神の宮である教会


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/09/27)

引用聖句:マタイの福音書16章16節-18節
16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
18ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

マタイの福音書18:17、20
17それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

コリント人への手紙第I、12:27
27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

エペソ人への手紙2:20-22
20あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
21この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
22このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

ヨハネの手紙第I、4:17
17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

今日のテーマは「神の宮である教会」であります。3つの点に分けて考えましょう。
第1番目集会一つ一つの必要性
第2番目主の御心に対するいくつかの致命的な妨げ
第3番目各集会の目的と働き

霊なる神の住まいである教会の目的とは何であるかと言いますと、全世界のどこででもイエス様の代表、あるいはイエス様の代理であることです。
教会とはイエス様です。本当に絶えず覚える事実じゃないでしょうか。教会とはイエス様ご自身です。
イエス様は、父なる神の宮であり住まいです。けれどもイエス様だけではなく、あなたの内に住んでいる、私の内に住んでいるイエス様です。

教会とは、コロサイ人への手紙1章27節によると「あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである」とあります。
教会である霊なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、またイエス様に結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一です。
これは教会です。すなわち教会とは、100万の教派、グループ、交わりの分かれているキリストではありません。

パウロは、コリントに住んでいる兄弟姉妹たちの間で起こった争いのことを聞いた時、憤激して次の質問を設けたのです。「キリストはいくつにも分けられたのか。」
そしてパウロは、この信者たちに何と書いたかと言いますと、「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」と書いてあるのです。
教会である聖なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、またイエス様に結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一である。これは教会です。

分かれていない統一とは、言い表すことのできない価値であり、勝利と辛抱と成長の秘訣であります。従って、これから独立している他の考え、他の声、他の意思は、悪魔は分離させようと努めています。これを考えると私達は、各集会がいかに大切であるかが解かります。
各集会の生活上、必要な特徴、必要かくべからざるの品性について、ちょっと一緒に考えたいと思います。
イエス様を各集会において、共同に現すことは非常に大切です。どこの場所でもイエス様は、信者たちによって共同的に現すべきてす。前の、何回も読まれましたマタイの福音書18章20節に、

マタイの福音書18:20
20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

と書いてあります。これは何を意味しているのでしょうか。この二人または三人の信者は、イエス様のからだを意味しています。けれども、イエス様がご自分のからだの頭ですから、ご自分で参列しなければならないのです。
それともこれを言い換えると、イエス様はご自分の満たしを現すために、ご自分のからだである信じる者たちを必要とします。
けれどもコリント人への手紙第I12章14節のように実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものから出来ているとあります。

コリント人への手紙第I、12:14
14確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

全世界の信者たち全部を意味しています。けれども、27節に同じパウロが次のように宣べ伝えています。

コリント人への手紙第I、12:27
27あなたがたは

コリントにある神の教会である兄弟姉妹たちは、

コリント人への手紙第I、12:27
27キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

と言っています。けれども、それでパウロはコリントにある兄弟姉妹たちに宣べ伝えています。すなわち各集会に宣べ伝えているのです。
イエス様は、教会なしにご自分を現すことはできません。もし、あなたは本当に新しく生まれた者であるならば、イエス様は聖霊によって、あなたの内に住んでおられます。
またあなたは、聖霊の支配のもとに主を現すことができるのです。イエス様が個人個人の信者によって、ご自分のご栄光を現されます。けれども、ご自分の満たしを現すことができません。信者たち全部が共同的にイエス様の満たしを現すことができるということを、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。

イエス様は「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と言われたのです。すなわち一人がわたしの名によって集ったところには、わたしもそこに居るなどと言わなかったのです。
もちろんイエス様が、聖霊によって、個人個人の信者の内にすんでいることは事実ですけれども、ここでイエス様は意識して、ご自分の最高の御心を現すために「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とおっしゃいました。
けれども、イエス様が17節に教会について、すなわち各集会について話して、20節にこの偉大なる約束をされました。

