イエス・キリストのからだなる教会


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/01/17)

引用聖句:ローマ人への手紙12章1節-5節
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
3私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
4一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
5大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

コリント人への手紙第I、12:12-27
12ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
14確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
15たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
16たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
17もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
18しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
19もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
20しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
21そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。
22それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
23また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
24かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
25それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

先週私たちは、主なる神の永遠からの予定についていっしょに考えてまいりました。もちろん永遠とは何であるか全くわかりません。想像できない。けれども主は永遠の昔から何をお考えになったのでしょうか。
先週私たちは二つの個所をおもにいっしょに学んでまいりました。あの二つの個所を通して、主のご予定とは何であるかはっきり示されています。
初めの個所はローマ人への手紙8章の29節でした。

ローマ人への手紙8:29
29神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

神はこのことについて考えたとき、もちろん罪という問題は存在していなかった。人間もまだひとりもいなかった。いたのは、初めのない終わりのない主イエス様でした。
それからもう一ヶ所、

ヘブル人への手紙2:10
10神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

この個所を見ると結局、罪という問題によってこの予定は変わらない。主は救いの創始者であられます。
結局主が多くの兄弟たちの中で長子となられること。また、多くの子たちを栄光に導くことこそ、主のもっておられた目的です。父なる神は御子なる主イエス様だけではなく、多くの子らを、子たちを自分のものにしたかったのです。

イエス様が長子となることが、主の永遠からの目的ですけれど、主なる神は多くの子らを得たいと思っておられましたが、それは、あの子、この子と個々別々の子どもを欲しておられたのではない。
ひとり子であられる主イエス様のために、ひとりの花嫁を望んでおられたのです。イエス様の花嫁は、すなわちまことの教会です。
すべての主の恵みによって救われた人々はまことの教会であり、イエス様の花嫁です。

今日も先週と同じように、主のご目的についてもう少し考えたいと思います。
確かに今、兄弟のお読みになりましたローマ人への手紙12章の中には、「花嫁」ということばが出て来ないけれど、同じ神のご目的について書き記されています。すなわち、イエス様のからだなる教会について述べられています。
ですから今日のテーマは、「イエス・キリストのからだ」、「イエス・キリストのからだなる教会」について少しだけ考えたいと思います。

二つに分けて・・・。
第一番目。みことばを通して示される事実について。
第二番目。人生を通して示される現実についてです。

イエス様のからだの実際的な面について考えると、それは共なる生活の必要性のことです。
共にする生活とは、信ずる者お互いがその喜びと悲しみをともにする生活を言います。また同じ目的を目指す生活を言います。信ずる者の群れはお互いの霊的成長の場所、証しの場所、共に戦う場所、また共に満たされる場所です。主の目的はこのような共なる生活です。
それによってのみ私たちはかしらなるイエス様のからだとして用いられるのです。みことばを通して示されている事実は、まず聖霊の宿によって私たちは主イエス様とひとつにされた。

二番目。同じ聖霊を宿している者は、お互いの一致をもっているという事実です。
もう一回、ローマ人への手紙12章を開きましょうか。本当に大切な個所です。もう一回読みます。

ローマ人への手紙12:1-5
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
3私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
4一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
5大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

この12章について考える前に、今まで学んで来た前の章のことをもうちょっと思い出してみましょうか。

ローマ人への手紙1章から8章までは、一つにまとめて考えることができます。それから続く9章、10章はたとえを語っており、ローマ人への手紙全体から見ると、過去にくくって考えてよいところです。
すなわち、おもに5章では罪の赦しが中心です。6章では、キリストとともに死に、よみがえったことの事実について書かれています。7章では、キリスト者は自ら何もできない。イエス様がすべてであること。8章では、神の御霊に導かれること。これらのことが述べられています。
この8章までの結果が、今日取り上げた12章で述べられています。12章にはいってその初めにパウロは、信ずる者は全てを主にささげて、初めて主に喜ばれる者となると献身を勧めています。

ローマ人への手紙12:1
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

そして続いて12章の5節に至ってパウロはイエス様のからだについて述べています。

ローマ人への手紙12:5
5大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

ローマ人への手紙の最後の16章25節、26節を見ると、このイエス様のからだは、結局父なる神の奥義であって、長く世々にわたって隠されていたが、今の世にあって明らかにされたと記されています。イエス様はこの奥義を私たちに現わし、示すためにこの世においでになったお方です。
また、前に読みましたコリント人への手紙第Iの12章26節、27節。

