家庭集会の大切さ


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/04/24)

引用聖句:使徒の働き4章23節-31節
23釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
24これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
25あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
26地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』
27事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、
28あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
30御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

あっちこっちの集会へ行くと、家庭集会がなければ、なかなか成長しません。新しい人々はなかなか来ない。ですからいわゆる家庭集会の大切さについて、28年前に話したんですけれど、もちろん今日でも状態は別に変わっていない。やっぱり大切です。
召しにふさわしく歩みたいという願いがなければ、結局家庭集会をやりたいと思っても、あまり意味のないことです。うまく行かないし、祝福がないし、だから家庭集会の大切さについてずーと考え、大切にしなくちゃいけないのではないかと思います。
いわゆる家庭集会を祝福できる前提とは何なのでしょうか。証し人として行こうという意欲を持つ必要がないのでしょうか。けれど、これは何を意味しているのでしょうか。4つのことが言えます。

第1番目、愛すること
第2番目、苦しむこと
第3番目、走ること
第4番目、重荷を負うことです。

第1は、愛することです。すなわち人間を愛することです。愛されたくない人は、誰もいない。他の人からのけ者にされ、今日絶望的になっている人は、決して幸せではない。今日、隣人愛についていろいろ言われていますが、結局はみな自分自身のことだけしか考えていないのではないでしょうか。
本当の悩みは、見過ごされてしまっていますので、過小評価されています。人間は、静けさと愛とをみな切に求め憧れています。人間は、憩いのない者です。
人間は、認められたいと思う者です。けれど、これらの背後には、永遠なるもの、本当の満足を与えてくれるお方、すなわちイエス様に対する飢え渇きが隠されています。

今日必要とされている者は、もちろんキリスト教の宣伝者でも世界改革者でもない。ただ過ぎ行くもの、一時的なものだけを追い求めることは、空しいのです。
もし、私たちが主を第一にし、イエス様を心から愛し、その動機が純粋であるならば、私たちの周囲の人々は、自発的にイエス様を信じ、イエス様に従う決心をするようになります。実はこのことが、今日一番必要とされていることなのではないでしょうか。
我々の周りにいる人々は、私たちがその人たちを本当に心配し、本当に愛していること、私たちが助けてあげたいと思っていること、その人たちのために存在していること、その人たちのために、喜んで犠牲を払うために時間を持とうとしていることに気がついているでしょうか。愛すること。

第2番目、苦しむことです。苦しむとは、イエス様の苦しみにあずかることを言います。イエス様は、群衆を見た時、かわいそうと思われましたが、それは羊飼いのない羊のように、弱り果てて倒れている彼らをかわいそうと思われたと聖書は言っています。
証し人として行こうとする時、まず正しく見ることが大切です。すなわち、私たちの周囲の人々をイエス様の目でもって見ることが大切です。
本当の悩みを知ること、また見ることが大切です。

一つの歌の中に次のような一節があります。今日世界が必要としているものは、主イエスです。主お一人だけが世界を解放できるという歌です。
イエス様の目でもって、多くの人々の現実の姿を見る者は、イエス様の嘆きと同じ気持ちを持ちます。そして、その人はこの世が欲しいものではなく、この世が必要としているものを与えるでしょう。
今日暇がないんですけれど、使徒の働き3章に出てくるこじきは、確かに悩んでいたし、寂しかったでしょうし、お金や施し物を欲しがりました。なぜなら、そうした物でこの貧乏人は満足したからでしょう。けれど、そのこじきは、不幸にもその期待を裏切られました。そのかわりに彼はもっとすばらしい物をもらったんです。

もちろん一時的な過ぎ行く物ではなく、まったく新しいいのちを与えられました。すなわち、こじきは、自分が欲しかった物じゃなくて、必要としていたものをもらいました。
周りの人々を配慮する者は、苦しみ始めます。エルサレムを思って泣いたイエス様の苦しみを理解することができます。エルサレムの町、そして人々が本当の平和のために必要なものを欲しいと思わず、反対に拒んだゆえにイエス様は苦しみました。
悔い改めて救いに至る機会を提供されているにもかかわらず、意識的にあるいは無意識的に再三にわたって拒み続けてきた人々のゆえに、主は苦しまれました。

