引用聖句:ヨハネの福音書5章39節
申命記32:47
詩篇119:72
詩篇119:97
詩篇119:140
今読んでもらった個所は、主イエス様、それからモーセ、またダビデの信仰の告白ではないでしょうか。 彼らはみな、みことばの大切さを知っていたのです。ですから最近、神のみことばである聖書の大切さについて学びましたが、今日続けたいと思います。 みことばを読む場合本当の目標は、イエス様を体験的に知り、イエス様に出会い、そしてイエス様を受け入れること、またイエス様をよりよく知ることであるべきです。 単なる頭の知識として貯えたとしても、あんまり意味の無いことではないでしょうか。理解力をもって聖書を理解しようと思えば上手くいきません。 主イエス様の時代の聖書学者たちは、残念ですけれどその読み方を知っていました。ですからイエス様は厳しく彼らに言われたのです。今読んでもらいました、ヨハネの福音書5章39節です。 ヨハネの福音書5:39
これは結構です。そのとおりです。 ヨハネの福音書5:39
これは、当時の聖書学者たちは受け入れようとしなかったのです。けれどもそうなのです。 聖書の中心とはひとつの教えではない。イエス様です。聖書が、わたしについて証言している、 ヨハネの福音書5:40
これは悲劇的です。 聖書は単なる教理が問題ではありません。イエス様ご自身が問題です。なぜならばイエス様は、「聖書が、わたしについて証言している。」と言われたがゆえに、考えられないほど大切です。 「わたしのことばは永遠に残る。」とイエス様は約束してくださいました。聖書を読むことと、いのちを得ることとは、決して二つのものではない。 みことばを自分のものにすると、やっぱり生かされます。元気になります。これこそがモーセの経験したことではないでしょうか。モーセは、今読みました個所の中で、 申命記32:47
全聖書は主なる神の息が吹き込まれることによって書かれたものです。主の感動により、主の息吹により、霊感によって書かれた書物です。ですから、聖書は主の教えよりも主の啓示と言わなければいけません。 主はみことばをもってご自身をお現わしになります。主のことばはわれわれにとっていのちのパンとならなければなりません。 なぜなら聖書は、教理や真理の原則を語っているよりも、いのちのパンそのものであるからです。 イエス様ご自身、私たちがそれによって生きる自分のいのちのパンとなりたく思っておられるのです。 私たちはイエス様によって、みことばによって生きているのでしょうか。みことばとは、われわれにとって本当に大切なのでしょうか。われわれの心の食べ物をどこで見つけるのでしょうか。聖書の中だけです。 聖書はイエス様を啓示します。そしてイエス様こそがわれわれの渇けるたましいにとっていのちの糧です。ですからダビデは、 詩篇119:72
詩篇119:97
詩篇119:140
みことばを愛する人々が捜し求められているのではないでしょうか。 聖書は本当に、われわれの唯一の土台であるべきです。聖書が不動の土台であり、信ずる者の教えと生活に対する唯一の権威であるべきです。 主なる神のお語りになったみことばは、使徒たちと預言者たちが受け取ったことばとして、変わることがありません。すなわち、送り手のことばと受け手のことばは等しいということが聖書の言っていることです。 今まで、私たちは大きく分けて次のようなことを言いました。 第一番目。主なる神が聖書の発起人、著者である。 第二番目。主のみことばが人間、すなわち使徒たちと預言者たちに与えられ、吹き込まれたことを見てきました。今日から、第三番目の点についてちょっと考えたいとおもいます。 すなわち、使徒と預言者たちが与えられ、受けたものをさらに伝えて行き、宣べ伝え、書き伝えたことについてです。 別のことばで表現すると、第一番目、語られたみことば。第二番目、受け取られたみことば。第三番目、書かれたみことばについてちょっと考えたいと思います。 人間は主から受け取ったみことばを書き記したということです。主はときどき召された人たちにお語りになり、受け取ったことがらをさらに宣べ伝えることを禁止しました。「公にはしてはいけない。」、「書いてはいけない。」 そういう場合私たちは、主が語られたことだけはわかるけれど、主が何を語られたかがわからない。例えば主はダニエルに次のように言ったことがあります。 ダニエル書8:26
結局、「公にしてはいけない。」、「書いてはいけない。」ということです。 聖書の一番最後のヨハネの黙示録の10章の4節を見ても同じようなことが書かれています。 ヨハネの黙示録10:4
もう一ヶ所、似ている個所ですけれども、コリント人への手紙第IIの12章。パウロは自分の色々な経験について書き記したところなのですけれども、 コリント人への手紙第II、12:4
