引用聖句:ヨハネの福音書20章11節-18節、24節-29節
10日前だったと思うのです、あるドイツにいる友達は、スイスにいる友達にEmailを送ったのです。その友達から同じものをもらいました。非常に考えられる大切なEmailだったのでしょう。 今日はイエス様のとられる態度と、われわれのとるべき態度について少しだけ考えてみたいと思います。 Emailの題名は、「考えなさい。」 「昨日、私たちが、主に感謝するために時間を作らなかったら、 今日、主は、わたしたちを祝福するために時間を持てないとしたら、どういうことになるでしょう。 今日、私たちが、主に従順に従わなかったから、 明日、主が私たちを導こうとしないとすれば、いったいどういうことになるでしょう。 今日、私たちは、みことばを読まなかったから、 明日、主が、私たちの聖書を取ろうと思うとしたら、どうでしょう。 もし、わたしたちが、みことばを伝える人に耳を貸さなければ、 主が私たちに語ることをやめるとすれば、いったいどうでしょうか。 私たちが隣の人のために心配し、愛しているくらいと同じくらいしか、 主は、わたしたちを配慮し、また愛し、信頼してくださらなかったらどうでしょう。 昨日、私たちは、主の声に耳を貸さなかったから、 今日、主が、わたしたちの祈りを聞き届けようとしなければ、考えられないことになるに違いない。 私たちは、すべてを主に捧げようとしなかったなら、 主は、今から聞く耳を持とうとしなければ、これこそ、悲劇そのものでしょう。 私たちが、主を大事にしなかったから、 主はわれわれの必要に対して知らん顔をすれば、いったいどうでしょう。 (主は、そんなお方ではありません。) 」 主は我々と違うから、これこそ救いなのではないかと思います。 イザヤ書42:3
何回も質問もあったのですけど、答えはエレミヤ哀歌にあるのではないでしょうか。 エレミヤ哀歌3:22-26
結局、主は変わらないお方です。主の愛も変わらない。けれども、主が憐れんでくださらなければ、おしまい。結局、主は全部長い目で見ておられる。最後、最後のことまで全部知っておられるお方です。我々と違う。 我々の見方によって変わるのではないでしょうか。われわれの取るべき態度こそが、考えられないほど、大切です。 ヘブル人への手紙の著者は、わかったのです。イエス様から目を離すと、おしまい。沈むようになる。ですから本物であるイエス様から目を離さないでいなさい。 ヘブル人への手紙12:2
人間は簡単に惑わされます。本物のイエス様は不可能なことを要求しません。与えるお方です。偽物ではなく、本物です。イエス様は、導きたい、教えたい、守りたいと心から望んでおられます。 この本物であるイエス様は、人間の罪を確かに明るみに出すお方です。でも、それだけではなく、赦して忘れてくださるのです。 人間が主に近づくよりも、主は、まず近づいていて下さるお方です。いつも、聞き耳を持ち、答えてくださるお方です。そして、恵もうとされているお方です。本物のイエス様を仰ぎ見ると結果として崇拝せざるを得ないのではないでしょうか。 人間は、試練があってもなくても悩む者です。けども、問題を持つことは問題ではない。問題に対する態度こそが問題です。 何があってもいつも覚えるべきことは、主は生きておられるということです。たとえば、私たちはいろいろなことを聞くとします。その時、別に自分で考えなくても、問題について考えなくても、その正しい返事とは、「主が生きておられる。」、この態度をとると全然違います。 なんでも、知っておられ、なんでもできるお方、死を克服してくださったお方こそが、生きておられるお方です。 主が生きておられるという表現は、聖書の中で何回も何回も出てきます。もっとも大切なのではないでしょうか。 いわゆる甦りの書と言われている箇所をちょっとみてみましょう。 コリントの兄弟姉妹は確かに救われたらしいけど、なかなか成長しなかったのです。霊的な障害者でした。パウロの悩みの種でした。だから、彼がもっとも大切なこととして書きました。 コリント人への手紙第I、15:3-9
