引用聖句:コリント人への手紙第II、1章3節-10節
みなさんご存知のように、宗教という名の付くものはみな、「信仰」という言葉をよく使うものです。 登録されている日本の宗教の数は16,000なんです。16,000の宗教のこと、もちろん勉強しようと思ってもおそらくだれもできませんし。けども勉強しても必ずやっぱりあらゆる宗教は、信仰は大切だよと言います。この教えを信じ込まなければダメと言われています。結局信仰の土台なるものとはひとつの教えであると。 宗教的な考え方とはそういう考え方なんです。けども聖書から見るとやっぱり違います。 ひとつの教えを信じ込むことよりも大切なのは信仰の内容なんです。持つべき信仰の内容とは決してひとつの教えではない。ひとりの人格者です。 すなわち人間は、心のより所を持っていなければ色々な問題に出会いますとやっぱり大変なものになります。 今読みました個所を見てもわかります。パウロは何と言ってるかと言いますと、人間は悩むものです。人間は苦難を経験するものです。人間は苦しむものです。そして最後的に彼は何と言ってるかと言いますと、「主に頼ろう。」 うちのリンデは死にそうになったとき、同じ病院で働いているお医者さんは、私たちにある詩を贈ったんです。非常にすばらしい詩です。色々なことをピンと来なくても、理解できなくても、わからなくてもそれはもう関係ない。結論は信頼できるよと。ちょっと読みましょうか。 「主よ。いったいだれがあなたを理解できるのか。だれが御光に近づき得ようか。だれがあなたの導きの最後を見ることができるのか。 私たちの集めようとしたものをあなたは散らし、私たちの食べたものをあなたは壊す。どうして?なぜ? 私たちはまったく知りませんが、しかし信頼することができる。 なんとしばしば私たちは行き詰まりますが、それにも関わらず私たちは安全に、また確かにあなたの恵みによって導かれる。 あなたの恵みのゆえに私たちは戦いの真っ只中に心配と不安から解放される。 私たちは多くのことを理解できませんが、しかし信頼することができる。 あなたと論じ合おうとする者はだれでしょう。 救いにあずかった者に対してあなたは忠実であり、また最善を成すお方である。 罪の真夜中のときもあなたは私たちから離れず、御顔を私たちに向けてくださる。 私たちはどういうことかさっぱりわかりませんが、しかし信頼することができる。 死ぬまであなたの御顔の光を私たちの上に照らしてくださる。 だからこそすべてはメチャメチャになっても恐れず、心配しない。 あらゆる慰め、また希望が失われてもあなたにだけ頼る。 私たちはもう理解したくない。しかしあなただけに頼ろう。」 聖書の言われてる信仰とはそういうものなんです。しかしそれと関係なく信頼することができる。 ちょっとローマ人への手紙の一ヶ所を見てみましょうか。よく知られてる個所ですけども、15章。 人間にとってどうしても必要なのは三つでしょう。喜びと平和と望みです。この三つのことばがローマ人への手紙に出てきます。 ローマ人への手紙15:13
こういうふうにパウロは、一度イエス様に出会って、イエス様を信じ救われた人々に書いたのです。 もちろんこれはパウロの単なる願いではなく、心からの主に対する叫びでした。 パウロはこういうふうに永遠のいのちにあずかるようになり、罪の赦しを自分のものにした人々のために祈ったのです。 ある人々は救われれば問題がなくなると考えます。もちろん現実を見ると決してそうじゃない。 信仰があっても人間はやっぱり悩む者で、苦難を経験する者で、苦しむ者です。もしそういうものがなければ別にイエス様がいなくてもいいでしょう。自分の力に頼って頑張れば何とかなるのではないでしょうか。 どうして、どういうふうに人間は喜び、平和、望みに満たされるのでしょうか。この13節の中でパウロは答えているのです。「信仰によって。」 もちろんここでも、信仰によってよりも信頼することによってと言ったほうがいいのではないでしょうか。 結局色々なことをわからなくてももういいよ。わかりたくない。主は言っておられるから。この主は背後に導いてくださり、はっきりとした目的をもって導いてくださるから、この主にゆだねましょう。何でもできるお方に頼ろう。要求されてるものとは結局そういうものです。 