引用聖句:ローマ人への手紙8章19節、21節-23節
ヘブル人への手紙1:2
ヘブル人への手紙2:5-11
ヘブル人への手紙3:1、7-8
ヘブル人への手紙12:5-6
ヨハネの黙示録12:5
今読みました箇所の中で、「私たちは、イエスを見ています。」とあります。これこそが、初代教会の兄弟姉妹の証しでした。「私たちは、イエスを見ています。」、現実はどうであれ関係ない。 初代教会の人々は、どうして当時そのような強い影響を及ぼしたかと言いますと、彼らは、「私たちは、目に見えるものによらないで、信仰によって歩んでいます。」 私たちもイエス様だけを見れば、本当にすべてが必ず祝福になるに違いない。 この間始まったテーマは、ちょっと今日も続けたいと思います。題名は、「主の取り扱いは、子供教育である」、けど、もし私たちがいつまでも霊的な赤ちゃんであったら、主は喜ばないのです。 私たち一人ひとりが成長し、成人した神の息子、娘とならなければならない。そのために教育が絶対に必要です。 教育されるために、私たちはいろいろな真理を経験しなければなりません。ヘブル人への手紙の中で書かれています。 ヘブル人への手紙5:8
とあります。私たちもこの真理を経験しなければならない。苦しみと困難なしには、私たちは決して前進しないのです。 けれども、教育の完成はいったい何でしょうか。主の訓練の目的はいったい何なのでしょうか。いかにして、神の子となることができるのでしょうか。いわゆるキリスト教の教えを受けることによってでしょうか。 あるいは、イエス様の偉大さ、またイエス様の救いを心の眼で見ることによってでしょうか。 生けるまことの神の御子である主イエス様は、私のために死を味わい、私の代わりに罪とされて、十字架につけられたということを見たのでしょうか。 勉強しましたからじゃない、あるいは理解したからでもありません。救いを見たのでしょうか。これが問題です。 もし、主なる神が、御子イエス様を我々の内に啓示なさると、私たちはただ一つのことをすることができるのです。すなわち、生けるまことの神を崇拝せざるを得ません。 いかにして、神の子となることができるのでしょうか。答えは、聖霊の啓示によって、イエス様の救いを神の救い主を見ることによってのみ可能でしょう。 イエス様は、聖霊によってお生まれになったと聖書は言っています。マタイの福音書1章20節ですね。 マタイの福音書1:20
とあります。御子イエス様と同じように、一人ひとりの信者も聖霊によって、新しく創られて新しく生まれた者です。 旧約聖書の最も主な人物の一人は、アブラハムでしょう。信仰の父と呼ばれている男で、けど彼は、自分の力を尽くしても息子をつくることができなかった。 彼は、疑いもなく非常に信心深い人でしたけど、それにもかかわらず、息子をつくることはできなかったのです。生まれたイサクは、徹頭徹尾、主から備えられた者でした。 同じくサムエルという預言者も、主から備えられた子供だったことは明らかです。 聖書全体を見ると、これは主の原則なのではないでしょうか。 ヨハネの福音書3:6
とあります。また、 ヨハネの福音書1:13
誰も自分の力で神の子となることはできません。絶対にできません。これは徹頭徹尾、主の働きであります。 けれども、これは終わりではありません。私たちは、成長し、成人した神の息子、娘とならなければいけません。 ところが、この教育は、苦しみを意味しています。 ヘブル人への手紙12:11
とあります。神のみことばは、この教育の目的は、主なる神の御座であるということです。 いったい神は、私たちが、ここで語っている来るべき世界を御使いたちに服従させることはなさらなかった。聖書は、ある箇所でこう証ししている「人間が何者なので、これを御心にとめられるのでしょうか」とあります。 一番偉い使いたちではなく、人間が来るべき世界の支配を持つ者になるとあります。 ヘブル人への手紙1章2節、今も読んでもらいました箇所ですけれど、「神は、御子を万物の相続者と定められた」とあります。けども、御子イエス様だけではなく、私たちもイエス様と共に、相続者となるべきです。 だから、ヘブル人への手紙2章10節に、「主イエス様は、多くの成人した息子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの君を、多くの苦しみを通して全うされたということは、彼にふさわしいことであったのです。」 主の座が問題なのです。来るべき世界の支配が問題なのです。むしろ私たちは、ヨハネの黙示録12章1節から12節までを読むと、同じことについて語っています。今、兄弟は5節だけ読みました。 ヨハネの黙示録12:5