パウロはここで、「私は最も小さな者で価値のない者です。」、主の目から見ると彼は尊い者でした。どうして尊い者であったかと言いますと、「私はダメだ。」と、書いただけじゃなくて心からそう思ったからです。 このパウロとは、どうしてイエス様を信じるようになったのでしょうか。監禁され、捕まえられたからです。理屈で責められ、納得させられたからではない。また脅かされたかたでもない。 パウロは復活なさったイエス様にお会いしたため救われ、それからは命をかけてイエス様の復活を、イエス様ご自身を紹介するようになりました。 おそらく20年前でしょうかね。ある葬儀だったのです。ある姉妹のお母さんの葬儀だったのです。お母さんは、素直にイエス様を信じ救われ、生ける希望を持って死に向かうことができたのです。 ご主人は、病気だったのです。もちろん自分の奥さんでしたから葬儀に参加したのです。車いすだったのです。お父さんは立派な人格者で、裁判官だったのです。 けど、奥さんの葬儀を通して、彼は心を開いたのです。やっぱりこれこそ本物です。私もイエス様を信じますと言うようになったのです。 けど、ある時疑問が出てきたらしい。娘に言ったのです。「イエス様が私の身代わりに死なれたのは、ほんとうにありがたいけど、甦ったこと、ちょっとピンと来ない。」 娘も、もちろん裁判官であるお父さんと議論したくなかったし、連れて来たのです。父親とお話ししました。「父は、ふたりきっりになったら聞くかもしれない。」、その通りでした。 彼女が姿を消してから、すぐ「イエス様を信じます。ありがたい。罪滅ぼしのために死なれたのは本当にうれしい。けどね、甦ったこと、ピンと来ない。」 彼は、裁判官だったのが助けになっちゃったのです。私は、 「お父さんね、お父さんはずーと何十年間、裁判官として働いたでしょう。その裁判の時、大切なのは裁判官の気持ちでしょうかね。裁判官の考えていることですか?あるいは、自分の目で見た証言者の証言ですか?」 もちろん彼は、答えたのです。「裁判官の考えは、関係ないよ。大切なのは、証言です。見たこと、聞いたことです。」 「お父さん、復活されたイエス様に出会った人は五百何十人だったよ。」 コリントのこの手紙について話し合ったとき、彼はもう問題にしなかったのです。もう決まり。 「五百何十人も証言があったら、疑おうと思ってもできません。」、そう言ったのです。当然です。 聖書の中だけではなくて、当時の歴史の本の中でも、ちゃんとイエス様の復活について書き記されています。 そして今日、絶望してしまった人こそが、イエス様の復活の証人なのではないでしょうか。 結局、もう、ぺっちゃんこになり、急に元気になることとは、もう考えられない。 この間、ひとりの奇跡的に変えられた男が、ほかの悩んでる人をうちまで連れて来たのです。 あの夫婦は20年前集会に出たことがあるらしいのです。年はまだ若い53歳。彼は53歳で副社長なのです。なかなかこの歳でなれるもんじゃない。 けどもやっぱり、仕事、仕事ばっかりすると、後悔するのじゃないかと思って、軽井沢で別荘を買ったのです。それで、毎週、土日月別荘を見に来るようになったのです。けど、それにしても、去年の12月に倒れてしまって、おかしくなったのです。精神病院に入るようになったのです。 ちょっと、彼にとってショックでした。病院は、彼にとって刑務所のようでたいへんでした。けども、彼に会った途端、わたしはうれしくなっちゃったのです。「ああ、いい。正直な男だな。」、彼も祈りました。それで精神的に元気になったのです。 2、3日後で医者は、「あなた、精神病院にいるべきではない。退院してもいい。」、まだ働いてないけど、非常時喜んでいる。やっぱり「イエス様は生きておられる。」と、彼は言うようになったのです。そして精神病院で知り合いになった人も、この間連れて来たのです。 新しい命があれば、黙ることができない。ほかの人々に、イエス様を紹介せざるを得なくなるのでは、ないでしょうか。 パウロは、コリント人への手紙第Iの15章を書いたのです。どうしてであったかと言いますと、もちろん必要だったからであります。 彼らはもちろんイエス様を信じましたれども、実際の生活の中で、イエス様の力を体験的に知っていなかったのです。何かあった時に、すぐに落ち込んでしまったし、どうしようという気持ちになったのです。 彼らはいくら努力しても、結局全部失敗に終わってしまったのです。パウロは、このコリントにいる兄弟姉妹の根本的な原因を書いたのです。 あなたがはイエス様を信じている。けれども復活なされたイエス様にまだ頼っていない。相変わらず自分の知恵、自分の力に頼っている。だからうまくいかない。 もし、私たちが生まれつきの性質から解放され、イエス様の甦りの力にあわせられないなら、信仰生活は、上がったり下がったりするでしょう。 当時の弟子たちも、パウロも、甦りの主に出会うことによって完全に変えられたのです。 前に、あるおじいちゃんと会いました。父の友達だったのです。彼はその時95歳でした。彼の証しは忘れられません。彼は、なんと言ったかと言いますと、 「主イエス様は復活なさり、勝利者です。そして、イエス様の勝利は、私の勝利です。イエス様を持っている者は、すべてを持っているし、イエス様を持っていない者は、最も大切なものに欠けている。イエス様に全幅の信頼を置いている者は、決して失望させられることがないと、私は経験した。」 そう証ししてくださいました。「イエス様は、私は最初であり最後であり、永遠なる神である。」と言われました。この考えられない偉大なるお方が、ヘブル人への手紙によると、次のようにあります。 ヘブル人への手紙9:26
