引用聖句:エペソ人への手紙1章5節-6節、23節
ローマ人への手紙8:14、23、29
この間言いましたように、最近のメッセージは古いものです。56年前に準備したメッセージですけど、使わなかった。けども聖書の真理はもちろん変わらないから、ありがたい。 その昔56年前に出会った方も今日、見えています。結局こういう昔々の人が現れてくると、本当にありがたい。 今日のテーマは、「聖なる神の宮である教会」というテーマをもって、一緒に学びたいと思います。 今話したように、最近準備したメッセージではなく、56年前に準備したものであります。もし、ある人がとても立派な家を建てると、けど子供がなければ、周りの人々は「変だなあ」と言うかもしれない。 なぜならあの人がすぐ死ぬと、どなたのために働いたのか、家を建てたのかという疑問が起こるでしょう。前に何回も言いましたが、霊なる神の住まいが問題です。 主なる神の霊的な宮がいかに大切であるかと解かるようになれば、やっぱり見方が変わります。 生ける真の神は、ただ一つの興味と目的を持っておられます。すなわち御子主イエス様であり、イエス様と結びついている救われた人々です。主イエス様ご自身と救われた兄弟姉妹が、主イエス様の富なのです。この主イエス様こそが、主なる神の御心です。 今も読んでもらいました、エペソ人への手紙1章23節のことばは、本当に大切ですね。 結局、教会はキリストのからだであって、すべてのものをすべてのものの内に満たしている方が、満ち満ちているものに他ならないとあります。 霊なる神の住まいは、御子主イエス様であり、成熟した兄弟姉妹たち、成人した息子たち娘たちなのです。 だから今日の題名は、「息子の立場への道」であります。 新約聖書は、このことについて何と言っているのでしょうか。息子の身分、息子の立場はいったい何を意味しているのでしょうか。 ローマ人への手紙とガラテヤ人への手紙とヘブル人への手紙を読むと、新約聖書の時代ギリシャでは子供が生まれると、その子は文字通り子供であって、しもべと共に生活し、また父の跡継ぎとしての資格を持っていません。 成人して初めて、息子として父の跡継ぎとなる資格が与えられるのです。 この子供は、初めは子供だったんですけど、成長し、成人となり、初めて息子となったのです。 これと同じように、真の新生を経験した人は、確かに神の子供です。 この新生した子は、聖化、変化、成長によって、息子となることができるのです。これに関する2、3の聖句を読んでみましょうか。 ヨハネの福音書1:12
この聖句は、まことの新生を経験した人は、神の子であるということを言っているのです。 いかにして、神の家に入ることができるのでしょう。いかにして、神の家族の一員になることができるのでしょうか。いかにして、神の子になることができるのでしょうか。 その答えは、新生によって、新しく生まれることによってです。けど、ギリシャ語の聖書では、子と息子の区別があります。すなわち、子供と成人した息子の区別をはっきりつけています。 というのは、子供は自分の努力なしに誕生します。しかし、成人した息子となり、主なる神の名誉と責任をとるには、一定の必要条件を満たさなければなりません。その必要条件が、満たされなければ、私たちは決して主の名誉と責任をとることができません。 この区別を解かるため、聖書をちょっと見てみましょうか。 残念ながら日本の訳は、この点について誤ったところがあるのです。ドイツの訳もそうなんです。 エペソ人への手紙1:5
この子は、ギリシャ語では息子となっています。子じゃない。ですから子たる身分は、ギリシャ語では息子たる身分、息子たる立場といったものです。 息子の立場と成人した息子に、法的な立場と地位を与えることを言います。同じく主イエス様は、成人した息子たちを栄光に導こうとしておられます。ヘブル人への手紙2章10節を見ると次のように書いてあります。 ヘブル人への手紙2:10
ここでも残念ながら、子らと書いてありますが、ギリシャ語の聖書には、多くの息子たちを栄光に導くと書いてあります。 もう一つの聖句を見てみると、 ローマ人への手紙8:23
この聖句の子なる身分という句を考えるならば、誰か知らない人が来て、一人の子をもらって育て、その子に財産を与えた。私たちもこういうふうに考えるかもしれないけど、ギリシャ語では決して、そのようなことを意味していません。 もちろんローマ人への手紙は、救われた人々、信者に対して書かれたものです。ですからローマ人たちは、イエス様を受け入れて、神の子となっていました。このもうすでに神の子となった人々にパウロは、神の子たる身分を授けられると語っているのです。 したがって、パウロの言っている子たる身分の子とは、成熟したキリスト者を意味しているのです。そして神の一番大切な目的は、成人した息子を通してご自身のご栄光を現されるということです。 