引用聖句:ヨハネの福音書12章48節
ペテロの手紙第I、1:23
今日また、今までのテーマ、すなわち、聖書の大切さについて考えたいと思います。 みことばがなければ本当に人間はかわいそうすぎではないでしょうか。ですからみことばを探すこと、聞く耳を持つことこそが最も大切ではないでしょうか。エレミヤは、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。」、わかったからではない。理解できたからではない。いい気持ちになったのでもない。 「私は、みことばですから受け入れます。」、結果として、「あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなったのです。」 とんでもない過ちを犯したダビデ王は、ほかの人々よりもみことばを大切にしたのではないでしょうか。 一番長い詩篇は彼の告白であります。もう何回も何回も、あなたの教え、あなたの戒め、あなたのみことばということばが何回も何回も出てきます。結局ダビデにとってみことばとはすべてでした。 詩篇119:105
彼にとって経験した事実です。 詩篇119:162
みことばに頼るとだれでもがまた元気になります。 今、読んでもらいました個所も本当に厳しいことばです。 ヨハネの福音書12:48
さばくものとはわたしの話したことばです。 大した勉強をしていないペテロは、 ペテロの手紙第I、1:23
イエス様の弟子たち、使徒たちとはもうみことばこそすべてのすべてであると言い続けたのです。 今まで私たちは何回も強調したのは、旧約聖書と新約聖書の中で次のような要求をされています。主によって語られたみことばは、書かれたみことばに等しいということです。 私たちはこういう聖書の要求を聖書の完全な霊感と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが主なる神のみことばです。主によって語られたみことばは少しも変わることなく、人間によって書かれたみことばに等しいものであるということです。 聖書の中で何回も、「主は語った。」、「主は仰せられた。」と書いてあります。それだけではなく、父なる神だけではなく、イエス様も語った。「何回も主は言われた。」云々とあります。 それだけではなく、御霊が語られたことについてもいっぱい書かれています。 私たちはこの間、イエス様の旧約聖書に対する態度についていっしょに考えてまいりました。イエス様は旧約聖書を100%信じておられました。そして旧約聖書の一つ一つのみことばはイエス様にとって手を付けてはならない神聖な神のみことばでした。 イエス様を信ずることは、旧約聖書に対して同じような信頼を置くことを意味します。 イエス様は一つ一つのみことばが、聖書に書いてあることを何でも保証くださり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりと言われたのです。 ですから私たちは聖書のことばがどれもみな神のみことばであることをほかの方法で証明する必要はありません。 イエス様は、あなたのみことばは真理であると言われたから、だから私たちは安心して信ずることができるのです。 真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を100%信じておられたから、私たちもまた聖書の霊感を信ずることができるのです。 世の光であるイエス様は色々な疑いの神をすべて追い払わなければなりません。主のみことばは、あらゆる人間のことばや理解力に勝るものです。聖書の霊感に対する決定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度だったのではないでしょうか。 聖書はイエス様にとって力の源でした。 イエス様が旧約のみことばを引用するとき、その確信は岩のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであるとイエス様は信じて疑わなかったのです。 マタイの福音書の5章の中で、山上の垂訓なのですけれど、イエス様は言われました。 マタイの福音書5:18
これこそイエス様の確信であり、主のみことばに私たちは全き信頼を置くことができるのです。 旧約聖書全体は主なる神の霊感によって書かれたものであるとイエス様は証ししたのです。またイエス様はご自分こそ旧約聖書の預言の成就であることもはっきり証ししたのです。 イエス様は旧約聖書においてお語りになられたお方だったのです。イエス様は、イエス様ご自身は初めからあったことばそのものです。よく知られているヨハネの福音書1章1節です。 ヨハネの福音書1:1
