引用聖句:ローマ人への手紙6章6節
ローマ人への手紙6:11-23
今、歌いました最後の文章は非常にいいものでした。「私は主のものです。」、これを心から言える人は本当に幸せではないでしょうか。 「私は何でもできるお方のものです。」、「私はもう富む者です。」、この主とは羊飼いであり、守り手であり、導き手です。だから満ち足りている。 ダビデは、「主は私の羊飼いであるから、乏しいことはない。私の杯は満ちている。」、結局、「喜びに満たされている。」 けれども主のものになった人々は遅かれ早かれ、自分は霊的にもっと成長しなければいけないけれど、いけない。どうしたらよいのかというところにぶつかります。 勝利の生活を送りたいけれども、どうしてもできません。罪の性質を自らのうちに嫌というほど知らされるが、どうしてもそれから解放されない。そのようなところにはまり込みます。 今まで私たちは主イエス様の流された血によって罪を赦され、義とされることよりさらに進んで、きよめられることのほうがどんなに難しいかわからないということを学んで来ました。 救われ、義とされるために私たちは自らの努力をいたしません。主は恵んでくださった。主の救いとは、決して人間の努力の結果、聖書を学んだ報いではない。単なる恵みです。 けれどそれと全く同じように、きよめられるためにも自分の努力は無駄であると聖書ははっきり言っているのです。ですから、自ら努力して罪を乗り越えて行くのではダメであって、私たちの罪の源が何であるか知らなければいけないわけです。 今読みました個所は、前にも何回も読みました。 ローマ人への手紙6:6
生まれつきの性質 ローマ人への手紙6:6
初代教会の兄弟姉妹はこの確信を持っていたのです。上から示されたからです。そして11節。 ローマ人への手紙6:11
認めなさい。 6章6節。「私たちは知っている。」、「確信する。」、そして11節。「認めなさい。」、計算しなさい。認め、計算するというのが正しい順序です。 私たちのうちの古き人はキリストとともに、もうすでに十字架につけられて死んでしまったことを知ったなら、その次にそれを認め、計算することです。この計算することも、やっぱり上からの光によって示されなければならない。 上から啓示によって示された主の事実の上に立っていなければ何の役にも立ちません。もしそうでないなら私たちの信仰は根拠のないむなしいものになってしまいます。 もし啓示によってそれを知るなら、計算するということは私たちにとって当たり前のことになります。 ヨハネの手紙第Iの中でヨハネは当時の信ずる者に次のように書いたのです。 もちろん聖書全体のはっきりとしていることは、罪の性質はいつも私たちのうちに潜んでいます。けれど私たちは信仰により、日々この力から解放され、罪の奴隷に甘んじていることなく、自らの主体の義の武器として主にささげなければならないということです。 ヨハネの手紙第I、3:9
この個所によると、古い人、罪の性質からの解放は事実です。ヨハネはここで、信者は罪を犯すことができないとは言っていません。イエス様を信ずる者であるがゆえに、そのうちに宿っておられるイエス様は罪を犯すことができないということがここで書かれています。 ですから私たち信者のうちに二つの性質があります。一つは、罪を犯すことのできないイエス様であり、もう一つは、古き人、生まれながらの罪の性質です。 私たちはですからどの事実の上に立っているか。どんな事実に基づいて計算するか。どんな事実によって生きるかが問題となるわけです。 すなわち私たちのうちには古い罪の性質があるという事実に基づいて生活するか、あるいは、聖なる主イエス様が私たちのうちに宿り、住んでおられるという事実に基づいて信仰生活を送るかのどちらかです。 主は私のものです。この主は私のうちに生きておられるという事実について考えると、やっぱり安心して将来に向かうことができる。 初代教会の人々の心構えとは、決心とは次のようなものです。コリント人への手紙第IIの4章18節です。よく知られている、多くの人々の大好きなことばの一つなのですけれど。 コリント人への手紙第II、4:18
結局、いつまでも続くものに頼ると後悔しません。 事実は信仰によって私たちの体験となります。イエス様はみことば、聖書について何と言われたかと言いますと、「あなたのみことばは真理です。」 悪魔の訴えを退けるには主のみことばを信ずることが必要です。私たちはどんなに失敗しても、また悪魔がその失敗につけ込んで訴えて来ても、主のみことばを信じていかなければなりません。 悪魔はことばだけではなく、誤った印や経験や感情を私たちに起こさせ、私たちを主のみことばから離そうと努めます。 悪魔は私たちの古き人は決して死なないで生きているということを私たちに教えようと必死になっています。 私たちは悪魔の騙しに乗るか、または主のみことばを取るか決心しなければならない。私たちは外に現われた現われによって行動するのでしょうか。それとも主なる神のみことばによって生きているのでしょうか。 