その上にある信仰


ベック兄

(吉祥寺学び会、聖なる神の宮である教会シリーズ、2011/03/22)

引用聖句:エゼキエル書43章1節-2節、4節-5節
1彼は私を東向きの門に連れて行った。
2すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。
4主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。
5霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。

エゼキエル書43:7
7その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。

エペソ人への手紙1:12
12それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。

エペソ人への手紙3:21
21教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

エペソ人への手紙5:25-27
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

コロサイ人への手紙1:27
27神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

ペテロの手紙第I、4:14
14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

へブル人への手紙10:37-39
37「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
38わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
39私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

へブル人への手紙11:1
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

この間話したように、最近のメッセージは、古いものです。55年前に準備したけれども使わなかったんです。みことばについて話すと、もちろん時代遅れにならない。
日本は急に世界の中心になっているのです。おそらく今までよりも、日本のために祈っている人が非常に多くなっているんじゃないかと思います。
けれども、どうしてか何故かと考えても、誰も答えられません。我々は、祈りの材料として使うと、主は支配しておられると考えると、やっぱりありがたいのではないでしょうか。

今の時代で、イエス様を知らない人は本当に気の毒だよ。今度何があるか、やっぱり皆不安定になっています。
けれども主が許さなければ何も起こらない。そして、主はもちろん最善をなしていてくださるお方です。
55年前に何を考えたか、準備したかと言いますと、主なる神の目的は個人個人の信者じゃなくて、主イエスのからだである教会です。

過去の時代と未来の時代も、今私たちが生きている時代にかかっています。この特別な時代は、五旬節から教会の携挙までにかかるのです。
過去の信者たちは、皆この状態のために待ちました。永遠から永遠にわたる神のご計画はからだなる教会です。
そして私たちは、この一番大切な時代に生きています。この永遠からの計画が実現するために、私たち皆、主の同労者としてお召しを受けた者です。

だから私たちは何回も、霊なる神の住まいである教会というテーマをもって考えてまいりました。
もし私たちが、神の目的を達したいと、悪魔の力を滅ぼそうと思うと、私たちはなんとかして、この教会に対する啓示が必要なのではないでしょうか。
もし私たちが、本当に新しく生まれた神の子であるならば、私たちは生ける石となって、霊の家に築き上げられたのです。そして私たちは、この霊の家のいろいろな面を観察して、またこの面は、一人ひとりのきわだっている特徴にならなければいけないということも知ることができます。

今日の題名は「その上にある信仰」です。
まことの主なる神のからだなる教会の特徴は、いうまでもなく信仰です。前に昇天された、高く引き上げられたイエス様について、毎日考えるべきなのではないでしょうか。
教会はどうして存在しているのでしょうか。教会の目的は、いったい何なのでしょうか。イエス様の高く引き上げられたことを、明らかにすること、それなんです。

初代教会のあらゆることの始まりは、高められた主イエス様でした。したがって初代教会は主の栄光を現して、周りの人々に深い印象を与えたのです。
けれども単なる教えや教理ではなく、この霊的な事実が人々に強い影響を及ぼしました。
五旬節の日に、ペテロは喜びに満ちて次のように証ししました。

使徒の働き2:36
26ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

使徒の働き2:33
33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

使徒の働き2:41
41そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

五旬節は新しい教えではなく、イエス様の高く引き上げられた事実が問題です。
五旬節の日に聖霊が下り、そして聖霊の証によって天において現実となったイエス様の支配は、弟子たちの生活において現実となりました。
弟子たちの生活と奉仕によって、現れた高く引き上げられた主イエス様のいのちと力は、この霊的な現実の証明でした。同じように私たちの内に、何か起こらなければならない。けれども、それは生き生きとした信仰の問題です。

五旬節の日、イエス様の高く引き上げられたことを述べ伝え証しすることは、あまり難しいものではなかったのです。
どうでしょう。私たちは、イエス様に出会って救われた時、証しすることは喜びに満ちて、「イエス様は生きている。イエス様は高く引き上げられた」と言うことができたんです。
ですけれども、私たちは今も大喜びで証しすることができるのでしょうか。自発的な証しがあるのでしょうか。最も大切なのはそれなのではないでしょうか。

悪魔は、主にある兄弟姉妹に対する何と大きな力を持っているでしょう。悪魔は力を持っています。それは、友達や両親、習慣や自分の目的がなく、その後ろに結局、悪魔が働いているのです。それを絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。
我々の戦いは、血肉、見えるもの、人間に対するものではない。諸々の支配と権威と闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いであるとあります。
私たちは、それを本当に解かったのでしょうか。間違いなく私たちの戦いは、人間に対するものではない。諸々の支配と権威と闇の世の主権者に対する戦いです。