このことばとは、もちろんイエス様ご自身です。 イエス様は旧約聖書こそが主なる神のことばそのものであると言われただけではなく、今日はちょっと使徒たちについて考えたいと思うのです。 旧約聖書についての使徒たちの考えとはいったいどういうものだったのでしょうか。使徒たちとは自分たちの主に忠実に従いました。 イエス様が高められたお方として使徒たちに遣わしてくださった聖霊は、使徒たちにすべてのことを教え、またすべてのことを思い起こさせました。 聖霊の導きのもとに使徒たちは聖書を学び、聖霊の権威において聖書を用いて引用しました。 私たちは聖霊が主イエス様とまったく同じように教えてくださることを見ることができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えた福音の真理は、同時にまたすべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。 一言で言いますと、イエス様とまったく同じように使徒たちもまた旧約聖書の霊感を信じ、また確信したのです。 ちょっと五人の証しを見てみましょうか。マタイ。二番目、ヨハネ。三番目、ペテロ。四番目はパウロ。そして五番目、ヘブル人への手紙の著者。だれであるかちょっとわからないのですけれども、たぶん五人でしょう。 まずマタイはご存知のように、旧約聖書を引用し、用いる名人そのものでした。かつて取税人だったマタイは、何とよく旧約聖書に精通し、そしてまた、何と適当なみことばをふさわしいときに引用し、用いることをしているのでしょうか。 マタイは再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばの一つ一つはいかにして主イエス様において成就されたかを私たちに証明しています。 マタイの福音書の中には、「書かれたことが成就されるために」、「書かれたことが成就されるために」、と何回も何回も書かれています。 ちょっと一章見てみましょうか。 マタイの福音書1:22-23
生まれたときから死に至るまで、そして復活に至るまで、イエス様のことをマタイは証明しています。 みことばが成就するために、これらのことは起こらなければならなかったのです。 ドイツの間違った神学によると、イザヤ書の作者は一人ではなく、二人、あるいは三人だったと言うのですが、マタイはそれをはっきりと否定することを語っており、イザヤ書42章についてもはっきりと証言する意味を持つことばを語っています。 すなわちイザヤ書の42章はイザヤではない別の人が書いたことになってしまいます。けれどマタイの書いたものによると、イザヤ42章はイザヤ自身が書いたことになります。 マタイの福音書12:17-18
マタイの福音書の中では、旧約聖書の27巻以上のものが、みことばが引用されています。しかしマタイだけではなく、ヨハネもまたマタイとまったく同じ態度を取ったことがわかります。 すなわちヨハネもまた旧約聖書全体が神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証ししています。 イエス様と同じように、ヨハネもまた聖書をよく調べなさいと言いました。ヨハネの福音書の5章39節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書5:39
そしてモーセによって書かれたものは、神の権威によって書かれたものであると言っています。 ヨハネの福音書5:46-47
ヨハネは証明するときに、議論などは一切しないで、聖書にそう書かれていますという一言で片付けています。 そしてヨハネは、主イエス様が聖書、すなわち旧約聖書を教えになったと私たちに語ってくれます。特にイエス様の受難の歴史においては、旧約聖書が成就したことをはっきりとヨハネは私たちに示しました。 ちょっと12章から読みます。 ヨハネの福音書12:14-15
ヨハネの福音書12:38-41
また、 ヨハネの福音書19:24
ヨハネの福音書19:28
喉が渇いたためよりも、聖書が成就するためにイエス様はこういうふうに言われた。 ヨハネの福音書19:36-37
とあります。 そしてまたヨハネは証しをして、そしてまとめて旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが全く対等、権威ある信仰の土台であると言っています。戻りまして、 ヨハネの福音書2:22
とあります。福音書を書いた人たちがみな旧約聖書に関するこういう証しにおいて一致します。そして旧約聖書の一つ一つのみことばは、彼らにとって重みのあるものであり、純金と見なされ、文字となります。 使徒の働きに書かれた使徒たちの福音は何と力強いものだったのでしょうか。このことは全世界に、短期間のうちにイエス様の福音として広まりました。 彼らの語った福音の力は、いかなるものだったのでしょうか。五旬節におけるペテロの説教は三千人のたましいを主イエス様に導いたのですけれど、このことを学んでみて分かることは、語られたみことばの半分以上は旧約聖書からの引用であったということです。 ちょっと使徒の働きから見てみましょうか。ペテロの奉仕の土台は間違いなく旧約聖書でした。 使徒の働き3:21
ペテロの書いた手紙を見ると、旧約聖書におけるみことばの絶対的な確実さが彼の語った一つ一つの土台になっていることがわかります。 ペテロの手紙第I、1:12
ペテロの手紙第I、1:16
ペテロの手紙第I、2:6
ペテロの手紙第I、3:10-12
ペテロの手紙第II、1:21