けれども主のみことばすべてが、ただ受け取られるだけで語られ、また書かれることがなかったならば、私たちは主について何にも知らず、聖書も持たなかったことでしょう。 使徒たちと預言者たちはみことばを、聖霊を通して受け取っただけではなく、さらに聖霊を通してみことばを宣べ伝え、書き記したのです。 みことばの霊感は、初めから終わりまで主のみわざです。主のみことばの伝播は、したがって神のみこころの表われであり、主のみことばを与えること、また受け取ることと同じように主のみこころです。 聖霊の働きを通して受け取られたみことばは変わることなく、語られたり、書かれたりしたみことばになります。 受け取られたみことばが主によるものであるなら、宣べ伝えられたみことばも主によるものです。そのことについて聖書は私たちに何と言っているのでしょうか。 神のみことばが人間に理解できるものとなるべきであるならば、主は人間の言葉の形でお語りにならなければならない。 私たちは小さな子どもに、私たちの言うことを分からせようと思うならば、子どもの話し方で語らなければならない。 けれど私たちが語ることは、私たちの言葉であり、それがただ子どもの話の形になっているというだけです。 私たちの話していることがらは、私たちの言葉であるに違いない。 霊感の奇蹟のひとつは、語られた神のみことばが語られたり、書かれたりした人間の言葉に変わることです。 変圧器は高電圧から低電圧に電流を変えます。神のみことばは使徒たちと預言者たちを通して人間の言葉に変えられました。 神のみことばである聖書は内容的には完全な神のみことばであり、形式的には完全な人間の言葉です。 二つの点について、もう少し詳しく考えたいと思います。 第一番目。人間となった神のみことばとしてのイエス様。 第二番目。文字となった神のみことばとしての聖書。 神はイエス様を通して私たち人間にご自身を啓示なさりたいと思われたとき、次のようになさいました。 ピリピ人への手紙2:7
主イエス様というまことの人間の形を通してのみ、私たちは主なる神を具体的に把握し、知ることができたのです。 みことばそのものである主なる神は、隠されたままでいることはなく、人間となり、「私たちは神の栄光を見た。」とイエス様の弟子たちは言わざるを得なかったのです。 すなわち、私たちは主の不完全さを見たのではなく、むしろ、私たちは恵みとまことに満ちておられたひとり子としての栄光を見たと弟子たちは言ったのです。よく知られているヨハネの福音書1章14節。 ヨハネの福音書1:14
これはイエス様の弟子たちの証しです。ですからイエス様は聖霊により、処女マリヤから生まれなければならなかったのです。 イエス様のご降誕については次のように記されています。 ルカの福音書1:35
主イエス様は人間となった神のみことばです。 イエス様は本質上、完全な神の御子であり、形式上は、この地上におられる間、完全な人の子なのです。 ピリピ人への手紙の中で、このすばらしい事実について次のように書かれています。 ピリピ人への手紙2:2-7
聖書は、「ことばが人となった。」という事実を私たちに告げ知らせていますが、この大変な転換がどういうふうにしてなされたのかについては説明していません。 今読みましたヨハネの福音書1章14節。「ことばは人となった。」、ルカの福音書1章35節。「聖霊と処女マリヤを通して生まれた。」、云々とあります。 聖霊は主なる創造的な力であり、マリヤという人間は受け取り人となり、生むために用いられた器となったのです。この展開はどのようにして行なわれたのかという、われわれのあらゆる問いに対して聖書はただ、「聖霊によって」という答えを与えておられます。 人の子主イエス様はしもべの形をおとりになりましたが、まったく完全であり、すなわち私たち人間でありながら、罪を知らないお方でした。 「主イエス様のうちには、神のご性質が満ち満ちている。」と、パウロはコロサイ人への手紙2章9節に書き記したのです。 コロサイ人への手紙2:9
けれど私たちがイエス様のうちに父なる神を見ることができるために、イエス様は人の形をとってくださったのです。 二番目。文字となった神のみことばとしての聖書について、もう少し考えたいと思います。 聖書は文字となった神のみことばであり、聖霊の働きによって出来上がりました。主なる神のみことばは使徒たちと預言者たちを通して語られ、また、書かれた人間の言葉になりました。 聖書はしもべの形をとられた、すなわち人間の言葉の形をとられた神のみことばです。聖書は人の子である主イエス様と同じように完全で、誤りがありません。聖書は内容的にも形式的にも完全です。 私たちが神の御子から人になったみことばへの転換の奇蹟を問うとき、聖書は、「聖霊によって」というただ一つの説明として私たちにお語りくださいます。 ちょうどそれと同じ答えを聖書がわれわれに与えてくださるのは、私たちが文字となった神のみことばの奇蹟を問うときです。すなわちそれは聖霊によるのです。 多くの人々は何とかして、この転換の奇蹟を説明したいと思い、あらゆる可能な、機械的な説明の試みをしてきました。 