2006年5月9日の学び


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/05/09)

引用聖句:ヨハネの福音書12章48節
48わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

ペテロの手紙第I、1:23
23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

今日また、今までのテーマ、すなわち、聖書の大切さについて考えたいと思います。
みことばがなければ本当に人間はかわいそうすぎではないでしょうか。ですからみことばを探すこと、聞く耳を持つことこそが最も大切ではないでしょうか。エレミヤは、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。」、わかったからではない。理解できたからではない。いい気持ちになったのでもない。
「私は、みことばですから受け入れます。」、結果として、「あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなったのです。」

とんでもない過ちを犯したダビデ王は、ほかの人々よりもみことばを大切にしたのではないでしょうか。
一番長い詩篇は彼の告白であります。もう何回も何回も、あなたの教え、あなたの戒め、あなたのみことばということばが何回も何回も出てきます。結局ダビデにとってみことばとはすべてでした。

詩篇119:105
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

彼にとって経験した事実です。

詩篇119:162
162私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

みことばに頼るとだれでもがまた元気になります。
今、読んでもらいました個所も本当に厳しいことばです。

ヨハネの福音書12:48
48わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。

さばくものとはわたしの話したことばです。
大した勉強をしていないペテロは、

ペテロの手紙第I、1:23
23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

イエス様の弟子たち、使徒たちとはもうみことばこそすべてのすべてであると言い続けたのです。
今まで私たちは何回も強調したのは、旧約聖書と新約聖書の中で次のような要求をされています。主によって語られたみことばは、書かれたみことばに等しいということです。
私たちはこういう聖書の要求を聖書の完全な霊感と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが主なる神のみことばです。主によって語られたみことばは少しも変わることなく、人間によって書かれたみことばに等しいものであるということです。

聖書の中で何回も、「主は語った。」、「主は仰せられた。」と書いてあります。それだけではなく、父なる神だけではなく、イエス様も語った。「何回も主は言われた。」云々とあります。
それだけではなく、御霊が語られたことについてもいっぱい書かれています。
私たちはこの間、イエス様の旧約聖書に対する態度についていっしょに考えてまいりました。イエス様は旧約聖書を100%信じておられました。そして旧約聖書の一つ一つのみことばはイエス様にとって手を付けてはならない神聖な神のみことばでした。

イエス様を信ずることは、旧約聖書に対して同じような信頼を置くことを意味します。
イエス様は一つ一つのみことばが、聖書に書いてあることを何でも保証くださり、旧約聖書全体が真理そのものであることをはっきりと言われたのです。
ですから私たちは聖書のことばがどれもみな神のみことばであることをほかの方法で証明する必要はありません。

イエス様は、あなたのみことばは真理であると言われたから、だから私たちは安心して信ずることができるのです。
真理そのものであるイエス様が聖書の霊感を100%信じておられたから、私たちもまた聖書の霊感を信ずることができるのです。
世の光であるイエス様は色々な疑いの神をすべて追い払わなければなりません。主のみことばは、あらゆる人間のことばや理解力に勝るものです。聖書の霊感に対する決定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度だったのではないでしょうか。

聖書はイエス様にとって力の源でした。
イエス様が旧約のみことばを引用するとき、その確信は岩のように堅固なものでした。神のみことばは真理そのものであるとイエス様は信じて疑わなかったのです。
マタイの福音書の5章の中で、山上の垂訓なのですけれど、イエス様は言われました。

マタイの福音書5:18
18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

これこそイエス様の確信であり、主のみことばに私たちは全き信頼を置くことができるのです。
旧約聖書全体は主なる神の霊感によって書かれたものであるとイエス様は証ししたのです。またイエス様はご自分こそ旧約聖書の預言の成就であることもはっきり証ししたのです。
イエス様は旧約聖書においてお語りになられたお方だったのです。イエス様は、イエス様ご自身は初めからあったことばそのものです。よく知られているヨハネの福音書1章1節です。

ヨハネの福音書1:1
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

このことばとは、もちろんイエス様ご自身です。
イエス様は旧約聖書こそが主なる神のことばそのものであると言われただけではなく、今日はちょっと使徒たちについて考えたいと思うのです。
旧約聖書についての使徒たちの考えとはいったいどういうものだったのでしょうか。使徒たちとは自分たちの主に忠実に従いました。

イエス様が高められたお方として使徒たちに遣わしてくださった聖霊は、使徒たちにすべてのことを教え、またすべてのことを思い起こさせました。
聖霊の導きのもとに使徒たちは聖書を学び、聖霊の権威において聖書を用いて引用しました。
私たちは聖霊が主イエス様とまったく同じように教えてくださることを見ることができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えた福音の真理は、同時にまたすべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。

一言で言いますと、イエス様とまったく同じように使徒たちもまた旧約聖書の霊感を信じ、また確信したのです。
ちょっと五人の証しを見てみましょうか。マタイ。二番目、ヨハネ。三番目、ペテロ。四番目はパウロ。そして五番目、ヘブル人への手紙の著者。だれであるかちょっとわからないのですけれども、たぶん五人でしょう。
まずマタイはご存知のように、旧約聖書を引用し、用いる名人そのものでした。かつて取税人だったマタイは、何とよく旧約聖書に精通し、そしてまた、何と適当なみことばをふさわしいときに引用し、用いることをしているのでしょうか。

