クリスマスの語りかけ


ベック兄

(鹿島家庭集会、2008/12/11)

引用聖句:マタイの福音書2章1節-12節
1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

ルカの福音書2:8-20
8さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
18それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
19しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカの福音書2:25-35
25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
26また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
27彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
30私の目があなたの御救いを見たからです。
31御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
32異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
33父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
34また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

今晩、ひとつの問いについて一緒に考えたいと思います。すなわち、クリスマスは私たちに何を語るなのか?
今読んでもらいました箇所を見てもわかります。3種類の人間について書き記されています。
第一番目、博士たちについて、二番目は羊飼いたちいついて、もう一人はシメオンと言う老人についてです。

3つの側面から、考えてみたいと思います。第一番目は、主なる神は語っておられます。いろいろな方法で。
第二番目は、真理そのものは真剣に求められなければならないということです。
そして、3番目は主なる神を礼拝することです。

まず、主はいろいろな方法で語ってくださることについてです。
初めに読んでもらいましたマタイの福音書2章を見ると、博士たちに対しては、主はある星を通してご自身の約束を示されたのです。
この博士たちとはどういう人々であったか、聖書は言ってないからちょっとわからない。もしかすると、天文学者たちかもしれないし、祭司であったかもしれないし、学者であったかもしれない。はっきりわからないけど、言えることとは、彼らは真理を熱心に求めた人々でした。

一番、大切なのは、いったい何なのでしょうか?彼らは、主なる神に対して心を開いていたのです。非常に大切な点なのではないでしょうか。
そして、主なる神は彼らに対して、だから語ることができたのです。つまり彼らは、生けるまことの神を慕い求めたのです。
ダビデと言うイスラエルの民の王は、3,000年前に次のように祈ったのですね。あるいは告白したと言ってもいいかもしれない。

詩篇42:2
2私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

結局彼は、本当の意味での満足感が欲しかったのです。自分の心を満たすことのできるお方とは、生ける神だけです。宗教によって作られた神々ではない。私の魂は渇いている。満たされていないからです。
イエス様が生まれる200年前に旧約聖書は、ヘブライ語で書かれたのですけど、ヘブライ語からギリシャ語へ翻訳されました。この聖書を70人訳聖書と言います。おそらく間違いなくこの博士たちは、この聖書を持っていたのです。
持っていただけではなくて読んだでしょう。そして、主なる神の救い主についての、いろいろな約束も読みました。すなわち、主なる神は、星によって、救い主がこの地上に来ることを示されることがわかったのです。旧約聖書の民数記の24章です。

民数記24:17
17私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

博士達が、約束の星が天に上がるのを見た時、彼らはイスラエルへと向いました。どうしてであるかと言いますと、聖書の中に救いはイスラエルから来ると約束されていたからです。
彼らは、救い主はユダヤ人として生まれになるということを知っていましたから、救い主をなんと呼んだかと言いますと、「ユダヤの王」と名付けました。
彼らは、イエス様が、約束された救い主がお生まれになる何ヶ月前に、この約束の星を見て、それからイスラエルに向って旅立ったのです。そして、イエス様がお生まれになった時にエルサレムにつきました。

エルサレムとは、昔も今もそうだった。イスラエルの首都にあたる町でした。結局、救い主は必ず首都で生まれると思ちゃったのですが、聖書は、もちろん違う。首都へ行って調べればなんとかなると思ってたんです。
当時の王様は、聖書学者を呼んで、どこに生まれるか。みんな口をそろえて、王様、ベツレヘムでしょう。聖書は、言ってるじゃありませんか。
当時の人々、聖書を知る人々は、みんな約束された救い主は、ベツレヘムでお生まれになる。メシア、救い主がお生まれになると知っていました。そして、真理を切に求めたから、主は聖書を通して、彼らを導いたのです。