前に読まれましたコリント人への手紙第IIの1章の中にも、そしてここでローマ人への手紙15章の中でも同じことばが出てきます。 例えば5節を見ると、ここでも主は忍耐の神、忍耐と慰めと主は呼ばれています。 パウロは忍耐と慰めの神に頼ったのです。結果として彼は元気になりました。3節を見ると、どんな悩みの中にあっても、苦しみの中にあっても、主は忍耐と慰めの神であると書かれています。 悩みやそしりは分かれざる心をもち、イエス様に対する単一なひたすらなる心をもって、主に仕える者に必ずやって来るものです。主のために生きたいと思う人とは間違いなく悪魔の攻撃の的になります。 イエス様の歩まれた道はどういう道であったかと言いますと、おのれをむなしくし、おのれを否定する道だったのです。 イエス様に従おうと思えばわかります。すなわちイエス様に従う道はそしりの道であり、悩みの道であるということです。もし、イエス様を信じます。けどそしりを経験したことがないし、悩み、苦しみもわからないと言う人がいるとすれば、その人の信仰は本物かどうか疑わしいものなのではないでしょうか。あり得ません。 主と正しい関係をもつ者の経験とは、やっぱり同じようなものではないかと思うんです。3節ですね。 ローマ人への手紙15:3
と書かれています。 イエス様は自分自身のことを大切にしようとしなかったし、自分の利益について考えようとしなかったし、人間に喜ばれようとももちろん思ったことがない。 人間はみな、自分、自分、自分と考えます。イエス様はいつも、「父よ。あなたの栄光だけが明らかにしてください。自分の思いではなく、みこころだけがなるように。」と祈り続けたのです。 人間が悩み、苦しみ、そしりの中にあるとき、あきらめ、絶望しないために必要なのは、忍耐と慰めの神に頼ることです。 頼ると必ず元気になります。もし忍耐と慰めの神がおられなければ、だれでもがもうがっかりしてしまい、失望と落胆の泥沼に落ち込んでしまうに違いない。 3節とは、主は忍耐と慰めの神と書き記されています。パウロはどうして主を忍耐と慰めの神と呼んだかと言いますと、主を忍耐と慰めの神として体験的に何回も何回も経験したからです。 信ずる者もやっぱり悩みます。苦しみます。打ちのめされるようになります。 悩みの中にあって解決がなく、あきらめようとしてるのでしょうか。それとも困難な状態であり、また自分の性格を苦にしてるのでしょうか。 パウロの証しを読むとはっきり言えることとは、私たちは打ちのめされてる必要は毛頭ありません。 どうして?忍耐と慰めの神ご自身がわれわれの主であるからです。私たちの真ん中にご臨在しておられるからです。 パウロは刑務所の中で書いたことがあります。「主は近い。」、だから彼は不安から、心配から解放され、ほめたたえる者となったのです。 信仰よりも大切なのは信仰の内容。信仰の内容とは忍耐と慰めの神です。 このローマ人への手紙15章の33節、また別の名前が出てきます。33節を見ると、主は平和の神と呼ばれています。 ローマ人への手紙15:33
ここで主は平和の神と呼ばれてます。その前の30節と31節を見ると、力を尽くし、祈りの戦いのうちに神に祈ってほしいとパウロは願ったんですが、主は戦いの真っ只中にあってもなお平和の神と呼ばれています。 心を尽くし、真心を込め、誠心誠意主に仕えたい。主のために生きたい者は必ず戦いの真っ只中に投げ出されております。 31節を見るとパウロはこれからユダヤへ行こうと決めたのです。エルサレムへ行こうと彼は決心したんです。 行くとやっぱり主とのつながりを持っていない、結局ユダヤ教によって縛られている人々の迫害をパウロは予測したのです。 それだけではなく、エルサレムの聖徒に仕えることができるように、その方針に対して霊的な戦いを予測していたパウロはやっぱり不安があったんです。どうしましょうか。 一言で言いますとパウロはその時戦いの渦の真ん中におったわけなんです。このようなときパウロの支えとなったのはいったい何だったでしょうか。 ひとつの教えではない。平和の神でした。主はいつも私たちの求めに応じて私たちの求めとなってくださるお方です。そしりと苦しみの中にあっては、主は忍耐と慰めの神であり、戦いの中にあっては、主は平和の神です。 そして前に読みました13節を見ると、もうひとつのすばらしい名前が出てきます。望みの神。 ローマ人への手紙15:13