このふたりまたは三人とは、各集会を意味しています。イエス様の共同的な現しは、非常に大切です。
イエス様は、ご自分の満たしとご自分のご栄光を、教会全体によって現さなければならない。
どこにおいても教会は、イエス様の代理であるべきです。そして、集会一つ一つの必要はかくべからざるの品性について考えた。

2番目、イエス様の御心に対するいくつかの致命的な妨げについて考えたいと思います。まず、個人主義について、一文述べなければならないのではないかと思います。
何と多くのクリスチャンたちは、共同的じゃなくて、個性的に生活します。これは致命的な妨げです。といいますと個性は霊的な満たしや、霊的な成長や、霊的な力と光と霊的な生活が個人主義によって妨げられます。
多くの人は、一個人のために一生懸命働いて、教会全体を見ないのです。

ところで主の目的は、個人個人の成長だけばかりでなく、ご自分の教会である、ご自分のからだである教会が御心です。
イエス様は、十字架に架かった時、個人個人の救いのためばかりではなく、ご自分の教会のためでした。
五旬節の日からイエス様の再臨までに、何人かの救われた男や女は問題ではなく、主の御心なのは、ご自分のからだである教会です。もし私達はこれを認めなければ、自分の霊的な生活と敬虔を制限することを意味します。

多くの信者は個人個人の救いのために力を尽くして働いています。そしてこの人、あの人が救われたら、彼らはすぐに他の人を探し、彼らを救おう、すなわちイエス様の方に導こうと努めています。
もちろんこれは、決して決して悪いことではありませんけれども、もしこれが全部だったら、致命的な妨げを意味します。
したがって、多くの兄弟姉妹は自分の救いの確信を得、神との平和を得てから、前進しなくなっています。彼らは始めの簡単な救いの事実だけを自分のものとし、他の霊的な事実を認めることができません。これは、彼らは結局、無力となったからです。パウロは、このことをコリントの兄弟姉妹に言わなければならなかったのです。

コリント人への手紙第I、3:1-3
1さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
2私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

ヘブル人への手紙の著者も似てることばを書いたのです。

ヘブル人への手紙5:12-14
12あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
13まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

パウロの時代でさえも、この致命的な妨げがありました。パウロは上からの光によって、上からの啓示によって教会の秘密を知るようになったんです。
けれども、この時代の多くの信者たちは、主なる神の最高の御心を知らなかったのです。残念ながら今日の時代の信者たちも、無力になりましたから、教会の秘密を認めることができません。
イエス様を信じる者に、イエス様の最後の御心は何でしょうかねと聞くと、非常に困る人々は少ないのではないでしょうか。個人主義は、主の御心に対する致命的な妨げです。

私達は今から、教会全体を見てみましょう。なぜなら教会全体だけが、イエス様の最高の権威と栄光を現すことができるからです。次に主の御心に対する他の致命的な妨げとは、有力な系統、主な教会の組織なのではないでしょうか。
私達は一度言いたいのです。教会とは、100万の教派、交わりの分かれているクリスチャンたちではありません。キリストはいくつにも分けられたのか。もちろん絶対にそうではありません。したがって、今日の有力な教会の系統は、イエス様の御心に対する致命的な妨げを意味します。
今日の有力な教会の系統というのは、集り、又は集会所あるいは教派や宗派を意味しています。そして信者たちは、関係ある教会へ行って説教を聴いて、話を終わった時、すぐ家へ帰ります。これは主イエス様との共同的な現しではないでしょう。

各集会の兄弟姉妹は、イエス様の代表あるいはイエス様の代理であるべきです。私達はイエス様のからだであり、そしてからだの使命とは、頭かしらの偉大さと満たしを現すことです。そうしなければ、私達は霊的に前進しないのです。
ただ教会へ行くこと、集会へ出席することとは充分ではありません。イエス様は私達全体を通して、ご自分を現すことができるかが問題です。
今日、多くの教会の状態はひどい霊的な未成年です。これは主の御心に対する致命的な妨げとなってしまいました。

