引用聖句:マタイの福音書4章1節-10節
コロサイ人への手紙2:3、9
今まで私たちは、二つの点についていっしょに考えました。第一番目。語られたみことばについてでした。第二番目。受け取られたみことばについて。そして最近、書かれたみことばについて考えるようになりました。 すなわち人間は主から受け取ったみことばを書き記したのです。結局、聖書に出てくる使徒たちと預言者たちとは、みことばを聞いた人々だけではなかったのです。運ぶ者となり、書く者となったのです。 使徒たちと預言者たちは、みことばを聖霊を通して受け取っただけではなく、さらに聖霊を通してみことばを宣べ伝えました。そして、あとで書くようになったのです。 みことばの霊感は初めから終わりまで主のみわざそのものです。主のみことばの伝播は、したがって主のみこころの表われであり、主のみことばを与えること、また受け取ることと同じように主のみこころです。 聖霊の働きを通して受け取られたみことばは変わることなく、語られたり、書かれたりしたみことばであります。受け取られたみことばは主のものであるなら、宣べ伝えられたみことばも主によるものです。 霊感の奇蹟のひとつは、語られた神のみことばが語られたり、書かれたりした人間のことばに変わることです。神のみことばである聖書は、内容的には完全に神のみことばであり、形式的には完全な人間のことばです。 今まで私たちは、人間となった神のみことばとしてのイエス様について考えたことがあります。 イエス様はたくさんの名前を持っています。ひとつの名前は、「神のみことば」です。イエス様は、「神のみことば」という名前を持つお方です。 ヨハネの福音書1:14
このヨハネの福音書1章に出てくることばとは、決して神のことばでもないし、人間のことばでもないし、イエス様ご自身です。 イエス様は人間となった神のみことばです。イエス様は本質上、完全な神の御子であり、形式上はこの地上におられる間、完全な人の子だったのであります。 聖書は、ことばが人となったという事実を私たちに告げ知らせていますが、この大変な転換がどういうふうにしてなされたのかについては説明していません。 ことばは人となった。聖霊と処女マリヤを通して生まれたと書いてあります。聖霊は主なる神の創造的な力であり、マリヤという人間は受け取り人となり、生むために用いられた器となったのです。 それから、この間、文字となった神のみことばとしての性質についても考えました。 聖書は文字となった神のみことばであり、聖霊の働きによって出来上がりました。聖書は人の子である主イエス様と同じように完全で、誤りがありません。聖書は内容的にも形式的にも完全です。主のみことばであるからです。 この語られたことば、受け取られたみことばは、結局書かれるようになったのです。主ご自身が書いたと聖書も言っています。この間も読みました個所なのですけれども、 出エジプト記31:18
と、出エジプト記31章18節に書かれています。神ご自身がお書きになったとあります。 モーセも主のみことばを書き記したと聖書は言っていますし、サムエルも書きましたし、エレミヤも書いたのでありますし、ダニエルも書いたのです。 人間となった神のみことばとしてのイエス様、また文字となった神のみことばとしての聖書について考えたのですけれども、今日、また別の点からちょっと見てみたいと思います。 すなわち、旧約聖書についてのイエス様の証しとはいったいどういうものなのでしょうか。イエス様は旧約聖書について何を考えたのでしょうか。 ヨハネの福音書の中でイエス様は祈ったことがあります。 ヨハネの福音書17:17
旧約聖書はイエス様にとって神のみことばそのもの、真理そのものでした。 イエス様は旧約聖書を信ずることができたならば、私たちはピンと来なくても安心して信ずることができるのではないでしょうか。 聖書のことばはどれもみな本当に神のことばなのでしょうか。私たちはまたこの問いに答えるために、ただ一つの道をもっています。すなわち、私たちは聖書自身に尋ねなければならないのではないでしょうか。 聖書が、聖書に含まれているひとつひとつのみことばが本当に神のことばであることを要求しているのでしょうか。 そしてまた、聖書のひとつひとつの文字が主の権威をもち、それゆえに永遠に続くものであるということを要求しているのでしょうか。私たちはこのことについて、イエス様ご自身よりも偉大な人に尋ねることができません。今、兄弟も読みました個所、イエス様こそ最高の権威です。 コロサイ人への手紙2:9
コロサイ人への手紙2:3
