引用聖句:テモテへの手紙第II、3章15節-17節
先日召された兄弟は結局、自分の葬儀のために準備する暇があったから、もう徹底的に準備していました。私たちがどこの部屋で泊まるべきか。全部決めちゃったんです。 例えば、彼といつどこで交わったのか云々と、そしてだれとだれを招待しなくてはいけないか云々と、全部書いたのです。 兄弟は、自分なんて別に...、周りの人々にやっぱりイエス様を信じてもらいたい。そういう気持ちだった。 もちろん何週間も前から、彼の準備した物ももらいました。「天国で会いましょう。」っていう題で、See You Again…。彼の証しもCD、全部入っているし、それをもちろんみんなもらったのです。もちろんみんなこの読み物を持つようになり、主は必ず今から働くようになります。 彼の書いた初めての文章は、「本日は私の前夜式、召天式にお集まりくださいまして本当にありがとうございます。」、笑い話ではない。信仰の表われではないでしょうか。 初めて、愛する兄弟に出会った場所は病院でした。きっかけになったのは兄弟の奥さんである姉妹の病気でした。あの夫婦は確かに悩みました。どうしましょう。けれどもお二人はともに祈るようになりましたし、結果として希望が湧いてきた。 人間だって病気のために死なない。主の決まった時、初めて召されるのです、と二人は確信したのです。愛する姉妹の召された瞬間、私も病室にいました。結局、五ヶ月間、愛する二人は一緒に祈る恵みが与えられ、そして二人はイエス様を完全であり、主の導きも完全であると確信するようになったのです。 あるとき、別のときだったのですけれども、見舞いに行ったとき、姉妹は兄弟に向かって言ったのです。「病気になったのは良かったね。お父さん。」、兄弟の答えは、「あなたのおかげで。」 その意味は、もし病気にならなかったなら、救いを求めようとしなかったし、救い主に出会わなかったに違いない。そうすると、まことの喜びなし。本当の平安なし。生きる希望なしに存在しなければならなかったに違いない。 だから病気になったのは良かった。永遠のものを得たからです。兄弟も姉妹も心開いて、イエス様を救い主として、主として知るようになったのです。 召されてから一年後、姉妹の記念会のために兄弟から次の案内状をもらったのです。 「病まなければささげ得ない祈りがある。 病まなければ信じ得ない奇蹟がある。 病まなければ聞き得ない御言葉がある。 病まなければ近づき得ない聖所がある。 病まなければ仰ぎ得ない御顔がある。 病まなければ私は人間でさえもあり得ない。」 という詩のあとで彼は告白しました。 「もし、聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみに苛まれ、運命を呪ったことでしょう。 主イエスを信じて姉妹は死の恐怖から解放され、私も生き様が変わりました。今は、再び天国で姉妹とめぐりあえる喜びと主のみこころと愛に感謝の気持ちです。」 そういう文章を書いたのです。 兄弟の生活の結末をよく見て、彼の信仰にならいなさい。結局兄弟は、もし聖書を知らなかったら大変なことになったのではないでしょうか。 もし私たちも同じ気持ちを持っていれば幸せではないでしょうか。だから私たちはもう何回にもわたって、聖書の大切さについて一緒に考えたのです。 神のみことばである聖書に対する態度こそが大切です。聖書が自らについて証しすることがら、いわば聖書の自己紹介は何かと言いますと、それは神のみことばであるということです。 もう少し詳しく説明すると、聖霊によって与えられ、預言者や使徒たちによってみこころにかなって書かれたものです。 聖書の要求は極めて明瞭です。すなわち、聖書は全ての部分において、ひとつひとつのことばにおいて、まことの神のみことばであることを主張しています。 今の世界の社会とは、これを信じようとしない。聖書に返ると、もう希望を持って前向き生活をすることができる。 だから兄弟は、もし聖書を知らなかったら、もう暗やみになったでしょう。何の希望も無かったに違いない。聖書の言っているすべてが正しいか。あるいは、聖書の言っている何一つ信頼できないかのどちらかです。 人間はだれでも聖書に対して根本的な決断をしなければならない。つまり、だれでも聖書に対して立場を取らなければならないのです。 けれどもみことばに対するわれわれの立場は、もちろん一人の人格者に対する立場です。イエス様を信じ、イエス様を愛するようになれば、人はもちろん聖書を信じ、聖書を大好きになります。 私たちは見たように、聖書を通して主なる神はお語りになっています。主なる神は、聖書をわがことばと呼んでおられます。 主なる神はまた、御子を通してお語りになったのです。ですから、イエス様も新約聖書について、「わたしのことば」という表現をよく使ったのです。 みことばに耳を貸さないということは、みことばをお語りになられる主なる神を無視することです。前に言いましたように、聖書は三つの要求を持もって人間ひとりひとりに迫ってきます。 すなわち、第一番目。聞きなさい。 第二番目。信じなさい。 第三番目。従いなさいということです。 それではまず聖書の要求、すなわち、聞きなさいという要求からこの間ちょっと見てまいりました。 そして聖書全体は人間に対して「聞きなさい。」というはっきりとした要望、また命令そのものです。 この要望はしかしながら、人間が聞くことができないならばおかしなことでしょう。みことばがわれわれの心の耳を開いてくださるということは、まさに主のみことばの力です。 イザヤ書1:2