悪の霊、悪魔の力を滅ぼすことが問題です。実に私たちは、イエス様の高く引き上げられた事実をはっきりとつかまなければいけない。
けれども、この信仰は何も見えないのです。この信仰は、少しも感じないのです。我々の力や知恵に勝る困難が起こるのですけれども、イエス様は、父なる神の右に上げられたことを、絶えず覚えるべきです。
このような信仰によってのみ、問題を解決され、悪魔の力を滅ぼされ、私たちは勝利を得る者として、すばらしい解放を経験することができるのです。

私たちは、最後の時に生きていますから、ますます難しくなります。多くの信者は、悪魔の力を感じながら、イエス様は本当に高く引き上げられたかと疑問に思うのです。私たちでさえも、このようなことを経験したでしょう。
その時、私たちは何もすることができない。ただ悪い感じがあっても、もうダメだという考えがあっても、それにもかかわらず、イエス様はダメだという考えがあっても必要ない。信仰によって、大切です。
勝利者とは、いったい何なのでしょうか。どうしたものでしょうか。勝利者とは、ただ信仰によってのみ勝利を得ることが明らかになります。

そして、信仰はもちろん信仰です。私たちは、イエス様の高く引き上げられたことを、信仰によってつかまなければなりません。生
き生きとした信仰なしに、偉大なる事実があっても役に立ちません。
多くの困難があるかもしれないけれども、このような困難の最中に、信仰の目によって高められたイエス様を見ることは問題です。

たとえば、このような集会の準備はそんなに楽なものではない。幾人の兄弟姉妹は、集会に出席しなくてもいい、少しだけ妥協しても大丈夫じゃないかなどと考えているかもしれない。
けれども、それにもかかわらずイエス様は、勝利者だという確信を持って、このような集会の準備をすることができるのです。事務所の仕事、学校の学びなどはいつでも出来ますけれども、信仰なしに、生き生きとした信仰なしに、勝利を得ることはできません。
勝利を得ることの秘密は、高く引き上げられたイエス様を、心の目で見ることです。他のことばで言えば、「我が義人は、信仰によって生きる」とあります。

2番目、教会は主のからだなる教会です。
主のものとなった一人ひとりが、イエス様の高く引き上げられたことを明らかにすることばかりでなく、主に奉仕することは絶対に必要です。
教会は、どうして存在しているのでしょうか。我々の生活の目的とは、いったい何なのでしょうか。私たちの生活によって、生けるまことの神は、満足されるべきです。

私たちによって、父なる神に栄光が世々限りなくあるように。我々の奉仕の結果はそれでしょうか。
私たちは信者になった時、イエス様は我々の喜びでした。そして私たちは、必ず主の心にかなう者だと考えたことでしょう。
けれども後で、主の導きによって私たちは、いわゆる荒野に入ったのです。なぜなら、霊的な赤ちゃんは荒野の経験によって成長しなければいけないから。初めの経験というのは、ガラテヤ人への手紙5章17節にあります。

ガラテヤ人への手紙5:17
17なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

今までにこの経験を持っていたでしょうか。我々は、信仰によって救われたかもしれないけれども、私たちは信仰によって、自己から解放されたのでしょうか。
私たちは導きなしに毎日生活しているのでしょうか。私たちは自分で考えたり、自分で決定したりして生きますか。
支配者は、どなたでしょうか。自分かイエス様か、どなたでしょうか。

パウロは、「私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを私は知っている」と書いたのです。私たちも、これを知っているのでしょうか。これは、「私は、何と言うみじめな人間なのだろう」と叫んだことがあるのでしょうか。
もし、そうしたら私たちは、「私は、決して主の御心にかなう者じゃない」と考えたでしょう。その時、私たちは、パウロと同じように言うでしょう。そのために私たちは、このような苦しみを受けているが、それを恥としない。
なぜなら、私は自分の信じてきた方を知っている。またその方は、私にゆだねられているものを、かの日に至るまで守ってくださることができると確信しているからです。こういうふうに私たちによって、生けるまことの神は満足されるのです。

救いを経験したイスラエルの民は、エジプトから荒野に入ってきました。荒野を通らなければ、決してヨルダン川のところへ行くことができなかったのです。そしてご存知のように、ヨルダン川は死の川であり、だから十字架の象徴です。
十字架は私たちに、あなたがたの肉の内には善なるものが宿っていないと言っているのであります。どうでしょうか。私たちは、一度、主の前に、自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すことをはっきりと知りましたでしょうか。そして暗闇に入って苦しんだのでしょうか。
どうかその時、信仰によって言ってください。「私は、自分の信じてきた方を知っている。また、その方は、私にゆだねられているものを、かの日に至るまで守ってくださることができると確信している」と主に言ってください。

