引用聖句:ペテロの手紙第I、1章23節-25節
コリント人への手紙第I、2:12-13
ヨハネの黙示録22:18-19
聖書の中の最もすばらしい章は多分4章だけではないでしょうか。創世記1章、2章、ヨハネの黙示録21章、22章。罪が存在していないから。 創世記3章から問題が始まる。創世記3章1節。「神は、本当に言われたのですか。」とあります。 人間の悩みのもととは、いったい何なのでしょうか。答えは今のことばに含まれています。悪魔は、主のみことばのうしろに疑問符をつけたのです。それだけではない。主なる神のことばの代わりに、自分のことばをつけたのです。 そして人間は主のことばよりも悪魔のことばを信じたから、堕落して罪人となり、主なる神との交わりを持たなくなってしまったのです。主を恐れないで、主のみことばの前におののかない者は、知らないうちに悪魔の虜になってしまいます。 だから今まで何回も、みことばの大切さについていっしょに考えてまいりました。今日は終わりにしたいと思いますけれども。 なぜならば、聖書についての学びよりも聖書の読み会だったではないですか。結局、人間のことばを付け加えても、ちょっと問題です。 今まで私たちは、まず、人間となった神のみことばとしてのイエス様について考えました。イエス様のひとつの名前は、神のことばです。 それから二番目、文字となった神のみことばとしての聖書について考えました。結局、主なる神は語られた。語られたみことばを聞いた人間がいました。旧約時代で預言者と呼ばれた人々であり、新約聖書の中で、使徒たちと呼ばれた者です。 この聞いたみことばを彼らは宣べ伝えただけではなく、書き記したのです。この書き記されたみことばとは、結局われわれの聖書です。 それから私たちは三番目でしたけれど、旧約聖書についてのイエス様の証しについて。 四番目、旧約聖書についての使徒たちの証しについて考えました。 今日は、新約聖書についての使徒たちの証しについて、少しだけ考えてみたいと思います。 私たちは旧約聖書における主のみことばが、絶対的権威を要求するのと同じように、新約聖書における主のみことばも、同じ絶対的権威を要求することを見ることができます。 ですから新約聖書もまた、みことばの一つ一つが実際に神のみことばであるという要求をすることは、当然のことです。 まず、ペテロは旧約聖書と新約聖書の啓示を説き明かすことのできないひとつのものだと強調し、旧約聖書のみことばと同じように、新約聖書のみことばも、同じ神の力の表われであり、永遠に続くものであると言っています。 今、兄弟のお読みになりました初めの個所がそうだったのです。ペテロの手紙第I、1章の25節から。 本当に大した勉強をしなかったペテロが、こういう文章を書くことができたのはすごい。彼の考え出した、学んだ結果ではなく、やっぱり上からの啓示によって受けたことばです。 ペテロの手紙第I、1:23
あなたがたはキリスト教に入ることによって、聖書をよく研究することによって、立派になろうと努力することによって救われたのではない。全部、神のみことばの結果であると彼は言ったのです。 次、パウロもまた自分の宣べ伝えた福音が主から源を発しているみことばであると強調しています。 前に読みました、コリント人への手紙第I、2章12、13節を見るとはっきりそう書いてあります。パウロは、主から受けなかったものは宣べ伝えないように注意していると断言しています。 ローマ人への手紙15:18
ローマ人への手紙15章18節に書かれています。 そして、聖書の最後、ヨハネの黙示録において、高く引き上げられた主イエス様は、もう一度聖書全体が霊感によって書かれたものであることを明確にしておられます。そしてまた、ひとつひとつのことばが大切であるということを強調しておられます。 ヨハネの黙示録22:18-19
とあります。 今まで私たちは聖書が神のみことばであることを見て来ました。そして、預言者たちや使徒たちによって宣べ伝えられ、また語られたみことばが主なる神によって受け取られたみことばであることをも見てまいりました。 すなわちこれは、語られ、書かれたみことばと、受け取られたみことばとが、等しいということを意味します。 私たちは今までに主なる神が預言者たちと使徒たちを通してお語りになったということを確認してまいりました。したがって、語られたみことばと、受け取ったみことばとは、等しいということが明らかになったわけです。今までのことをここで分かりやすくまとめてみましょう。 