主なる神のご目的は、成熟した息子たちを通して、ご自身の栄光を現されることです。 私たち信者は、本当に新生を経験し、聖霊の働きによってイエス様を宿し、永遠のいのちを持っています。けど、これは決して終わりではありません。 私たちは成長し、成人した神の息子、娘とならなければいけません。それは私たちが神のご栄光を現す、主なる神の労同者として、主に対する働きと責任を持つようになるためです。 一つのことが明らかです。すなわち私たちは、成人した神の息子、娘までにまだ前進しなかったのです。どうでしょうか。回心から栄光から栄光へと前進したのでしょうか。それとも私たちの霊的な生活は、止められたのではないでしょうか。 パウロの時代の兄弟姉妹たちは、同じ危険に直面したわけです。だからパウロは、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、おそらくヘブル人への手紙を書いたのです。 この信者は、イエス様の偉大なる自由を自分のものとしました。しかし、ユダヤ教の習慣的な組織によって、彼らの霊的な生活は、進歩しなかったのです。 我々の場合、同じじゃないでしょうか。正直に言えばそうです。私たちは喜びに満ちた者じゃない。イエス様の平安を持っていない。導きなしに生活する者だと、多くの人々は言わざるをえないのではないでしょうか。 だから、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、ヘブル人への手紙のメッセージは、我々にあてはまります。 だから、「どうか、耳のある者は、御霊があなた方に言うことを聞くがよい。」とよく書かれています。 一つのことが明らかです。というのは、悪魔は、今日のメッセージを大嫌いです。なぜならもし私たちが、キリストにあって、小さな赤ちゃんではなく、キリストにあって、息子、娘になると悪魔は逃げざるをえなくなるからです。 したがって私たちは今日、一つのメッセージを聞くためじゃなくて、悪魔を攻撃するためにここに集まったのです。 息子の立場への道に前進することは、悪魔を攻撃することを意味しているのです。 ローマ人への手紙8:14
原語では神の息子であるとなっています。 また、新しく生まれ変わった人は、皆もちろん神の子供です。けれども、信者全部が御霊に導かれている者ではない。だから信者全部が、神の息子ではない。 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち神の息子であるとあります。わたしたちは、神の子供として主なる神の財産を相続すべきですけど、そのために成熟がぜったいに必要です。 けれども、いったいいかにして我々は息子の立場に至るのでしょうか。 赤ん坊が命をもっているのと同様に、新しく生まれ変わった信者も、永遠のいのちを持っています。小さい子供はまだ報いをもらいません。父の遺産をまだもらっていません。成熟した息子だけが、父の遺産を受け継ぎ、父の名誉と責任をとることができるのです。 同じく成熟した兄弟姉妹だけが、イエス様とともに遺産を受け継ぎ、冠をいただきイエス様の座につくことができ、豊かな報いを受けます。 清められた生活を送っている兄弟姉妹だけが、主とともに遺産を受け継ぎます。実を結ぶ兄弟姉妹だけが、冠を授けられます。 イエス様のために苦しみを受けた者だけが、イエス様とともに、御座につきます。 良い行いを行う兄弟姉妹だけが、豊かな報いを受けます。 今までに述べた事柄によって、次のことをお解かりになったんじゃないかなと思います。すなわち、成熟は個人個人の問題です。あなたがた一人ひとりが、成人した息子、娘とならなければならない。 この成長は共同的な問題です。そしていつも覚えるべきなのは、主の御心は、聖化、成熟ばかりでなく、からだなる教会です。 主の御心は、多数の生き生きとした意思ではなく、主にある聖なる宮、また霊なる神の住まいは問題です。 主なる神の御心は、聖徒たちの群衆ではなく、息子すなわちイエス様のために、許婚がほしいのです。したがって、あなたがた一人一人が、教会の秘密を啓示によって見なければ、成人することができないのです。 からだなる教会は、悪魔の奴隷から引き抜かれた団体です。団体よりも有機体です。 からだなる教会の統一は、生物学的であり、有機的であります。したがって、一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部が、それを感じるのです。二人の信者だけでも統一を持っていなかったら、からだなる教会全部が前進しません。 悪魔はいったいどうして、からだなる教会の統一が、そんなに大嫌いでしょうか。どうして悪魔は、あらゆる時代においても教会の統一を破壊しようと努力したのでしょうか。 なぜなら、悪魔は、信者たちみんなが、イエス様の満たしを受け入れなければいけないということを知っているから。 イエス様の満たしと偉大さは、そんなに大きいのですから、兄弟姉妹みなが必要です。