御心にかなう教会とはいったいどういう教会なのでしょうか。それは正しい教えを持ったり、この世の不信仰を裁いたりすることによってではなく、それらの下に身をかがめ、本当に苦しんでいることによって、見分けられます。
主なる神の霊は、深い同情の霊です。共に苦しまなければ、決して傷は癒されません。共に苦しむことのできない者は、決して主の愛を伝える者とはなりません。
私たちは私たちの主の救ってくださる血潮の証し人でありたいと願うならば、私たち自信が悔い改めなければならない。

そして第3に、走ることが挙げられます。まず最初に、主の御許に走ること、それから苦しんでいる人々の所に走ることが必要です。
人間は、永遠に滅びるという知識は、私たちを目覚めさせ、魂の救いのために運動へとかき立てます。私たちが、その人たちのために祈っていること、また苦しんでいることを彼らが気づく時、彼らはもはや無関心に留まることができません。
彼らの足元の土台が取り退けられてしまいます。その結果、彼らはイエス様の御手の中に落ち着くまでは、長い間、精神的動揺を続けなければなりません。私たちは、人々の所に走っていく前に、そしてまた、家庭集会を始めようとする前に、まずイエス様の所に走るべきです。なぜなら、魂を獲得することは、人間の行ないの結果ではなく、主お一人の御業だからです。

けれど、もし私たちが主の御許に走り、祈るならば、主は大いなる力を現してくださいます。恐れず、大胆に主の証しをすることができるように祈るべきです。
イエス様を十字架につけた世の中で、イエス様を証しすることは決して簡単ではありません。それは初代教会の信者たちにとっても、決して簡単なことではなかったのです。
ですから彼らは祈りました。前に読んでもらいました箇所の中で、使徒の働き4章29節ですね。

使徒の働き4:29
29主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。

大切な、もちろん聞きとどけられた祈りでした。この祈りは本当に答えられたのですね。

使徒の働き4:31
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

聖霊に満たされた結果とは、みことばを大胆に語られたことだったのです。主に備えられた人々の所に導かれるよう祈るべきです。
私たちは、誰にでも福音を述べ伝えるというよりは、むしろその備えをしているということが、大切なのではないでしょうか。
「主よ。私は何をすべきか。あなたが何を望んでおられるかを知りたいから、お導きになってください」この態度をとることこそが大切です。

ピリポという伝道者は、このことをこの心の備えができていました。ですから主は導くことができ、用いることがおできになったのです。適切な時に適切な言葉を語ることができるように祈るべきなのではないでしょうか。主お一人だけが、いかなる場合において何が必要であるかをご存知です。
魂の救いのために祈ることは、悪魔に対する聖戦を布告、戦いの宣言であるということを覚えるべきなのではないでしょうか。
私たちは、全く特定の魂、すなわち一人ひとりの名前と結びついた魂のために祈らなければなりません。つまり、一つひとつの祈りの対象が主にもたらされなければなりません。時と場所を決めた祈りも大切でしょう。答えが与えられるまで、祈り続けるべきです。

疑わずに信仰を持って祈りなさいとヤコブの手紙に書かれています。
主から大いなることを期待しない者は、結局主を侮る者です。主はご自分のことばを必ず守られます。期待されていない者でも、主から期待しなさい。
祈りは、人々を救う場合の主の最も力強い道具です。

第4番目、重荷を負うことです。失われている人を愛し、苦しみ、走る者は、周囲のまた信仰を持っていない人々に対して重荷を負うことになります。この重荷は、最も重い重荷です。男の方よりもご婦人の方が、このことについてたくさんのことを知っています。
イエス様を信じている多くの奥さんたちは、まだイエス様を信じていない主人をもち、共に生活をする時、全く孤独な拒絶された状態に置かれますが、それに対して集会全体は、どれほどの重荷を持っているのでしょうか。
本当の交わりは、共に苦しみ共に重荷を負う備えがいつもできている状態であります。ガラテヤ人への手紙6章2節、「互いに重荷を負い合いなさい」と提案されているのではなく、命令されています。

