちのもとから離れ、天に昇られる時、使徒たちの口を通して、今から語られるのは聖霊であると約束してくださいました。したがって、私たちは使徒たちの書いたものにおいて、彼らを通して語られた聖霊が語るのを聞くことができます。主なる神は、新約聖書の中でご自身を啓示なさるのに12人の使徒たちだけに限定しませんでした。 主はパウロのような使徒をもまったく同じようにお召しになったのです。ガラテヤ人への手紙1章の17節。パウロは次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙1:17
とあります。 パウロは諸教会の前で、上からの召しを通して使徒であることを認められ、彼の福音が第三者からではなく、直接主ご自身からのものであることを強調し、そのことに最大の価値を置いています。 パウロはイザヤとかエレミヤとまったく同じように、直接主なる神から召された者でした。ガラテヤ人への手紙の1章を見ると、彼は次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙1:11-12
勉強した結果ではない。 ガラテヤ人への手紙1:15-16
云々とあります。 ガラテヤ人への手紙2:8
パウロは預言者として召されました。というのは、アナニヤがイエス様の命を受けて、彼に次のように伝えているからです。今度は使徒の働きの22章。 使徒の働き22:14-15
この主なる神の召しに基づいてパウロは常に、「イエス・キリストの使徒」と、自らを呼んでいます。手紙全部を見てもわかります。 ローマ人への手紙1:1
コリント人への手紙第I、1:1
コリント人への手紙第II、1:1
ガラテヤ人への手紙1:1
もちろんほかの手紙もそうです。 エペソ人への手紙1:1
次。 コロサイ人への手紙1:1
テモテへの手紙第I、1:1
テモテへの手紙第II、1:1
とあります。 また、テトスへの手紙1章1節も同じように書いています。 テトスへの手紙1:1
ですからパウロは、彼が多くの手紙の中で書いているみことばが、啓示を通して彼が受けた、主の直接のみことばであると証言しています。 パウロは非常に情熱的にイエス様の使徒として自分が召されたことを弁護しています。どうしてでしょうか。自分の名誉のためでしょうか。もしそうだったならば、彼は別のものを選んでいたことでしょう。 彼は次のように説明しています。コリント人への手紙第I4章の9節と10節です。 コリント人への手紙第I、4:9-10
パウロは自分自身の名誉を求めたのではなく、使徒の権威をもって、自分の語ることばは、主からのことばであることを強調したのです。 なぜなら、彼の語ることばをだれひとり軽い気持ちで、人間のことばと見なすことがないようにするためでした。主なる神の名誉のためにパウロは、イエス様の使徒として認められることを要求しています。 コリント人への手紙第IIの11章の5節。ここでパウロは次のように書き記したのです。 コリント人への手紙第II、11:5
確かにほかの使徒たちとは、三年半イエス様といっしょに過ごしたし、もうすごい時を経験することができた。パウロと違います。 けれどもそれにしても使徒たちの中で一番になったのは、間違いなくパウロなのです。 コリント人への手紙第I、15:8-10
またパウロは、彼がほかの使徒たちによっても認められたことを強調し、まったく彼らと同列に置かれることをためらいませんでした。 ガラテヤ人への手紙の中で、彼はまた次のように書き記したのです。 ガラテヤ人への手紙2:6-9
結局、パウロの特別な使命とは、ユダヤ人でない人々に、いわゆる異邦人たちにイエス様を紹介することでした。 パウロは、主が語ってくださる預言者であることをよく知っていたので、彼が書き記すことがらに対して完全な権威を要求しています。したがって私たちはパウロを神の預言者として認め、彼の要求を信ずるか、さもなければ、きちがいとして彼を退け、彼のことばを一言も信じないかのいずれかです。 パウロの書いたことばに新たに耳を傾けましょう。 コリント人への手紙第I、14:37
主の命令であることを認めなさい。 ガラテヤ人への手紙1:8
強いことばです。また、 テサロニケ人への手紙第I、2:13
もう一ヶ所、 コリント人への手紙第II、13:3
主なる神が、ちょうど預言者たちの口を通して語られたように、使徒たちの口を通してお語りになるならば、当然のことながら人間には主なる神のみことばについて議論したり、その信用性を調べたり、人間の理解力や意思に合うかどうかを考えたりすることは許されません。 新約聖書の福音は、無条件の服従を要求します。「聞きなさい。」、「従いなさい。」ということは、したがって新約聖書が読者に対して無条件に立てる要求でもあります。 主なる神のことばに対する完全な肯定、すなわち人間の理解力、気持ち、意思をみことばに服従させることは、それゆえにキリスト者のあらゆる倫理道徳の土台です。 このようにして必然的な一つの結論に辿り着きました。私たちは旧約聖書においてと同じように、新約聖書においても全く同じ証しを見いだすことができます。 主なる神は、特にそのために召された人々の口を通してお語りになられました。主なる神のみことばを宣べ伝えた人たちは、旧約聖書においても預言者と呼ばれ、新約聖書においては使徒と呼ばれます。 使徒たちの与えられた啓示は、預言者たちによって受け取られた啓示よりもはるかに広く、且つ、深いもので、それですから新約聖書の中で両者を挙げるときにはまず、使徒たち、それから預言者たちというふうに、使徒たちが優先されており、次のようにして教会は建てられたことが私たちに証しされています。 エペソ人への手紙2:20
まず使徒と呼ばれ、あとで預言者となっています。したがって旧約聖書と新約聖書の喜びの訪れは統一されています。 聖書は教会の唯一の土台です。聖書が不動の土台であり、信者たちの教えと生活に対する唯一の権威です。 主なる神のお語りになったみことばは、使徒と預言者が受け取ったことばとして変わることがありません。すなわち、送り手のことばと、受け手のことばは等しいということがここでも立証されます。 今まで大きく分けて、第一番目。主なる神が聖書の発起人、起草者、すなわち著者そのものであること。 第二番目。主のみことばが人間、すなわち使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見て来ました。 今度は第三番目になりますけれど、使徒と預言者たちに与えられ、受け取ったものをさらに伝えていく宣べ伝え、書き伝えたことを見てみたいと思います。 結局、主の語ったことばは、われわれの聖書そのものであるということです。イエス様を第一にする人は、みことばも大切にします。 |