イスラエルの民は、荒野を通った時、いつも民の真ん中の会見の幕屋がありました。すなわち幕屋の中で、神の箱があったのです。その箱は、生けるまことの神の御臨在の象徴でした。主なる神は、いつもご自分の民と共にいたのです。
けれども、神の栄光を外からいつも見ることができなかったのです。かえって、幕屋の屋根は少しもすばらしくなく、荒野に出ていたのです。
けれども、一番大きな問題にぶつかっても、一番暗い日でも、失望的な状態であっても、瞬間瞬間にこの主の栄光があったんです。

隠れても、主の御臨在は確実でした。イスラエルの民にとっては、全部信仰の問題でした。けれどもイスラエルの民は、彼らの環境と状態を見て、失望してしまいました。
「私たちは、主の臨在を見えない。この旅はあんまりおもしろくない。栄光が見えない。止めましょう。」という気持ちになったのです。何回も。
主は厳しい警告をもって言っています。「彼らが入ることができなかったのは、不信仰のゆえでした。」イスラエルの不信仰は、いったいどういうふうに表したのでしょうか。

イスラエルの民が、「主は、我々の内におられるのかどうか」と言いました。その結果、民は荒野で滅んでしまいました。
なぜならイスラエルの民は、「主は、私たちの内におられるのかどうか」と疑問を持っていたからです。けれども、どうしてそう疑ったのでしょうか。困難と苦しみがあったのですから。主の栄光は、しばしば隠れたのです。
けれども、隠れても主の御臨在は確実でした。イスラエルの民にとっては、全部は信仰の問題でした。

イスラエルの民が、「主は、私たちの内におられるのかどうか」と疑って、結果として荒野で滅んでしまいました。我々の場合はどうでしょうか。
私たちに当てはまるみことばは、コロサイ人への手紙1章27節です。

コロサイ人への手紙1:27
27あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

困難、苦しみ、誤解、攻撃、試みが実にあるのですけれども、これらのことは、外側のことだけです。あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである。見える望みは、望みじゃないんです。というのは、これも信仰の問題です。
私たちは、いつも我々の内にいますイエス様を感じないでしょう。そして私たちは、私の内にイエス様が住んでいるという確信をいつも持っていないでしょう。
けれども、それにもかかわらず、あなたがたの内にいますキリストであるということは確実です。

イスラエルの民は、一番大きな問題にぶつかっても、主の栄光があったんです。隠れても、主の御臨在は確実でした。
同じように、あなたがたの内にいますキリストであるという事実は事実です。
ヘブル人への手紙13章5節、すばらしい約束のみことばがあります。主は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と言われたのです。信仰はこれを信じます。

私たちは、私は決して主の御心にかなう者じゃないと考えるかもしれないけれども、それにもかかわらず、信仰は、パウロと同じように言っています。
「私は、自分の信じてきた方を知っており、また、その方は、私にゆだねられたものを、かの日に至るまで守ってくださることができると確信しているのです。」、これは信仰です。
そして、こういうふうに主は満足され、栄光をお受けになります。

イスラエルの民によって、主は満足されませんでした。ヘブル人への手紙3章18節に「神が、わたしの安息に入らせることはしない」と誓われたのは、誰に向かってであったか。
不従順な者に、原語では、不信仰の者に向かってではなかったかとあります。主はいったいどうして、不満だったのでしょうか。
イスラエルの民が、主がゆだねられているものを、かの日に至るまで守ってくださることができるということを信じなかった。信じたくなかったのですから。

イスラエルの民は見えないもの、すなわち神の御臨在によらないで、不信仰によって歩いていた民でした。私たちは、逆に見えるものすなわち、困難、苦しみ、悩み、自分の弱さと罪、誤解や攻撃によらないで、信仰によって歩んでいるものなのでしょうか。
あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みであるという事実を知っていただきたいのです。また、そのために私たちは、このような苦しみを受けているが、それを恥としない。
なぜなら、私たちは自分の信じてきた方を知っており、またその方は、私たちにゆだねられているものを、かの日に至るまで守ってくださることができると確信しているからです。こういうふうに主は、満足され、栄光をお受けになります。