だから悪魔は、あらゆる成熟は、大嫌いですから、一生懸命、信者の目をからだなる教会の秘密に対して、惑わそうと努めています。 こういうふうに、悪魔は勝利を得ます。なぜなら、教会と成熟は二つの離されないことなんです。私たち一人ひとりが、からだなる教会の秘密を、光に上からの啓示によって見なければ、成人することができません。 パウロは、新約聖書全部を書くことができませんでしたけど、私たちは、新約聖書全部を必要としています。 同じように、真の教会は主なる神のからだであって、すべてのものをすべてのものの内に、満たしている方が、満ち満ちているものに他ならないと前に読んだ箇所を見ると解かります。 あなた一人は、キリストのからだであって、すべてのものをすべてのものの内に満たしている方が、満ち満ちているものに他ならないなんて、そんなことはない。 イエス様の満たしのために、教会全体が必要なんです。だから教会を見ることは、絶対に必要です。 聖霊が我々の心の目を開いて、教会の意味について、教会のすばらしさについて、教会の統一について知らせることが出来たら幸いです。そしたら初めて、息子、娘の立場への成熟が可能です。 けれども、これこそが悪魔は大嫌いです。成人した息子たちによって、主のご栄光が現す時、悪魔は自分の名誉、立場、王国を失ってしまいます。だから悪魔は、私たちは霊なる神の住まいは何であるかという事実を見ないように努力します。 ですからパウロはひざまづいて、エペソにいる兄弟姉妹に「どうか私たちの神、栄光の父が、知恵と啓示の霊をあなたがたに賜って、神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにしてくださるように。そしてあなたがたが、神に召されたいだいている望みが、どんなものであるか、聖徒たちが住むべき神の国がいかに栄光に富んだものであるかを、あなたがたが知るに至るようにと祈っている」と書いたのです。 この悪魔の暗くすることに対して、切なる祈りが絶対に必要です。今日の状態を見ると、なんとわずかな兄弟姉妹は、主のからだなる教会の秘密を見たでしょう。 イエス様のからだに対する啓示を受け取った人々は、少ないのではないでしょうか。これは悪魔の仕事です。まことの教会であるイエス様のからだという真理は、単なる真理ではないのです。決してそうではありません。 もし私たちが主なる神の目的を達したいと、悪魔の力を滅ぼそうと思うと、私たちは何とかしてこの教会に対する啓示が必要です。ローマ人への手紙8章をご覧くださいますと、これがよく解かります。 ローマ人への手紙8:20-21
そして、目的を達するために選ばれた器について書いてあります。 ローマ人への手紙8:29
教会は主なる神の御心です。もし私たちが上からの光によって、すなわち啓示によって、この主のからだである教会を見なければ、息子の立場まで前進しません。イエス様の遺産、イエス様の王国が問題です。 そのために、教育は絶対必要です。だから、主の訓練を軽んじてはいけないと聖書は忠告しています。 主は、愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるのであると書いてありますが、この鞭打たれるという意味は、決して刑罰を受けるというようなことではなく、子供教育を意味しています。 主なる神は、ご自分の子供に天罰を与えません。けれども、大きな考えられない愛を持って教育されます。 兄弟姉妹の病気、兄弟姉妹の苦しみは刑罰ではない。子供教育なのです。けど悪魔はいつも、刑罰する、罰すると曲解させます。 教育されるために私たちは、いろいろな真理を経験しなければならないのです。ヘブル人への手紙5章8節に書かれています。 ヘブル人への手紙5:8
私たちもこの心理を経験しなければならない。苦しみと困難なしに、私たちは決して前進しません。 ヘブル人への手紙5:12
どうでしょうか。主の目から見ると私たちは、教師でしょうか。もう一つの真理は、 ヘブル人への手紙5:13
原語では、「すべて乳を飲んでいる者は、幼子、未成年の者なのだから、義のことばをあじわう、すなわち経験することができない。乳を飲んでいる者は、無経験な者、未熟な者です」と。 ヘブル人への手紙5:14
いかにして成人するのか、感覚を実際に働かせて、訓練することによってだけ可能です。 子供と息子との実際的な区別は、いったい何でしょうか。子供は何も自分でできません。他の人はいつも子供、赤ちゃんのために努力しなければいけません。 子供は自分の経験なんて持っていないんです。いつも他の人の経験によって生活しています。赤ちゃんですから、何も自分のためにできないのです。食べ物を全部あげなければならないでしょう。風呂をたてて、自分で沐浴することができません。 けど子供は成人して、自分で食べることができ、自分の生活のために働くことができるのです。成人した息子は、独立して、他の人の言うことや行いによらなくてもいいわけです。 成熟した兄弟姉妹は、「私は、主の御心を知っている。私は、主を新しく見た。主の御声を聞いた。私は、新しい啓示を受けた」と言うことができるのです。 このヘブル人への手紙5章14節のことばは、とても大切です。感覚を訓練されるとあります。私たちは神の子供として、霊的な感覚を持っています。すなわち聖書は、主を見ることに通じて語っています。たとえば有名な山上の垂訓ですか、 マタイの福音書5:8