とあります。彼は鉄の杖をもって、すべての国民を治めるべき者であるというところは、主の子供教育の目的であります。 この子は、神の御許に、その御座のところに引き上げられたとは、成人した息子の立場です。 このヨハネの黙示録12章の男の子について、ちょっと考えたいと思うんですけど、初めに私たちは、この男の子はイエス様ではないと言いたいのです。 なぜならしばしば信者たちは、この女はイスラエルの民であり、男の子はイエス様であるという間違った考えを持っています。 けれどもヨハネの黙示録は、イエス様の高く引き上げられたことの後で書いた書物です。そして1章1節にイエスキリストの黙示とあります。 この黙示は、主なる神が、すぐにも起こるべきことをそのしもべたちに示すため、キリストに与えたとあります。 ヨハネの黙示録はしたがって、将来に起こるべきことについて書いた書物です。けど、イエス様はもうすでに、天に引き上げられましたから、このヨハネの黙示録12章の男の子は、決してイエス様ではありません。 2番目の理由は、イエス様は昇天された時、悪魔はまだ天から地に投げ落とされたのではなかったのです。 なぜなら、イエス様の昇天から40年あとで、パウロはエペソに住んでいる兄弟姉妹に、次のように書いたのであるから。 エペソ人への手紙6章12節、皆暗記している大切なことばです。 エペソ人への手紙6:12
父なる神は、イエス様を死人の中からよみがえらせ、ご自分の右の座につかせた時、悪魔は、まだ地に投げ落とされたのではなかったのです。 3番目の理由とは、このヨハネの黙示録12章4節、5節を読むと解かるはずです。理由は、子を産もうとしている女の前に立ち、生まれたならその子を食いつくそうとかまえていた。 女は男の子を生んだが、彼は鉄の杖を持って、すべての国民を治めるべきものである。この子は、神の御許にその御座のところに引き上げられたとあります ヨハネの黙示録12:4-5
ここで男の子は、天に引き上げられたことによって助けられましたけど、イエス様の場合そうではなかったでしょう。 悪魔は、目に見える現実を見ると、悪魔はイエス様に対する勝利を得ました。イエス様は、十字架の上で死んでしまいました。殺されてしまった。けれども、それは終わりではなかったのです。 イエス様は、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼしたと聖書は言っています。 さて、ヨハネの黙示録12章に出てくる女はイスラエルの民でしょうか。いえ、決してそうではありません。 この女は、天においては栄光を持っており、地においては苦しみと困難に満ちている者です。 これは教会、主のからだなる教会です。すべての救われた兄弟姉妹です。エペソ人への手紙を開くと、これはすぐに解かるでしょう。 エペソ人への手紙1:3
エペソ人への手紙2:6
けれども信じる者は同じく、この地上で生活して、困難と苦しみを持っている者です。 困難の最中において、イエス様との生き生きとした交わりによって、栄光ともろもろの祝福を持っている者は、それは教会です。 イエス様のからだなる教会であり、聖霊の宮であり神の宮であります。 続いてこの男の子はいったい何を意味しているのでしょうか。 「女は男の子を産んだが、彼は鉄の杖を持って、すべての国民を治めるべきものである。この子は、神の御許にその御座のところに引き上げられた」とあります。 だいたい同じことばは、ヨハネの黙示録2章26節、27節、3章21節に書いてあります。 ヨハネの黙示録2:26-27、3:21