イエス様がこの世に来られた目的とは罪を取り除くためでした。聖書によれば、全人類は罪の重荷のもとに嘆きうめき苦しんでいる。すべての人は過ちを犯す者で、わがままであり、主の栄光を受け入れられなくなってきていると、言っているのです。 罪の支配は恐ろしいです。永遠の滅びです。罪は罰せられなければならない。主なる神はいかなる罪をも見逃すことができません。罰せられなければ、赦しはあり得ない。聖書の中で大切なひとつは、血を流すことがなければ罪の赦しはあり得ない。 聖書の喜びの訪れは、十字架の上でのイエス様の死を通して、全人類の罪がすでに罰せられているということです。 私たちが受けなければいけなかったはずの罰を、イエス様はご自身の上に受けてくださいました。十字架につけられた方、すなわちイエス様は、自分に対する聖なる父の裁きを、ご自身の身の上に引き受けて下さり、完全な贖いを成就してくださいました。 イエス様は、いけにえになることによって、自分をささげられた命によって、罪を取り除かれたと聖書は言っています。 イエス様は、われわれ、ひとりひとりの我が儘のために、十字架につけられた。すなわちイエス様は葬られ、すべての罪人のために死の刑罰を受けた。 ある人々は、確かに人殺しになっています。けど我々ひとりひとりは、「神殺し」になったなのではないでしょうか。私たちの我が儘のゆえに、イエス様は犠牲にならなければ、ならなかったのです。 初代教会の兄弟姉妹は本当に、大いに喜んだ人々だったのです。変な目で見られても、誤解されても迫害されても、彼らは、喜びに満たされた人々だったのです。 いったいどうしてでしょうか。 使徒の働き2:32
使徒の働き3:15
このイエス様の弟子達が、当時の知られている全世界に出かけて、「イエス様は生きておられる。」と宣べ伝えたのです。 このイエス様の甦りとは、どうして、そんなに大切なのでしょうか。 まず、イエス様の甦りは、イエス様の神性を証明しているから。すなわち、イエス様は初めのない終わりのない永遠なる神です。 イエス様は、はっきり当時の宗教家たちに言われました。「わたしは甦りです。」、わたしは永遠なる神であり、約束された救い主である。 ほかの言葉で言えば、「もし、私が、3日目に復活しなければ、あなたがたは、皆、騙された者であり、私は詐欺師、うそつきだったということです。私の甦りこそ、私が約束された救い主、罪を取り除くものであるとイエス様は言われました。 2番目に、イエス様の甦りは、イエス様が私たちに罪を担われた証拠でもあります。 イエス様の死という犠牲が、我々の、過ち我が儘を贖うのに十分であると、聖なる父なる神が認められたことを意味しているのです。 もう一つ、イエス様の甦りは死に対する勝利を証明しています。 ヨハネの福音書5:24
人間は裁かれるか、あるいは生きている間に永遠の死から永遠の命に移れるかのどちらかです。 パウロはローマいる兄弟姉妹に書いたのです、 ローマ人への手紙8:1
聖書のなかで良く出てくる言葉は、「私はあなたの罪を二度と思い出さない。」、永久に忘れる。イエス様の甦りが、主なる神がいけにえとしてのイエス様を受け入れた証拠です。 そして主なる神は、それを3つの大きな事実によって証明してくださったのです。 第1番目、エルサレムの宮の幕を裂くことによって、 第二番目、空の墓によって、 第三番目主が高められたことによって。 エルサレムの宮の幕を裂くことによって、イエス様の代わりの死が全人類を救うのに十分であることを証明したのです。 神殿の中の幕は、いわゆる聖所と至聖所を分けていたのです。大祭司だけ、一人だけ毎年一回だけ、罪のない動物の血を携えて、至聖所に入ることができたのです。主なる神は、その至聖所でご自分のご臨在を啓示されました。 イスラエルの民は、罪を犯したため、その至聖所にはいることが許されなかったのです。普通の祭司たちもレビ人たちも一回も入ることができなかったのです。大祭司だけ。毎年1回はいることが許されただけなのです。そして、流された血を持っていった時だけ許されたのです。流された血は自分の罪のために、すでに他の者が罰せられ、ほかのものが死なれ、自分の罪を贖ってくれたことを意味しています。 イエス様の甦りは、イエス様がまことの救い主であることの証拠です。イエス様が、救いの道を開かれたから、神殿の幕が裂かれたのです。上から下まで裂かれたのです。結局、隔ての壁が取り除かれました。 流されたイエス様の血に基づいて私たちは、毎年1回だけじゃなくて、毎日、そして毎日何回も何回も、喜びをもって、聖なる主に近づくことができるのです。 確かに主の復活が事実、神がイエス様をいけにえとして受け入れた証拠であります。 2番目に空の墓によって、父なる神がイエス様の身代わりの死が全人類を贖うのに十分であると証明してくださったのです。イエス様の墓に屍はありませんでした。 彼の墓は、主なる神がご自身の全能を現された場所です。彼の墓は、救いが確実なものになったと言っています。 彼の墓は、主なる神がイエス様のなした救いの働きを認めたことを証明しています。彼の墓は、イエス様が甦った証拠でもあり、彼の墓は預言が成就された場所です。彼の墓は、我々に何を物語っているのでしょうか。 マタイの福音書28:6-11