われわれの主とは望みの神です。いわゆる宗教の神々とはだいたい恐ろしいものです。要求する神々です。「ああしなさい。こうしなければやっぱりダメ。」 もちろんわれわれは主をつかもうと思ってもつかみ得ないし、もちろん私たちは主によって捕まえられちゃった。監禁されてしまった。だから主は言っておられると確信をもって言えるのです。 パウロは当時の信ずる者に、やっぱり主は望みの神ですと書き記したのです。 宗教はよく運命について話すんです。天罰について話すんです。もちろんまったく非聖書的な考え方です。 運命だからやっぱりあきらめなければならない。そういうことになっちゃいます。けども聖書の言ってることは、人間はどういう状況に置かれていても絶対にあきらめる必要はない。どうして? 主は望みの神であられるからです。望みの神が生きておられる限り絶対にあきらめてはいかん。 天罰だってこれこそ神を冒涜する考え方なんです。主なる神は人間を罰する気持ちを全然知りません。人間を罰することについて一秒も考えたことがない。なぜならば、まったく必要ないからです。イエス・キリストが代わりに罰せられたからです。 そしてイエス様は永遠のむかしから、わたしはいつかちょっとだけ人間の歴史についてもちろん考えてくださったのです。 いつか人間は創造されるようになり、そしてこの人間は誘惑され、悪魔の奴隷になり、どうしようもないわがままの塊になるとイエス様はもちろんわかった。けどそのときイエス様は、わたしは代わりに死ぬ。救いの道を開くと決心してくださったのです。 結局、罪という問題がなかったとき、イエス様は、「わたしはこの問題を解決する。」と決めてくださったのです。 病気がなかったとき、もうすでに薬が用意された。 確かに罪という問題は大変な考えられない問題なんです。そのためにイエス様は犠牲にならなければならなかったからです。けども主にとってちょっとちっぽけな問題だったのではないでしょうか。 偶然はない。主は支配者です。天罰もあり得ない。必要ないからです。イエス様は代わりに犠牲になられたのです。 ですからパウロはここで、喜んで、誇りをもってわれわれの主とは望みの神ですと書いたのです。 パウロはこのローマ人への手紙を、もうすぐ捕われて幽囚の身となるというときに書かれた文です。 24節と28節を見るとわかりますけど、パウロは間もなく外国まで行こう。すなわちスペインに行きたいという願いをもっていたことがわかります。 けど実際にはどうなったのでしょうか。パウロは少なくともそのとき彼はスペインに行くことができなかったのです。 彼は何回目だったかわからない。また捕らえられるようになり、信仰のゆえに刑務所に入れられるようになったんです。 もちろんどうしてスペインに行きたかったかと言いますと、時間を潰すためじゃない。ゆっくり休むためじゃない。 スペインにいる多くの人々は一回もイエス様のことを聞いたことがないから。イエス様こそが望みの神であられるからやっぱりみな、この望みの神を知ってもらいたいと切に願ったのです。 行くことができなかったこととはパウロにとってどうでもいいことではなかったんです。もう平気だよと彼は思わなかったんです。 彼にとってもやっぱり非常な苦しみだったに違いない。刑務所に入ってるというその苦しみばかりでなく、スペインにおける奉仕道が断たれたということもパウロにとって苦しみだったに違いない。 もちろん私たちは考えるともちろん違う結論になるでしょう。良かったじゃないか。 もしパウロが一回も刑務所に入れられなかったならば、刑務所の中で書かれてる手紙は生まれなかったんです。 もちろんパウロは刑務所の中で書いた手紙は1,900年残ると夢にも思ったことがないんです。それわかったならば、これこそ最高だと彼は思ったに違いない。彼の奉仕とは確かに実を結ぶ奉仕だったけど、彼の書いた手紙を通してもーっともっと多くの実が結ばれたのではないかと思います。 パウロは刑務所の中で望みの神について書いたのです。けども捕われの身になったこととは彼にとってもやっぱり苦しみを意味してたでしょうし、けどそのときこそ彼にとって必要であったのは望みの神に頼ることです。 前に話したように、信ずる者も悩む者であり、苦難を経験する者であり、苦しむ者です。あらゆる、イエス様に従おうと思う人は必ず悩み、そしり、戦い、失望を知ってる者です。 