使徒たちの働いた実、すなわち効果を自分も持ちたいと思う者は、使徒たちの伝えた福音を宣べ伝えなければならない。 初代教会全体の証しもまた同様に、旧約聖書の完全な霊感を認めるものです。もう一回使徒の働きに戻りまして、24章の14節。 使徒の働き24:14
今度はちょっとだけパウロの引用した個所を見てみたいと思います。パウロは旧約聖書の文字通りの霊感を信じたのでしょうか。パウロは旧約聖書の精通した学者であり、旧約聖書の最も深い事情を洞察した人でもありました。 私たちは透徹した理性と徹底的な論理を持った人に、すなわちパウロに対して彼が旧約聖書からみことばを持って深く考えずに、福音を宣べ伝えたというようなことを言うことができるのでしょうか。決してそうではない。 パウロにとっては旧約聖書のどのみことばも、本当に神のことばでした。旧約聖書はパウロの福音の土台そのものでした。 使徒の働き24:14
使徒の働き28:23
とあります。パウロの福音の土台とは旧約聖書でした。 もしも旧約聖書の霊感を否定するならば、パウロの書いたローマ人への手紙はいっぺんに崩れてしまうのです。なぜならば、ローマ人への手紙の半分は旧約聖書からの引用だからです。 ローマ人への手紙1:2-3
もちろんパウロの時代では新約聖書はまだ存在していなかったのです。 ローマ人への手紙3:2
ローマ人への手紙3:9
ローマ人への手紙3:21
ローマ人への手紙4:3
短い、大切な文章です。私たちはどういう問題にぶつかっても、まず自分で考えないで、聖書は何と言っていますかと考えるべきではないでしょうか。 ローマ人への手紙4:3
ローマ人への手紙4:17
ローマ人への手紙9:13
ローマ人への手紙9:17
ローマ人への手紙10:11
次の11章2節から読みましょうか。 ローマ人への手紙11:2-26
云々とあります。同じく、 ローマ人への手紙14:11
ローマ人への手紙15:3
ローマ人への手紙15:9
ローマ人への手紙15:21
またパウロはほかの手紙においても同じように、旧約聖書のみことばをよく用いて書いたのです。 例えばコリント人への手紙第Iの1章。 コリント人への手紙第I、1:18-19
コリント人への手紙第I、2:9
もちろんここでいつも、旧約聖書と書くべきですけれど、まさしく、旧約聖書に書いてあるとおりです。 コリント人への手紙第I、2:9
コリント人への手紙第I、3:19-20
コリント人への手紙第I、14:21
コリント人への手紙第I、15:45
旧約聖書に コリント人への手紙第I、15:45
コリント人への手紙第I、15:54
コリント人への手紙第IIの中でもパウロは、よく聖書は何と言っているかと宣べ伝えたのです。 コリント人への手紙第II、6:2
コリント人への手紙第II、6:16-18
全部旧約聖書の引用された個所です。 コリント人への手紙第II、9:9
テモテへの手紙第Iの中でもパウロはよく、聖書はこう言っている云々と書いたのです。例えば、 テモテへの手紙第I、5:18
また、ガラテヤにいる兄弟姉妹にパウロは次のように書いたのです。 ガラテヤ人への手紙3:8
ガラテヤ人への手紙3:16
ガラテヤ人への手紙4:22
ガラテヤ人への手紙4:27
云々とあります。使徒たちはみな口を揃えて、大切なのは旧約聖書のみことばであるということです。 最後にヘブル人への手紙の著者の書いたものをちょっとだけ見て終わりたいと思います。ヘブル人への手紙は使徒たちが旧約聖書の完全な神の霊感を認めたことを証明するものです。 旧約聖書の一つ一つのみことばは、主なる神から与えられたものであり、永遠の意義を持ち、ヘブル人への手紙におけるみことばの土台となっています。ちょっと1章から読みましょうか。 ヘブル人への手紙1:5-8
ヘブル人への手紙1:13
ヘブル人への手紙2:8-9
その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 ヘブル人への手紙3:7-8
ヘブル人への手紙4:2-11
また、 ヘブル人への手紙6:13-14
ヘブル人への手紙7:1
ヘブル人への手紙7:17
云々とあります。また、同じく ヘブル人への手紙8:8-12
ヘブル人への手紙10:5
ヘブル人への手紙12:26
実際、主なる神は預言者たちを通してお語りになりました。私たちはしっかりとした預言のみことばを持っています。 ヘブル人への手紙は旧約聖書の一つ一つのみことばに対して、一つ一つ肯定している書として際立っています。聖書、すなわち、旧約聖書の完全な霊感を否定して、ヘブル人への手紙を信頼できる神のみことばとして確信することはできません。 それは論理的にも道徳的にも不可能なことです。万が一、そんなことが可能だとするならば、私たちは長い間、偽りとしてきたものを真理と呼ぶような、おかしなことをすることになるでしょう。 ヘブル人への手紙の著者は旧約聖書に基づいて、多くの事実を知っているのであり、その一つ一つのみことばは巌のように確かな土台となっているのです。 ヘブル人への手紙11章は旧約聖書の歴史的な出来事が主の霊感によるものであることを私たちに告げています。 旧約聖書と新約聖書の統一的な証しは、主がお語りになったということです。 |