コリント人への手紙第I、12:26-27
26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

次に挙げる問題は大切な問題ではないかと思うのです。すなわちイエス様が考えておられる救いと、私たちが考えている救いの間には、違いがあるのでしょうか。
私たちの十字架に対する考えと、イエス様の十字架に対する考えの間に違いがないのでしょうか。私たちの御霊に対する考えと、主イエス様のそれの間には違いがないでしょうか。
なるほど私たちは十字架の大切さをよく知るし、いつも十字架のみわざに感謝をささげています。けれど私たちは、十字架そのものはイエス様がある目的を達成されるために設けられたひとつの手段にすぎないということを知っているのでしょうか。

このイエス様の目的はイエス様のからだです。これに至る道が十字架です。
もし私たちが本当に十字架を自分のものとして体験するなら、イエス様のからだが何であるかも知るようになります。
私たちは罪を赦され、救われ、主の前に義とされ、罪の支配から解放されたことを喜んでいます。このような喜びに、失われゆく多くの未信者が救いにあずかって入るということは本当に大切なことです。

けれど救いだけではなく・・・救いだけでは十分ではありません。私たちは前進しなければならない。
主なる神が願っておられることは、滅びゆくたましいが救いにあずかることばかりではない。救われた人々が勝利の生活を送り、イエス様のからだに加えられることを主は心より願っておられます。

私たちがイエス様のからだに加えられることが、どんなに大切なことか、私たちは知っているのでしょうか。
イエス様のからだについて、すなわちまことの教会について語ることは簡単ですけれど、実際にそれを見ることは、また別の問題です。
例えばドイツのベルリンの町の地図を見て研究することと、実際にベルリンの町を見ることは違うのではないでしょうか。料理の本を勉強することと、実際に料理をすることの間には、やはり違いがあります。イエス様のからだに対する教理を研究して、知るだけでは決して十分ではない。実際にそれを見なければなりません。

今日私たちが信者と言いますと、イエス様に救われたひとりひとりの人を考えます。また救いとは罪の赦しだけだと考えています。聖めやイエス様のからだがそれに含まれることはあんまり考えないのではないでしょうか。
そして私たちは、もし私たちの群れの信者が熱心に聖書を読み、祈り、燃えているならば、それで満足するかもしれないけれど、それはイエス様のからだのあり方ではありません。
私たちの救い、聖め、御霊の力、日々の十字架、これらはみなイエス様のからだに至る道であることを知るならば、本当に幸いと思います。

主のご目的は、一人のお方、すなわちイエス様とこのイエス様と一つにされた兄弟姉妹です。
だれかが救われますと、初めその人は救いを自分一人のものとして、自分中心に考えますが、やがてはイエス様のからだにまで考え及ぶようになります。
このイエス様のからだに至るための手段は、今話したように十字架です。私たちがイエス様の一つの部分であるとしたら幸いです。

イエス様、主なる神は一つにされた兄弟姉妹を考えておられます。かしらなるイエス様と溶け合った兄弟姉妹を見ておられます。まことの教会はイエス様のからだであると、手紙を見ると何回も何回も書き記されています。
まことの教会はからだのようなものとは聖書は書かれていません。事実、イエス様のからだの一部であると書かれています。
私たちは本当にイエス様と一つにされたことを知っているのでしょうか。このイエス様と一つにされたということは、実際にそうされたのだということを深く知っているのでしょうか。

コリント人への手紙第Iの10章の17節を見ると、次のように書かれています。

コリント人への手紙第I、10:17
17パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

日曜日ごとに私たちは裂かれたパンを食べます。裂かれたそのパンをあとでもう一度元へ集めれば、元の一つのパンになる。決して二つのパンにはなりません。
イエス様のからだも、これと全く同じです。生まれ変わった兄弟姉妹は、イエス様の霊を内に宿し、イエス様の一部分となったのです。
生まれ変わった兄弟姉妹の中にイエス様は聖霊によって住んでおられます。イエス様はパンのように裂かれたお方ではありません。ですからイエス様とすべての救われた兄弟姉妹は全く一つです。