だからこそ、忍耐と慰めと平和と望みの神が必要であります。 忍耐と慰めの神はわれわれの近くにおられます。平和の神がわれわれとともにおられます。望みの神ご自身がわれわれのうちにおられるとパウロは書き記したのであります。 今朝、ドイツの17人の兄弟姉妹はお帰りになりましたけれども、彼らはドイツのひとつの問題についてちょっと話されたんです。 すなわちひとつの問題についてやっぱり信ずる者同士の中で一致がないんですって。 どういう問題であるかと言いますと、ある人々は救われた人々も滅びることができるという考え方があり、ほかの人々は、救われた人々は永久的に救われてるという考え方なんです。 結局多くの人々はやっぱりこの罪を、この過ちを犯してしまったから、確かにイエス様を信じてますけど、天国にはいる可能性まず考えられない。そういう資格がないからと思います。 結果として希望を失いますし、絶望してしまう。これこそが悪魔のもっとも強い武器なのではないかと思います。 ですからパウロはこのローマ人への手紙15章13節の後半に、 ローマ人への手紙15:13
これこそがパウロの祈りの内容でした。祈りの目的だったのです。 なぜならば悪魔は主に仕えよう、主のために生きたいと思う人々に対して絶望という武器を持って、激しく攻撃して来るからです。 (テープ A面 → B面) ここで言ってる戦いは悪魔が人のたましいを主から奪い取ろうとして、絶望に引き入れることに対する激しい深刻な内面の霊の戦いを言ってるのです。 聖書を読むと、主によって一番用いられ、祝福された人々こそ、悪魔の攻撃に負けてしまったと言えるのではないでしょうか。すなわち彼らでさえもあるとき、もうがーっかりしてしまって、もうダメだと思うようになったのです。 初めに読みましたコリント人への手紙第IIの中で、パウロでさえも、またパウロの同労者も、結局考えられないことを経験しました。8節ですね。 コリント人への手紙第II、1:8
「兄弟たちよ。」の代わりに、「宇都宮で集まってる兄弟姉妹よ。」と言ってもいいのではないでしょうか。 コリント人への手紙第II、1:8
知ってもらいたい。 コリント人への手紙第II、1:8-9
「もうおしまい。」、パウロとパウロの同労者たちは、もうおしまいだと思って、結局絶望してしまったのです。 他人が悩むと、第三者としてよく聖書の個所、引用します。「主は耐えられない苦しみを与えられませんよ。」 第三者として簡単に言えます。本人の気持ちは違うんです。何にも見えなくなると、逃れ道がなければ、いや、ちょっと違う話なんです。 結局、耐えられない苦しみが与えられないということとはちょっと違うと思うよ。自分の力で耐えられません!いくら頑張っても無理。だから絶望してしまうんです。 例えば、アブラハムという信仰の父は、絶望したと聖書は言っています。考えられない。信仰の父であるアブラハムは不信仰に陥ってしまったのです。 本当なんです。結局絶望してしまったんです。ご存知のように、主はアブラハムにひとつのすばらしい約束を与えたんです。子ども与えますよ。女の子じゃなくて男の子与えます。 アブラハムはそれを聞いた。嬉しくなっちゃったでしょう。けどその約束はなかなか成就されなかったんです。主はいったい何を考えてるの。 彼は必ず何年間も、「主は嘘を知らない。主は何でもできる。いくら絶望的に見えても可能です。」と、彼は信じ続けたのですけど、彼はついに85歳になっちゃったんです。無理なのではないでしょうか。 彼はそれまで主とともに歩んだし、多くの祝福を受けたんです。彼はあっちこっち、「私の主、栄光の神こそが何でもできるお方です。」と宣べ伝えたに違いない。けど今、息子与えてくださるという主の約束は望みがなくなっちゃったんです。 人が絶望すると、色々な違った反応を示します。ある人は、絶望状態に陥るとあきらめてしまいます。ある人は、逃れ出るために自分で何かしようとする。人の性質によって違うんです。 アブラハムの場合はそうだったんです。自分でしよう。どうしてこういうふうになっちゃったかと言いますと、結局絶望してしまったからです。 妻は、サラという彼の奥さんは子を産まない。そこで奥さんは遣いめであるハガルというエジプトの女奴隷をアブラハムの妾として与えた。彼女は子を産むようになったんです。 