実際は、どのような状態になっているのでしょうか。
この集会の一人の兄弟は、以前は異端の教会に関係を持っていましたけれど、その後、彼は集会に導かれるようになり、イエス様を知ることによって解放され、救われました。それから、彼は何年もの間、集会で忠実なご奉仕をし、会社の中でも聖書の集いを初めました。
けれど、彼はその後、横道にそれてしまいました。彼はある哲学者によって惑わされてしまいました。けれど、その時、集会の中ではこうした一人の兄弟の変化に対して無関心ではなかったんです。

毎朝6時から7時までの間、5人の兄弟が我々の住まいに来て、集会に来なくなってしまった兄弟のために共に祈り合いました。1年半の間毎日、兄弟たちは祈り続けました。共に重荷を担いました。彼は、自分のために1年半も祈ってもらったということを聞いた時に、もう泣きだしてしまいました。
我々のすばらしい主は、彼を回復してくださったのです。彼は再び用いられるようになり、四国に転勤した時、自分の家庭を解放して、家庭集会を始めました。最初の4ヶ月の間に7人の方が導かれ、イエス様を信じるようになりました。
ここで申し上げたいことは、主のために他人の重荷を負う者は、必ず報いられるということです。

今まで、ふさわしい歩みと、共なる生活という2つの点について考えました。召しにふさわしく歩むこと、また信者の一致が明らかになることでは、未信者たちも驚き、導かれるようになります。
「見よ。彼らはお互いに愛しあっていることか。何とお互いに重荷を負い合っているのか」と、これこそ私たちが、主のために導きたいと思っている、この世の前における信じるに値する証しです。
もう一つ、幾人かの者でも獲得したいと思うことです。幾人かの者でも獲得しましょう。

聖書のどこにも、すべての人が救われるとは約束されていません。けれど、動かすことのできない確かなことは、すべての人が救われることを主は望んでおられるということです。
ある人は、一人の人をイエス様のために獲得するために、1,000人以上の平信徒と6人の牧師が必要であると計算しました。どういうふうに計算したか、もちろん間違っています。けれど、簡単ではない。
人間はすぐ壁にぶつかって、どうしたらいいか全く解からなくなってしまいます。私たちの集会では、一ヶ月に一人も主に導かれなければ、いったいどうしたのでしょう。主はなぜ祝福してくださらないのでしょうか。何が主の御手を束縛しているのでしょうかと、お互いに語り合うようになるべきなのではないでしょうか。

けれど、今日多くは、夜通し働いても何も獲れなかったという状態に置かれている教会が多いのではないでしょうか。
主の目標と信者の持つべき目標は、失われた魂がイエス様を通して、いのちまた豊かなるいのちを見いだすことであります。イエス様は、救いの御業を成しておられました。そこで今、私たちに与えられている使命は、イエス様の犠牲による贖いを述べ伝えることです。
今日多くの教会の特徴は、次のようなものです。すなわち人々は討論し、組織作りをし、委員会を作り、あれこれを試み、新しい宣伝方法を考えたり、マスメディアに入り込もうと努力したり、大会を開いたり、セミナーを計画したり、そして主が、それらの活動を祝福してくださるようにと祈ったりしています。

けれど、しばしば単純に主の前に静まり、主にみことばを語っていただく、主のご計画を尋ね求めることの方がはるかに賢いのではないでしょうか。大きなことをして、人々をあっと言わせる気持ちは、人間の本性の中に根ざしています。人は、大勢の群衆を見ても、その一人ひとりを忘れがちです。
けれど、今日もっとも大切なことは、一人ひとりに対する集中力です。なぜでしょうか。一人ひとりを集中的に導かなければ、誰も救われませんし、そこから信仰の成長もなければ、他の人を助けることもできなくなるからです。
その目的を達成するために、前に話したように、やっぱり家庭集会は、大いに役に立つものです。前にも言いましたように、家庭集会は福音を述べ伝える手段であるべきです。