イザヤ書28:23
イザヤ書55:3
ヨハネの黙示録1:3
云々と書いてあります。数えられないほど何回も、何回も、「聞け」、「聞きなさい」、という表現が出てきます。 次に、「信じなさい。」、すなわち神のみことばである、みことばという啓示が根本的な事実です。 ひとつの事実は私たちがそれを理解できなくても、認めざるを得ません。主なる神は人間から信仰を要求しておられるのです。私たちがまずすべてのことを理解して、信ずるということを期待していらっしゃるのではない。「みことばですから、信じなさい。」 主の事実を体験するためには、ただ一つの道、すなわち信仰の道だけが存在しています。救いに至る信仰とは、絶対者である主なる神を100%信頼するのであり、主の権威を100%認めることです。この信仰はいかなる証拠も保障も証明も必要としません。私たちは、主なる神は絶対者であるから、信ずるのです。 霊感の問題については、理解したり証明したりしてから信ずるというようなものではなく、ただ単純に信じることが大切です。主なる神の切なる願いは、人間がみことばを100%信ずることです。 前に開いた個所なのですけれど、創世記の15章の6節に、「アブラハムは主を信じた。」と書いてありますが、ひとりの人間がアブラハムのような態度を取ると、天において大いなる喜びが上がるのです。 主のみことばを信ずることが今日の私たちと同じように、アブラハムにとっても簡単なものではなかったのです。信仰によって昔の信者たちは生き、歩み行こうとしました。彼はただみことばにだけ頼ったのです。 イスラエルの民の悲劇は、主のみことばを預言者たちの口を通して与えられていながら、信じようとしなかったこと。信じたいと思わなかったことでした。 聖書のどこを見ても、イスラエルの民が、主のみことばを信ずることができなかったと書き記されておらず、信じようとしなかったということです。 信じたいと思えば、人間の持っていない信仰ももちろん与えられます。だからイエス様は「信仰の創始者」と呼ばれています。「求めよ。そうすれば与えられます。」、イスラエルの民の悲劇とは、結局、みことばよりも自分の思っていることは大切にしたということです。例えば次のように書いてあります。 エレミヤ書25:3-4
エレミヤ書25:7-8
パウロはイスラエルの民の取った態度についてまとめて次のように言ったのです。ローマ人への手紙10章の21節を見ると、次のように書かれています。 ローマ人への手紙10:21
そしてこの不信仰の恐ろしい結果は、イスラエルの歴史に表われています。 イエス様はこの地上において、生涯の間、イスラエルの民、パリサイ人、聖書学者、律法学者、弟子が神のみことばを信じるようにとどれほど一生懸命になられたことでしょうか。 イエス様がいつも繰り返し、お責めになったただ一つのことは、主のみことばと、ご自分のお語りになったことに対する人間の不信仰でした。ヨハネの福音書の5章を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書5:46-47
復活された主イエス様は、エマオというところの途中で、主のみことばに対する弟子たちの不信仰について真剣に弟子たちにお語りになりました。 よく知られているルカの福音書の24章の中で書かれています。二、三節だけ読みます。 ルカの福音書24:25-27
とあります。 主は今日、信者たちの不信仰について何と仰るのでしょうか。 ヨハネは、ヨハネの手紙第Iの5章10節に次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、5:10