これは何を意味してるかと言いますと、アブラハムはその行ないによって、「神はできない。だから自分でことを行なおう。」というとんでもないアブラハムの心を表わしています。 けど彼こそが信仰の父と呼ばれていたことなんです。アブラハムはもちろん、そう思わなかったんですけど、彼の行ないとは何を物語っていたかと言いますと、「主は望みの神ではありません。主はダメであるから私がやらなくちゃ。主は成し得ないから。」 彼は絶望に陥ってしまったのです。彼は結局神に拠り頼まないで、自分でことを行なったのです。結果として悪魔が勝利を取ったのです。 悪魔はわれわれの状態を見て大喜びのときがしばしばあるのではないでしょうか。 確かに私たちは口で、「神はできない。神はこの状態を解決できない、だから自分でやろう。」と口で絶対に言えないでしょうけど、実際の生活においてそれをやってる場合が往々にしてあるのではないでしょうか。 アブラハムは絶望してしまった。信仰の父と呼ばれている者は結局絶望した。 ダビデについても同じことが書かれています。ダビデは信仰の父ではなく、みこころにかなう者と呼ばれた男です。彼も絶望してしまったんです。結局彼は迫害され続けたのです。 主は、「ダビデ。あなたは王となる。約束します。わたしの名誉がかかってる。心配する必要はない。思い煩う必要はない。間違いなくなる。」 彼はもちろんそれを長い間信じたんですけど、あるときから無理というとんでもない結論を出してしまったんです。 聖書は次のように言っています。 サムエル記第I、27:1
公に言わなかった。心の中だけ。 サムエル記第I、27:1
当時の王さまの手 サムエル記第I、27:1
ペリシテ人とはイスラエルの敵だったんです。神の敵のところにのがれるよりほかの道はない。 サムエル記第I、27:1
結局、主は私を守ることができないから、主は自分の約束を守ることができないから、仕方がないじゃないか。 長い間ダビデは、主はできると思ったんですけど、やっぱりもうダメ。 アブラハムは、主はできないと思い込んでしまったんです。ダビデは何を思ったかと言いますと、「今はもはやなすことができない。もうすでに遅すぎる。王となる望みはもうあり得ない。」と彼は思ったんです。 それまで長い間彼は、主はご自分のご計画を必ずあまさず成就されると確信したのです。確信し続けたのです。 けど今、どうでしょう。周りの情勢が困難に見えます。絶望的に見えます。ダビデはすべてがダメであると望みを捨てちゃったのです。 実際にはこのときダビデの敵であるサウロ王さまの死は間近に迫り、ダビデが王となるのは目前に近づいていたのです。 何週間かあとでサウロ王は自殺してしまったのです。ダビデは何もしなくても簡単に王になるようになったのです。 みこころにかなうダビデは絶望してしまった。 ダビデは王となるのですが、ちょうどその寸前、今のときは悪魔が働く闇のときであり、絶望に引き込もうとする時期だったのです。 ダビデは絶望してしまった。どうして?望みの神を見失ったからです。 信仰の父であるアブラハムだけではなく、みこころにかなうダビデだけではなく、もっとも用いられたエリヤという預言者も絶望してしまったのです。 エリヤは本当によく神の人と呼ばれていた人なんです。彼は次のように告白したところがあります。「私は主の前に立ってる者です。」、人間の前じゃない。 彼は人間を恐れる恐れから解放されたんです。いくら憎まれても、迫害されても、殺されても関係ない。「私は主の前に立ってる。主のがわに立つ。」、そういう男でした。 神の人と呼ばれていたのです。主とともに歩んだ人だったのです。彼は限りない祝福を受けたし、主の力を十分に味わい知っていた人だったのです。けど彼も絶望した。考えられない。 もちろんエリヤはアブラハムのように思わなかったんです。アブラハムは、「神はできない。」 エリヤはいくら考えてもそれ言えなかったんです。何回も、何回も経験したから。「主にとって不可能なことはない。」 あるいはエリヤはダビデのように、「今はもうすでに遅すぎる。」とも考えられなかったんです。「遅すぎるということはあり得ない。」 そうしたら彼はどうして絶望したかと言いますと、自分自身のことで絶望してしまったのです。 彼は何を叫んだかと言いますと、「主よ。私は汚れた者です。ご自身の役に立たない者です。ご用にかなわない者です。弱い者です。