まず第一に言えることは、主なる神のお語りになったみことばと、人間、すなわち預言者たちや使徒たちが受け取ったみことばとは、等しい、同じものであるということです。 第二番目に、預言者たちや使徒たちが書き記し、宣べ伝えたみことばは、彼らの主から受け取ったみことばと等しい、同じものであるということです。 したがってその結果として、第三番目に言えることは、主なる神のお語りになったみことばは、預言者たちや使徒たちが宣べ伝え、書き記したみことばと等しいということです。この結論は否定することができません。 もう一度、以上のことをまとめてみますと、次のようになります。 主なる神によって語られたみことばは変わることなく、また完全な形で預言者や使徒たちによって語られ、書き記されたみことばの中に表現されているということです。 そしてまた、主なる神によって語られたみことばは、人間たちによって受け取られたみことばに等しい。そして同じように、人間たちによって宣べ伝えた、書き記されたみことばに等しいということです。 聖書はすなわち、主のみことばです。人間となった神のみことばとしてのイエス様。文字となった神のみことばとしての聖書。旧約聖書についての主イエス様の証し。旧約聖書についての預言者たちの証し。そして、新約聖書についての使徒たちの証しによって明らかになります。 もうひとつの点についてちょっと考えたいと思います。第六番目になります。主なる神のみことばに対する信仰の大切さについてです。 あるいは、聖書に対するわれわれの立場について、ちょっと考えたいと思います。 聖書が自らについて証しすることがら、いわば、聖書の自己紹介は何かと言いますと、それは神のみことばであるということです。 もう少し詳しく説明いたしますと、聖霊によって与えられ、預言者たちや使徒たちによってみこころにかなって書かれたものです。 聖書の要求は極めて明瞭です。すなわち、聖書はすべての部分において、ひとつひとつのことばにおいて、まことの神のみことばであることを主張しています。 それでは今、私たちはこの聖書の要求に対してどのような態度を、行動を取りたいと思っているのでしょうか。 私たちは自由に決断すべきです。すなわち、私たちはこの聖書の要求を拒むか、あるいは、素直に受け入れるかのどちらかです。 聖書の要求を受け入れる人は、それによって聖書全体を獲得します。けれども、この要求を拒む人は、聖書全体を失う者です。 事実上、次の一つのことは不可能です。すなわち、聖書の要求を全部、あるいは一部否定して、しかしながら聖書のほかの個所を信じたいと思うことは、まったく不可能です。 聖書の言っているすべてが正しいか、あるいは、聖書の言っているすべてが何一つ信頼できないかのどちらかです。 人間はだれでも聖書に対して根本的な決断をしなければならない。つまり、だれでも聖書に対して立場を取らなければならないのです。 けれどもみことばに対するわれわれの立場は、一人の人格者に対する立場なのであります。 私たちは見たように、聖書を通して主なる神はお語りになっています。主なる神は聖書を「我がことば」と呼んでおられます。したがって、私たちはひとつの人格、すなわち私たちにお語りくださる主ご自身に対して直面しているのです。 ヘブル人への手紙の4章、よく引用される個所なのですけれども、それを見ると次のように書かれています。 ヘブル人への手紙4:12-13
主なる神の前で隠れおおせるものは何一つなく、私たちはこの主に対して弁明をするのです。 けれども主のみことばである聖書に対する決断とは、私たちにお語りくださる人格者、すなわち主なる神に対する決断であり、みことばに耳を貸さないということは、みことばをお語りになられる主を無視することになります。 聖書は三つの要求をもって、ひとりひとりの人間に迫ってきます。すなわち、 第一番目、聞きなさい。 第二番目、信じなさい。 第三番目、従いなさい。 ということです。 それではまず最初の要求、すなわち、聞きなさい、という要求から見てみることにしましょう。 聖書全体は人間に対して、聞きなさいというはっきりとした要望、また命令です。この要望はしかしながら人間が聞くことができないならば、おかしなことではないでしょうか。 みことばがわれわれの心の耳を開いてくださるということは、まさに神のみことばの力です。 主イエス様はつんぼの人に「エバタ。」すなわち、「開け。」と仰いました。すると聞こえるようになったのです。同じ意味のことばは、聖書の中で何回も、何回も出てきます。 まず、旧約聖書の呼びかけとして「イスラエルよ。聞け。」という何ヶ所か。ちょっと見てみましょうか。 申命記4:1