「神を信じない者は、神を偽り者とするのです。」、このことばは、われわれにとって何と重大な意味を持っていることでしょうか。これは今日の信者及び、イエス様のからだなる教会のだいたいの負い目です。すなわち、あらゆる聖書以外は主を偽り者とするのです。 何と深くこの罪の中に私たちは入り込みやすい者でしょうか。私たちは大きな問題がなければ、自信を持って、聖書は神のみことばであると言い張ることができるでしょうけれど、全部めちゃくちゃになってしまうような事態が発生しますと、簡単に主のみことばだけに頼ることをやめ、主の御約束に信頼を置けないようになってしまうのではないでしょうか。 だから私たちはそのようなことを通して主のご栄光を辱め、傷つけてしまったことを悔い改めましょう。 今日、もっとも必要とされているものは、みことばに対する信仰と信頼の回復であり、すべてを主に明け渡すことにより、聖霊に満たされることです。 私たちは自分の不信仰と疑いによって主を悲しませたことを正直に言い表わして悔い改めるべきです。 私たちは主に対する不信仰という罪を、主の血潮によって洗いきよめていただこうではないでしょうか。 信仰から出ないものは、すべて罪であると聖書は言っています。主に頼らない人生も罪です。 けれども主はあらゆる罪を赦したいと切に願っておられます。そして主は、赦してくださると再び回復してくださり、用いて下さいます。 今まで間違った用いられていたみことばという剣を主は再び私たちに返してくださいます。パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたことがあります。 エペソ人への手紙6:17
神のみことばとは、ひとつの剣のようなものであるとあります。神のみことば、すなわち聖書全体を主は御霊の剣として私たちにお与えくださいます。 私たちは悪魔の巧妙な攻撃に抵抗し、悪魔の虜から解放されたいと願うならば、「みことば」というこの剣をどうしても必要とするのです。 主のみことばを私たちにも与えてくださったのです。ヨハネの福音書の17章8節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書17:8
信仰の土台とは結局、みことばです。繰り返し、繰り返し言われたように、信仰こそがもっとも必要とされているものです。 信仰の前提条件は本当の意味で聞くことです。なぜなら、本当に聞くことから信仰が出てくるからです。パウロはローマ人への手紙10章17節に、 ローマ人への手紙10:17
みことばの提供は、同時に信仰の提供です。だれでもこの提供されたものを受け入れるか、拒否するか、まったく自由です。 「聞くこと」と「信ずること」は密接に結びついています。聖書の作者である聖霊は、神のみことばを通してまことの信仰を引き起こします。聖霊は主のご臨在を明らかにし、イエス様の栄光を現わしてくださり、それによってまことの信仰が生まれてきます。 コリント人への手紙第Iの2章10節を見るとパウロは、コリントにいる兄弟姉妹たちに次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、2:10
とあります。まことの信仰とは、主イエス様に対する信仰、また、主のみことばに対する信仰です。まことの信仰とは、聖霊の働きの結果でありますが、しかし人間が信じたくなければ、聖霊の働く余地はありません。 だれでも自分の力で信ずることができないけれど、だれでもみことばに対して心を開くことができます。 人間が信ずるか信じないかは、意思の決断であり、理性の問題ではありません。 信仰は主によって引き起こされますけれど、信仰は決して強制ではなく、みことばの働きに対するわれわれの意思の肯定です。 したがって、私たちが信じたいと思うかどうかという一つのことだけが大切です。信ずるとは、受け入れることであり、主のみことばを真理として受け入れる。 そしてまた、みことばにおいて、事実、すなわち、真理を受け入れることです。みことばを受け入れることは、みことばを語った方を受け入れることです。みことばを受け入れることは、イエス様を受け入れることにほかならない。 パウロはテサロニケに行って、三週間以内に大ぜいの人々が導かれ、救われたのです。 あとで彼らに次のように書くことができたのです。 テサロニケ人への手紙第I、1:6
みことばを受け入れることによって、まことの喜びが湧いてきます。 ヨハネは、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。「受け入れると、救われる。」とはっきり書かれています。神のみことばは、受け入れてほしい、信じてほしいということこそが主の命令です。 イスラエルの民はイエス様を受け入れようとしなかったのです。主はいつの時代でも信ずる人々、すなわち、ご自身を信じ、みことばを信ずる人たちを捜し求めておられます。 前に言いましたように、アブラハムは主を信じた。聖書は言っています。弟子たちが信じたとき、イエス様の心に何という喜びが起こったことでしょうか。 ヨハネの福音書16:31
長い間かかったけれど、「今、信じているの?」、イエス様は何度も何度も、「わたしのことばを聞いて、信ずる者」という表現をお使いになりました。例えばヨハネの福音書5章の24節。 ヨハネの福音書5:24