私はダメなんです。よろしく。ほかの人をお捜しになってください。ほかの人をお遣わしになってください。私はダメだからです。」 結局エリヤはおのれに絶望し、このように思うようになってしまったのです。 前に話したように、もっとも用いられた人々こそがこういうふうに失敗してしまったんです。 いったいどういうことですか。どうして主はそれを許したのでしょうか。結局全部主のせいでしょ?主が許さなければあり得ないことなんです。 アブラハムもダビデもエリヤも絶望状態に落ち込んでしまったのです。 もちろんアブラハムにしてもダビデにしてもエリヤにしても、心から全力を上げて主にだけ仕えた人々だったんです。 主が三人を見ると、三人は本当に主に愛される人々であり、非常に主のために価値ある者だったのです。 ですから主はこの三人を通してご自身の永遠の目的を達成されようといたしました。悪魔が主のみこころにかなうこの三人の全力を上げての激しい攻撃を加えないはずはありません。 三人が絶望に陥った原因は、ひとつは悪魔の攻撃でしょう。けど、その裏にもうひとつの見逃すことのできない理由があるのではないかと思うのです。 すなわち主は三人を通してご自分の目的をご自分で成し遂げようと思われたからです。 三人を単なる道具として、管として、器として用いたかったのです。この主の目的にかなうために絶望の中に沈み込むことがどうしても必要だったのです。けど望みの神はまったく望みを失ったアブラハム、ダビデ、エリヤの神です。 私たちはもうすでに言いしれないこの激しい絶望に追い込まれたことがあるのでしょうか。 自分の生まれながらの性質をもってするなら、それは主のお邪魔とすることであることを知らなければならないと思う。 三人はどうしてこの辛いことを経験するようになったのでしょうか。パウロは答えたのです。もう一回コリント人への手紙第IIの1章に戻りますと、次のように書かれています。 コリント人への手紙第II、1:8-9
どうして?答えはこれです。もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。まだなっていなかった。 もしパウロたちはその前にどなたか、あなたたちは実は、まだ徹頭徹尾主に頼っていないとどなたかに言われたならば、彼らは納得できなった。 「いや、私たちは主の栄光のことだけ考えてる。主によって導いてもらいたいとしか考えられません。自分の目的をもっていません。」と彼らは必ず言ったでしょう。 けどもこのような耐えられないほどの圧迫を受けたとき、やっぱりわかるようになったんです。「やっぱりダメ。ゆだねてると言いながらまだゆだねていなかった。」 だれでも経験することなのではないでしょうか。結局辛いことを経験することとは必要だったのです。主にだけより頼む者となるためでした。 より頼む者だけが用いられます。より頼む者だけが実を結びます。もちろんそれだけではなく、もう今から大丈夫。 自分がいくらダメであっても主はダメになり得ない。 コリント人への手紙第II、1:10
今からも コリント人への手紙第II、1:10
信ずることとは前に話したように信頼することです。すべてをゆだねることです。ゆだねなければ耐えられない重荷になってしまうのです。 結局人間は頑張るかゆだねるかどちらかです。「もうお手上げです。何もできません。よろしく。」 この態度を取るとやっぱりパウロと同じように主は将来も救い出してくださると確信をもつようになります。 ペテロの手紙第I、5:7
ペテロはどうしてこういうふうに書くことができたかと言いますと、やっぱり辛い経験を通して知るようになったからです。 悩むこととは、苦しむこととは、長い目で見るとなかなかいいものなんです。ですからイエス様は、悲しむ者は幸い。幸せであると言ったのです。 問題がなければ、人間は祈ろうとしません。問題がなければ、人間は聞く耳を持っていません。 けど苦しむようになると祈るようになり、祈りの結果として主は答えてくださる。主は答えてくださると私たちは主はすごい。主は何でもできると確信するようになります。 結局何も見えなくても、何も聞こえなくても、何も感じられなくても、何もわからなくても、安心して信頼することができる。 どうしてであるかと言いますと、主に信頼する者は決して失望させられることがないからです。 |