この男の子は、何方かということがお解かりになったでしょう。この男の子は勝利を得る者です。 イエス様の座が問題です。世界の支配が問題です。これは、子供の遊びじゃないのです。霊的な子供は、何も自分で出来ないのです。他の兄弟姉妹が、いつも子供のために努力しなければいけません。 子供は、自分の経験なんて持っていないのです。霊的な赤ちゃんは、勝利を得る者じゃないんです。したがって、諸国民を支配する権威を授けられません。主イエス様の座につかせません。 私たちはいかにして、主の定められた目的を達したいと思いませんか。 ある人は、「集会に行かなくてもいい。聖書を読まなくてもいい。祈らなくてもいい。私は、イエス様を信じているから、それで充分です。」と、確かに救われるためには、これで充分です。 けれども、そのような人は、日々の生活に、喜びがありません。主イエス様を心から愛していません。救霊に対する熱意もないでしょう。このような人は、永遠に自分の無関心さを後悔するでしょう。 私たちは、来るべき世界に主なる神の成人した息子、娘として、ご自分の責任を持つことができるように、今、霊的な赤ちゃんから成長によって、成人した息子、娘とならなければいけません。 そうしたら初めて、私たちは自分で食べることができ、自分の生活のために働くことができるのです。 成人した息子は、独立して他の人の言うことや行いによらなくてもいいわけです。成熟したクリスチャンは、「私は、主の御心を知っている。私は、主を新しく見た。主の声を心の耳で聞いた。私は、新しい光を、新しい啓示を受けた」と言うことができるのです。 生ける神の目的とは、いったい何なのでしょうか。自分の救いだけでしょうか。生まれ変わったら、それで主のご満足でしょうか。それで充分でしょうか。決してそうではありません。それで充分だととらえている信者は、主に喜ばれない者です。 「私は、何をやるか」と考えている信者は、霊的な赤ちゃんです。主のご満足が第一のはずです。そして生けるまことの神の目的は、イエス様の御座なのです。 すなわち私たちは、勝利を得た者として、成人した息子、娘として主の座につかなければいけません。この事実をはっきりとした目的を掴んでいただきたいのです。 もちろん私たちは、栄光、富、権威を自分のものとするのです。けれども、それは第一の問題ではありません。今日の世界帝国を見ると、私たちは、この出来事のうしろに悪魔が働いていると解かります。 悪魔は、何とかして生けるまことの神と主イエス様を退けようと努力しています。したがって、国々のねたみは、恨みは、この世の支配に対する戦いです。 けれども、来たるべき世界の支配は、悪魔によって、だまされた人間のためではなく、私たちのためです。 私たち主のからだなる教会は、すべての国民を治めるべきはずです。私たち一人ひとりが、男の子すなわち成人した息子、娘として、主の御許にその御座のところに引き上げられるようにと、ひたすらに祈りましょう。 ヨハネの黙示録12章の女は、すべての信者は、主なる神の御許にその御座の所に引き上げられるであろうなどとは書いてありません。 「女は男の子を生んだが、彼は鉄の杖を持って、すべての国民を治めるべきものである。この子は、神の御許にその御座のところに引き上げられた」とあります。 テアテラとラオデキアにある教会の信者たちは、疑いもなく皆が新しく生まれた者として、永遠のいのちを持っていましたけど、皆が勝利を得る者ではなかったのです。 勝利を得る者だけが、諸国民を支配する権威を授けられるのです。勝利を得る者だけが、主イエス様の座につけるのです。 イスラエルの民を見ても解かります。イスラエルの民は皆、エジプトから出た時、小羊の血を受けました。新約聖書で言えば、これはイスラエルの民全部が信者であったことを意味しています。 皆救われていました。エジプトの奴隷から解放されのです。また、イスラエルの民全部がカナンの地に入れたかと言うと、二人だけ、ヨシュアとカレブだけ、カナンの地に入ったのです。 ここの人々は全部40年の間、荒野で滅んでしまいました。イスラエルの民は、皆救いを持っていましたけど、彼らは、霊的な生活において成人しなかったのです。彼らは霊的な感覚を持っていましたが、しかしこれらを使いませんでした。 勝利を得る者はただ、二人だけでした。ヨシュアとカレブでした。聖書の中で何回も何回も同じ表現が出てきますが、すなわち「今日、御声を聞いたなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 パウロは、ガラテヤに住んでいるクリスチャンたちに書いたのです。