3番目、主の宮であるまことの教会の第3番目の面は、世界の選ばれた者の解放とすべての信じる者に対する奉仕です。
教会はどうして存在しているのでしょうか。我々の生活の目的とは、いったい何なのでしょうか。
私たちは、他の人々に奉仕するのでしょうか。それは大切なすばらしい使命です。

コリント人への手紙第II、4:12
12こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

士師記6:39-40
39ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」
40それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。

私たちは、同じことを経験しなかったでしょうか。何としばしば、私たちはこの羊の毛と同じように、徹頭徹尾、渇いた者でしょう。
その時私たちは、いのちに満ちて、他の人々に奉仕している者じゃないと思うでしょ。
けれども後で見ると、ちょうどその時、私たちによって他の人々に奉仕されたということを解かります。こうゆうふうに、主は栄光をお受けになります。いったいどうしてでしょうか。

コリント人への手紙第I、1:29
29これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

もし私たちは、いい気持ちをもって、いのちに満ちた者であるということを確信しながら、他の人々に奉仕しようと努力すると、その人たちは実に祝福されたら、私たちは非常に誇るのではないでしょうか。必ずそうです。
だから私たちは、どうすることもできない者だ。渇いた、渇いた者だ。他の兄弟姉妹に奉仕することができないという告白までに、私たちはこなければいけないのです。
このような導きは、どんな人間でも、主なる神の御前に誇ることがないためなのです。というのは、他の兄弟姉妹に対する奉仕も徹頭徹尾、信仰の問題です。そして、信仰は信仰です。失望と絶望だけになるかもしれない。

私たちは、少しも感じないかもしれないけれども、このような困難の最中に信仰の目によって、高められたイエス様を見ましょう。
こういうふうに主は、栄光をお受けになり、他の人々に祝福されます。
激怒した悪魔の攻撃があるかもしれない。けれども、それにもかかわらず、強行な信仰を持ちましょう。信仰によって、前進しましょう。

「種を携え、涙を流して出ていく者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくる」とあります。
涙を流すことがあるかもしれないけれども、信仰によって、前進しましょう。
そして、信じる者は必ずや、喜びの声を上げることができるのです。

4番目、霊なる神の住まいである教会の第4の面は、どこにおいても、教会は、主イエスの代理、代表であるべきです。
私たちは、「2人、3人、我が名によって、集まるところには、わたしもその内にある」というみことばを皆、覚えるでしょ。このみことばの真理は、主イエス様のからだの事実を示しています。
すなわち教会とは、イエス様だけではなく、あなたの内にいる、わたしの内にいるイエス様です。だから、2人、3人の信者が集まると、彼らはイエス様の代理なのです。

これもしばしば信仰の問題です。もちろん、、「2人、3人、我が名によって、集まるところには、わたしもその内にある」という約束がありますけれども、私たちは信仰によって、この約束を自分のものとしなければいけません。
もし、2人、3人イエス様の御名によって集まって、その時、主の御臨在を感じないかもしれない。どうしてでしょうか。なぜなら、わたしたち一人ひとりが、信仰を持って集会へ来なければならないから。
「我イエスキリストもその内にあるなり」という真理をつかみ、信仰によって、感謝しましょう。2人、3人の信者は、イエス様のからだを意味しています。

そして、からだがある所には、頭、かしらであるイエス様も御臨在しておられます。この事実をいつもつかんでいただきたいのです。
信仰によって、私たちはこのすばらしい事実を経験することができるのです。もし、私たちが、お客様として来、まだ私たちは、中途半端な立場を取ろうと思うと、私たちは決して、主の御臨在を経験することができません。
信仰を持って、集会に出席していただきたい。

我々の集会は、単なる説教すること、また聴くことではなくて、イエス様との交わりとすべきです。
もし、私たちが生き生きとした信仰を持って集会に出席すると、私たちは、ただの説教を聴きたいのではなく、イエス様ご自身を見たい、イエス様の御声を聞きたいでしょ。そうしたら、初めて私たちは、主に会うのです。
もし、私たちの態度がそうだったら、必ず、主の御声を聞き、主との交わりを持つことができるのです。どこの場所でも、信者たちは、イエス様を共同的に現すべきです。けれども、共同的な生活の価値は、信仰なしに解からないのです。

イエス様のからだなる教会の5番目の面は、悪魔の敗北に対する証しです。からだなる教会は、どうして存在していますか。私たちの生活の目的は、いったい何なのでしょうか。
イエス様が、悪魔に対して完全な勝利を得たという事実は、我々一人ひとりの生活を通して、明らかにならなければいけません。十字架の上で、イエス様は、悪魔に打ち勝ったのです。
イエス様はべブル人への手紙2章14節のように「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」とあります。

