引用聖句:ヨシュア記24章14節-15節
ヨシュア記24:23-24
使徒の働き16:31-34
アダムとエバは、自分の子どものために必死になって祈ったに違いない。 初めごろ長男であるカインは、救い主になるのではないかと期待していたのです。けれども結局ダメになってしまったのです。彼は主の顔を避けて出たと聖書は言っています。悔い新ためて戻ったと書いていないのです。アダムとエバにとって大変な悩みだったのではないでしょうか。 イサクとリベカも必ず長男であるエサウのために祈り続けたに違いない。けれども彼もダメになったのです。彼は回復されたと聖書は言っていません。 イエス様といっしょに生活をしたユダは三年半、イエス様の愛を受けてみことばを聞き続けたし、けれども彼は救われなかったのです。 確かにカインもエサウもユダも後悔したと思う。反省したに違いない。けれども悔い改めなかったのです。悲劇的です。 もしユダは、もうすでに十字架につけられたイエス様のところへ行って、「イエス様。ごめん。三年半、大嘘つきでした。詐欺師でした。あなたにささげられた金を自分勝手に使った。」、と云々、全部言ったならば、イエス様はどういう態度を取ったのでしょうか。 必ずほかの犯罪人に言われたように、「あなたはきょう、わたしといっしょにパラダイスにいる。」 反省だけでは十分ではない。ユダは自分のもらった金を返して、「私はとんでもないことをやった。罪を知らない方を裏切った。」、それだけなのです。 これは悔い改めではない。確かに家族の救いは考えられないほど大切です。確かに、ある人々にとって聖書は厳しすぎる。そしたらイエス様も厳しすぎるのではないでしょうか。 けれどイエス様とは、神の愛の現われそのものです。書かれたみことばである聖書も神の愛の現われそのものです。パウロは次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、6:14-18
確かに厳しいことばです。けれども、主の愛の現われです。 家族の救いこそが大切です。もちろん聖書の中で、家族ということばが出てくると、これは血のつながりをもつ人々を意味しているだけではない。当時、いっしょにいる人々、親しい人々みんな含まれていたのです。 初代教会の多くの人々は奴隷でした。奴隷たちとは、結局主人のものだったのです。家族でした。主人が変わったとき、「今から、おい、ああいうふうにやれ、こういうふうにやれ。」と言われた主人が急に違う態度を取ったならば、「どう、元気?もうびっくりした。」と。 ですから多くの人々はやっぱり導かれたのです。結局、自分の知り合いの人々、昔の同級生たちとは、一度家族だと思ってもいいのではないでしょうか。 そうすると、今、兄弟が言われたように、私たちはとんでもない生活をしてしまった。祈りのない生活をしてしまったのではないでしょうか。 確かに私たちは祈るでしょう。けれども主が応えなければもうやめてしまうのではないでしょうか。祈り続けることこそが、最も大切なのではないでしょうか。 聖書の中で、家、あるいは家族ということばがよく出てきます。 ルカの福音書8:39
あなたの生まれた場所に帰って、 ルカの福音書8:39
ヨハネの福音書1:41-42
彼の、アンデレの人生の最後の目的とはそれだったのではないでしょうか。シモンをイエス様のもとに連れて行くこと。 ヨハネの福音書4:53
そして彼女は、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者と思うのでしたら、どうか私の家に来てお泊りください。」と言って、頼み強いてそうさせた。 家に泊まることよりも、家庭集会をやってもらいたい。私は知り合いの人をみんな連れて来ますからお願いします。 それから、今、兄弟のお読みになりました個所は本当にすごい個所です。 使徒の働き16:31
もちろん自動的に救われません。 使徒の働き16:32-34
家族、われわれの知り合いの人々はみな主を信ずるまで祈り続けましょう。 また書かれています。 ルカの福音書19:9-10
