引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-5節
ヨハネの福音書11:21
ヨハネの福音書11:32-36
ヨハネの福音書11:43-44
ヨハネの福音書12:1-3
ヨハネの福音書12:9-11
今読んでもらいました箇所を、おそらくみなさん、何回も何回もお読みになったなのではないかと思います。 もし私たちは、聖書を持っていないで、けど、このヨハネの福音書11章、12章だけ持ってれば、十分じゃないかなと考えられます。すっばらしいところです。 ですからこういうよく知られてる箇所を読むと、もう分かったという気持ちになるのは無理もないけど、けど主はよく知られてる箇所をどうしてもやっぱり語ろうと思っておられるなのではないかと思います。 イエス様にとってベタニヤというところは非常に好ましいところでした。エルサレムとはイエス様にとってあまり好きではない町だったなのではないでしょうか。 イエス様はエルサレムを見て涙を流された。けどもエルサレムとは宗教的な町で、パリサイ人たちはみんなエルサレムの近辺に住んでいた人々でした。けども彼は聞こうとしなかった。イエス様殺そうと計画したのです。マタイの福音書21章の17節に次のように書かれています。 マタイの福音書21:17
エルサレムを出て、 マタイの福音書21:17
イエス様はベタニヤに行ったとき、やっぱりとってもすばらしい雰囲気であったし、どうしてであるかと言いますと、結局みな聞く耳をもっていたのです。イエス様を大喜びで受け入れたからです。 結局イエス様はベタニヤに行ったとき、お客さまよりも主人になっちゃったなのではないでしょうか。 「主よ。語ってください。」、そういう気持ちでいっぱいでした。 何年前だったかちょっと忘れちゃったんですけど、ある兄弟は、死にそうになったのです。姉妹も息子二人も非常に悩みましたし、けどもみんなイエス様を信じたから、やっぱり死は終わりではないと確信することができたんですけど、お医者さんたちは、やっぱり何とかなるんじゃないかと思ったんですけど、最終的におそらく分かったでしょう。 なにをやってももう無理。 そのときあの死にそうな兄弟は何と言ったかと言いますと、「先生。お願いします。イエス様のもとに行かせてください。」 おそらくあの医者は、この文章を忘れられないなのではないでしょうか。「イエス様のところへ行かせて。」 ベタニヤに住んでいたマリヤは同じ気持ちでした。「主よ。聞かせて。しもべは聞いております。」 この態度を取ることこそが、われわれにとっても考えられないほど大切なのではないでしょうか。 主の足もとにすわり、みことばに聞き入ったマリヤは、本当に元気になりました。喜びに満たされたに違いない。主のみことばは彼女の心の糧となり、心の喜びとなったのです。 聖書とはどういうものか。元気のもとです。これこそがマリヤの経験したところでした。 主の足もとにすわること、主の前に静まることこそが、おもにわれわれ現代人にとっても考えられないほど大切なのではないでしょうか。 多くの信ずる者の特徴なるものは、疲れであり、無力さであり、たゆむことなのではないでしょうか。 もしも私たちが本当に、正直に偽ることなく主の御前に出るならば、私たちも自分が疲れて、無能力で、たゆむ者であることを告白せざるを得ないなのではないでしょうか。 ベタニヤとは結局、ベタニヤに住む三人の兄弟たちにとって、非常に大好きなところになりました。そしてイエス様は天に上げられる前にやっぱりまだベタニヤの近くに行こうと思われたのです。ルカの福音書24章を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書24:50-53
とあります。イエス様は、彼らをベタニヤまで、弟子たちをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。イエス様は弟子たちをベタニヤの近くに導かれたことは、よみがえられたイエス様が一番最後になされたことでした。 イエス様は自分でどうしようかと思われたのではない。いつも、「お父さま。どうしましょうか?」、お父さまの言われた通りに、イエス様は動いたのです。 弟子たちをベタニヤの近くまで導かれることとは、イエス様の一番最後になされたことでした。 弟子たちがイエス様とともにベタニヤに行ったとき、そこでイエス様は弟子たちを新たに祝福され、そののち弟子たちの目の前に天に上げられたのです。 