申命記6:4-5
申命記9:1
また、イザヤ書からも二、三ヶ所読みましょうか。 イザヤ書1:2
イザヤ書1:10
イザヤ書7:13
イザヤ書8:9
また、 イザヤ書28:23
イザヤ書32:9
イザヤ書34:1
イザヤ書34:16
また、 イザヤ書39:5
イザヤ書40:21
イザヤ書40:28-31
聞く者はこういう力を経験します。 イザヤ書44:1
イザヤ書47:8
イザヤ書48:12
イザヤ書51:4
イザヤ書51:21
イザヤ書55:3
とあります。 マタイの福音書の17章の5節。同じように、「聞きなさい。」とあります。 マタイの福音書17:5
旧約聖書の呼びかけとは、「聞きなさい。」「わたしに耳を傾けなさい。」という呼びかけです。 イエス様の呼びかけとは、いったいどういうものなのでしょうか。 イエス様はよく言われました。例えば、 マタイの福音書11:15
ヨハネの黙示録の2章、3章の中で、少なくとも七回も同じことばが出てきます。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」 さらに、使徒たちの呼びかけも、結局同じものでした。使徒の働きの2章22節を見ると次のように書かれています。 使徒の働き2:22
聖書の結論は、次のように証ししています。 ヨハネの黙示録1:3
同じような意味として、聖書には次のような表現も出てきます。「見なさい。」あるいは、「見よ。」、あるいは、「味わいなさい。」 実はもっとも大切な事実は、「見よ。」ということばで紹介されています。 イザヤ書42:1
とあります。「見よ。わたしのしもべ。」 ゼカリヤ書9章9節にも、「見よ。」ということばが出てきます。 ゼカリヤ書9:9
また、ヨハネの黙示録の3章の20節に書かれています。 ヨハネの黙示録3:20
とあります。 同じように、「味わいなさい。」という表現もよく出てきます。ダビデは詩篇の34篇の8節に、 詩篇34:8
とあります。 ペテロもペテロの手紙第Iの2章3節に、味わう、ということばを使ったのです。 ペテロの手紙第I、2:3
体験的に知るようになったのです。みことばとは、食べ物とならなくてはならない。 ヨハネの黙示録10:9
エゼキエル書の中で、また似ている個所があります。 エゼキエル書3:1-3
とあります。エレミヤも同じことを経験しました。よく引用されるすばらしい証し、また告白であります。 エレミヤ書15:16
聞くことは心の態度であり、みことばに対して心を開くことです。すなわち、聞くことは意思の問題です。主がお語りになることを人間が聞きたくないと思うことが罪の始まりです。 イスラエルの民は、本当にとんでもない方向に行ってしまったのです。いったいどうしてでしょうか。イスラエルの民は聞こうとしなかった。信じようとしなかった。従おうとしなかったからです。 エレミヤという預言者は、このイスラエルの民について本当に悩みました。ちょっと見てみましょうか。 エレミヤ書7:23-28
同じく、 エレミヤ書25:3-4
エレミヤ書25:7-8
云々とあります。 パウロはローマ人への手紙の中で、イスラエルの民について書いたのです。 ローマ人への手紙10:21
聞くことこそが大切です。普通の人間は、一応耳を持っているけれど、聞く耳を持つ人は少ないのではないでしょうか。 自分が正しいと思う人は、本当に気の毒です。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」、この態度を取る人々は大いに祝福されます。 第二番目。信じなさい。「聞きなさい。」だけではなくて、「信じなさい。」と主は要求しておられます。 すなわち、「神のみことばは、神のみことばである。」という啓示が根本的な事実であることを確証いたしました。 ひとつの事実は、私たちがそれを理解できなくても、認めざるを得ません。主なる神は人間から信仰を要求しておられるのであり、私たちがまず、すべてのことを理解して信ずるということを期待していらっしゃるのではありません。 主の事実を体験するためには、ただ一つの道、すなわち、信仰の道だけが存在しています。 救いに至る信仰とは、絶対者である主を100%信頼することであり、主の権威を100%認めることです。この信仰はいかなる証拠も保障も証明も必要としません。 私たちは、主は絶対者であることから、信ずるのです。霊感の問題については理解したり、証明したりしてから信じるというようなものではなく、ただ単純に信ずることが大切です。