ローマ人への手紙の中でパウロは、 ローマ人への手紙16:5
結局、いっしょにいる人々の救いこそがわれわれに与えられている責任です。 初めに読んでもらいました個所の中で、ヨシュアの告白が書き記されています。 ヨシュア記24:15
信ずるようになった人々とは、主のために生きたいと思うようになります。仕えるために救われたからです。 このヨシュアの告白を読むと、イスラエル民族の歴史が浮かんできます。今から、約4,000年前に、生けるまことの神はアブラハムという男に現われたのです。彼は今のイラクに住んでいた男です。イラク人だったのです。 ステパノは使徒の働きの中でイスラエルの歴史を上手くまとめて証ししたとき、彼はひと文章だけ言ったのです。 使徒の働き7:2
それによって彼の生活そのものは変わりました。栄光の神が。この栄光の神とは、われわれの栄光の父と呼ばれているのです。栄光の神がアブラハムに現われた。そしてアブラハムは、この主に従ってカナン、今のイスラエルの地へと導かれました。この地であるイスラエルは、ユダヤ人に約束された地です。4,000年前から。 今日、多くの国々の人々がこの地全体を支配しようと思い、イスラエル人ひとり残らず絶滅させようと思っています。けれど主の約束によれば、ユダヤ人がこの地を所有することになります。 アブラハムは4,000年前にすでにこの地にはいっていたのであります。ちなみに彼の子孫たちはその後しばらくの間、だいたい430年間、この地を離れざるを得なくなったのです。 まずヨセフが奴隷としてエジプトへ売られました。続いて、彼の父、ヤコブも彼の兄弟たちもエジプトへ下ったのですけれど、エジプトで彼らはしばらくのうちに奴隷の状態にせられてしまいましたけれど、主はモーセをお遣わしになり、イスラエルの人々をこの奴隷状態の中から救い出してくださいました。・・・ 主はそのあとでイスラエルの人たちを40年に亘り荒野で養われ、そのあとでヨシュアの手によって彼らを再び約束の地カナンへと導かれたのです。 イスラエルのこの歴史は、歴史の上に現われた、たった一度だけの歴史です。イスラエルの歴史は、奇蹟の歴史の連続です。イスラエル民族は、生きる主なる神を知っている、地上でただひとつの民族でした。 この生きる主なる神は、まずアブラハムに姿を現わされ、そのごの子孫に対しても主以外の神々に仕える偶像礼拝者でした。 イスラエルの人々はこの生きる主なる神を体験的によく知りながらも、常にこの主に対して心が鈍くなり、また無関心になる危険をもっていたのです。 ヨシュアはこの、「私と私の家とは、主に仕える。」と告白したとき、だいたい100歳を超える老人でした。けれどこのヨシュアの心の中には、主に対しての深い関心がありました。 ヨシュアは自分の死を前にして、イスラエルの人たちに警告を与え、「この生きる唯一の主なる神に忠実であれ。」と彼らを諭したのです。 ヨシュアはイスラエルの人たちにこのように言ったのです。 ヨシュア記24:14-15
ヨシュアはどうしてこういうふうに告白したのでしょうか。 彼は主を体験的に知るようになったからです。だから彼は主を愛し、主のために生きたいと望み、そして彼の切なる願いは、主をよりよく知りたいというものでした。 ヨシュアは本当に幸せな男でした。主を知るようになったからです。 このヨシュアはモーセとの親しい交わりを持っていたのです。このモーセは、神の人、神のしもべと呼ばれていたのです。すなわち主は、この栄光の神はモーセと顔を合わせて、友がその友と語るように話されたと聖書は言っています。 主がモーセにシナイ山で40日、40夜したあとで律法をお授けになられたときに、ヨシュアもそこにいたのです。そのことはヨシュア自身も生きる主を親しく体験したことを意味しました。 したがって彼は自ら主の道具となり、若いときから主の敵に対して戦った。これを打ち負かしたとあります。 今日、暇が無いのですけれども、出エジプト記の33章に、このヨシュアのアマネク人に対する戦いが詳しく記されています。 ヨシュアはまた、カナンに遣わされた12人の偵察隊の一人でもありました。そのときヨシュアは、見えるものにではなく見えない主の約束のほうに信頼を置いたのです。このことのゆえにイスラエルの人たちは彼に石を投げようとしました。 ヨシュアはまた、いかなる妥協もしなかった男でした。彼は主から次のような命令を受けました。 申命記31:23