はっきり言えることは、イエス様が弟子たちをベタニヤに導かれたのは、やっぱり父のみこころでした。イエス様の末のことがらでした。ベタニヤに弟子たちを導くことによって、弟子たちに大切なことをもう一回明らかにしようと思われたなのではないでしょうか。 さあ、ベタニヤに来た。この地を末永く記憶にとどめなさい。このベタニヤをいつまでもいつまでも忘れないでいなさいとイエス様は言いながら、弟子たちを祝福してくださったのです。 このベタニヤはどんな意味をもってる地なのでしょうか。前に読まれました箇所を見ると分かります。 すなわちこのベタニヤには、おのおのの違った特徴をもった三人の兄弟姉妹、すなわち、マルタ、マリヤ、ラザロが住んでいたところでした。 そしてイエス様はいつも好んで、このベタニヤに来られて、三人の兄弟をお訪ねになりました。 そこでおやすみになり、また食事を取ったりされました。いつも楽しみにしてベタニヤを訪れた主イエス様でした。 イエス様はどうしてそんなにベタニヤを好きになったなのでしょうか。イエス様はベタニヤを愛された理由は三つあります。 第一番目。イエス様に対する純粋な愛でした。三人の兄弟の姉妹マリヤは、生涯を通してイエス様を心から愛したのです。 第二番目。イエス様に対する奉仕です。もう一人の姉妹マルタはイエス様に心から奉仕した人でした。 確かに私たちは、あのマルタは、ちょっと・・・と思われるかもしれない。あるときは確かにそうだったんです。けども、前に読みましたヨハネの福音書12章の中で、またはっきり書いたのです。イエス様のためにそこに晩餐の用意をした。そしてマルタは給仕していた。イエス様はそれを見て必ず、喜んだに違いない。 第三番目。イエス様のよみがえりの力です。一人の兄弟、ラザロはベタニヤで死からよみがえらせられたのです。またベタニヤに住む三人の兄弟姉妹は、イエス様を通して初めて、内容ある人生を、はっきりとした目的をもった。意味のある人生が確認されたと体験的に知るようになったのです。結局イエス様とは彼らにとってすべてとなったのです。 私たちは神なき人生の無意味さを認識したことがあるなのでしょうか。また、いかなる尽力も努力も、まことの主なる神と人間との間の隔ての壁を取り除くことはできないということを分かったなのでしょうか。 そしてまた自分が破産したことを宣告し、自分の債務やわがままをイエス様に告白したことがあるなのでしょうか。 イエス様の血潮によって自分が贖われ、主なる神の子とされてることを確信するようになったのでしょうか。そしてもはや、さばかれることがないことも確信できるなのでしょうか。本当に真剣に考えるべきです。 すなわち、もっとも大切なことはいったい何なのでしょうか。一番大切なことがなされるということ、これこそが大切なのではないでしょうか。 もちろん私たちは、みな忙しいけど、もっとも大切なのは静まることです。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」という態度を取り続けるなのではないでしょうか。 マリヤはこれをはっきり分かったのです。だから彼女は主の足もとにすわって、みことばに耳を貸したのです。 「主よ。語ってください。聞かせてください。聞いております。」、このマリヤという女性は生涯を通してイエス様を愛し抜いたから、この態度を取ったのです。 ですからこのベタニヤのうちの雰囲気は、ただ一言で言い表わすことができる。すなわちそれは愛です。 マリヤは、もちろん聞いただけではない。一方通行ではなかった。彼女は必ず話したんです。イエス様に色々なことを聞いたのです。 結局彼女は祈りの人でした。みことばだけを読むこととは十分じゃない。答えとして私たちは祈る特権にあずかるようになってます。マリヤにとってイエス様の話を聞くこと、イエス様と話すこととは、もう最高の特権であり幸せでした。 このベタニヤに住む三人の兄弟の回りの人々も、この小さな家族をイエス様がどんなに愛しておられたかよく分かるほど、イエス様はこの三人を愛されたのです。 このマリヤは、イエス様が自分たちをまったく欠けたところなく愛しておられることをよく知っていたから、イエス様を少しも裏切るところなく心から愛したのです。 聖書を見ると書いてあるとおりに、このマリヤは、前に読みましたヨハネの福音書12章に書かれています。 