もう一つ、伝道会だけを大切にすることは、御心に対する致命的な妨げであります。伝道会の必要さは、誰でも解かっていると思いますが、伝道会だけがあれば信者たちは、少しも前進しないのです。
ですから私達は、初めから聖書の学び、また礼拝を始めたのです。新しく生まれ変わった人は、霊的に成長しなければならない。そうしなければ、イエス様のからだとして、主の満たしを現すことができないのです。
伝道することは大切ですけれど、問題なのは信者たちの共同的な働きと愛情によって、からだの頭であるイエス様の満たしを現すことが問題です。

私達の礼拝や学びがあることは、我々の興味ばかりでなく、主の御心です。なぜなら、今天上にある諸々の支配や権威が教会を通して、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、我々の主イエス様にあって実現された、神の永遠の目的に沿うものであるとエペソ人への手紙に書いてあります。
私達は、花束と鉢植えの花の区別が解かります。と言いますと、花束の各々の花は、同じ命を持っています。花束は集った花だけですが、鉢植えの花は、植物と根を持っていますから成長します。なぜなら鉢植えの花は、有機体だからです。
同じように集った兄弟姉妹たちは、同じいのちすなわち永遠のいのちを持っていますけれども、もし彼らが一つの教派として組織的に集ると、また個人的な祝福を得ようと努めている信者たちは、主の御心を満たすことができません。私達の場合はどうでしょう。花束に似ているでしょうか。

私達は、信仰によって義とされた人たちであり、神の平和を持っていますけれども、霊的な生活はあまりにも前進しないかもしれない。主の御心は、花束ではなく鉢植えの花と植物と根全部が御心なのです。
すなわち個人的に生活しているキリスト者は、またバラバラになってしまった信者は可哀想、用いられない。
もし、私達は共同的にイエス様に奉仕したいならば、またイエス様のからだである地域集会のために祈り、忍び戦うならば、悪魔の攻撃と恨みに気がつくでしょう。

最後に、イエス様のからだである教会の目的と働きについて、ちょっとだけ考えたいと思います。
霊なる神の住まい、イエス様のからだである教会の目的と働きとは、いったい何なのでしょうか。
旧約聖書の時代の宮は、新約聖書の時代で霊的な事実となりました。また教会全体の霊的な事実は、地域各集会にもあてはまるべきです。新約聖書を読むと教会全体と地域集会は、関係していることが解かります。

したがって、パウロはコリントにある地域教会の信者たちに、「あなたがたは、神の宮である」と書きました。
もしコリントのクリスチャンたちが「ああ、私達コリントの信者は神の宮である。私達だけが神の宮である。あなたがたコロサイの信者たち、またピリピに住んでいる信者たちは、神の宮ではない」などと言うと、これはいけないこと、嘘だということが解かるはずです。
なぜならば、新しく生まれ変わった人たち全部が、神の宮だからです。

けれどもどうしてパウロは、コリントの人たちに「あなたがたは、神の宮である」と書いたのでしょうか。からだ、教会全体の霊的な事実は、各集会にも当てはまりますから、地域集会と集会全体の使命と目的は同じだからです。
聖書を見るとはっきり解かります。すなわち、主なる神と人間との会合の場所とは、結局イエス様のからだなる教会です。
からだなる教会の目的と働きとは何でしょう。旧約聖書の宮の目的はいったい何だったでしょう。

始めに宮は、主なる神と人間との会合の場所でした。同じように、これは霊なる神の住まいである教会の第一の使命と目的です。私達の愛する主イエス様は、神と人間との会合の場所そのものです。
イエス様が弟子たちに尋ねて言われた。「人々は、人の子を誰と言っていますか。」その時シモンペテロは答えました。「あなたこそ生ける神のキリストです。」人々は、人の子と言った。ペテロは神の子と言ったのです。これこそがペテロに与えられた啓示でした。
イエス様は、神と人間との会合の場所でした。イエス様は後に「わたしは神の宮を打ち壊し、3日の後に建てることができる」と言われました。言うまでもなく、イエス様は、石と木でできた宮を思わないで、ご自分のからだの宮を思われました。イエス様こそ神と人間との会合の場所です。