もちろんこれは、身体上の見ることではない。霊的な見えることです。しかし、生まれながらの人は神を見ることができない。 同じように、生まれながらの人は神の声を聞けない。聞こえない。けど、新しく生まれ変わった人は、主に聞くことができるのです。 もちろんこれも、身体上の聞くことではありません。 詩篇34:8
この味わうことも、身体上の問題ではなく、生まれ変わった人の能力なんです。 私たちは実に、神の子供として霊的な感覚を持っています。そして神のご目的とは私たちは、この霊的な感覚を使うことです。使うことによって、経験がくるのです。 主のものになった者の生活において、経験は何と言う大切な価値があることでしょう。毎日の生活においても、経験はとても大切です。 学校を卒業したばかりの医者は、頭の知識ばかり持っているのです。けれども、30年の経験を持っている医者は、頭の知識ばかりではなく、30年の奉仕によって経験を持っているのです。 すなわち学校で習ったことは、自分のものとなったわけです。使うことによって、経験はやってきます。 何という多くのキリスト者は、いつも霊的な子供です。 決して卒業しないで、成人した息子の立場まで前進しません。いったいどうしてでしょうか。 なぜなら主は我々を強制しません。強制している成人した息子は、主の御心ではないのです。 私たちは、責任を持っています。前に読んだ聖句をもう一度見ましょうか。 コリント人への手紙第I、3:1-3
ヘブル人への手紙の中で、内容的に同じことが書いています。 ヘブル人への手紙5:12-14
私たちは偉大なる責任を持っているのです。これは厳しい警告です。イスラエルの民を見ると解かります。イスラエルの民は皆、エジプトから出る時、ほふられた小羊の血を受けました。 新約聖書で言えば、これはイスラエルの民全部が、信じる者であったことを意味しています。 またイスラエルの民全部が、カナンの地へ入りたかったんですけど、二人だけカナンの地へ入っただけで、残りの人々は全部、荒野で滅んでしまいました。 イスラエルの民は皆、救いを持っていました。けど彼らは、霊的な生活において成人しなかったのです。 彼らは、霊的な感覚を持っていましたが、しかしこれらを使いませんでした。罪と不信仰と無関心さによって、イスラエルの民は成人しませんでした。 私たちの持っている責任を軽んじてはいけない。みことばは言っています。 「今日、御声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心をかたくなにしてはいけない」と、普通の伝道集会の時、このみことばをよく使われているかもしれない。 その時集まった未信者に「今日、御声を聞いたなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と言うかもしれない。 けれども、パウロは、または他の人たちもそうなんです。このことばを決して未信者のために使わなかったんです。 新約聖書の手紙は、ご存知のように、もうすでにイエス様を受け入れた者の為に書いた書物です。したがって、このヘブル人への手紙3章15節も未信者に対してではなく、救われた人々に対する厳しい警告であります。 「今日、御声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心をかたくなにしてはいけない」とあります。 一つの質問が出てきます。すなわち、いかにして私たちは、息子の立場に至るのかということであります。というのは、私たちは、はっきりとした目的を持たなければならない。 ヘブル人への手紙6:1