そして五旬節の日に、弟子たちは聖霊の力を持って、大喜びで、この偉大なるイエス様の勝利を述べ伝えました。その時弟子たちは、疑問や疑いを少しも持っていなかったのです。
けれどもすぐに悪魔の攻撃によって、兄弟姉妹が殺されて、大きな苦しみと困難なしには、福音を述べ伝えることができませんでした。
その時から弟子たちは、強度な信仰によって、彼らの勝利者であるイエス様を見て、主の支配を述べ伝えたのです。

我々にとって主の勝利は、戦いの信仰の問題であります。私たちの戦いは、何回も何回も言いましたし、血肉に対するものではない。この目に見える世界ではない。
もちろん人間に対するものではない。諸々の支配と権威と闇の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いであるとあります。
だからパウロは、神の武具を身に着けなさいと言っています。そして、この神の武具について、詳しく語っています。

エペソ人への手紙6:16
16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

ローマの兵隊たちは、ただ一つの盾を持っていませんでした。頭を守るために小さな丸い盾があったり、そして、体全体を守る長い盾もあったのです。パウロはこの長い盾を思っていたのです。
その上に信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるのです。主のからだなる教会の戦いの信仰によって、悪魔は、自分の名誉、立場、王国を失ってしまいます。
もちろん、この悪魔に対する勝利は、イエス様にとっては、過去の行われた事実であり、けれども我々にとっては未来のことです。あるいは、信仰によって現在に経験すべき現実です。

私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。その上に信仰の盾を手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火矢を消すことができるとあります。
そうしたら初めて、主イエス様が悪魔に対して完全な勝利を得たという事実を、私たちひとり一人の生活を通して、明らかになります。

最後に、私たちは、今まで話さなかった教会の6番目の面について、ちょっと考えて終わります。
教会は、来るべき栄光の日にあこがれて、待ち望んでいるのです。けれども、信者ひとり一人がこの栄光の日の光を、今日、今、明らかにしなければなりません。
もう一度エゼキエル書43章にもどります。

エゼキエル書43:2
2すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。

東は、日の出、新しい日、すなわち来るべき栄光の日を意味しています。

エゼキエル書43:4
4主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。

霊なる神の宮である教会は、栄光の日にあこがれて、待ち望んでいます。私たちは、エペソ人への手紙6章12節のように、神の栄光をほめたたえる者となるはずです。
「もうしばらくすれば、来たるべき方が、お見えになる。遅くなることはない。我が義人は信仰によって生きるのです」とあります。
信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確信することであります。これは信仰の問題です。

私たちは、信仰によって、来たるべき栄光を賛美しましょう。信仰は、望んでいる栄光を確信し、また見ていない栄光を確信することです。教会の存在は、何の意味を持っているのでしょうか。
信仰によって、救われたひとり一人が、この栄光の日の光と栄光を今日、今、明らかにしなければなりません。
けれどもこれは、いったい如何にして可能なのでしょうか。単なる教えや教理によってではなく、この栄光は、我々の内に現実とならなければいけない。そしたら初めて、他の人々は、私たちがあてる栄光によって、深い印象を与えられるのです。

けれども、これは信仰によってのみ可能です。私たちは、来たるべき栄光の日を心の目でみなければいけません。
この点にとっても、霊的な啓示が必要です。啓示がなければ、民はこわし、人々は散らばりますとあります。
啓示がなければ、救われた人々は、一致しないし、健康や普遍や権威を失います。来たるべき栄光の日は、単なる教えじゃないんです。

私たちは、啓示を受けると、この来たるべき栄光の日は、我々にとって、自由を得させる力や、一致させる力や、我慢する力を意味しているのです。
もし信者たちが集まり、そしてこの来たるべき栄光の日について考え、賛美すると、この栄光は感じることができるのです。
なぜなら聖霊なる神は、時間なんてご存知ないからです。だから聖霊は、いつも終わりの栄光を見るのです。聖霊は、栄光の霊であり、したがって、私たちは、この栄光について考えると、栄光を経験することが出来るのです。

聖霊なしに、栄光と喜びがあり得ないことです。けれども聖霊の支配のもとに、私たちは周りの困難と苦しみを忘れ、喜びに満ち足りるのです。私たちは、来たるべき栄光を、感じないかもしれない。
けれども信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確信することです。
もうしばらくすれば、来たるべき方がお見えになる。遅くなることはない。我が義人は、信仰によって生きる。信仰は、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない栄光を確信すること、信仰はそれなのです。




戻る