非常に価の高いナルドの匂い油をイエス様に惜しげもなくふりそそいだと書かれています。すなわちためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様にふりそそぐことにより、イエス様に対する愛を示したのです。 この油を買うために、普通の人間は一年間働かなければならなかったのです。考えられない高い物でした。 ですから自分のために使うのはもったいないと彼女はもちろん思ったのです。 イエス様のためだったら、どうしようかね。半分ぐらい注ぎましょうかと彼女は思わなかった。イエス様のためだったら、喜んでささげると。 このナルドの匂い油の匂いがうち全体に満ちたと聖書は言ってます。それと同じように、愛の雰囲気が三人兄弟のうちを包んでいたのです。 すなわちベタニヤは、イエス様に対する愛が満ち満ちていたところだったのです。そしてイエス様がそれを満足されたのです。 イエス様に対するこのようなマリヤの愛は、イエス様が何にもまして求めておられるところのものです。 イエス様は私たちが心からすべてをささげ、主を愛してるかどうか見ておられます。私たちはイエス様だけを見て、イエス様だけを愛してるなのでしょうか。 または、この世のものも目に入り、主にすべてをささげることをしないでいるなのでしょうか。ヨハネの黙示録の中で非常に厳しいみことばが書かれています。みなさん、何回もお読みになった箇所です。 ヨハネの黙示録2:4
この初めの愛とはいったい何でしょうか。初めの愛とは、イエス様との交わりなんです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成しえないということこそが、いわゆる初めの愛です。 もし毎日、みことばがわれわれの喜びの泉となり、われわれの慰めとなり、力の源となり、われわれの知恵となっているならば、そして私たちの考えと行いの中心にイエス様がおいでになるならば、それこそが私たちの初めの愛が保たれてることの証拠です。 当時の、エペソという町にいる兄弟姉妹の心は、イエス様との親しい交わりの中にはなかったんです。主の足もとに静まることを彼らは知らないうちに忘れてしまったのです。 その結果、イエス様は彼らに、「わたしはあなたがたとともにいることができない。わたしはあなたがたに対して対立する。」と言わざるを得なかったのです。 主は、人の行ない、あるいは人の歩みを見られるよりも、心を見てくださるのです。 箴言23:26
とあります。ほかのことばで言いますと、「主の足もとに静まれ。」ということなのではないでしょうか。 初めの愛はイエス様を私たちの中心に置かれます。そしてこのことは、われわれの過去における一時的なことがらであってはならず、われわれの全生涯を貫くことがらでなければならない。 イエス様が当時のイエス様を、三回も否んだペテロに聞いたのです。「あなたはわたしを愛するの?」 ペテロは三回も同じ答えをすることができた。「はい。あなたを愛しています。」どうして言えたかといいますと、結局、主は自分の過ちを赦しただけではなく、忘れたと確信できるようになったからです。 ベタニヤの三人は、イエス様を分裂のない真実の愛をもって愛したのです。だからこそイエス様は、天に帰る前に弟子たちをこのベタニヤに導きました。 イエス様は今日もこのようなベタニヤを求めておられます。私たちの心は、主を愛するベタニヤとなってるなのでしょうか。 われわれの心の内には、深い全きわかたれざる聖い主に対する愛があるなのでしょうか。われわれの内には、主に対する初めの愛があるなのでしょうか。あのベタニヤの家を満たしに満たした愛が心の内にただよってるなのでしょうか。 二番目。イエス様に忠実に仕えたマルタについてちょっとだけ考えたいと思います。 イエス様はどうしてそんなにベタニヤを愛されたなのでしょうか。イエス様がベタニヤを愛された理由は、前に話したように三つです。 今話したように、まず、イエス様に対する純粋な愛があったからです。そして二番目、イエス様に対する奉仕もありました。 マルタという女性はイエス様に奉仕したのです。適当ではない、心から。 私たちはこの主イエス様に対する愛に満ちた家の中で、同時にイエス様に対する忠実な奉仕を見ることができます。すなわちマルタは、イエス様のために食事を準備しました。自分自身の実現するためではない。ほめられるためではない。 イエス様が喜べばそれで十分です。