愛する兄弟は、どうして安心して、喜んで死ぬことができたのでしょうか。さばきに会うことがないと分かったからです。 人間はいつか死ななくてはいけない。けれども死んでからさばきを受けると聖書ははっきり言っているのです。それだけではなく、死んでからさばかれる人のために救われる可能性もない。おしまいです。待っているのは永遠の暗黒です。喜びなし。平安なし。永久的に存在することとは、想像できない。 けれども、信ずる者は永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがない。死からいのちに移っている。よく知られているヨハネの福音書3章の16節も同じ事実を言っているのです。 ヨハネの福音書3:16
私を、あなたを ヨハネの福音書3:16
人間は、滅びるか、永遠のいのちの持つか、のどちらかです。 ヨハネの福音書6:47
わかった人々、理性でもってつかんだ人々と書いてないのです。 ヨハネの福音書6:35
ヨハネの福音書7:38
ヨハネの福音書14:12
信仰は、主のみことばに対する鍵のようなものです。信仰者には、みことばが開かれます。信仰者は、見えない世界を見ることができるのです。信仰者は、開かれた天国を体験します。 イスラエルの民については、彼らの不信仰のゆえに、彼らは約束の地、カナンに入ることができなかったと記されています。 ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙3:19
主のせいではなかった。イスラエルの民は、主の約束を信じられなかったし、信じようとしなかったからです。 イエス様もみことばに対する弟子たちの不信仰を何度も教えになりました。前に読みましたルカの福音書24章。イエス様はエマオへ行く弟子たちに言われたのです。 ルカの福音書24:25-27
みことばを信じないことは、主イエス様に対して自分の心を閉ざすことになります。主が要求しているのは、今話したように、「聞け」、「聞く耳を持つ」ことこそが要求されています。 二番目。「信ぜよ。」という要求です。もう一つ、最後に、「従え。」という要求、またみことばの要求であります。 みことばを受け入れる者はみことばの力を体験します。従うとは、聞いたことを行なうことであり、約束されたことを経験することです。 なぜ、みことばが与えられたかと言いますと、それを行なうためです。ですから、聖書の命令は、「行ないなさい。」ということです。例えば、申命記の4章を見ると次のように書かれています。もちろん、イスラエルの民に対する命令です。 申命記4:1-2
申命記4:5-6
山上の垂訓の中で、イエス様は同じ事実を明らかにしてくださいました。 マタイの福音書7:24
イエス様のように、みことばの大切さについて話した人はいない。ヤコブの手紙の中でも、同じことが繰り返し、繰り返し書かれています。 確かにある人々は、このヤコブの手紙はちょっと難しい手紙だ。大変です。色んなことが命令されているから。ですけれども、そういう人々は、救われるためにああしなくてはいけない、こうしなくてはならないと思っているだけであって、ヤコブの手紙の言いたかったこととは違う。 内に住むイエス様が働くことができれば、こういうふうになるよということです。 ヤコブの手紙1:22
ヤコブの手紙2:17
ヤコブの手紙2:26
結局、イエス様のいのちが現われなければ、単なる頭の知識だったら何にもならない。 使徒の働きの6章7節。また次のように書かれています。初代教会の受けた祝福についての個所です。 使徒の働き6:7
とあります。また、ヨハネの福音書4章50節に、イエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書4:50
とあります。イエス様のみことばを信ずることこそが大切です。 従うことは、主のみことばに従って、主ご自身に従うことを意味します。みことばは人生を変えてくれます。「光よ、あれ。」と主が言われると、光が生まれたのです。従おうと思う人は、みことばの力を経験するようになります。 パウロはコリントにいる兄弟姉妹に次のように言う、また書くことができたのです。 コリント人への手紙第II、3:2-3
云々と。 この学びの間に何回もペテロの証しを引用しました。本当にすばらしいことばです。 ペテロの手紙第I、1:23