この箇所を見ると、言えることは、空の墓は希望の場所です。6節、「前から言っておられらように、よみがえられたからです。」 また、空の墓は喜びの場所でもあります。8節、「彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、」 空の墓は慰めの場所です。10節、「恐れてはいけません。」、空の墓は崇拝の場所です。9節、「イエスを拝んだ。」、空の墓は奉仕の場所です。10節、「行って・・言いなさい。」 今まで学びましたように、神殿の幕を裂くことによって、そして空の墓によって、主なる神が犠牲としてのイエス様を受けいれたことがわかります。 もうひとつ、イエス様が高められたことによっって、父なる神が犠牲としてのイエス様を受け入れたことがわかります。 父なる神は、イエス様が甦られた後、ご自分の右をイエス様の座としてお与えになりました。右の座とは栄光の場所です。力の場所です。尊厳の座であります。 ヘブル人への手紙1:3
イエス様は実際に復活なさいました。このイエス様を神は甦らせて、そして私たちは皆その証人である。イエス様は甦られたので、私たちは、またイエス様が再臨される証拠をも与えられているのです。イエス様は今日、来られるかもしれない。 イエス様はこの地上に、人間の体を持って来られましたが、けれども命を与える力を持っておられたので、死なれた後に甦ることができたのです。 イエス様は犠牲になり救いの代価を払って、亡くなられたのですけど、復活なさって、いま欲する人に永遠の命を、罪の赦しをご自身の平安を与えることができるのです。 マタイの福音書28章の女たちの態度をとることができる者は、本当にすごいのではないでしょうか。 マタイの福音書28:8
大喜びで、復活なされたイエス様を紹介することこそが、我々みんなに与えられた使命なのではないでしょうか。 エレミヤ書8:20
この箇所に基づいて、スイスに神学校を作ったアレクサンドルと言う人は次の歌を作りました。 恵みの時は、終わりに近づいている 広い世界に静かに今は終わりの日が近づいている。 わたしたちを照らす神の恵みがなく、 わたしたちは苦しみとやみの中、暗い道を行かなければならない。 永遠に、永遠に あなたたちは、歌い喜びに満ちている。 自分が神の子であると。 しかしわたしたちは、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。 あなたがたは、なぜ立ち止まっていて、 夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。 あなたがたはなぜ、神様がそのひとり子を遣わして、 自分たちを愛していることを教えてくれないのか。 あなたちのおかげで私達は、それを知らずに希望なく、滅び行くのだ。 死は永遠から永遠に至るわれわれの運命なのだろうか。 私たちには星が輝かない。 約束の光も照らされない。 遠くのほうに、裁きの雷が聞こえる。 なぜ、なぜ、あなたがたは急がないのか。 神は、行って、全世界に、十字架の勝利者を宣べ伝えなさいと言っているのに。 あなた達は、私たちの哀れな心のために、喜ばしく知らせを持っているのに。 傷を癒す薬を持っているのに... なぜ、そんなに長く沈黙しているのですか? あなたたちの信仰の岩に、至る道を示す言葉を私たちに聞かせてください。 わたしたちの涙をぬぐってください。 わたしたちが死につくとしたら、あなたがたのせいです。 わたしたちの夜は近づいています。 私たちは、私たちの魂をサタンの力に与えなければならない。永遠に。永遠に。 待ちこがれている魂の所へ、十字架の言葉を運ぶ者となさしめ賜え。 彼らが永遠に滅びないように。 マタイの福音書28章の女たちは急いで走っていったのです。主は生きておられると、宣べ伝える特権を持つようになりました。私達も、もちろん同じ特権を持っているのです。 主は、生きておられる。どういう問題があっても、どうして、なぜか、なんのためかと考えないで、ただ、主は生きておられると考えると、やっぱりまた、希望を持って前向き生活ができるのです。 |