計算しなさい


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/11/15)

引用聖句:詩篇32篇1節-2節
1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
2幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

人間はどうして喜ぶことができるのでしょうか。主は生きておられるからです。主は生きる希望を与えてくださるからです。

今、幸せな男のあかしを読んでもらいました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
どうしてこういうふうに言えるのでしょうか。答えはその最後に読んでくださった個所です。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
この二つのみことばを見ると、主の犠牲、主の流された血潮がどんなに尊いか、しみじみとわかります。私たちはイエス様の血潮の尊さを、もっともっと感謝すべきではないでしょうか。

イエス様の血潮の価値について聖書はいっぱい言っているのです。前にいっしょに学びました。
主なる神と人間との間を隔てている罪という名の壁は、イエス様の流された血潮によって取り除かれています。主との交わりができるようになった。それからイエス様の十字架の血潮をよく知るならば、私たちの良心の呵責は消えて無くなる。
もうひとつ、私たちが主イエス様の血の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。

イエス様を信ずるどんな者も遅かれ早かれ、自分は霊的にもっと成長しなくてはならない。けれどそれが上手くいかない。どうしたらいいのでしょうかと考えるようになるのではないでしょうか。
勝利の生活を送りたい。けれど無理。どうしてもできない。罪の性質を自らのうちに嫌というほど知らされるが、どうしてもそれから解放されない。そのようなところにはまり込みます。

今まで私たちは主イエス様の血潮によって罪を赦され、義とされることより、さらに進んできよめられることのほうがどんなに難しいかわからないということを見て来ました。
救われ、義とされるため私たちは自らの努力をいたしませんでした。どうして救われたかと言いますと、主は恵んでくださったからです。
それと全く同じように、主をよりよく知るために自分の努力は無駄であるということもみことばを通して見ました。
ですから私たちは自ら努力して、罪を乗り越えていくのでダメであって、私たちの罪の源が何とかされなければいけないわけです。けれど主はもうすでに主の解放の備えを整えていてくださいました。

ローマ人への手紙。この間もいっしょに読んだことがある個所です。よく知られている個所なのです。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人

生まれつきの性質と言ってもいいでしょう。

ローマ人への手紙6:6
6がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

確信している。
ここではっきり書かれているのは、もうすでに解放の備えは整っているということです。もし私たちが内面的に、霊的に前進したいと思うなら、この事実をどうしても知らなければなりません。ですからこの前、私たちは三つの質問について考えたことがあります。

第一番目。私たちはどうしても、何を知らなくてはならないのでしょうか。答えは、私たちが主イエス様とともに十字架につけられたということです。これは歴史的な事実です。
第二番目。私たちはいかにして、この歴史的事実を知らなければならないのでしょうか。答えは、啓示によってです。上からの光によって示されなければ、結局自分のものになりません。
そして第三番目。私たちはなぜこの事実をどうしても知らなければならないのでしょうか。それは、イエス様の十字架は私たちの持っている問題の根にまで解決のメスを入れてくださるからです。

私たちが憧れている勝利の生活にはいるには、どうしたら良いのでしょうか。初代教会の人々とは、私たちは知っている。確信していると言えたのです。けれどそれは第一段階にすぎません。
第二段階についてパウロは、同じくローマ人への手紙6章の11節に次のように書いたのです。

ローマ人への手紙6:11
11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

思いなさい、あるいは認めるべきであると書いてありますが、計算すべきであると言ったほうがいいかもしれません。
思いなさい。計算すべきであるということばは提案ではなくて命令です。これはいったい何を意味しているのでしょうか。
本当は今読みましたローマ人への手紙6章6節と11節は、合わせて読むべき性質のものではないかと思います。もう一回、合わせて読みましょうか。

ローマ人への手紙6:6、11
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

知って、それから認めなさい。認め、計算するというのが正しい順序です。
私たちのうちの古き人はキリストとともにもうすでに十字架に架かって死んでしまったことを知ったなら、その次にそれを認め、計算するのです。
この、計算することも、もちろん啓示によって示された、主の事実の上に立っていなければ、何の役にも立ちません。もしそうでないなら、私たちの信仰は根拠のない、むなしいものになってしまいます。もし啓示によってそれを知るなら、計算するということは私たちにとって当たり前のこととなります。