と、パウロはコロサイにいる人々に書いたのです。 イエス様は主なる神の権威をもって旧約聖書全体を「神のみことば」と言っておられます。主のみことばはだれひとり改善したり、補ったり、変更したりすることのできない最高のみことばです。 イエス様は旧約聖書を100%信じておられました。そして旧約聖書のひとつひとつのみことばは、イエス様にとって手をつけてはならない神聖な神のみことばでした。 イエス様を信ずることは旧約聖書に対して同じような信頼を置くことを意味します。 イエス様はひとつひとつのみことばが聖書に書いてあることを何でも保証くださり、旧約聖書全体が真理そのものであることを、はっきりと仰いました。 ですから私たちは聖書のことばが、どれもみな神のことばであることをほかの方法で証明する必要はありません。 真理そのものである主イエス様が聖書の霊感を100%信じておられるから、私たちもまた聖書の霊感を信ずることができるのです。 世の光であるイエス様は、色々な疑いの神をすべて追い払わなければなりません。主のみことばは、あらゆる人間のことばや理解力に勝るものです。 聖書の霊感に対する決定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度でした。聖書はイエス様にとって力の源でした。 イエス様が旧約のみことばを引用するとき、その確信は巌のように堅固なものでした。主のみことばは真理そのものであると信じて疑わなかったのです。 あなたのみことばは真理そのものである。イエス様が聖霊により荒野に導かれたとき、悪魔という恐ろしい敵に立ち向かうただ一つの武器はみことばの力でした。 今、兄弟が読まれましたようにマタイの福音書4章はそのことをはっきり言っているのです。結局、イエス様の武器とはみことばだけでした。 マタイの福音書4:4
大切なのは何を書いているかということ。もちろん悪魔も聖書の個所を引用して言ったのです。本当に強い。 結局、聖書を通して何でも証明しようと思えばできる。自分勝手に解釈する。悪魔はここまで来ると、みんな驚くと思う。すごい、聖書学者なのではないかと思われるかもしれない。もう悪魔は聖書のこと、徹底的に知っている。 本当は疑おうと思ってもできません。みことばは信仰そのものです。けれどもイエス様の武器とは結局みことばでした。 マタイの福音書4:6
これは悪魔が聖書を引用しています。けれどもイエス様は言われた。 マタイの福音書4:7
マタイの福音書4:10
何が書いているか。絶えずこの態度を取ると、多くの問題は解決されるのではないかと思います。 人間の思っていること、考えていることはあんまり大切にしないようにしましょう。聖書は何と言っているか。 もしも主イエス様がみことばに対してほんの少しの疑いでももっていたならば、すべては崩れ去り、敗北者となっていたことでしょう。みことばこそイエス様が勝利を収めることのできた武器でした。みことばに頼らない者は悪魔の餌食になってしまうのです。 イエス様は旧約聖書の歴史的な出来事をも100%信じたのです。ちょっとマタイの福音書の22章を見てみましょうか。 マタイの福音書22:31-32
マタイの福音書22:29
あなたがたは読まなかったのですか。これはパリサイ人に対する驚いたイエス様の問いでした。 そしてまたイエス様は、創造の報告の完全な霊感をも信じておられたのです。 マタイの福音書19:4-5
そしてまたイエス様はノアの洪水の報告をも信じておられ、ノアの歴史的な人格をも信じておられたのです。 そしてイエス様は創世記がイエス様のことに通じて報告していることをも文字通り信頼しておられたのです。ルカの福音書の17章を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書17:26-27
それゆえ主イエス様は、モーセが本当にご自分について書き記したことを私たちに証明しておられます。 ヨハネの福音書の5章なのです。 ヨハネの福音書5:46-47
モーセを信じない者は、イエス様を偽り者にします。 またイエス様は詩篇の個所を引用して、ダビデがご自身について書き記していることを私たちに証ししておられます。例えばそのマタイの福音書の22章を見てもわかります。 マタイの福音書22:43-44
またイエス様は預言者ヨナについて書かれていることを文字通り信じたのです。 マタイの福音書12:40
ヨナが三日間大魚の腹の中にいたのと、まったく同じように、確実にイエス様は三日間、墓の中におられました。もしも人がどちらか一方を疑うならば、もうひとつのほうも疑わしいものにならざるを得ません。 イエス様は十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばがどれもみな神のみことばであることをはっきりと証しなさいました。 主は詩篇のひとつひとつのことばをお取りになり、それがご自身の死の瞬間に成就されたことをご存知でした。例えば、 ヨハネの福音書19:28
のどが渇いたからではない。みことばが成就するためにだけ、イエス様は「わたしは渇く。」と言われた。 よみがえりの後、すなわちイエス様がもはやしもべの形ではなく、再び神の全き栄光をお持ちになられたとき、旧約聖書のみことばはイエス様にとって再び、主の宣べ伝えた土台と内容になりました。 旧約聖書全体を完全に洞察なさった主イエス様はよみがえられたとき、エマオの途上で弟子たちに出会ってくださり、ご自分を確信しておられることをお伝えになりました。よく知られている個所です。ルカの福音書24章27節を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書24:27