さて新約聖書によると、イエス様を現す動機は教会です。したがって、生き生きとした教会は、イエス様の代理であるべきです。共同的にイエス様を現す教会で、人間は神に会います。このような教会によって、人間は主なる神との尊い交わりを得ます。
私達は、初めてこのような生き生きとした教会を、イギリスのロンドンで、その後でマニラで最後に香港で経験しました。その時、ただ一つのことを言わざるを得なかったのです。「主はそこにいます。」と言わざるを得ませんでした。
もし、未信者が我々の集会にまいりますと、その人は顔を伏せ神を拝み、真に神があなたがたの内にいると認めざるを得ないのではないでしょうか。初代教会はそうでした。

コリント人への手紙第I、14:24-25
24しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
25心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

また、あなたは他の兄弟姉妹との交わりによって、主に会いますか。もしそうしたら、この集会は御心にかなったものです。
多分アメリカ人だったと思うんですけれども、ゴートン博士という男は小さい本を書きました。題名は「主イエスは、いかに私の教会へ来ましたか」という本です。
彼はある土曜日に、次の朝のメッセージのために準備しました。途中で居眠りしてしまったのですけれども、夢を見ました。彼が自分の教会で説教しました。教会はとても立派な建物でしたし、この日曜日は教会はいっぱいでした。

突然、戸をあけて知らない人が入ってきました。この人はとても目立った人でしたから、説教者はすぐに気がつきました。空いている席があまりなかったので、よその人がしばらくの間、場所を探したのです。
このゴートン博士は、説教のうちにいつもこの知らない人が目にうつりました。博士はどこを見ても不思議にこの人の目を見ました。説教の後に彼はどなただろうと考えながら、知らない人を追いかけ始めましたが、追いつきませんでした。
そして、教会の門番に尋ねて「あの知らない人はあなたは知っているの」「その人はナザレのイエスだった」と聞いた時、博士は大変びっくりしてしまいました。彼は、この出来事についてよーく考えました。

イエス様は、私の教会を訪ねたんです。私は何について説教したのでしょうか。イエス様は、何を考えたのでしょうか。イエス様は、私の話を聞いた時、本当に喜んだのでしょうか。
私は、イエス様がここにいると確信しながら証ししたのでしょうか。イエス様は、我々の歌について何を考えたのでしょうか。イエス様が本当に喜んだのでしょうか。この集いはイエス様のために、伝える集いだったのでしょうか。
イエス様が本当に心から喜ぶことができるのでしょうか。ご自分の御心にかなった集りだったのでしょうか。とゴートン博士は考えたのです。

ここまでがその小さな本の内容です。けれども私達の言いたいことは、我々の教会に対する考えは、主のからだなる教会に対する考えはいかがなのでしょうか。ゴートン博士の本の中では、教会とイエス様との区別があったんです。
けれどもこのような教会は、神の教会ではありません。これは人間の作った教派あるいは宗派にすぎないのです。主なる神の教会は、主イエス様こそなのです。
もし私達は、神の御心にかなった教会へ行くと、あなたはあそこで主イエス様に会い、ここに神がいるといわざるを得ないでしょう。

もし私達が人間的に、良い説教を聴いて、親切な人にだけ会えばこれは神の教会ではない。主なる神の教会は、イエス様でありそしてイエス様は、諸々の集会の支配者であるべきです。そうしたら初めて、私達は神の声を聞き、未信者は顔を伏せ神を拝み、まことに神があなたが交わりを与えることができるのです。
もし、イエス様ではなく、私達自身、自分の力で人を導こうと努力すると、永遠にかかっても決して人は主に会いません。
もし、私達が聖霊の支配のもとに共同的にイエス様を現すと、人々は我々によって、主なる神に会うことができます。

ちょっとエゼキエルの宮を見て観察しましょう。宮の建物は、主の御心にしたがって完全にできた時、水が宮の敷居の下から流れたと書いてあります。そしてこの川を流れる所では、すべてのものが生きていると書いてあります。
同じように、主なる神の教会から生きている水が流れます。イエス様のからだである教会は、天の器であり、この器から主のいのちが流れてきます。そして、この川の流れる所では、すべてのものが生きていると。ですから、いつの時代でも悪魔はこの教会を、共同的な働きを壊そうと努めていました。
教会の不一致は、悪魔の大きな喜びです。今日の100万の教派や宗派は、悪魔の仕事です。血がちょっとだけ止まるとからだ全部が、それをすぐ感じるでしょう。一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感じるでしょう。二人の信者だけでも統一を持っていなかったら、教会全部が前進しません。