この11節の計算することについて考えると、一生懸命に計算を始めるかもしれません。したがって、やがて何かの試みがやって来ますと、グラついてしまいます。そして、計算することは無駄だと考えるようになるかもしれません。
この11節は6節の事実無しには何の役にも立ちません。私たちはいつも悪魔が攻撃してくる弱い手を知っています。攻撃が始まると私たちはどうするのでしょうか。
自分は死んでいる。死んでいる。一生懸命、計算をし始めますけれど、努力して計算すればするほど、古き人が元気付いて来るのを気が付きます。いったいどうしてでしょうか。それは第一段階に足を踏み入れていないから。

イエス様が亡くなられたとき私たちもともに死にました。それは私たちはイエス様のうちに置かれていたからです。確かにイエス様は亡くなられました。それと同じように、確かに私たちの古き人もイエス様とともに死んでしまったのです。
私たちはこの事実を啓示によって見たのでしょうか。それともただ頭の中で知っているのに過ぎないのでしょうか。もしイエス様がわれわれの目を、この永遠の事実に開いてくださるなら私たちはただそれを主とともに死んだことを喜び、心から賛美することができるようになるに違いない。
それでは、計算する秘訣はどこにあるのでしょうか。答えは啓示です。マタイの福音書16章の16節、17節を見ると上からの照らされる結果について次のように書かれています。

マタイの福音書16:16-17
16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。

しあわせ、

マタイの福音書16:17
17このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

上から光が与えられれば一度に確信できる。理性でもってつかめないかもしれないけれど、喜びになります。そのために主の恵みにあずかるようになった兄弟姉妹のためにパウロは祈りました。
エペソ人への手紙1章。パウロの祈りが書き記されています。

エペソ人への手紙1:17
17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光

御子

エペソ人への手紙1:17-19
17の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

主の恵みによって救われた人々にとって、これこそが必要だったのです。ですからパウロは必死になってそのために祈りました。
私たちがイエス様とひとつにされたことは、単なる教えではなく、それ以上のもの、事実です。私たちはこの事実を啓示によって見なければいけません。
これははっきりとしない曖昧な出来事ではありません。私たちは主イエス様が私たちのために死んでくださったということを知ったとき、心の目で見たとき非常に深い体験をいたしましたが、私たちがイエス様とともに死んだということを心の目で見るなら、それにも劣らない深い体験をもつことになります。

この二つの体験は私たちの生活の土台となるべきものです。私たちは計算したからではなくて、イエス様とともに十字架につけられたから、死んでいるのです。
父が私たちのためにもうすでにキリストのうちに成してくださったことを見ましたから、計算したのです。これが本当の計算です。死ぬために計算するのではなく、もうすでに死んでしまったから計算するのです。

思いなさい、認め、計算するということは何を意味しているのでしょうか。それは普通の算数、また普通するように会計の帳簿をつけるようなものです。
人間は色々な仕事をすることができますけれど、正確な答えが出るのは何と言っても数学に関係のある仕事ではないでしょうか。
例えば、絵描きさんは絵を描くことができますけれど決して完全な絵は描くことができません。歴史家はその資料が百パーセント真実なものであるかどうか知らない。だから完全に正確な仕事をすることはできません。地図を書く人も、全く正確に書くことは不可能です。

私たちが同じことを見聞きしても、それを表現するとなるとそこにおのおのの違いが出てきます。人間は不正確な者です。
けれど算数や会計の帳簿をつけることは、それとは別なのではないでしょうか。1+1=2です。これは東京でもベルリンでもモスクワでも全く同じです。
主はなぜこのローマ人への手紙6章11節で次のように言われたのでしょうか。

ローマ人への手紙6:11
11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

思いなさい。認めなさい。どうして、こう言われているのでしょうか。もうすでに私たちがイエス様とともに死んでしまったから、認めるべきであるということです。
もしあなたが五万円を持っておられるとすると、金銭出納簿に何と書き入れるのでしょうか。もちろん五万円と書き入れるでしょう。事実、五万円を持っているから、そのように書き入れるのです。
この五万円を持っているという事実に基づいて、それから計算します。買い物に行っても、自分は五万円持っているということをいつも考慮にいれておきます。

同じように、主なる神は、私たちはもうすでに罪については死んだ者であると計算しなさいと言っておられます。それは事実ですからそうしなさいと仰るのです。これは主の命令です。
あなたは五万円を持っていますから、帳面にそのように書き入れました。同じように、もうすでに罪に通じて死んでいますから、そのように計算しなさい。
イエス様が亡くなられたとき、私たちもともに死にました。ですから、もうすでに罪について死んでしまっていることを計算し、信じ込まなければならない。