羊飼いたちの場合は、ちょっと違ったのです。彼らはこの星を見なかったようです。主は、使わされた御使い、いわゆる天使を当時の王様であるヘロデの所へ送らなかったのです。
結局、名もない羊飼い達のもとに送りました。なぜなら彼らは、救い主を待っていたのです。待ち望んでいたのです。
天から送られる救い主がお生まれになったと彼らは知るようになったのです。あなたがたのために王がお生まれになった。主がお生まれになった。救い主が生まれたよと。素晴らしい喜びの知らせでした。天の軍勢もともに現われて主なる神に、感謝したのです。

ルカの福音書2:13-14
13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

イエス様によって、主なる神との間に断絶していた平和が継ぎ合わされました。イエス様なしでは、人は誰も神と敵対する関係にあると聖書は言っていますけど、イエス様によってこの敵対関係が克服されました。
父なる神が、この地上に送ってくださった賜物であるイエス様を、自分自身の心で受け入れる人々は、もはや神に対して敵対する気持ちにあるのではなくて、神の御心にかなう者となります。
主なる神の御心にかなう者となろうと言う気持ちにならない人は、言うまでもなく、そうなることは不可能ですけど、それを求める人は、イエス様によって、本当の平和へ、神の御心にかなう者であると確信できるのです。

人間のわがままによって、人間は悪魔の奴隷になりました。このことを神は心から悲しんでいました。けども主イエス様は、神の御心にかなうひとり子でした。
父は何度も、彼は私の愛する子、私は彼を喜ぶと語ったのであります。
主イエスを受け入れる人は義とされ、よしとされ、受け入れられます。主は、いろいろな方法で語ってくださるのです。

博士たちは星を通して、羊飼いたちは、天使を通して、そして3番目にシメオンは聖霊を通して導かれたと聖書は言っています。
シメオンと言う名前の意味は、「聞き届けられる」と言う意味です。いい名前ね。主は、祈りを聞いてくださるだけではなくて、聞き届けてくださるお方である。このことをシメオンは身をもって体験したのであります。
つまり主なる神は、シメオンの願いを聞き届けられました。彼は、主の自分自身に語られたこと、また御力を自ら体験することができたのです。

今読んでもらいましたルカの福音書2章25節から、このシメオンについて書かれています。
ひとつは、このシメオンと言う男は、正しい人であったと書いてあるのです。けども、みんなわかるでしょう。本当は、生まれつき正しい人はいない。義人はいない一人もいない。善を行う人はいない。これは、主なる神の判断です。
彼は、どうして正しい人と呼ばれたかと言いますと、自分の過ち、わがままを認め、告白し、罪から離れイエス様を受け入れる者は、誰でも聖なる主の前に正しい者とされると経験したのです。こうして、イエス様の正しさがこの人のうちに宿ります。

それだけじゃなくて、彼は自分の過ち、わがままを認め、自分自身を主なる神に明け渡しました。聖書は彼について、なんと言っているかと言いますと、彼は、神を恐れる人でした。心配する。不安を持つことではなくて、清い恐れを持っていたのであります。
人の多くは、日々の生活で、義理人情に縛られ、行動しているのではないでしょうか。私たちは、主なる神を恐れて歩んでいるのでしょうか。
罪を赦され、義とされることは、私たちの生涯において、最も大切なことです。また、そのことを体験しておられない方がありましたら、そのことをご自分のものに今日でも、することがおできになります。

イエス様の変わらない呼びかけとは、皆さんご存知のようにいつも同じものです。

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

結局、イエス様は、「宗教を持ちなさい。キリスト教に入れ。」と言われたのではなく、「私のもとに来なさい。」と言われたのです。これこそ素晴らしい呼びかけです。「ありのままでいいよ〜。おいでよ。待っているよ。」
今は恵みの日、今は救いの日ですと聖書に、書かれています。もし御声を聞くならば、心を頑なにしてはならない。
イエス様の御許に行くこととは、へりくだることです。罪を認めること、告白すること、意識してイエス様を受け入れることです。従って行こうと言う決意であります。

シメオンと言う老人は、この救い主が生まれることによって、人々は一つの決断を迫られると言ったのです。
つまり、ある人々はイエス様を受け入れて救いに預かり、そうでない人々は、イエス様を拒否することによって、倒れ滅びるということをシメオンはわかったのです。
結局、天と地を創造されたお方とは、死んでおられるお方ではなく、語らないお方でもない。