もちろん旧約聖書しか書いてなかったのですけれど、旧約聖書全体 ルカの福音書24:27
とあります。 主イエス様が弟子たちに旧約聖書を説き明かされたとき、弟子たちの心は燃えたと記されていますが、これは何というすばらしいことだったでしょう。 イエス様は復活のあと弟子たちに出会われたとき、彼らのためにただ一つの福音だけをお伝えになられました。すなわち、すべてのことは成就されなければならないということでした。このルカの福音書24章の44節から見ると、次のように書かれています。 ルカの福音書24:44-47
とあります。イエス様は弟子たちにこれらの信仰の比類なき土台、すなわち、モーセ、預言者、詩篇をお残しになりました。 イエス様は旧約聖書の完全な霊感を信じておられたのでしょうか。 イエス様が旧約聖書の一語一語、また、一字一字を本当に神のことばと見なしておられたことは疑いの余地がありません。それはイエス様にとって揺るがざる確信でした。 ヨハネの福音書10:35
とあります。それですから私たちは旧約聖書に対するイエス様の位置づけを主イエス様ご自身の証しによってまとめることができます。 山上の垂訓の中のことばです。 マタイの福音書5:18
これこそイエス様の確信であり、主のみことばに私たちは全き信頼を置くことができるのです。 マタイの福音書24:35
旧約聖書についての主イエス様の証しは何であったかを振り返ってみましょう。三つのこと言います。 第一番目。旧約聖書全体は主なる神の霊感によって書かれたものであるとイエス様は証ししておられます。 ヨハネの福音書10:35
マタイの福音書5:18
第二番目。イエス様はご自分こそ旧約聖書の預言の成就であると何回も、何回も言われたのです。みことばはイエス様にとって霊の糧でした。 旧約聖書はご自分の生活と死と復活について預言しているだけではなく、預言どおりになるということをイエス様はご存知であり、確信していました。イエス様は預言どおり、ナザレに住んでおられました。 マタイの福音書2:23
ナタナエルという男は言ったのです。私たちは約束されたメサイアに出会ったと聞いたとき、ナザレのイエスだよとナタナエルはすぐに言ったのです。 ナザレか。間違っている。約束された救い主はベツレヘムで生まれる者です。ナザレではない。けれどもこのナタナエルはもちろん疑問したのです。けれどもイエス様に出会った瞬間、いっぺんに心の目が開かれたのです。 どうしてイエス様がベツレヘムで生まれただけでナザレに住むようになったかと言いますと、旧約聖書に書かれているからです。成就されるためだけです。 主イエス様はみことばをもってサタンと戦ったのです。前に読んでもらいました個所。マタイの福音書4章1節から10節までを読むとわかる。 やっぱりみことばがあるから助かったとイエス様は思ったに違いない。 イエス様は、ご自分こそまことの救い主であることを証明するためにみことばを引用しました。例えば、マタイの福音書の11章の2節から5節までお読みいたします。 マタイの福音書11:2-5
これは、5節は全部、旧約聖書の預言のことばだったのです。 また、ルカの福音書の4章を見ても次のように書かれています。 ルカの福音書4:17-21
ご自分の苦しみについてイエス様は、みことばが成就されるためであることを確信しておられたのです。 マタイの福音書26:54
とあります。 十字架上でイエス様の言われたことばは、主は詩篇のことばで祈られたことを私たちに示しています。詩篇の22章。 多くの人々はこの箇所を見ると疑問を持つようになるのです。なかなか理解できないことばです。イエス様はわからなかったらしい。 質問したのではないかと考える人もいるのですけれど、それは笑い話です。永遠の昔、罪の色々な問題が存在していなかったときイエス様はもうすでに、わたしは人間の代わりに犠牲になる、代わりに死ぬと決心してくださいました。 詩篇22:1
詩篇22:16
イエス様は確かに十字架の上でこのことばを引用したのです。なぜならば、約束された救い主とは、 詩篇22:1
と叫ぶようになると預言されたからです。イエス様は全部知っておられました。 もしイエス様が十字架の上でこういうふうに叫ばなかったならば、イエス様は本物ではなかったと言わざるを得ない。 結局、一つ一つの預言は成就されなければ、いや、考えられない問題です。 詩篇31:5
私の霊を御手にゆだねると、イエス様も十字架の上で言われたのです。結局、みことばが成就されるためです。 イエス様にとって旧約聖書とは本当にすべてのすべてでした。みことばがあるからイエス様は祈ることができ、信頼することができ、全部父なる神にゆだねることができたのです。 |