御霊を宿している兄弟姉妹は一つであって、分けることができないということは、動かすことのできない事実です。これを実際に信仰によって自分のものとする程度にしたがって、主のからだの栄光を経験することが出来ます。
この場合も私たちの信仰にしたがって、この奥義が開き、示されてきます。イエス様は、あなたの信じたとおりになる。今日も御声を掛けておられます。
主は、もし信ずるなら神の栄光を見ると約束しておられるのです。

イエス様はひとりひとりのバラバラの兄弟姉妹に満足しておられません。
私たちが心からイエス様を信ずるなら、そのとき御霊は私たちの心に宿るようになります。
そのとき私たちはキリストのからだになることができます。そしてこのからだに対して主はみこころの全部を傾けてくださいます。

このイエス様のからだの実際的な面をちょっと見てみたいと思います。まず第一に、私たちは心の目を開いて、イエス様は何を願っておられるか、主のみこころを知らなければなりません。
私たちはただ自分自身のために霊的な経験を得ようと努めているのでしょうか、また未信者を私たちの群れに加えるために努めているのでしょうか。
私たちは色々な伝道をしますけれど、そのとき滅びゆくたましいが天国へ行くようにとそれだけを考えているのでしょうか。それとも、イエス様のからだが満たされ、完全になることも願っているのでしょうか。

もしイエス様のからだが満たされるという願いをもつなら、私たちの物を見る目が色々な面で変わってきます。
イエス様のからだの教えはそんなに大切ではない。例えばローマカトリック教会でさえ、この教えをもっています。からだは一つだから教会も一つであると教えます。けれどもカトリック教会は聖書と違ったかしらをもっています。かしらはローマにいます。
聖書で言っている私たちの兄弟姉妹のまことのかしらは天にいます。主イエス様です。イエス様のからだの教えをもち回って、その教えのように教会を作ろうと思ってもできません。それを実際に心の目で見なければならない。

まことの教会がご自分のためにどんなに価値があるかをイエス様が私たちに教えてくださるとき、そこに何が起きるのでしょうか。
その結果はひとつの新しい知識を加えたというだけに終わりません。必ずこの人のうちに何かの革命が起こります。色々なことが変えられてきます。
人々はどのようにして主イエス様のからだになることができるでしょうか。あれをやる、これをやる結果ではありません。ただイエス様の心の内にお受けすることによって、主イエス様のからだとなることができるのです。

私たちがどのような者であるか、全く関係がありません。イエス様が私たちのうちに住んでおられるか、おられないかがことを定めます。
天から下って来られたいのちのパンであるイエス様をお受け入れして、あなたはキリストのからだとなっています。イエス様のからだは、取りも直さずイエス様です。
もう一回コリント人への手紙第Iを見てみましょうか。12章の12節から。

コリント人への手紙第I、12:12-14
12ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
14確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

パウロはここで何を言いたかったのでしょうか。パウロはイエス様とキリスト者は分けられるものではなく、全く一つであることを言いたかったのです。
主イエス様はかしらです。けれどもからだである兄弟姉妹のうちには同じ永遠のいのちが宿っていますから、からだも主イエス様です。イエス様のからだになるには内住の御霊によってだけなることができるのであって、それ以外のものは主に属しません。むしろ、まことの教会の妨げとなるばかりです。
もしイエス様のからだを見るなら、おのれにつけるものは全て除かれなければならない。このために十字架が必要です。十字架は自分の考え、自分のつけるもの全てが除かれるため、主が用いられる手段です。

ある人々は賢く、神のことをよく理解し、主にうまくご奉仕します。しかし教育のない田舎のおばあちゃんのほうが、教育を受けた人々より、よほど主イエス様ご自身をよく知っているといったことをよく聞かれます。
生まれつきの知恵とはイエス様のことを知りえず、主なる神の知識は受けるだけしか与えられない。主に対するご支配も上からの力を着なければできないということを私たちに教えてくれます。
私たちの自らの力は砕かれ、自らの能力に絶望しなければ、まことの奉仕はできない。もしエペソ人への手紙を、「イエス様。どうかこの時代におけるご自身のみこころを教えてください。」とへりくだって読むなら、イエス様はご自分のからだを私たちに示してくださるに違いない。