罪に対して死に、主なる神に対して生きているということを認めるにはどうしたらよいのでしょうか。私たちのうちにあってではなく、主イエス様によってのみ可能です。
イエス様を見上げ、イエス様の成し遂げたみわざを思い見ましょう。それが計算の秘訣です。もちろんこれは信仰の計算でなければならない。

ローマ人への手紙の前半は、多くが信仰について書かれています。罪の赦し、義とされること、主なる神との平和などはみんな信仰によって、主に頼ることによって自分のものとすることができます。
これに対して、ローマ人への手紙の後半は、信じなさいということより、計算しなさいということばが多く書かれています。けれど実際には信仰も計算も似ているものです。
信仰とはいったい何なのでしょうか。信仰とは主の成してくださったみわざを受け取ることです。信仰はいつも過去に行なわれた事実の上に立つものです。信仰の目的を考えますときに、未来をのぞき見ますが、たいていの場合は過去に行なわれた事実に基づいています。

ローマ人への手紙の後半に多く出て来る、計算するということは全部過去の事実に基づいています。ですから信じなさいということばではなく、計算しなさいということばを使っているのです。
またマルコの福音書の11章には、計算せよということばと同じ意味のことをイエス様が言われました。

マルコの福音書11:24
24だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

見えない。感じない。まだ考えられないけれど、すでに与えられていると信じなさい。そうすると結果として、そのとおりになる。イエス様にあって、もうすでに与えられたと信じましょう。
信仰は、イエス様はもうすでに与えられたと言います。私たちは心から喜びをもって、私たちはもうすでにイエス様とともに十字架につけられたとイエス様を賛美することができるのでしょうか。できれば信仰の計算ができているのです。

ローマ人への手紙3章は、イエス様が私たちの罪を背負い、私たちの身代わりになられた。私たちを義とし、赦してくださるために亡くなられたことが書き記されています。
そしてローマ人への手紙6章は、その主イエス様の死は私たちの罪の性質からの解放でもあったことを教えています。
この最初のローマ人への手紙3章の事実を啓示によって知ったとき、主イエス様を信じ、罪の赦しをいただきました。イエス様はこの第一段階にとどまっていないで、第二段階の罪の解放も信じ、計算しなさいと言っておられます。計算とは信仰の計算でなければならない。

試みと失敗に対する、ただ一つの答えである信仰について、もうちょっといっしょに考えてみたいと思います。

私たちが先ほど述べた二つのことを、本当に信じ、啓示によって知り、計算したとしても、試みがやって来て、失敗したとします。そのときはどうしたらよいかという新しい問題が起こってきます。
ローマ人への手紙6章の11節は架空のものだった。実際のものではないのではないかと疑問に思うでしょう。けれど決してそうではありません。悪魔が一番狙っていることは、私たちが主なる神の動かすことのできない永遠の事実を疑うことです。
そして悪魔は私たちの心に「ふん!お前たちのうちの古い人は死んでいないのではないのか。」と囁きかけることによって疑いを起こさせることに成功します。

これに対するわれわれの対策はどうでしょうか。そのとき私たちは目で見、手で触れ、感ずることができ、わかることができる肉的な物質的な事がらを信ずるのでしょうか。
それとも目で見、手で触れ、感じ、わかることのできない霊的なものを信ずるのでしょうか。
聖書の中には、私たちが地上に居る限り、罪の性質は消し去られない。罪を犯す可能性はいつでも持っているということをはっきり告げています。ですから私たちは絶えず、知る知らないに係わらず、持っている罪を赦していただくためにイエス様が必要であるということを知らなければダメなのです。

罪の性質はいつも私たちに、私たちのうちに潜んでいます。けれど私たちは信仰により、毎日毎日、この力から解放され、罪の奴隷に甘んじていることなく、自らの主体を義の武器として主にささげなければならないということです。
ヨハネの手紙第Iの3章の9節を見ると、当時の信ずる者にヨハネは書き記したのです。

ヨハネの手紙第I、3:9
9だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

このみことばによると、古い人、罪の性質からの解放は事実です。ヨハネはここで、信ずる者は罪を犯すことができないとは言っていません。イエス様を信ずる者であるがゆえに、そのうちに宿っている主イエス様は罪を犯すことができないということをここで言っているのです。
ですから私たち信者のうちには、二つの性質があります。
一つは、罪を犯すことのできないイエス様であり、もう一つは、古き人、生まれながらの罪の性質です。