ヨシュア記1:9
このように主の約束をすべて、ヨシュアは現実的に体験をしたのです。主の命令に従って、ヨシュアもイスラエルの人々もヨルダン川を渡るという奇蹟を経験しました。主の命令に従って、ヨシュアはエリコの要塞を落としたのです。 ヨシュアは何を体験したのでしょうか。彼は、生きるまことの神を知るようになったのです。主に信頼すると、主は応えてくださる。主にとって不可能なことはない。これこそがヨシュアの確信だったのです。 だからこそ彼は、「私と私の家とは、主に仕える。」と告白したのです。これこそがすばらしい証しなのではないでしょうか。ヨシュア記の23章の3節を見ると次のように書かれています。 ヨシュア記23:3
ヨシュアはこのことばを通して、主は奇蹟をなさるお方であることを証ししたのです。 ヨシュア記23:14
ヨシュアは決して自分の名誉を求めようとはせず、主の御名があがめられることを心から望んだのです。 ヨシュアの願いは、イスラエルの人々が偽りのない心で主にだけ仕えることでした。 ヨシュア記22:5
ヨシュア記23:11
ヨシュアは何を証ししたのでしょうか。ヨシュアの証しの内容は、「ただ主だけ。」でした。それゆえ彼は、「私と私の家とは、主に仕える。」と言ったのです。 たとえイスラエルの全ての人々が主に背を向けたとしても、ヨシュアだけは生きるまことの神に従っていたことでありましょう。 彼は数えられないほど何回も、何回も同じように決意したのではないでしょうか。「私と私の家とは、主に仕える。」 何年も前に彼は同じ思いをもっていたのです。「私は主に仕えよう。」、けれども今度また新しく彼の切なる願いは、結局、主をよりよく知りたいというものでした。 100歳を超えてもヨシュアには主のほかに仕えるものは何にも無かったのです。彼は右を見ることもなく、左を見ることもなく、彼の目は常に主に向けられていたのです。 このヨシュアの態度はイスラエルの人々にどのような結果をもたらしたのでしょうか。 イスラエルの人々はヨシュアのこの態度に本当に深い感銘を受けたのです。イスラエルの人々はヨシュアの正しいことを知り、自分たちが力強い主のものであることを知ったのです。 そこで彼らは、「私たちも主に仕える。仕えたい。」と告白したのです。それは単なる感情による決意ではなかったのです。自分たちの体験から出た決意でありました。 聖書はこのイスラエルの人々の決意が一時的なものでなかったことをはっきり言っているのです。 ヨシュア記24:31
とあります。 今日の集いも、このようなひとつの新たなる・・・ (テープ A面 → B面) ・・・また願いだったばかりではなく、私たちの決意でもあるべきではないでしょうか。 確かに私たちはみなイエス様を知る前に、偶像に仕える者でした。そして私たちの生活の中心にはイエス様はおいでにならなかったのです。 コリント人への手紙第Iの12章2節を見ると、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、12:2
もう一ヶ所、 ガラテヤ人への手紙4:8