まことの教会は主ご自身の目指すところです。私たちの自ら出るものは全て抹殺されなければならない。十字架によって自らにつける主に反するものは全てきよめられなければならない。そして日々十字架に磔殺され、きよめられ続けられなければなりません。
私たちは自分の力で主にあずかることは決してできません。私たちのうちに十字架が負わされなければならない。困難や苦しみを通されなければならないのです。

私たちは主のものになったから、決して悪い習慣ではないが、主から出たものではない習慣をもち続けることがあります。
やがてそれは主のみこころにかなわないことを上から教えられ、その習慣から離れなければならないときがやって来ます。それは苦痛を伴いますが、そのようにしてイエス様のからだが建て上げられていくのです。
自分勝手な道を歩んでいくところに、キリストのからだは建て上げられていきません。私たちは主のからだとして自ら欲することをすることができません。

例えば指を動かすとき、筋肉もいっしょに動きます。筋肉だけそのままでいたいと思ってもできません。主のからだもかしらである主イエス様に従わなければならないのです。
私たち全部が、私たちは主のからだであり、自らの力で思いの向くまま一歩たりとも歩むことのできない者であることを知るようになれば本当に幸いです。
あらゆる個人的なものは捨て去らなければならない。

かしらとほかの主体から離れて、自らの道を歩むことはできません。私たちは霊的に前へ進むためには、ひとりではダメです。どうしてもほかの兄弟姉妹といっしょに生活することが必要です。
私たちはほかの兄弟姉妹とともに主にゆだねていかなければならない。ひとりでは主の欲し給うように主に仕えることはできないのです。
この共なる生活を強いるために主は私たちに色々な悩みや苦しみ、困難のうちに導き入れてくださるのです。

私たちはイエス様を必要とするほど、主にある兄弟姉妹の交わりを必要としています。なぜならイエス様のいのちは教会全体に、すなわち主イエス様のからだ全体に沁み込んでいるからであり、われわれに与えられた賜物はすべてイエス様のからだを立て上げるために与えられるからです。
イエス様のからだは生まれつきの性質と全く反対のものです。イエス様のからだは聖さと他に対する全き信頼のうちにだけ立て上げられていくものであり、生まれつきの性質は罪のうちにあり、ほかの人々を心から信頼できないという性質をもっています。
罪の赦しと生まれつきの性質からの解放に心を留めるばかりではなく、さらに進んで主のからだにも心の目を開いていきたいものです。

多くの兄弟姉妹は自分が自分のために多くの実を結ぶために聖められることを願っていますけれど、イエス様のからだのために実を結ぶことを考えません。
十字架は自らの道を選び取ることに死に、ひとり離れた信者になったのではなく、イエス様のからだに加えられたのだということを知るべきであり、私たちに教えています。
もしこれを知るならば、私たちはほかの信者との交わりがどんなに大切であり、尊いものであるかをわかるようになります。そのとき妬みはなくなり、おのれを高めることは消え去り、自らのために働くものはなくなるのです。自分の願い、自分の目的はどこかへ行き、ただイエス様のからだを建て上げることが唯一の願いとなるに違いない。

私たちは多くあってもキリストのからであることを深く悟りたいものです。これは御霊だけが教えてくださることです。御霊により、これを教えられるとき私たちの生活は色々な面で変えられます。これらのことを知り、考えていくと、教会の支配という問題も自然に解かれていきます。
ある人間的な支配は主の御座にいます。主のみこころに逆らって立ちます。
人間的な支配が行なわれるとき、イエス様は教会のかしらではなく、ひとりの人間が教会のかしらになってしまう。そうなると教会は神の宮ではなくなり、ひとつの宗教に陥ってしまいます。まことの教会の中でだれが支配者であるか、人間か、主のみか、この問題はいつもあります。

旧約聖書の中でその例を見ることができます。ダビデの場合がそうです。
イスラエルの民は、新約聖書のキリスト者の群れ、教会と同じく主に選ばれた人々でした。そして新約聖書ではイエス様が油注がれ、全く御霊に満たされたと同じようにダビデは主の選民、イスラエルの指導者、王として主により御霊に満たされました。
けれどダビデがまことの指導者となるまでは非常な戦いがありました。初めにダビデは外敵ゴリアテと戦わなければなりませんでした。ゴリアテはこの世の未信者を意味します。