「イエス様を喜ばせたい。」、これこそが彼女の心構えでした。 私たちもこのマルタのようにイエス様に対して、奉仕する者なのでしょうか。できるだけ多くの奉仕をするのが問題ではない。主に対して奉仕してるかどうかが問題です。 マルタが食事を用意したとき、何を考えたなのでしょうか。必ずね、「これを作ったらイエス様は喜ぶなのでしょうか。こうやったらイエス様は満足されるなのでしょうか。」 こういう心構えをもつことこそが考えられないほど大切なのではないでしょうか。 私たちはイエス様の御前に出るとき、イエス様はわれわれの奉仕を心から喜び、満足してるなのでしょうか。 そうなったら、私たちは初めて主の喜ばれるベタニヤとなることができ、主の憩いの場所となることができるのです。 私たちはこの二人の姉妹を見ると、イエス様に対するまことの愛、またまことの奉仕という主のみこころにかなった二つの大切なことがらを見ることができます。 けど、この二つのこと、すなわち、イエス様に対する愛、そしてイエス様に対する奉仕がすべてではない。主はもっと大いなることを望んでおられるお方です。 これは最後の第三番目の点になりますけども、イエス様はどうしてベタニヤを愛されたなのでしょうか。イエス様に対する純粋な愛があったからです。 またイエス様に対する心からの奉仕もあったからです。それから、イエス様のよみがえりの力が明らかになったからです。 一人の兄弟ラザロは、ベタニヤで死よりよみがえらせられたのです。そして私たちも主のよみがえりの力を経験すべきです。 イエス様は何を願っておられるのでしょうか。当時は死の暗やみを通り、そののち、みことばによってよみがえらせられたラザロと食をともにし、交わりをもちたく願っておられます。 ラザロのことをもう少しちょっと見たいと思います。 彼はイエス様に愛されたと聖書は三回も言ってます。彼は主に愛された。この主に愛された者は、病気になっちゃったんです。 どうしてイエス様は、この愛されてるラザロが病気になることをお許しになっちゃったなのでしょうか。ラザロは心からイエス様を愛し、またイエス様も心からラザロを愛しておられたなのに、・・・ (テープ A面 → B面) イエス様は頼まれたのに来なかった。「ああ、もし、イエス様がここにおられたら。そうしたら何の問題もないのに。」 本当にそうでしょうか。もしイエス様がおられるなら、問題はないなのでしょうか。もちろんラザロにとっては、主がおられれば何の問題もないでしょう。病はすぐに治ったでしょう。けどもそれは父なる神のみこころではなかったのです。 ですからイエス様はすぐに来ようとしなかった。心の中で三人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いておられたのに。 イエス様は一刻も早くラザロを助けたかったんですけど、父のみこころは違うところにありました。すなわちラザロはよみがえりの力を経験するには、死を通らなければならなかったのです。 われわれの信仰生活におきましても、主は同じような導き方をされるなのではないでしょうか。 恐ろし〜い。自分を愛する愛と、主を愛する愛はともにあることはできません。 また自分の名前を人に知ってもらうというような気持ちと、主に対するまことの奉仕は両立しません。 おのれの考えと計画もこれらと一緒に死にわたされなければ、よみがえりの力を自分のものとすることができません。 私たちの信仰生活には色々と思いがけないことが確かに起こります。そうすると、「いったいどうしてなのでしょうか。なぜなのでしょうか。」とだれでもが考えます。 けど、それも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱く、前進しますが、その結果は思いがけなく悲劇に終わることがあります。 すべて主にゆだねて進んでも、何の変化も起きてこないことが大いにしてあります。 信仰によって歩み、絶望し、その失望の中から小さな光を見つけ、それに取りすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが打ちのめされて、まったく絶望してしまいます。「自分はもうダメだ。自分の前には死が待ってるだけだ。」とさえ思うこともあるのです。 そこにまで主は私たちを導いてくださるとき、そうなって初めて、絶望したから初めて主はわれわれとしっかりと握ってくださいます。 