祝福の土台とは一体何なのでしょうか。いうまでもなく、主のことばです。 聖書はこう言っています。「聖書は何と言っていますか。」、おもにパウロはよくこの表現を使ったのです。結局、私の思っていることは大切ではない。聖書は何と言っていますか。彼に信頼する者は失望させられることがない。みことばに頼る者は、奇蹟を経験します。 聖書とはいったい何なのでしょうか。確かに今まで、多くのいわゆる有名人はこの問いについて考えたことがあります。 ドイツの宗教改革者であるマルティン・ルターは、「聖書は古いものでなければ、新しいものでもない。永遠なるものです。」と言ったのです。 イギリスの物理学者、また数学者であるニュートンは、「いかなる世界歴史におけるよりも聖書の中にはより確かな真理が存在する。」と確信をもって言ったのです。 ドイツの詩人であり、政治家でもあったヴォルフガング・ゲーテは、「私が獄に繋がれ、ただ一冊の物を持ち込むことが許されるとしたら、私は聖書だ。」と言いました。 フランスの総理大臣であるナポレオンは、「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力ももつ生き物である。」と言いました。 インドの総理であるガンジーは、「私の生涯に最も深い影響を与えたのは、聖書そのものです。」 アメリカのリンカーンは、「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて、聖書の中に生まれている。」と言ったそうです。 たぶんゲーテもナポレオンもガンジーも救われていなかったでしょう。けれども、やっぱり聖書はすごいと認めざるを得なかったのです。 聖書に出てくる人々の証しとは、もっと大切ではないでしょうか。ダビデは、聖書は私の足のともしび、私の道の光ですと証ししました。 パウロは、聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができると書いたのです。 人間はだれでも心のよりどころ、心の平安、まことの喜び、人生の内容、また目的、そして生き生きとした希望をもつ必要があるけれど、これらのものは、ただ聖書を通してのみ与えられるのです。 まことの救いにあずかった人々は、主のみことばである聖書を通して救いに導かれ、また主との平和、絶えざる喜び、そして永遠のいのちをもつようになりました。だからこそ聖書は祝福の土台そのものです。 パウロはローマ人への手紙の中で書いたのです。 ローマ人への手紙10:11
聖書は何と言っているか。これこそが大切です。すなわち、人間の考えていること、思っていること、感じていることは、決して大切ではない。聖書は何と言っているかと考えると、必ず答えが出ます。楽になります。 他のことばで言いますと、大切なのは、人間の考えていること、思っていること、確信していることよりも、聖書は、神のみことばは何と言っているかということです。 聖書は、主ご自身が語られたことを、そのまま私たちに伝えています。聖書に書かれているのは、したがって事実のみです。それを人間が認めようが認めまいが関係ない。事実は事実です。 何があっても、私たちがいつも覚えるべきなのは、聖書は主のことばです。みことばは主ご自身の啓示です。単なる教理、学説ではない。主ご自身の啓示そのものです。 だから、聖書を読むことが大切なのは、研究すること、いわゆる知識を得るためではなく、イエス様をよりよく知ること。より親しい交わりを得るためであるべきです。 また、理解力をもって聖書を理解しようと思えば、上手くいかない。イエス様の、当時のパリサイ人、聖書学者たちとは、そのような読み方をした。 イエス様は喜ばなかった。返って厳しく言われたのです。 ヨハネの福音書5:39-40
これこそが悲劇です。聖書の単なる教理が問題ではない。イエス様ご自身が問題です。 なぜならばイエス様は、聖書が、わたしについて証言していると言われたがゆえに、大切です。わたしのことばは、永遠に残るとイエス様は約束しました。 聖書を読むことと、いのちを得ることとは本当は一つなのです。二つのものではない。ですからモーセは、当時のイスラエルの民に次のように言ったのです。すばらしいことばです。 申命記32:47
またパウロは、聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益ですと書いたのです。 全聖書は、主の息が含まれることによって書かれたものです。主の感動により、主の息吹により、霊感によって書かれた書物です。 ですから聖書は、主なる神の教えではなくて、主なる神の啓示そのものです。 主は、みことばをもってご自身をお現わしになります。 主のことばは、私たちにとっていのちのパンでなければならない。なぜなら聖書は、教理や真理の原則を語っているよりも、いのちのパンそのものです。 ですからイエス様は、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによると言われたのです。 エレミヤはいつも攻撃され、憎まれ、迫害されました。けれども彼はいつも元気でした。その秘訣とは、彼はみことばを食べたからです。 エレミヤ書15:16
ダビデも同じことを経験しました。 詩篇119:162
この態度を取る者は、必ず大いに祝福されるようになります。 |