かつて主は星を通して、天使を通して、また聖霊を通して、語られた。今日、主は、おもに聖書を通して、家族の中のイエス様を信じる者を通して、あるいは、病気を通して、苦難を通して、死を通して、危険や、地震や、公害の問題を通して、語っておられるのです。
主は、ほかならない私たち、一人一人に対して語っておられます。私たちの心に、何かをお語りになりたいと思っておられます。
クリスマスは、私たちに何を語るのか、今話したように、主なる神は、いろいろな方法で語られます。語りたいと望んでおられます。

第二番目に、真理は真剣に求められなければならない。
聖書の中に書かれている最も大切な命令の一つは、求めなさい。求めよ、そうすれば与えられる。これこそが、博士達も羊飼いたちもシメオンも経験しました。
博士達について考えて言えることは、彼らは犠牲を費やした。羊飼いたちは大切なものを捨てた。シメオンは信仰を持って待ち望んだと言えます。

生きるまことの神は、ただひとりしかおられません。救いに至る道もただひとつであり、真理もただひとつです。
生きるまことの神はイエス様を通してご自身をお現しになり、救いに至る道はイエス様によってのみ開かれ、真理とは何かの事柄ではなくイエス様ご自身です。
生きるまことの神を求める者は、この方に出会うことができ、まことの救いを求める者はそれを体験し、真理を求める者はそれを自分のものにすることができるのです。

私たちは、博士達、羊飼いたち、シメオンの3つの場合を通して、どのように彼らが真理を求めたかを見てみたいと思います。
博士たちは、東の地から、どこの国からからちょっとわからないのですけどやって来ました。結局、多くの犠牲を払い、時間を費やし、イスラエルと言う国にやって来ました。
暇を持てあまして退屈であったから暇つぶしのために旅に出たのではない。彼らは、生きるまことの神を求めたからです。まことの救いを求めたかたです。

真理を求めたから、彼らは、長い困難な旅に出発したのです。言うまでもなく飛行機もなかったし、新幹線もなかったし、自動車ももちろんなかったのです。
彼らは遠路はるばると旅をしてきました。それは彼らが人間にとって、最も大切な事柄を求めているからです。
真剣に求められる所には必ず幼子のような信仰が伴います。

羊飼いたちもまた、真理を真剣に求めたのです。おそらく毎日、いつ来るか、今日来るかと待ち望んだに違いない。真理を求めたからこそ、自分たちの羊の群れをそのままにして、夜中かかってベツレヘムにでかけた。ベツレヘムに行きました。
そのことは、一見、軽はずみなことなのではないでしょうか。たとえば狼が来て羊を引き裂くかもしれないし、泥棒がやってきて羊を盗む可能性もあります。彼らの勤めとは、羊を見守ることでした。けれども、彼らは最も大切なことを求めるために、大切なことを捨てました。
真剣に真理を求める者は、皆このようでなければならないのではないでしょうか。彼らは羊飼いと言う自分たちの職業があったにもかかわらず、昼間の疲れで疲れていたにもかかわらず真夜中にベツレヘムへ向いました。

ヨハネの福音書3章の中で、ある聖書学者についていろいろなことを書いています。ニコデモと言う男です。99%以上の聖書学者は、イエス様と関係を持ちたくなかったのです。けど、このニコデモは夜に出かけたのです。
昼間だけでも、イエス様はとても忙しかったからゆっくりと話すことは不可能です。夜だったら話せるのではと、夜にでかけたのです。真夜中に、イエス様のもとに行ったのです。
そして彼の求める気持ちは満たされた。真理そのものはイエス様であると、彼は確信するようになりました。

前に読みましたマタイの福音書2章9節には、博士達の前に星が彼らを先導したとあります。
星は、もちろん夜にしか見えない。それゆえ博士たちもまた真夜中にイエス様のお生まれになった所へ進んだことと思います。
私たちは一人一人どこに行っても忙しくて、けれども、最も大切なことを大切にしないといつか後悔します。博士たちも羊飼いたちも真剣な求め方をしたと言えます。