例えば、ちょうど先生が読み上げる文章、一字一字、生徒が書き写すのと同じように、聖霊がみことばを伝え、使徒たちと預言者たちがそれを一言、一言書き写したことではないかという解釈や学説もありますけれど、決してそうではありません。 創造主なる神は人間をロボットのようにお造りになったのではない。自由意思を持った人格としてお造りになったからです。けれどいくら考えても人間には説明がつかないので、聖書は単純に事実だけを述べて、聖霊によって、という表現を使っておられるのです。 主なる神の霊による霊感とは、まず主の語られたこと。それから、人間を通して受け取られたことだけではなく、みことばの伝播もそうなのです。したがって、みことばの伝播もまた、神のみこころと導きによるものです。 主なる神はご自身の啓示、すなわち、みことばを全人類に伝えるために、書物という手段を選びました。 文字による継承、すなわち受け継がれることは、口によるものよりも確かであり、口から口へと受け継がれることにのように広がることのできる領域に空間的に制限されず、そしてまた時間的にも制限されず、いつの時代にも通用します。 主なる神が、歴史上、アブラハムを通して救いのご計画を実行し始めたとき、文字はすでに発明されていました。 モーセはエジプトのあらゆる知恵の中で教育されました。だからその中には当然、文字も含まれていました。使徒の働きの7章22節にモーセについて次のようにステパノによって証しされています。 使徒の働き7:22
とあります。 「主なる神ご自身がお書きになった。」と聖書は言っています。出エジプト記の31章18節。そこを見ると次のように書かれています。主ご自身が書いたことについてです。 出エジプト記31:18
「神の指で書かれた。」とあります。 出エジプト記32:16
とあります。 モーセは主のことばを書き記すように命令されたのです。出エジプト記の17章の14節を見ると次のように書かれています。 出エジプト記17:14
出エジプト記24:4
とあります。 出エジプト記34:27
とあります。また民数記33章2節に、 民数記33:2
とあります。 申命記28:58-59
云々とあります。主は書いたのであり、モーセも書きました。 サムエルも書いたのです。 サムエル記第I、10:25
とあります。 もちろんエレミヤもみことばを書くように要求されています。 エレミヤ書36:2
エレミヤ書36:6
エレミヤ書36:17-18
エレミヤ書36:23
エレミヤ書36:28
エレミヤ書51:60
云々とあります。 もちろんエレミヤだけではなく、ダニエルも書くように命令されたのです。ダニエル書7章1節ですけれども、1節だけ読みます。 ダニエル書7:1
とあります。 音楽家がある時は竪琴、ある時はオルガン、ある時はバイオリン、ある時はラッパによって自分の中にあるものを表わそうと試みるように、主なる神は語りたいと思うとき、全能の力を持って、ある時は王、ある時は羊飼い、ある時は祭司、ある時は医者、ある時は神学者、ある時は漁師、ある時は取税人を選び、言い表わしたいことを表現いたしました。 主なる神の御霊は、選ばれたひとりひとりの個性を用いて書かせました。 主なる神の霊は人間に臨み、支配し、お用いになります。私たちは聖書を書いた人たちの言うことを聞くことができ、彼らの人間的な個性を見ることができます。 彼らはみことばをそれぞれの個性に応じて宣べ伝えました。それは確かに人間の形によるものでありますが、完全なみことばです。私たちは色々な書物の作者の個性によって、聖書の中に言い表わすことのできないほどの豊かさを見いだすことができます。 旧約聖書においてモーセは、教養の高い指導者であり、生まれながら民の指導者であり、レビの家系をもつ情熱的な男でしたが、主の恵みによって最も柔和な人間になったのです。 イザヤは王の家系をもつ預言者であり、すでに千年王国の約束された平和の国を見た者でした。そして支配者を洞察力をもって自分の時代を見とおしました。 エレミヤは感受性の強い詩人の性質をもち、イザヤのための苦しみと悩みを深く同情し、共に耐え忍び、イスラエルの民に対してする神の悲しみを理解することができました。 アモスは羊飼いであり、羊飼いの経験する事がらを通して、主のみことばを宣べ伝えたのです。 ダニエルは賢い政治家であり、バビロン帝国の大臣であり、将来の世界史を主によって見させることができました。 エゼキエルは祭司であり、宮の中の状態と将来の宮に対する目を開かれました。 そして新約聖書においてマタイは取税人であり、天の御国に対する幻をもつことができました。 ルカは医者であり、罪人の救い主を見、この方の癒す能力を確認しました。 ヨハネは神秘主義者であり、神の御子の本質ならびに主との交わりの本質を見ました。 ペテロは行ないの人であり、彼の色々な思い出はマルコの福音書に再現されており、彼の手紙の中では、主の将来が描かれています。 パウロは考える人であり、聖書の真理をもっとも簡潔に言い表わす人となりました。 