目標は、常に人々が主の御許に来ることです。人々が主の御許に来るべきであるならば、まだ主を知らない人々がその場にいなければ、おかしいことになります。したがって、家庭集会の前提は私たちの場合、未信者が必ずいるということです。未信者が一人も来なければ、家庭集会は止めたほうがいいのではないでしょうか。
というのは、信者だけが集ると一種の分波作りになってしまい、他の信者の悪口を言うようになりがちだからです。未信者がいれば、そのような子供っぽいことのために暇がぜんぜんないからです。なぜなら私たち一人ひとりの心からの願いは、まだ救われていない人々が、悪魔の力からすばらしい主の光の中に移されることだからです。
主が導かれると、おもに家庭集会によるのではないでしょうか。けれど、それにもかかわらず、私たちは家庭集会というものが、こうあるべきだという集いではない。というのは、真似事は何の価値もないからです。

家庭集会の場合、大切なのは真似することが大切な処方箋よりは、むしろ素案、すなわち基本構想なのではないでしょうか。
主が次のようなことばで弟子たちにお与えになった、基本構想が大切です。
有名なマタイの福音書28章ですね。

マタイの福音書28:19-20
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

すなわち、ただ単に救いを得るだけではなく、主の弟子として用いられ、主に従う者となるようにと主は言われます。
同じ素案をパウロはテモテに与えました。

テモテへの手紙第II、2:2
2多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

この時代のための主の基本構想がここに記されていますが、この素案は今日にも当てはまります。すなわち、一人ひとりのために労するということです。
家庭集会とは、教会を建てる一つひとつの細胞のようなものです。ただ単に信者の家族が、家庭を提供することだけではなく、多くの信者のご婦人たちも、また主に用いられるようにと家庭を提供しています。
それは今までにもなく、力と時間とお金を犠牲にすることを要求します。一言葉で言えば犠牲なしには成り立たないということです。

集会は、なぜ絶えず増大していくのでしょうか。おもに大勢のルデアがいるからなのではないでしょうか。使徒の働き16章の中で、このルデアという婦人について書いてあります。

使徒の働き16:15
15そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

ある時、私たちは家庭を利用せざるを得ない状態に置かれました。それまでの集会場が小さくなってしまったのです。新しく建てるためには、古い家を壊さなければならなかったのです。5ヶ月の間、私たちは自分の集会場を持ちませんでした。
もちろん日曜日に集会は公の場所を借りて行なうことができましたが、それ以外の平日における集りについては、どうすることもできなくなりました。
その時、私たちのルデアが、すなわち救われた姉妹たちが申し出てくれました。住まいを提供して下さいましたので、いろいろな方の家庭で集会を持ちました。このルデアの一人は、どうしても自分の家で家庭集会をやってもらいたい。これは彼女の夫にとって決定的な転換点となりました。主は彼に働いてくださいました。彼は、集会の中で責任を持つ兄弟の一人となったのです。

自分の家で経験した自由な交わりが、3人のお友だちをもイエス様に導いてくれたのです。
この家庭は、主を愛し、日曜日の午前中、長い間、中高生の集いの場になりました。両親の寝室、子供部屋、台所もすべて、各クラスの部屋に使われるようになったのです。大変だったけれど、主は祝福してくださいました。

使徒の働き5:42
42そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

すなわち、初代教会の人たちは、宮すなわち会堂だけではなく、家々でも集会をしていました。これこそ信者たちの万人祭司制です。
主は、小さい集いのことを次のようなことばで言い表しておられました。「二人、三人わたしの名によって集る所に、わたしもその人たちの真ん中にいる。」と。
信者たちが迫害されたすべての時代の為政者、権力者たちは、信者たちが家々で集ることを非常にいやがりました。なぜならば、主の御名によって信者たちが、二人、三人集っている場合、為政者たちは、信者たちの集りの実態を、全体国家の統制力によって調べることができないからです。

あらゆる偽りの宣伝や迫害にもかかわらず、使徒たちの交わりは、すなわち家々で集る人たちの集いは、さらに存続しています。




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