「ああ、私の幼子たちよ。あなたがたの内に、キリストのかたちが出来るまでは、私はまたもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と書いたのです。 この信者たちは、疑いもなく本当に救われた人々だったでしょうけど、パウロは満足しませんでした。なぜなら、生けるまことの神も満足されなかったからです。改心は実に偉大なる経験でしょう。けれども、終わりではない。 だからこそパウロは書いたのです。「ああ、私の幼子たちよ。キリストのかたちが出来るまでは、私はまたもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。苦しい、戦いですよ」と。 いったいどうしてパウロは、そんなに苦しんだのでしょうか。主なる神の御許が、その御座のところが問題であるからです。 私たちは、火の中をくぐって来た者のように救われるでしょうか。あるいは主の御許にその御座のところに引き上げられるのでしょうか。女は男の子を産んだが、彼は、神の御許にその御座のところに引き上げられたとあります。 女ではなく男の子だけが、神の御許にその御座のところに引き上げられたとあります。教会全体ではなく、成人した息子、娘たちだけが、主イエス様の座につけるのです。勝利を得る者だけが、イエス様と共に諸国民を治めるのです。 イエス様の座につかせることや来るべき世界の支配は、実に子供の遊びじゃない。だから霊的な赤ちゃんは、子供教育によって、成長し、成人しなければいけません。これを考えると、苦しみと困難の意味が解かるはずです。 あなたがたの内にキリストのかたちが出来るということは、苦しみと困難を意味しています。 おもにこれは、聖霊の苦しみです。パウロは、聖霊の支配のもとにいましたから、パウロはこの産みの苦しみを経験したわけです。 私たちは、「集会に行かなくてもいい。イエス様を信じていますからそれで充分です。」と考えている信者は、わりあいに楽な生活をするでしょう。 けれども、もし私は、どうしても主の定められた目的までに達したい、何とかして主イエス様の座につきたいと思うと、苦しみと困難を経験するのです。 私たちは、自分の生活と兄弟姉妹の生活を見ると、産みの苦しみをするでしょう。この産みの苦しみなしに誰も主の御許に、その御座のところに引き上げられることはありません。産みの苦しみなしに成人はありえないことです。産みの苦しみなしに勝利を得る者なんて、ばかげたことです。 すべての訓練はその時は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいことと思われるとヘブル人への手紙12章11節に書いてありますね。 これは事実ですけど、私たちは、パウロと同じように、あえて次のように言いましょう。 「今の時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光にくらべれば、取るに足りない」と。 確かに諸国民を支配する権利を授けるとあります。私たちとともに、わたしの座につかせようというのは、考えられない栄光です。これを目的として、掴むべきなのではないでしょうか。 私たちは、金を儲けるために、あるいは役割を演じるために、それとも自分の名誉のために生活しません。主なる神の御許にその御座のところに引き上げられることは、それこそが私たちの目的です。 パウロは主のからだなる教会に対する啓示を受けて、聖霊の支配のもとに一生懸命働いたのです。 けれども、パウロは捕縛されて、何年間か監獄の生活をしなければなりませんでした。これは、解かりにくいんじゃないでしょうか。確かにパウロにとっては、これは喜ばしいものではなかったのです。 しかしその時、パウロはエペソ人への手紙をかいたのです。この手紙は、パウロの苦しみと困難の結果でした。 私たちの苦しみの結果は、いったい何なのでしょうか。苦しみによって、私たちの内にキリストのかたちが出来るのでしょうか。それとも、私たちは、希望なし、目的なし、失望してしまい、やめましょうと考えていますか。どっちでしょうか。 ガラテヤの信者は、新生によって永遠のいのちを持っていましたが、けれども前進しませんでした。