旧約聖書に書いてあるアカンという男は、確かに罪を犯した。罪によってイスラエルの民全部が前進しなかったと聖書は言っています。同じように、新約聖書のアナニヤとサッピラの罪によって、初代教会は妨げられました。
からだの肢体の一つだけでも病気だったら、からだ全部が病気です。教会すなわち信者たちがみな一つになったら初めて、イエス様のいのちが絶え間なく無尽蔵に流れます。そうしたら初めて教会は、イエス様の満たしを現すことができるのです。
主の御心の具体化と表現とはどういうものでしょうか。どうあるべきなのでしょうか。

旧約聖書の時代の宮は、主の御心の具体化と表現そのものでした。なぜなら、主は、材料や材木の長さ太さなどをはっきりと命じられました。
ですから、各々の石、各々の柱は主の御心の具体化と表現だったのであります。
同じように、教会は主なる神の御心の具体化と表現であるべきです。

ペテロの手紙第I、2:9
9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

霊なる神の住まいである教会は、主のみわざを語り伝えなければならないのであります。主の力あるわざを伝えることは、からだなる教会の目的であり、与えられている使命です。
旧約時代の宮は、主なる神のみわざを伝えました。私達も神のからだなる教会として、主の御心の具体化と表現であるべきです。我々の場合はどうでしょうか。主の御心の具体化と表現なのでしょうか。
あらゆる各集会は、主の御心の具体化と表現であるべきです。あらゆる地域集会は、主なる神のみわざを伝えなければなりません。けれども、言葉によってだけではなく、共同的な生活によって宣べ伝えなければなりません。

説教やメッセージばかりでなく、開かれた天国、聖霊の支配のもとに現された、からだなる教会の秘密が問題です。けれども、そのために生き生きとした教会が必要です。もし、信者が霊的に疲れていて興味もなく、半死半生なものとして集会へ行くと、主は制限されます。主は備えられた祝福を与えることができません。
私達は、御霊によって集会に出席しましょう。そうしたら初めて私達は、主の御心の具体化と表現があるのです。
私達はこの時代に対する主の御心を解かったでしょうか。そうしなければ、我々の祈りは結果のない祈りです。からだなる教会の使命と目的は、主の御心の具体化と表現であるべきです。

最後に、主の支配と権威について考えて終わります。
旧約時代の宮は、主なる神の支配の場所でした。もしイスラエルの民に何か起こった場合、そのための裁判する場所は宮でした。
同じように、新約時代も裁判する場所は教会です。

ペテロの手紙第I、4:17
17なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

マタイの福音書18:15-17
15また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
16もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
17それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

17節に教会に申しなさいとあります。なぜなら教会は、裁きの場所であるから、教会は神の支配と権威の場所だからです。共同的にイエス様を現している教会は、神の目の前にとっても価値あるものだということを絶えず覚えるべきです。
ですから私達は、この地方で主なる神の代表であるように、いのちのため光のため、光の力のためにこれは絶対必要なのです。
私達は、主なる神の御心にかなったからだなる教会に属しなければいけません。私達は、主なる神は、からだなる教会の真ん中におられなければなりません。私達みんなこのような教会は必要です。

主のからだなる教会は、人間が組織的に作ったものではなく、御霊から創られた霊なる神の住まいです。このようなものは、主にとって考えられないほど大切です。
イエス様は「わたしは、わたしの教会を建てる」と言われたから、本当に感謝でいっぱいです。もし、私達は神の御心の具体化と表現の使命を満たしたいと思うと、私達は主の心にかなった教会であるべきです。このことについて、真剣に考えましょう。
もちろん結論から言えます。祈りによって、ただ祈りによってだけ、私達は主なる神の代表、主の代理となることができます。主の永遠からの定められた目的が、実際になることができ、現実になることができるのです。




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