次にダビデは内敵と戦わなければならなかったのです。すなわちサウルとの戦いです。
サウルは初め、ダビデとともに外敵ペリシテ人たちと力を合わせて戦ったのですけれど、のちにダビデをねたみ、信仰を同じくする者でありながらダビデと戦うようになりました。ダビデを除こうとしたのです。
サウル王は、主に選ばれ神の子とされた人々の間にある、あらゆる組織や制度を象徴しています。サウルはイスラエル人の中で一番背が高く、まだ学識にも秀でていましたが、主のみこころに逆らっていました。ゴリアテがダビデの手によって打ち倒されたから、サウルの本当の支配力は無くなってしまったのです。

主イエスは、今日教会の全き支配者となられることを願っておられます。そのためにまずこの世を表わすゴリアテを打ち殺さなければなりません。この世から全く分類されなければなりません。
私たちの戦いは、決して人間に対する、血肉に対する戦いではなく、天上にいる諸々の悪霊に対する戦いです。
この目に見える霊の力に打ち勝つとき、主の力がわれわれの前にさやかに現われて来るのです。

父なる神はイエス様とそのからだが、ともに支配されることを願っています。
もし私たちがこのローマ人への手紙5章から8章を確実に体験すると、主はわれわれを12章に導いてくださり、私たちは主イエス様のからだを知るように至ります。
十字架は右に曲がり、左に曲がることなく、私たちを真っ直ぐ主イエスのからだにまで導いてくれます。ここに至るとき、今までかつて経験したことのないことが私たちのうちに起こるはずです。

多くの兄弟姉妹は、「イエス様のために、私は全部ささげた。」、「十字架のまことの意味を知った。」、「兄弟姉妹はイエス様と一つにされ、イエス様と一つのからだであることもわかった。」と言いますが、その人のうちに何も起こりません。
これは心の目で本当にイエス様のからだが何であるかを見ていない証拠ではないでしょうか。
イエス様がわれわれの心の目を開いてくださり、霊的に見えるようにしてくださったら、本当に幸いです。そのとき、今まで起こってきたあらゆる苦しみや誤解や悩み、それらのものは主のからだが何であるかを知るために必要であったということがわかります。

あらゆる困難を通して、私たちは有能な、用いられる主イエス様のからだの一部となることができます。
自ら何も良いものが出ない、何も価値のない者だということを知るときイエス様に用いられる肢体となるのです。
主のみこころはエペソ人への手紙の5章27節にはっきりとまとめて書かれています。

エペソ人への手紙5:27
27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

とあります。しみがないということは、全ての罪がかき消され、そのあともとどめていないということです。
しわがないということは、しわは年寄りの印ですから、過去のあらゆる失敗、思い煩いが今はすっかり無くなっているということを意味します。その類のものがないとは、悪魔や悪霊や人に足をさらわれるようなところが全く取り去られてしまっているということを意味します。

私たちが今生きている末の世はまもなく終わってしまうでしょう。悪魔の力はいよいよ強くなり、あらわになってきます。
私たちの戦いは天上にいる諸々の悪霊に対する戦いであると、パウロはエペソ人への手紙6章に書いたのです。私たちは悪霊に打ち勝つために、悪霊を打ち負かすために立てられています。これに勝利を収めるにはひとりの力ではどうすることもできません。何をしてもダメ。
だからこそいっしょになって、いっしょに戦うことが必要です。

よみの力は教会に、イエス様のからだに打ち勝つことはできないとイエス様は約束してくださいました。
マタイの福音書16章の18節です。わたしはわたしの教会を建てます。あなたたち人間にはできないから。わたしはわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てませんとあります。
私たちは自分でひとり信仰生活をすることをやめ、ともに交わりのうちに戦っていくなら、パウロが言うように、私たちはこれら全てのことにおいて勝ち得て余りがあると勝利の叫びを上げることができるのです。

最後にもう一回エペソ人への手紙に戻りまして、二、三ヶ所読んで終わりたいと思います。

エペソ人への手紙1:22-23
22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

すごい個所です。

エペソ人への手紙2:19-22
19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
20あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
21この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
22このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

エペソ人への手紙4:12-16
12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
16キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

主の願っておられることを私たちも願うようになれば、必ず祝福されます。




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