私の名前はベックであります。みんなわかっていますけれど。これは私が認めている事実です。記憶がなくなって、私は自分の名前を忘れることがあるかもしれない。けれどその名前を感ずることができなくても、忘れてしまっても、私がベックであることはいつも変わらない事実です。 けれども自分で自分の名前を書いて、「私は小泉です。」、「ベネディクト16世です。」とだれにでも言うことにします。けれどもこれはなかなか大変です。難しい。 だれに会っても「私はベックです。」と言わないように注意しなくてはならない。けれどうっかりしているときに、「ベック兄―!」と呼ばれたら「はい!!」と答えてしまうことでしょう。事実はなかなか隠せません。ふとしたときに現われてしまいます。 私がベックであるということは事実ですが、私がそれを認めることは決して難しくない。この事実はどんなことがあっても変わらない事実です。 同じように、私たちが主イエス様とともに十字架につけられてしまったことは、私たちがそれを感じても感じなくても、信じても信じなくても、またどんなことがあっても変わらない事実です。なぜならそれをそんなに正確に確かに知ることができるのでしょうか。聖書はそう言っているから。 コリント人への手紙第IIの5章14節を見ると次のように書かれています。 コリント人への手紙第II、5:14
私たちの体験がその反対であっても、事実は事実として残ります。私たちがこの事実の上に堅く立っている限り悪魔は私たちに指一本も触れることができない。 悪魔の攻撃はいつも私たちの確信を揺るがせようとしてやって来ます。もし私たちが主のみことばに対して疑問を持つようになったら悪魔の勝利になります。 イエス様の事実を計算し、信じ込んでいる人は悪魔の手に負えない人々です。 コリント人への手紙第II、5:7
次の例はまだ覚えておられるかもしれないが、事実と信仰と経験が、高い、幅の狭い塀の上を一列になって歩いています。一番目、事実。二番目、信仰。三番目は経験。事実が、もちろんそうですけれど、先頭になって歩いていました。 この事実は右も左も見ません。後ろも振り返りません。真っ直ぐひたすら前を向いて歩いています。その次に信仰が歩いて行きます。信仰が前を行く事実を見つめて歩いているときは、何事もありませんでした。後ろから付いて来る経験も上手い具合に歩いています。 ですがある時、この信仰君が後ろの経験君を気にしました。経験の奴、いったいどうしたらどうでしょうかと思ってくれると後ろを振り向きました。そのときに信仰の目から事実さんの姿が消えました。その途端に信仰はバランスを失って、塀から落ちてしまいました。そのとき経験も信仰と一緒に落ちてしまったということです。 悪魔が試みて来る、その目的とはいったい何なのでしょうか。主から目を離し、自分のうちを、また色々な現象を、外に現われた現われを見つめさせるためです。 信仰はしばしば主のみことばをはばくするような色々なことがらに出くわします。それは私たちが、私たちがする目に見える失敗です。 このときに私たちの取る態度が問題です。そのとき私たちは自分の感覚を信じ、悪魔の騙し事を受け取るか、あるいは主のみことばに反することを全て退け、主のみことばに堅く立つかが問題です。 私たちの態度ひとつで主のみことばを否定しようとする材料がなくなるか、または私たちの信仰がなくなるかが決まるのです。 目に見えないものは永遠に留まるということを深く思い見ましょう。もし私たちが主の成し遂げられた事実に目を向け続けるなら、一歩一歩その事実が私たちのものとなってくるはずです。 イエス様がわれわれの義であることが現実となり、また主イエス様が私たちの記憶であることが私たちのうちに実際となり、またよみがえりのいのちがわれわれのものとなってくるのです。 パウロはガラテヤ人に手紙を書いたとき、やはりこのことを考えたでしょう。 ガラテヤ人への手紙4:19
信仰は主なる神の事実を実現いたします。永遠の客観的、主の事実が私たちの直感的な体験となります。 私たちは信仰の計算の大切さについて考えましたし、また試みと失敗に対する答えとは、いつも信仰です。主に信頼することです。 もうひとつの大切な点は、イエス様のうちにとどまり続けることです。 ヨハネの福音書15:4
