引用聖句:詩篇121篇1節-8節
今日の起工式のお祝いをする意味は、一体何なのでしょうか。それは三つの理由があります。 まず第一に、今日まで導いて下さった神に感謝をすることです。 2,000年前に書かれた詩篇の中で、私たちはいかに感謝したらいいのか書かれています。詩篇95篇から読みます。 詩篇95:1-3、6-7
今日、まことの創造主なる神の守り、導きに対して心から感謝をするのは、大きな特権であると思います。 もちろん言うまでもなく、設計者、また建設者の協力ためにも感謝せずにはおられません。 今日、起工式のお祝いをする意味は、今、話したように、今日まで導いて下さった主なる神に感謝をすることです。 この方は、今読みました詩篇の中で、「救いの岩」と呼ばれ、また「すべての神々にまさって、大いなる王」と呼ばれ、それから「私たちを造られた方」と呼ばれています。 第二の理由は、私たちが今からも、どうしても全能なる神の助けを必要とすることを知っているからです。 数千年前に、イスラエルの一人の王様、ヨシャパテは、次のように告白しました。「私たちには力はなく、私たちにできることは、ただ主に目を注ぐことだけです。 そして、詩篇の作者は、少し面白いことを書いたのです。「主が家を建てるのでなければ、建てるものの働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」と言ったのです。 建築中、すべてが必ずうまくいくこと、また怪我人が絶対に出ないこと、そういうことはもちろん、私たちは望んでいますけれど、100%わからない。 けれども私たちは、全知全能なる主に目を注ぎます。主なる神は、なんでもできるお方です。主にとって不可能なことはありません。 今日の起工式のお祝いをする意味は、今、話したように、今日まで導いて下さった「救いの岩」である、また「すべての神々にまさって、大いなる王」である、それから、「私たちを造られたお方」に感謝することです。 第二番目、私たちが今からも、どうしても全能なる主の助けを必要とすることを知っているからです。 もう一つ、第三番目は、主なる神にのみ拠り頼む者であるということを、今日新たに確認するためです。主のみことばである聖書は言っています。 イザヤ書49:23
今まで、「主なる神」という言葉を何回も、何回も使ってしまいましたが、この「生けるまことの神」をより良く知るために、一つの聖書のことばについて、少し一緒に考えてみたいと思います。ヨハネの福音書12章46節。短い言葉です。 ヨハネの福音書12:46
生けるまことの主なる神は、いったいどういうお方なのでしょうか。何のためにこの創造主、また支配者なる神は、自分自身をあきらかにしてくださったのでしょうか。この救いの神を信ずる者は、何を得るのでしょうか。 この質問すべては、今読みましたこのことばに答えられています。三つに分けられます。 第一番目。「わたしは光である。」ということ。第二番目、「わたしは光として世に来た。」ということ。もう一つ、「わたしを信じる者は、だれもやみの中にとどまることがない。」ということです。 まず、「わたしは光です。」とイエス様は告白として、証として言われたのです。 光の属性は、いのち、喜び、色彩です。そのほか、光の属性としては導き、明るさ、真理、聖さを挙げられます。光とは、やみを追い出す力を持つものです。 すでに、聖書の最初のところで、私たちは、光についての記事を読むことができます。 創世記1:1-3
建築会社の人々は、考えられないですね。「新しい建物があれ。」と言っただけですめば・・・わかるでしょう。聖書の言っていることはピンとこない。考えられないことばかり書いてあるのです。けれど、真理そのものです。 まことの救いに与ったものは、光であるイエス様を信じ、知るようになりました。 そして、イエス様を光として知るようになったものは、誰でもその人の人生の中で新しくなるのです。すなわち、見方が変わります。価値観も変わります。前向きに生活することができるようになります。パウロという男は、次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、4:6
光こそ、本当の意味で生きる土台であり、実を結ぶ秘訣です。 太陽の光、また暖かさがなければ、当然ですけれど、この地球はいっぺんに氷の塊になります。光がなければいのちもないし、すべては暗闇になります。それでイエス様は、「わたしは光です」と言われました。 イエス様こそがまことの光、すなわち、愛の光、平和の光、希望の光。まことの光であるイエス様は、闇を追い払います。 このイエス・キリストとは、誤解しないで。「キリスト教」と関係のないお方です。イエス・キリストは無宗教です。 ですから私たちは、この建物の中でも、新しい建物の中でも、来る人々に注意します。「キリスト教と関係を持たないで!」 入っても、がっかりするでしょう。要求されるだけだからです。世界どこへ行っても、キリスト教に入って、がっかりして離れた人はいっぱいいます。 私はドイツの者ですけれども、ドイツでもみんなクリスチャンです。イエス・キリストを信じているからではないよ。生まれたとき、幼児洗礼を受けたからです。悲劇的です。まことのキリストとは、無宗教です。 