マタイは再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばの一つ一つはいかにして主イエス様において成就されたかを私たちに証明しています。
マタイの福音書の中には、「書かれたことが成就されるために」、「書かれたことが成就されるために」、と何回も何回も書かれています。
ちょっと一章見てみましょうか。

マタイの福音書1:22-23
22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

生まれたときから死に至るまで、そして復活に至るまで、イエス様のことをマタイは証明しています。
みことばが成就するために、これらのことは起こらなければならなかったのです。

ドイツの間違った神学によると、イザヤ書の作者は一人ではなく、二人、あるいは三人だったと言うのですが、マタイはそれをはっきりと否定することを語っており、イザヤ書42章についてもはっきりと証言する意味を持つことばを語っています。
すなわちイザヤ書の42章はイザヤではない別の人が書いたことになってしまいます。けれどマタイの書いたものによると、イザヤ42章はイザヤ自身が書いたことになります。

マタイの福音書12:17-18
17これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
18「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。

マタイの福音書の中では、旧約聖書の27巻以上のものが、みことばが引用されています。しかしマタイだけではなく、ヨハネもまたマタイとまったく同じ態度を取ったことがわかります。
すなわちヨハネもまた旧約聖書全体が神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証ししています。
イエス様と同じように、ヨハネもまた聖書をよく調べなさいと言いました。ヨハネの福音書の5章39節を見ると次のように書かれています。

ヨハネの福音書5:39
39あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

そしてモーセによって書かれたものは、神の権威によって書かれたものであると言っています。

ヨハネの福音書5:46-47
46もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
47しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

ヨハネは証明するときに、議論などは一切しないで、聖書にそう書かれていますという一言で片付けています。
そしてヨハネは、主イエス様が聖書、すなわち旧約聖書を教えになったと私たちに語ってくれます。特にイエス様の受難の歴史においては、旧約聖書が成就したことをはっきりとヨハネは私たちに示しました。
ちょっと12章から読みます。

ヨハネの福音書12:14-15
14イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
15「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

ヨハネの福音書12:38-41
38それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
39彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
40「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
41イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

また、

ヨハネの福音書19:24
24そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

ヨハネの福音書19:28
28この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

喉が渇いたためよりも、聖書が成就するためにイエス様はこういうふうに言われた。

ヨハネの福音書19:36-37
36この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
37また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。

とあります。
そしてまたヨハネは証しをして、そしてまとめて旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが全く対等、権威ある信仰の土台であると言っています。戻りまして、

ヨハネの福音書2:22
22それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

とあります。福音書を書いた人たちがみな旧約聖書に関するこういう証しにおいて一致します。そして旧約聖書の一つ一つのみことばは、彼らにとって重みのあるものであり、純金と見なされ、文字となります。
使徒の働きに書かれた使徒たちの福音は何と力強いものだったのでしょうか。このことは全世界に、短期間のうちにイエス様の福音として広まりました。
彼らの語った福音の力は、いかなるものだったのでしょうか。五旬節におけるペテロの説教は三千人のたましいを主イエス様に導いたのですけれど、このことを学んでみて分かることは、語られたみことばの半分以上は旧約聖書からの引用であったということです。

ちょっと使徒の働きから見てみましょうか。ペテロの奉仕の土台は間違いなく旧約聖書でした。

使徒の働き3:21
21このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

ペテロの書いた手紙を見ると、旧約聖書におけるみことばの絶対的な確実さが彼の語った一つ一つの土台になっていることがわかります。

ペテロの手紙第I、1:12
12彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

ペテロの手紙第I、1:16
16それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

ペテロの手紙第I、2:6
6なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

ペテロの手紙第I、3:10-12
10「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
11悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。
12主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

ペテロの手紙第II、1:21
21なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

使徒たちの働いた実、すなわち効果を自分も持ちたいと思う者は、使徒たちの伝えた福音を宣べ伝えなければならない。
初代教会全体の証しもまた同様に、旧約聖書の完全な霊感を認めるものです。もう一回使徒の働きに戻りまして、24章の14節。

使徒の働き24:14
14しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

今度はちょっとだけパウロの引用した個所を見てみたいと思います。パウロは旧約聖書の文字通りの霊感を信じたのでしょうか。パウロは旧約聖書の精通した学者であり、旧約聖書の最も深い事情を洞察した人でもありました。
私たちは透徹した理性と徹底的な論理を持った人に、すなわちパウロに対して彼が旧約聖書からみことばを持って深く考えずに、福音を宣べ伝えたというようなことを言うことができるのでしょうか。決してそうではない。
パウロにとっては旧約聖書のどのみことばも、本当に神のことばでした。旧約聖書はパウロの福音の土台そのものでした。