それはいったいどういうわけなのでしょうか。それは、イエス様は私たちを通して、よみがえりの力を現わしたいからです。 私たちの生活そのものは、主のよみがえりの力の証しとなければなりません。 もちろん主のみことばは、最終的に死ではなくいのちです。けどいのちは、死を通して初めてやって来るというところに、目をとめなければならない。 前に読みましたヨハネの福音書12章の2節を見ると、「イエスといっしょに食卓に着いていた者のうちに、ラザロも加わっていた。」と書いてあります。そして多くの人々はそれを見て、イエス様を信ずるようになったと。 このラザロは説教したと書いてないんです。証ししたとも書いてないんです。けども、ラザロのよみがえらせられたいのちそのものは、生きた証しでした。 よみがえりの力で生活するとはいったい何なのでしょうか。すなわち、「主よ。あなたが召してくださったご奉仕に、力がない私には何もできません。この奉仕をするのに、あなたでなければもうダメ。どうか導いて力を与え、守ってください。」という、まったく自分の無力を認めた生活こそが、よみがえりの力を経験するものであります。 ラザロは結局、何も言わなくても、話さなくてもひとつの生きた証しでした。結果として多くの人々はラザロを見て導かれたのです。 もちろんそれは最後ではなかったのです。悪魔は当時の聖書学者たちを通して、ラザロを殺そうと攻撃したのです。 悪魔にとってよみがえりの力より嫌なものはない。 私たちはラザロと同じように、主とともに交わることこそが大切です。主と、ともなる交わりを得るには、苦しみの経験をしなければならない。 誤解もあり、迫害もあるでしょう。それとも、もっと楽な道を選びたいなのでしょうか。 自分自身が中心となって、イエス様を除け者にするか、あるいは自己否定によって、イエス様が自分の中で私たちを通していつも自由に働くことができるか。二つのうちのどちらかとなります。 コリント人への手紙第IIの4章を見ると次のように書かれてます。パウロの証しです。パウロとはいつも犠牲をささげる備えができた、主のしもべでした。 コリント人への手紙第II、4:10-11
生きておられるイエス様の御前に静まることこそが大切です。 イエス様は永遠の神であり、始めも終わりもないお方です。イエス様は変わるころがなく、とこしえに変わらざるお方です。そしてまたイエス様は万物の造り主で、過去において目に見えるもの、見えないものをすべて造られただけではなく、今もなお新たなるものをお造りになっておられるお方です。 そしてまた、無いものを有るもののようにお呼びになるお方でもあります。主が仰せられるとそのようになり、主が命じられるとそれは堅く立つと書いてあります。 主が仰せられ、命じられると、無から有が出現し、死んでいた者が生き返ることが実現されます。そしてその主は力に満ちておられるイエス様です。 われわれの側はどうかといいますと、ただ無力さ、疲れなどが満ちていますけど、イエス様の側はどうかといいますと、そこには全知全能の力があることが分かります。 そしてこの永遠の主、造り主、また支配者なるイエス様は、われわれの敗北を勝利へと変えてくださるお方です。 詩篇の作者であるダビデは次のように書いたことがあります。 詩篇97:5
この文は過去形になっています。けど現在形で読んでもいいでしょう。山々が溶ける。もうあらゆる問題は主の御前に、ろうのように溶ける。 私たちは主の御前に静まると、全部主にゆだねると、奇蹟を経験することができます。 イエス様はわれわれにとって必要なものを、すなわち力と平安と喜びを与え、提供するお方です。 主は与えてくださいます。そして私たちはそれをいただく、受け取る、自分のものにする必要があります。これこそ、要求されています。 問題は、「受け取るとは何を意味するなのでしょうか。どういうふうにしたら自分のものにすることができるなのでしょうか。」 主の前に静まるということによってです。すなわち主のご臨在の前で静まることです。 「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」 主の足もとに静まるということは何でしょうか。すべてを意識して主に明け渡すことです。主により頼むことです。主の声を聞く備えをもつことです。 また、従いたいと望むことです。また、主の導きに信頼することであります。 主の足もとに静まると、主は豊かに祝福してくださいます。 |