もちろん、3番目のシメオンについても同じことが言えます。彼もまた真剣に真理を求めた男でした。
聖書は彼について、前に話したように正しい人と呼ばれたし、神を恐れる男と呼ばれたし、イスラエルの慰められることを待ち望んだし、救い主を首を長くして待っていたのです。待ち望むということは、現在の状態に何かが欠けていると知っているということです。
シメオンは人間が主なる神から遠く離れていることを本当に悩んでいましたから救い主の到来を待ち望んだのです。シメオンは、信仰を持って待ち望む人でした。この待ち望む根拠は、自分の気持ちではない。聖書でした。神の約束でした。約束されているから待ち望めば必ず経験すると彼は確信したのです。

救い主の到来が約束されているから待ち望めば必ず経験することができると、シメオンは確信したのであります。
ルカの福音書2章29節から35節のシメオンの言葉の大部分は、イザヤ書からの引用です。
シメオンは、熱心に聖書を紐解きました。今日も、真理を求める者は、シメオンのように聖書を熱心に紐解かなければなりませんし、そのために時間を作ることは大切です。

シメオンは熱心に求めましたから、主は聖霊を持ってシメオンに話すことができたのです。つまり、彼は死ぬ前に救い主を見ると言う約束を受けていたからその言葉は成就しました。
イエス様が、ヨセフとマリヤに連れられてエルサレムの神殿に行かれた時に、シメオンはそこに行ったのです。そして、聖霊は、彼に語ったのです。「見て、見て。この幼子こそ、救い主だよ。」と。
シメオンは、聖霊の語る事柄に対して心を頑なにすることがなかったのです。だから彼は、道であり真理であり命であるイエス様を知るようになりました。

目に見えるこの世の事柄に目を留める者は、信仰を持つことができないのではないでしょうか。
聖書の中の、最もなんでしょうかね、最も厳しい言葉のひとつは、ローマ人への手紙14章23節の後半なのではないでしょうか。
「信仰から出ていないことはみな罪です。」

人間は、イエス様とつながっていなければ、目標は良くても主は受け入れられない。従って、罪です。
博士達や、羊飼いたちや、シメオンに見られるのは何であったかと言いますと、幼子のような信仰でした。彼らは、あなたがたのために救い主がお生まれになりましたと言うみことばを聞いた時に、疑いを差し挟むことなく直ちに主のもとに向いました。
幼子のような信仰は必ず神によって報いられます。彼らは、初めは真理を求める者、耳を傾ける者でしたが、見いだした者、見る者となり、さらにはその事柄を人々に対して証しする者、主を賛美する者、紹介する者に変えられました。真理は、私たちが真剣に求めなければならないものです。

博士たちは、今話したように遠くからやってきましたが、それは、退屈を紛らわすための旅行でもなければ、見物するためでもありませんでした。彼らは、真理を求めて旅立ったのです。
羊飼いたちも、自分の群れを捨てたのは、真夜中に遊びに行くためではなく、イエス様と出会いたいと切に願ったからです。
シメオンが宮に入ったのも、ほかにすることがなかったからではなく、救い主に出会いたいと切なる願いがあったからです。彼らは、みな多くの犠牲を払い、大切なものを捨て、自分自身を捨てた人々でした。

彼らは、自分の満足や楽しみや快楽を求めることをやめて、みことばに聞き従ったのです。彼らは、みんなわかったのです。
イエス様がいない所では、自分の願いも満たされることはなく、イエス様なしに罪の重荷から解放されることもなく、イエス様なしに確信を持って人生を送ることもなく、苦しみの時、慰めを与えられることも、力を与えられることもなく、死の前にして光も希望を見いだすことができないのだということを、彼らは知っていたのです。
もちろん、私たちも知るべきだけではなく、この事実を体験的に知るようになり、周りの人々に伝えるべきなのではないでしょうか。

前に話したように、主なる神は黙っておられる方ではありません。語っておられます。主は、私たちの答えを求めておられます。そして、私たちが真剣に求めることを、主は切に望んでおられます。
主は、語っておられます。真理は、真剣に求められなければならない。そして最後に、真理の意義は真の神を礼拝することです。