もしも私たちは理性で神の知識を得ようとするならば、神は否という態度をお取りにならざるを得ません。信じる者は認識し、理解し、見るようになるのです。 「聖書は神の霊感によって書かれたものである。」と聖書は事実として伝えていますから、私たちは正直になりたいと思うならば、この事実を信じざるを得なくなります。 私たちは人間の理性に頼るのではなく、「聖書は真理であるから、その真理を信ずる。」という態度、すなわち、「意思」の問題が問われることになるのです。 自分の理性で判断してから安全な道を行くことに慣れてしまっている人間にとって、主の要求は何と困難に思えることでしょうか。それはまさに今までの道とは逆コース。正反対の道であるからです。 ヨハネの福音書の4章50節に、イエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書4:50
とあります。 私たちは主イエス様がみことばに対して取られたのと同じ態度を取るべきではないでしょうか。 ヨハネの福音書17:17
イエス様にとって聖書は真理そのものでした。弟子たちについて聖書は次のように言っています。 ヨハネの福音書2:22
とあります。これこそ、預言者たちや使徒たちの証しを信じ、大いに用いられた人々の勝利の秘訣でした。 彼らは旧約聖書と、イエス様のお語りになったこと、すなわち、旧約聖書と新約聖書を素直に信じました。 すべての不信仰の源は、悪魔です。悪魔が人間に語った聖書の初めてのことばは、前に引用したことばです。創世記3章1節。「神は本当に言われたの?」 創世記3:1
悪魔は主のみことばの後ろに最初の疑問符を付けました。そしてそれ以来、神のみことばの後ろに付けられる疑問符は、疑いもなく蛇である悪魔の足あとです。 悪魔自身も神のみことばを信じています。と言うのは、悪魔でさえも、神のみことばが真理であることを認めざるを得ないのです。 けれども悪魔は自らを低くして、神のみことばに従おうとはしない。これこそ罪そのものです。 悪魔は、神のみことばである聖書が真理であるということを知っているからこそ、それを人間から奪い取ろうとするのです。そして完全に奪い取ることが出来ない場合には、みことばの下にトンネルを掘って、土台を崩そうとするのであります。 悪魔は、私たちから聖書を奪い取ろうとしますが、上手くいかないときには、聖書を穴だらけにして、役に立たないようにしてしまおうとたくらみます。 この悪魔の企てが成功しますと、聖書は私にとってもはや岩のような土台ではなく、揺れ動く大地となり、私たちを罠にかけてしまいます。 悪魔は初めから偽り者であり、神のみことばは、神のみことばではない、神のみことばは一部分だけ、神のみことばであるということを人間に信じ込ませることに成功したとき、悪魔の目的を達したことになります。 それによって悪魔は私たちの日常生活を無力にし、私たちの奉仕を不毛としたことになります。 「聖書全体は完全な霊感によるものです。」という事実から出発しないような福音宣教や、聖書研究は、初めから無効であることになってしまいます。その結果、むなしい努力がなされ、いつも落胆の結果に終わります。それは空気を打つようなものです。 ですから悪魔は、あらゆる信者を聖書の完全な霊感によるものとする信仰から引き離すことに一生懸命頑張るのです。 主のみことばはダイナマイトのようなものです。なぜならば、みことばによって巌は爆破され、鎖は解け、悪魔の虜から解放されるようになるからです。 けれど私たちは神のみことばに徹頭徹尾信頼しなければ、悪魔にとって要注意人物とはなりません。 みことばを信じないことは、悪魔の嘘を信ずることになる。主なる神の切なる願いは、人間がみことばを100%信ずることです。 信仰の父と呼ばれているアブラハムは、「信じた。」と聖書は言っています。 創世記15:6
と書いてあります。一人の人間がアブラハムのような態度を取ると、天において大いなる喜びがあがるのです。 主のみことばを信ずることが、今日の私たちと同じように、アブラハムにとっても簡単なことではありません。 信仰によって昔の信者たちは、生き、歩み、行動しました。昔の信者たちは、結局ただ、みことばにだけ頼ったのです。 イスラエルの民の悲劇は、神のみことばを預言者たちの口を通して与えられていながら、信じようとしなかったこと。信じたいと思わなかったことでした。 聖書のどこを見ても、イスラエルの民が神のみことばを信ずることができなかったと書き記されておらず、信じようとしなかったということです。 戻る |