私たちはですから、どの事実の上に立っているか、どんな事実に基づいて計算するか、どんな事実によって生きるかが問題となるわけです。
すなわち、私たちのうちには古い罪の性質があるという事実に基づいて生活するか、あるいは、聖なるイエス様がわれわれのうちに宿り、住んでおられるという事実に基づいて生活を送るか問題です。
この末の世にあって、どんなに信仰が大切であるか、もっと深く心に刻み込みたいものです。ですからやっぱり信仰とはいったい何なのでしょうかと考えるべきです。

よく知られているヘブル人への手紙の11章1節は本当に大切です。なぜならば、この1節だけが信仰に対する説明として聖書に書き記されています。

ヘブル人への手紙11:1
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

この個所は、信仰とは何であるかと説明されています。信仰とは、もうすでに成された事実を実現し、自分のものとすることです。
私たちは日々の生活で、目で見、耳で聴くことによって、事実を自分のものとすることができます。この世には赤、青、紫、色とりどりの花が咲いています。もし、目をつむったままでいるなら、その花は私たちのために何の役にも立たない。けれど目を開けると、色とりどりの花を見て、その色は私たちを楽しませてくれます。

目の見えない方は色の区別がわからない。耳の聴こえない人は音楽を理解することができない。けれど私たちが見たり、聴いたりしなくても、花に色があること、音楽に音があることは事実です。
このように私たちは、目で見、耳で聴くことによって実際にあるものを認めて、自分たちのものとします。けれど今まで学んで来た、私たちが主イエス様とともに十字架につけられ、死んだこと。血潮によって罪を赦されたことは私たちの感覚で捉えることができません。
多くの人々はしたがって、一度信じますけれど、確信がないと言うのです。

確信の土台とはもちろんわれわれの理性ではない。わかったから信ずると言うと、非常に危ない。結局確信の土台とは、みことばだけです。
コリント人への手紙第IIの4章18節とは、勝利の生活を送られた人々の告白でもあります。信仰によってのみ、目に見えることはできないが、永遠に変わらない神の事実を自分のものとすることができるのです。

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

事実は信仰によって自分の体験となります。多くの人は、ローマ人への手紙6章6節を読みますけれど、

ローマ人への手紙6:4
4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

これがその人の体験とならない。信ずる兄弟姉妹は、事実となりますが、イエス様がせっかく成してくださった事実を疑う兄弟姉妹や頭で考える人々には、残念ですけれど事実とならない。
自分の古き人はイエス様とともに十字架につけられてしまったということが問題です。実は、信じても信じなくても、同じく事実です。
私たちの罪の性質はイエス様とともに十字架につけられてしまったということは、信じなくても、事実としてあくまで残りますが、われわれのためには何の役にも立ちません。信仰がイエス様とともに十字架につけられた事実を体験にまでしてくれます。

主の用いられた兄弟が病気になりました。もう5日間もの間、高熱に悩まされ、眠れないほどでした。そうしていますうちに、主が自分をいやされたという確信を得たのです。けれど外に表われている症状は違います。熱は相変わらず高く、脈は異常に速く、頭は割れるほど痛いといった具合です。そのとき悪魔の囁きが聞こえました。
「イエス様の約束はどこに行ったのだ。お前の信仰、お前の祈りはどこにあるのだ。」と囁きかけます。危うくそのことばに乗りそうになったのですけれども、もう一度祈ろうと決意を固め、祈り続けようとしました。そのときヨハネの福音書17章の17節のことばが与えられたのです。

ヨハネの福音書17:17
17あなたのみことばは真理です。

もし神のみことばが真理であるならば、見えるところの病状は偽りであるはずです。そこでその兄弟は悪魔に、「今自分は頭が痛いのや、熱のあることは嘘だ。主のみことばだけが真理であるはずだ。」と言い返しました。
5分ぐらいして寝込んでしまいました。翌朝目を覚ましてみると、病気は完全にいやされていました。
この兄弟がいやされたのは、いやされるのが主のみこころであると確信したから、いやされたのです。いやされない場合ももちろんあるでしょう。けれど私たちがイエス様とともに十字架につけられたことは、例外なく確かです。

悪魔の訴えを退けるには、主のみことばを信ずることが必要です。私たちはどんなに失敗しても、また悪魔がその失敗につけ込んで訴えて来ても、主のみことばを信じていかなければならない。
悪魔はことばだけではなく、誤った印や経験や感情を私たちに起こさせ、私たちを主のみことばから離そうと努めます。悪魔は、私たちの古き人は決して死なないで、生きているということを私たちに教えようとしています。私たちは悪魔の騙しに乗るか、または主のみことばを取るか、決心しなければいけない。
私たちは外に表われた表われによって行動するのでしょうか。それとも主のみことばによって生きているのでしょうか。




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