偶像に仕える者たちでした。けれど私たちは主のみことばを通して、私たちの生活が目的もなく、望みのないものであることを知りました。 人生の敗北者として、どうしようもない者として私たちがイエス様のみもとに導かれたとき、私たちはイエス様が罪を赦されるお方であり、本当の喜びを与えてくださるお方であり、まことの心の平安をお恵みくださるお方であることを知るようになりました。 そして私たちはイエス様を体験的に知ったからこそ私たちは主に仕えたいと証しをするようになりました。また自分のためではなく、イエス様のために生きたいと望むようになったのです。なぜならば、自己中心的な生活には満足が無いからです。けれどイエス様にささげられた生活には自由があり、まことの喜びもそこにあります。 ヨシュアの告白の中には、私が主に仕えるという意味だけではなく、私の家も家族も知り合いの人々も、主に仕えると書いてあります。 そこで私たちの願いは、自分たちが主に仕えるだけではなく、家族のみなさんも、知り合いの人々もいっしょに主を知り、主に仕えるようになってもらうことです。 主に仕えるということは、主の要求、また主の命令でもあります。申命記の10章の12節をちょっと見てみましょうか。 申命記10:12-13
どのような人でもその人生において、ひとつの選択の前に立たされるのです。すなわち、まことの主に仕えるかどうかということです。そして私たちにとって正しい選択をすることが大切です。 主に仕えるかどうかということは、もちろん本人の自由の決断によることです。主は強制なさいません。「わたしに従いたいと思えば、」とイエス様は何回も言われたのです。「思わなければ結構。」 私たちは、主に仕えるという決意を知っているのでしょうか。 聖書にはこれと同じ決意をした人の多くの実例が記されております。それはヨシュアと彼の家だけではなく、イスラエルの全家がこのような決意をしたということです。 モーセはこのような決意を成したひとりでした。聖書は言っています。 ヘブル人への手紙11:25
私たちは何を選ぶかもちろん、その前にちゃんと考えるのです。どうしようか。モーセはよく考えた結果として、苦しむことを選び取りました。 ヘブル人への手紙11:26
主から目を離さなかった。モーセは大いに用いられたのです。後悔しなかった。 イスラエルの民に属していない女性、いわゆる異邦人であるルツについて次のように書いてあります。結局彼女も同じ決意をした者でした。 ルツ記1:15-16
姑と嫁の会話です。すごい。結局彼女も、「私は生きる神に仕えたい。もう離れられない。何があっても。」 また、別の異邦人、イスラエルの民族に属さないでいるナアマンという将軍も同じ決意を成した男です。 列王記第II、5:17
すばらしい告白です。 詩篇の作者であるアサフは同じ決意をした者でした。 詩篇73:25
主を個人的に体験する人々はだれでも、「主に仕えたい、主のために生きたい。」と願いを持つ者です。 主を個人的に体験したことのない人は、もちろん一時的に主に仕えたいと願っても、それを実行することはできません。 いわゆる金持ちの青年はひとつの実例でしょう。マルコの福音書10章21節、22節を見ると次のように書かれています。 マルコの福音書10:21
心から愛して、 マルコの福音書10:21-22
彼よりも悲しんだのはイエス様ではないでしょうか。 さらにヨハネの福音書6章を見ると、イエス様に従っていた弟子たちの多くが離れ去ったことが記されています。イエス様はそのとき、そばにいた弟子たちに、 ヨハネの福音書6:67
と言われました。これに対してペテロは次のように答えたのです。 ヨハネの福音書6:68-69
確信する。 今日の集いも、また決断に対しての招きでもあるのではないでしょうか。主イエス様へ仕えるための呼びかけではないでしょうか。 昔のモーセもこのような招きをイスラエルの民に与えました。 出エジプト記32:26
モーセのところに行った人々とは主に仕える者となり、大いに祝福されるようになったのです。 エリヤという預言者も、またこのような決断への招きを与えたことがあります。 列王記第I、18:21
ピラトもまた、このような決断への招きを与えました。聖書は言っています。 マタイの福音書27:17
申命記の中でモーセはイスラエルの民に次のように呼びかけたのです。 申命記30:19
また別のところで書かれています。 歴代誌第I、28:9
主なる神 歴代誌第I、28:9
とあります。 本当に今までよりも家族、親戚、知り合いの人々のために祈り続けようではないでしょうか。 |