前に何回も繰り返して言いましたが、もう一度まとめて繰り返します。 聖書の中には、私たちは私たちの罪の性質が取り去られたと書いてありませんし、私たちは自分自身にあって死んだとも書いてありません。 私たちはキリストにあって死に、罪の性質の働きが殺されたということが書かれています。もし私たちがこの事実に立って信ずるなら、主イエス様のうちに居り続けるなら、これが私たちの体験となってくるはずです。 聖書は、力を尽くしてイエス様のうちに入り込みなさいとは言っていません。もうすでに私たちはキリストのうちに置かれているからです。 イエス様のご命令は、わたしのうちにはいれとういうことではなく、わたしにとどまりなさいということです。私たちがイエス様のうちにいれられたのは、主なる神のみわざでした。 私たちが必要なのは、ただそのうちにとどまり続けることだけです。主はその救いと解放のみわざをイエス様のうちに行なわれたのであって、私たち個人個人のうちに行なわれたのではありません。これを知ることが必要です。 この救いと解放のみわざを主は私たちのために行なわれましたが、私たちのうちには行なわれませんでした。 主なる神はこのみわざを全てイエス様を通して、イエス様のうちに行なわれたのです。ですからイエス様の体験がわれわれの体験とならないといけないのです。イエス様から離れては霊的な体験はあり得ません。 全てのみわざは、父は御子である主イエス様にあって成し遂げられたのです。私たちはイエス様とともに十字架につけられ、イエス様とともによみがえらされ、イエス様とともに天の座に座し占められ、またイエス様にあって満ち足りた者とされ、イエス様にあって霊の諸々の祝福をもって祝福される者となったのです。 全てのことを私たちのうちにではなく、イエス様のうちに成し遂げられたのです。 もし私たちが、主イエス様が自分とともに行なわれたことを信じ、計算すると、主が成し遂げられたことがそのまま自分の体験となってくるのです。主の経験がわれわれの経験となるのです。 もし私たちがこの主の成し遂げられたみわざを認め、計算しないで自分のうちを見つめ、自分の経験を追い求めるなら、主のみことば、聖書に記されていることと反対のことを経験することになってしまいます。すなわち古き人、罪の性質は全然信じ得ないで、大変元気であることに気付くに至るでしょう。 イエス様のうちにとどまり続けるということは、いったい何を意味しているのでしょうか。どういうことなのでしょうか。 それはどんなことがあっても変わらない、永遠に変わらない主の成し遂げられた事実の上に立つことを意味します。 イエス様とともに死に、ともによみがえらせられ、ともに天上の座に座し占められ、霊の祝福に主イエス様にあってあずかる者とされたという事実の上に立つことを意味します。この主なる神の事実は、みわざは確かに目に見えません。 ですから私たちは目に見えるものによらないで、すなわち外に現われた現われ、自分の失敗、生まれながらの罪の性質に目をくれないで、私たちのために主イエス様にあって行なわれた事実に目を留めて、それを認め、計算して歩みたいものです。そうしたらイエス様の成し遂げられたことが、われわれのものとなります。 主がイエス様にあって行なわれたみわざは、私たちの信仰によって私たちの生活に実現して来ます。私たちは自らの古き人、罪の性質を殺そうと試み、またそれを良くし飾ろうと試みる必要はありません。 よみがえりのいのちをもって生活し、段々にこの完全な者となるように試みる必要はもちろん少しもありません。もしそうするならば、それは掟によって自分を縛り、絶望に陥ってしまうことになるでしょう。 私たちがどうしてもしなければばらないことは、ゆだねること、信頼することです。試みることと、ゆだねることの間には天国と地獄ほどの違いがあります。 私たちはイエス様が死んだとき、イエス様のうちにありました。イエス様がよみがえられたとき、私たちは主イエス様のうちに置かれていました。イエス様が父なる神の右に座し占められたとき、私たちはイエス様のうちにあったのです。 この事実を計算するなら、イエス様の体験は私たちの体験となります。主なる神は私たちを主イエス様のうちに置いたのです。ですからイエス様の身に起こったことは、われわれの身にも起こったわけです。そのかしらになされたことは死体にもなされたわけです。 多くの弟子たちは新しい祝福、新しい経験を求め、また自分のうちからあふれ流れるよみがえりの力にあふれた御霊に満たされた生活を追い求めています。これらを心から願い求めていますが、これらはみなイエス様のご人格から切り離すことのできないものであることを忘れています。 主イエス様に私たちの心の目が新しく開かれることによってのみ、まことの経験を自分のものとすることができるのです。そのほかの祝福も経験も全ては一時的なものであり、やがて消え去ってしまうでしょう。 まことの経験を得たいなら、主なる神がイエス様にあって成された事実を心の目で啓示によって見、信じ、計算しなければ自分のものになることができません。 主がすべてのことを御子イエス様のうちに成し遂げられたのです。そして私たちを主イエス様のうちに置いてくださったのです。 ですから私たちがそれを信じても、信じなくても、イエス様が経験させられたことは、われわれも経験しなくてはならない。不信仰によってこの尊い事実を私たちに、何の役にも立たないものになります。 けれど信仰によってイエス様の体験は私たちの体験となり、私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるようになるとあります。 初めに読みました、そのローマ人への手紙6章の11節から23節まで、非常に多くのすばらしい事実が述べられています。 