使徒の働き24:14
14しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

使徒の働き28:23
23そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

とあります。パウロの福音の土台とは旧約聖書でした。
もしも旧約聖書の霊感を否定するならば、パウロの書いたローマ人への手紙はいっぺんに崩れてしまうのです。なぜならば、ローマ人への手紙の半分は旧約聖書からの引用だからです。

ローマ人への手紙1:2-3
2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
3御子に関することです。

もちろんパウロの時代では新約聖書はまだ存在していなかったのです。

ローマ人への手紙3:2
2それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

ローマ人への手紙3:9
9では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

ローマ人への手紙3:21
21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

ローマ人への手紙4:3
3聖書は何と言っていますか。

短い、大切な文章です。私たちはどういう問題にぶつかっても、まず自分で考えないで、聖書は何と言っていますかと考えるべきではないでしょうか。

ローマ人への手紙4:3
3「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

ローマ人への手紙4:17
17このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

ローマ人への手紙9:13
13「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

ローマ人への手紙9:17
17聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

ローマ人への手紙10:11
11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

次の11章2節から読みましょうか。

ローマ人への手紙11:2-26
2神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
3「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
4ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
5それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
6もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
7では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
8こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」
9ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。
10その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」
11では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
12もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
13そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
14そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
15もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
16初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
17もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
18あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
19枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
20そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
21もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
22見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
23彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
24もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。
25兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
26こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

云々とあります。同じく、

ローマ人への手紙14:11
11次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

ローマ人への手紙15:3
3キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

ローマ人への手紙15:9
9また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。

ローマ人への手紙15:21
21それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

またパウロはほかの手紙においても同じように、旧約聖書のみことばをよく用いて書いたのです。
例えばコリント人への手紙第Iの1章。

コリント人への手紙第I、1:18-19
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

コリント人への手紙第I、2:9
9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

もちろんここでいつも、旧約聖書と書くべきですけれど、まさしく、旧約聖書に書いてあるとおりです。

コリント人への手紙第I、2:9
9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

コリント人への手紙第I、3:19-20
19なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」
20また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

コリント人への手紙第I、14:21
21律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」

コリント人への手紙第I、15:45
45聖書に

旧約聖書に

コリント人への手紙第I、15:45
45「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

コリント人への手紙第I、15:54
54しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

コリント人への手紙第IIの中でもパウロは、よく聖書は何と言っているかと宣べ伝えたのです。

コリント人への手紙第II、6:2
2神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

コリント人への手紙第II、6:16-18
16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

全部旧約聖書の引用された個所です。

コリント人への手紙第II、9:9
9「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

テモテへの手紙第Iの中でもパウロはよく、聖書はこう言っている云々と書いたのです。例えば、

テモテへの手紙第I、5:18
18聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。

また、ガラテヤにいる兄弟姉妹にパウロは次のように書いたのです。

ガラテヤ人への手紙3:8
8聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

ガラテヤ人への手紙3:16
16ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

ガラテヤ人への手紙4:22
22そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

ガラテヤ人への手紙4:27
27すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

云々とあります。使徒たちはみな口を揃えて、大切なのは旧約聖書のみことばであるということです。
最後にヘブル人への手紙の著者の書いたものをちょっとだけ見て終わりたいと思います。ヘブル人への手紙は使徒たちが旧約聖書の完全な神の霊感を認めたことを証明するものです。
旧約聖書の一つ一つのみことばは、主なる神から与えられたものであり、永遠の意義を持ち、ヘブル人への手紙におけるみことばの土台となっています。ちょっと1章から読みましょうか。

ヘブル人への手紙1:5-8
5神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」
6さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」
7また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、
8御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

ヘブル人への手紙1:13
13神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

ヘブル人への手紙2:8-9
8万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
9ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

ヘブル人への手紙3:7-8
7ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
8荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

ヘブル人への手紙4:2-11
2福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
3信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
5そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
6こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
7神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
8もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
9したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
10神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

また、

ヘブル人への手紙6:13-14
13神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
14こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

ヘブル人への手紙7:1
1このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

ヘブル人への手紙7:17
17この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

云々とあります。また、同じく

ヘブル人への手紙8:8-12
8しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
9それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。
10それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
11また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
12なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

ヘブル人への手紙10:5
5ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

ヘブル人への手紙12:26
26あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

実際、主なる神は預言者たちを通してお語りになりました。私たちはしっかりとした預言のみことばを持っています。
ヘブル人への手紙は旧約聖書の一つ一つのみことばに対して、一つ一つ肯定している書として際立っています。聖書、すなわち、旧約聖書の完全な霊感を否定して、ヘブル人への手紙を信頼できる神のみことばとして確信することはできません。
それは論理的にも道徳的にも不可能なことです。万が一、そんなことが可能だとするならば、私たちは長い間、偽りとしてきたものを真理と呼ぶような、おかしなことをすることになるでしょう。

ヘブル人への手紙の著者は旧約聖書に基づいて、多くの事実を知っているのであり、その一つ一つのみことばは巌のように確かな土台となっているのです。
ヘブル人への手紙11章は旧約聖書の歴史的な出来事が主の霊感によるものであることを私たちに告げています。
旧約聖書と新約聖書の統一的な証しは、主がお語りになったということです。




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