パウロは、彼らに、「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人よ。だれがあなたがたを迷わせたのですか。」と尋ねたのです。 「ああ、私の幼子たちよ。」、成人した息子、娘ではない。「幼子たちよ。あなたがたの内にキリストのかたちが出来るまでは、私はまたもや、あなたがたのために産みの苦しみをしている。」とパウロは叫んだのです。 今の時の苦しみは、やがて私たちに現されようとする栄光に比べれば取るに足りない。覚えるべきことは、主の御許にその御座のところに引き上げられることは問題ですから、前進しましょう。 成人した息子の立場は、またヨハネの黙示録12章の男の子とは、苦しみの結果なんです。本当に大切です。 すなわち私たちは、どれほど主のために働くか問題ではない。私たちは、イエス様の満ち満ちた徳の高さにまで至るか、それが問題です。 前に読んでもらいましたヨハネの黙示録12章9節、 ヨハネの黙示録12:9
この出来事は、いつ起こるでしょうか。女から生まれた男の子は、神の御許にその御座のところに引き上げらた時なんです。 勝利を得る者は、イエス様の座につかせると、悪魔とその使いたちは逃げざるを得ません。 けれども悪魔は、投げ落とされる前に、激怒して、主のからだなる教会を滅ぼそうと努めているのであります。 多くの国の兄弟姉妹を見ると、彼らの言い表すことのできない苦しみと困難によって、この男の子、成人した息子、娘たち、勝利を得る者が起こるのです。 苦しみが来ると確かに多くの兄弟姉妹は、やめるかもしれない。多くの人々は、失敗するかもしれないけど、本当にわずかの人々が、主の満ち満ちた徳の高さにまで至るのです。 彼らだけが、主の座につくイエス様と共に、来るべき世界の支配者になるのです。 最後に一つのことばについて、ちょっと考えたいと思います。ヨハネの黙示録12章5節の引き上げられたということばですね。 女は男の子を産んだが、彼は鉄の杖を持って、すべての国民を治めるべき者である。この子は、神の御許にその御座のところに引き上げられたとあります。 この引き上げられたとは、携挙を意味しています。たとえば、使徒の働きの8章39節、40節、コリント人への手紙第II、12章2節に同じことばを使っています。パウロはピリピ人への手紙3章10節、11節に ピリピ人への手紙3:10-11
と言っています。この死人のうちからの復活を経験することができるのに、目的を達するためにパウロは追い求めたのです。 何とかして、死人のうちからの復活に達したいのである。私がすでにそれを得たとか、またすでに完全なものになっているとかいうのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである、そうするのは、キリストイエスによって捕らえられているからである。 パウロはこういうふうに信じる者の成長について考えた時、言ったのです。 「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」、これはパウロの目的でした。 我々の目的、我々の態度はいったい何なのでしょうか。追い求めることこそが要求されています。 成長は、実に遊びではありません。産みの苦しみなしに、私たちはこの主の御許にその御座のところに引き上げられることを経験しません。 苦しみによって、私たちの内にキリストのかたちができるのでしょうか。それとも希望なく、目的なしに失望してしまい、やめましょうと考えていますか。 パウロは、知恵、人気、権威、意見、財産などを持っていたかもしれないけど、彼は、それはどうでもいいと思った。 彼の証しは、ピリピ人への手紙3章7節を読みます。 ピリピ人への手紙3:7-11
「勝利を得る者には、わたしとともにわたしの座につかせよう」とイエス様は言われました。これは考えられない、想像できない栄光です。これを目的として掴んでいただくべきではないでしょうか。 全宇宙を支配するために、イエス様と共に御座につくことは、パウロの目的でした。 我々の目的とは何でしょうか。パウロは、「私の幼子たちよ。あなたがたの内にキリストのかたちができるまでは、私はまだ産みの苦しみをしている」と叫んだのです。私たちすべての者が、キリストの満ち満ちた徳の高さまで至るように祈りましょう。 |