パウロはどうしてこの手紙を書いたのでしょうか。ローマにいる人々が救われてもらいたいからではなく、彼らはもうすでに救われていたのです。 結局、どうしたら実際にイエス様の御姿がわれわれのうちに形造られてくるのでしょうか。どうしたら実際に憧れの勝利の生活に達することができるのでしょうか。どうしたら信仰生活が前進するのでしょうか。 パウロの答えとは、「知ることによって。」、「心の目が開かれることによって。」、それから、「信仰の計算をすることによって。」です。 私たちが、イエス様が今より2,000年前にわれわれの身代わりとなり、私たちの古き人、古き性質とともに十字架で亡くなられ、墓に行き、新しい全人類とともによみがえらされたというすばらしい歴史的事実を心の目で見て、まことの知識として知らなければいけないということが聖書の答えです。 それから、信仰の計算により2,000年前に成された歴史的事実を十分、個人のものとして受け取らなければいけないと、このローマ人への手紙6章に書かれています。イエス様が亡くなられたとき、私たちはイエス様のうちにありました。 イエス様がよみがえられたとき、私たちはイエス様のうちにありました。イエス様が天の座に居座せ占められたとき、私たちはイエス様の中にありました。 これらの驚くべき事実が信仰の計算によって自分のものとなるとき初めて、私たちはイエス様と同じ御姿に変えられていき、勝利の生活を送ることができ、また信仰生活がだんだん前進するようになるのです。 例えばいわゆる水の洗礼は、体験したことを証しするものです。イエス様とともに死に、ともによみがえらされたという事実を心の目で見た人だけが、幸いな洗礼の証しをすることができるのです。 歴史的救いの事実を啓示によって知り、信仰の計算により自分のものとした人は、このように水のバプテスマを受けて証しするようになるわけです。 このローマ人への手紙6章の中で、知ることについてだけではなく、あるいは計算することによってだけではなく、ささげる必要性についても書かれています。 自分自身を奴隷として、主に仕えるしもべとしてささげるということが要求されています。もし私たちがイエス様の定められたご目的を達しようと思うなら、このことについても考えるべきではないでしょうか。 前に読みました12節。ローマ人への手紙6章の12節、13節をもう一回読みましょうか。 ローマ人への手紙6:12-13
このローマ人への手紙6章12節から23節までの間に一番たくさん出て来ることばは、「ささげる」ということばです。 13節、16節、19節に合わせて5回このことばが、「ささげる」ということばが書き記されています。16節です。 ローマ人への手紙6:16
そして19節。 ローマ人への手紙6:19
多くの人はキリスト者がきよめられていくことについて話すとき、自分自身を神にささげなさいと言いますが、いったい何をささげるのかはっきり言いません。私たちは何をささげるのか、はっきりさせるべきです。 逆に、何をささげることができないかと言いますと、それは古き人、自分の知恵と力、生まれながらの能力と賜物をイエス様にささげることはできません。 主は古き人をのろい、十字架の上で判決を下され、さばかれました。古き人につけるものを主は何一つ受け入れようとしません。 ローマ人への手紙6:13
ここにその鍵があります。何を主にささげなければいけないのでしょうか。古き人ではなく、イエス様とともに死に、よみがえらされた新しい者です。 主に自らをささげるということは、古き人はイエス様のために十字架に死に、さばかれ済みであるという信仰の計算をした結果なされることです。そして信仰の計算は主イエス様の救いの事実を知ることを土台としていることはいうまでもないでしょう。 初めに知り、次に信仰計算をすると主は私たちに自分自身を神にささげなさいと言われます。 もし私たちが自分の古き人はイエス様とともに十字架で死んでいることを心の目で見て知るならば、計算することは確かに前に話したように、当たり前のことです。 このローマ人への手紙6章6節、また11節を確かに一緒に読まなくてはならないのではないでしょうか。知っているから、思い計算しなさい。もし私たちが新しき者としてイエス様とともによみがえらされてしまっていることを心の目で見るならば、私たちが主イエス様にあって生きている者であることも当然のこととして知ることができるはずです。 この二つの段階を自分のものとした人は自然に第三の段階に導かれます。死によみがえることなくして、死にささげることはありません。言うなら、主は決して汚れた古き人を受け入れられないからです。 私たちが自らを主にささげる十分な土台は死んでよみがえることです。バプテスマのヨハネは同じことを違うことばで言ったのです。「このイエス様は盛んになり私は衰えなければならない。」 結局、「主が中心になれば私は喜ぶ。」とバプテスマのヨハネは心から言うことができたのです。もし私たちも同じ態度を取ることができれば、大いに祝福されるに違いない。 |