ヤコブは実践的な信仰の代表者です。 これらの使徒たちはみな、聖霊のご支配を受け、啓示を受け、駆り立てられました。彼らは覚めた状態で神のみことばを受け取り、開かれたたましいと明晰な理解力をもって覚めた状態でみことばを聞き、記しました。 彼らは主のみことばを宣べ伝える器にすぎなかったのです。けれど大切なことは、聖書が常に主のみことばであること、しかも完全で、間違いのない人間の言葉の形をとっているということです。 神のみことばでありながら、人間の言葉、そしてまた人間の言葉でありながら、神のことばです。いったいそんなことが、どうしてありうるのでしょうか。聖書は神の奇蹟を私たちに説明してくれませんが、証しをしてくれます。 主イエス様の処女降誕はどうして可能なのでしょうか。人間は年老いてからどうして生まれ変わることができるのでしょうか。このようなわれわれの問い、すなわち、どうして?という問いに対して聖書はいつも、聖霊によって、という答えだけを与えています。 みことばの霊感はどうして可能なのでしょうか。ペテロは説明したのです。証ししたのです。 ペテロの手紙第II、1:21
とあります。 人間の口をお造りになった方が、この口を自分の思うとおりに使うことができないのでしょうか。 出エジプト記4:11-12
私たちが召されたのは、主の奇蹟を説明するためではなく、福音を宣べ伝えるためです。 聖書のことばはどれもみな主のことばです。聖書の中に書かれているひとつひとつのことばは、本当に神のみことばなのでしょうか。それとも一部分は神のことばで、ほかの部分は人間の言葉というふうに、混ざり合っているのでしょうか。 残念ながら今日の大部分の神学校で教えられていることがらが、そういうものなのです。すなわちちょうど混合物の中に含まれている木のように、神のみことばも人間の言葉の混合物の中に含まれているという考え方です。 けれども、もしもそうだとするならば、どれが神のことばで、どれが人間の言葉であるかを判断するのはいったいだれなのでしょうか、という疑問がもちろん起こってきます。 両者を区別する権威はどこにあるのでしょうか。神のみことばと人間の言葉を正確に区別することは、もっとも大切なことになるでしょう。 少しでも間違って判断するならば、それは悲劇的なことになるでしょう。すなわち神が語られたことを人間が語ったと言ったり、その逆に、人間の言葉を神のことばだと言ったりすることは、まことに悲劇的と言わざるを得ません。 間違った判断によって人間が永遠の滅びに行くこともあることを考えると、それはとんでもないことであると言わざるを得ません。 ひとことで言いますと、被造物であるちっぽけな人間は、これほど重大なことを判断する能力を持っていないということです。 確かに聖書の中には神のことばが含まれている、と多くの人は言いますが、そのようなことは確固たる土台とはなり得ません。そういう人々は結局、はっきりとした確信を持てなくなってしまいます。 そういう人々は、聖書は信じているかもしれないけれど、みことばの何たるかを知らないのです。これこそ現代人の絶望のもとではないでしょうか。 またこれは、多くのいわゆる牧師たちの問題でもあります。彼らはどれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを区別できないために、人を導くことができません。 医者が患者に薬を間違えて死なせるよりも、はるかに恐ろしい悲劇は、神のみことばと人間の言葉を間違いで判断し、教えることではないでしょうか。 多くの教会で牧師は確かに福音を語り、ただ主イエス様によってのみ救いが成就されるといわれるのですけれど、聖書のことばがまことに神のことばであり、信頼するに足るものであることを伝えることができなければ、語られた福音も十分な効力を発揮することができません。 聖書全体を神のみことばとして受け取る者だけが、確信と安らぎと支えを持つことができるのです。 人は、聖書を全部神のみことばとして持つか、さもなければ全然持たないかのどちらかではないでしょうか。 すなわち、人は聖書を神のみことばとして完全に認識し、信仰と人生の土台を見いだすか、さもなければ聖書の要求を現代人にはとても信じられないこととして退け、聖書全体を失うかのどちらかです。 わかりやすい一例を挙げてこのことを説明してみると、列車は橋を渡ればすぐ、目的地に辿り着くことがわかっているとします。 もしもその橋が頑丈な橋であれば、乗客はみな安心して乗りますが、その橋が危ない所もあるということがわかれば、だれもその列車に乗って、その橋を渡ろうとはしないでしょう。 聖書の場合も同じようなことが言えるのではないでしょうか。つまり、聖書のある部分は確かで、別の部分は不確かであるとするならば、結果的には聖書全体が不確かなものになります。 イエス様は、「あなたのみことばは真理です。」と喜んで祈りました。 私たちも、何があってもこの態度を取ると、絶対に後悔しません。 聖書とは元気の素です。 |