博士たちはただ単に求めただけではなく、求めて見いだして、幼子を礼拝したとあります。信じただけではなくて、礼拝した。
彼らは黄金、乳香、没薬を携えてきたとあります。黄金は最も高価な貴金属です。それゆえ、これを捧げたことは、心からの感謝を現したことを示しています。乳香は、本当の礼拝を現しています。没薬とは、本当の愛を差しています。
ヨセフとマリヤは貧しかったので、普通は一歳の羊を捧げることになっていましたが、そのお金がなかったのです。鳩を捧げたに過ぎないと聖書は言っているのです。

黄金はたいへん高価なものです。それは、ヨセフとマリヤが幼子を連れてエジプトへ逃れる時、かけがえのない財産となったのです。なければ、もちろん逃げられなかったでしょう。
博士たちは幼子の足下に、ひれ伏しました。この時に、カトリック教会がしているようにマリヤに対して礼拝が捧げられたのではない。イエス様のみが礼拝された。
没薬が砕かれると良い香りがします。自分自身を無にして、イエス様に対する愛に仕えて行こうとする態度は、イエス様に対して没薬の立ち上る香りのように、喜ばれることです。博士たちは、イエス様を拝しました。

羊飼いたちはどうでしょうか?もちろん、彼らも同じように、まことの礼拝者だったのです。
彼らは、求めましたから、主の御言葉を聞くことができました。彼らは、主の御言葉を聞き、それがこと実であることを自分の目で確かめることができたのです。
彼らは、自分自身の目で世の救い主を見たのです。

ルカの福音書2:10-11
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ルカの福音書2:17
17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

羊飼い達はユダヤの全地に渡って、預言者ミカによって告げられた御言葉が成就したことを証しして回ったのです。
羊飼いたちの心は、大きな喜びに満たされたのです。羊飼いたちは、神を崇め賛美したとあります。結局、彼らも、まことの礼拝者でした。
真剣に真理を求めたから救い主に会うことができた。救い主に出会った人々はその結果、3つの態度をとります。すなわち、その心は喜びに満たされます。二番目、ほかの人々に対して、証しを告げざるを得ない。もう一つは、主を崇め賛美するようになります。

最後に、シメオンについても考えると同じことが言えます。シメオンも、結局、礼拝するようになっちゃった。

ルカの福音書2:28-30
28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
30私の目があなたの御救いを見たからです。

救いとは、ものではなく救い主なのです。聖書の中のソロモンの書いた言葉なんです。

箴言10:28
28正しい者の望みは喜びであり、

これは、正しい者は待ち望みの信仰を持ち、さらにそれは喜びに変えられると言う意味です。このことを、シメオンは身をもって体験することができたのです。
私の目があなたの御救いを見た。これが、彼の告白でした。シメオンの願いは成就し、彼の心に平安が与えられたのです。
待ち望む者は、それを得るようになりました。シメオンは、神を誉め称えたと聖書は簡潔に述べています。

彼の心を表現する言葉はありませんでしたが、聖書は、ただ彼の心に起こった事実だけをこのように述べています。シメオンはもはや、死に対して恐れを抱くことがないばかりか、喜びと安らぎのうちに、死に臨むことができたとあります。
シメオンは、このような救い主に会うことができたから、安らかに死を迎えることができたのです。
シメオンは、主なる神のまことの理解者だったのです。

はじめて設けた質問は、クリスマスは私たちに何を語ってるの?

すなわち、主なる神はいろいろな方法をとって、私たちにお語りになります。
主なる神は、今日もなお、私たちに対して語っておられるお方です。
主なる神は、ほかならぬ一人一人に対して語ろうと望んでおられます。

主の声を聞きたいと望む者は、御声を聞くことができます。そして、その人は、真理を真剣に求めるようになります。
言うまでもなく、真理を求める者は、その努力がむなしく終わることがない。その人は、真理を満たすことによって、主のまことの礼拝者となるに違いない。
主は、今日も、霊とまことを持って、心から礼拝する者を捜し求めておられます。聖書全体で、何回も何回も言っています。。




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