どうでしょうか。我々の生活の際立っている特徴は、はっきりと使っている目的なのでしょうか。それとも私たちは、目的なしにさまようのでしょうか。目的を持っていない信者は、何も自分でできない。他の人がいつも努力しなければならない。 この信者は、自分の経験などは持っていません。いつも他の人の経験によって生活しています。すなわち、自分の霊的な感覚を使っていないのですから、経験がやって来ないのです。 けれども、この信者たちは、わりあい楽な生活をするでしょう。 けれども、もし我々の生活の際立っている特徴が、はっきりと掴んでいる目的であったら、困難と苦しみが来るのです。 けれども、困難と苦しみこそ成人のために絶対必要です。 「彼は、御子であられたにもかかわらず、さまざまな苦しみによって、従順を学んだ」とあります。 いかにして成人になるか。感覚を実際に働かせて、訓練することによってだけ可能です。どうして、あの姉妹は病気になったのでしょうか。なぜ、あの兄弟のお父さんは亡くなったのでしょうか。あなたは、どうしてあまり良い働き場を見つけないのでしょうか。云々と。 このような困難は、あなたの知恵、あなたの力よりまさる力が必要です。 我々は、逃れ道が見えません。けど、これこそが主のせいです。主の導きです。これは刑罰ではなく、かえって主は大きな愛を持って教育されます。 このような困難によって、私たちは、自分の霊的な感覚を使わなければならない。そしたら初めて、霊的な真理すなわち聖書の事実を経験することができるのです。経験によってのみ、私たちは成人することができます。 子供は、問題や質問を持ってたら、すぐにお父さんやお母さんのところに行って尋ねるでしょう。新しく生まれたばかりの子は、疑問が起こるとすぐ、友達や兄弟姉妹のところに行って質問するのです。 そして、与えられた答えを持って、満足されるかもしれないけど、これは本当に充分ではありません。 なぜなら成人するために、聖書の事実は我々の内に現実とならなければいけないからです。答えは、自分の経験とならなければいけません。 実に他の人は、我々を苦しみと困難から救い出すことができません。兄弟姉妹に尋ねることによって、問題は解決しないでしょう。 私たちに何か話されたことじゃなくて、我々の内に何か成されたことが問題じゃないでしょうか。 霊的な問題は、知能的には決して解決されない。もし私たちが、霊的な問題を知識的に解決しようと思うと私たちは、霊的な赤ちゃんです。 知識的な解決は、問題じゃなくて新しい立場、すなわち成人した息子の立場が問題です。あらゆる教えは大切ではありません。 たとえば、聖化に対する教えがたくさんあります。もちろん、それぞれの教えは聖書的でしょう。けど、一番良い教えでさえも、知識的な解決を意味しているでしょう。 イエス様ご自身を経験することや、よりよく知ることが問題なのではないでしょうか。息子の立場とは、霊的な立場です。 そして私たちは、この理性を決して知識的に哲学的に達することができません。成熟は、知識的な哲学的な問題ではなく、徹頭徹尾、霊的なものです。 私たちは主の学生ではなく、主の子供です。主は我々の霊の父です。だから、私たちの成長は、霊的な成長であるべきです。 自分の経験は、何という大切なことでしょう。霊なる神の住まいは、イエス様であり、また成熟した兄弟姉妹、成人した息子、娘たちです。 したがって私たちは何とかして、この霊なる神の住まいである教会を目的として、掴まなければなりません。けれども、そうすると困難と苦しみがやって来ます。 この起こった苦しみによって、我々は他の人間と、彼らの答えや経験によらないで、主をもっとよく知らなければなりません。そうしなければ、私たちは、主の用いられる器になりません。 特別な会議、交わり、説明、薦め、忠告などは、我々の困難を解決しません。イエス様ご自身だけが、解決することができるのです。 私たちは、主を新しく見ることによって、主の御声を新たに聞くことによって、私たちは、新しい経験を自分のものとすることができるのです。 私たちは殿下ではなく、学生ではなく、主なる神の子供なのです。これを絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。 子供が大きくなったから、お父さんの助けになります。今からお父さんの手紙を書くことができ、お父さんの責任も少しずつ持つことができます。 そうすると、今までに「あなたは子供だから、何も知らない。あなたの仕事はダメ」と聞かなかった子供は、嬉しくなるでしょう。 けれども、今大きくなったから、責任を持つことができる。そうすると子供は喜び、「お父さん、お母さんが喜ばれますように」と努力するでしょう。同じように、主の取り扱いは、子供の教育です。 けれども、もし私たちはいつまでも赤ちゃんであったら、主は喜ばないでしょう。聖書を見るとはっきり解かります。イエス様の座が、問題なんです。この世の支配が問題なんです。だから教育は絶対必要です。 私たちは今、苦しみと困難の意味を解かったでしょうか。困難と苦しみに対する解決は、我々の経験とならなければいけないのです。 私たちは、愛する者を子供教育するのである。主はそう約束しておられます。 からだなる教会は、イエス様の王国の時、イエス様と共に支配するはずです。これは教会の使命です。 もちろん、世界の支配は子供の遊びじゃないんです。これは成人した息子、娘の任務、任命です。 私たち一人ひとりが、この霊的な事実を聖霊の啓示によって見ることができますように、そして、この霊的な事実は、我々の生活の原動力になりますように祈るべきなのではないでしょうか。 |