それだけではなくて、この方とは、人間のことを好きなのですね。どういう人間であれ、皆、考えられないほど心配され、愛されている。それも、もちろんピンとこない。 証拠なるものは、イエス・キリストの代わりの死です。 確かに多くの人々は、暗闇の中に生きているのです。何ゆえにこの地上に存在しているのか知りませんし、自分たちの人生の内容がなんであるかも知らないし、死んでからどこへ行くのかもわからない。これこそが悲劇的です。死んでから始まるから。 今の人生だったら、すべてではない。社長さんになったのは、ある人は良かったじゃないのと言います。けれども、別の意味で大変だよ。将来のことは、わからないよ。まったく。 けれども、イエス・キリストを知るようになった者は、100%言えます。悩みながら、喜ぶようになる。不安から、心配から解放されます。それだけではなくて、前向きに生活することができる。今の世の中で一番大切なのは、それではないですかね。 まことの光であるイエス様は、次のように言われました。 ヨハネの福音書8:12
主なる神のみことばである聖書の光を通して、私たちが本当はどのような者であるかを認識することができます。 すなわち、主なる神の判断は、あまり面白くない判断です。次のようなものです。 ローマ人への手紙3:10
正しい者 ローマ人への手紙3:10
ローマ人への手紙3:12
ゼロ以下。使い物にならない。結局、人間は皆例外なく、過ちを犯すものであり、我侭な者であると、主なる神は判断しておられます。 もちろん、日本の社会で、罪という言葉をあまり使いません。使うのは警察官です。裁判官です。そうすると皆、罪という言葉を聞くと、悪い行いではないかと思うようになります。聖書の言っている罪とは、違うんです。まったく違う。 聖書の言っている罪とは、犯罪を犯すのではなく、いのちの泉である、光そのものであるイエス様から離れている状態だけなのです。 離れているものは、結局罪人と呼ばれています。ローマ人への手紙の中で14章23節ですが、考えられない厳しいことばが書いてあります。 もちろん、もうすでにイエス・キリストに出会った人のためなのですけれど・・・。 ローマ人への手紙14:23
ここで信仰とは、神であるイエス様との繋がりを持っています。したがって、光であるイエス様との繋がりを持っていない状態は、罪であるということができるわけです。 光に照らされることを拒まない人を、そして結局、不完全な者として、まことの光であるイエス様の御元にくる者は、拒まれません。その人は受け入れられ、救われる。光にくる者は、罪から離れます。 神のみことばである聖書は言っています。 コリント人への手紙第II、6:14
もちろん、ただ一人のお方だけが、次のように言うことができたのです。 「わたしはまことの光です。」 我々人間は、やみであり、我々の内側には、暗さと不純とよこしまと偽善があります。イエス様は、「わたしは光である。」と言われました。 第二番目。このイエス様は、「わたしは光として世に来た。」と言われました。 光である救い主が来られた。イエス様は、今話したように宗教家としてではなく、光としてこの地上に来てくださいました。」それだからこそ、望みがあります。 どういう状況に置かれても、諦める必要はない。イエス様は光として、望みの神とも呼ばれたからです。 イエス様が光として来られたから、暗やみや罪の苦しみや孤独から脱出する道が存在します。イエス様は光として我々の中の暗やみを照らしてくださり、我侭を明らかにしてくださいます。 けれど、それだけではない。イエス様は明るみに出された過ち、我侭、砕かれた心で言い表した罪を赦し、忘れてくださいます。人間は決してできない。 問題になると、人間は許そうと思えばできる。けれど、後で同じ問題になると、またじゃないかと思い出すんです。主なる神は、思いださない。 だから、聖書の中で何回も、考えられない素晴らしいことばがあります。「わたしはあなたの罪を二度と思いださない。」すごい、素晴らしい事実です。 あらゆる人間が、必要とする最も大切なことは、唯一のまことの光、すなわち、生けるまことの神である主イエス様とのいのちの結びつきです。 けれど、このことは、ただ自分の過ち、我侭が赦された時にだけ可能となります。そして罪、すなわち人間の我侭、また過ちが、主の光の中で、光であるイエス様の前に告白されるときにだけ、赦されるのです。 3,000年前でしょうか、イスラエルの一人の王様、ダビデという王様は、このことをつぶさに体験しました。彼は姦淫の罪を犯してしまい、また殺人の罪まで犯してしまった。 そして、彼は次のように言うようになりました。 詩篇32:1-3
意味は、うまく隠そうと思ったときには、 詩篇32:3-5
光の中にもたらされた債務は赦されます。光であるイエス様の前に告白した罪は、永久的に忘れられます。 光であるイエス様は、罪の債務を完全に赦してくださるだけではなく、あたかも人間が一度も罪を犯さなかったかのように、その債務をとこしえに忘れてくださるということです。 ただイエス様だけが、すべての暗やみを追い払うまことの光です。 イエス様は全人類の罪と債務を、ご自分がになって、それを私たちから取り去ってくださるために、この世に来てくださいました。 キリスト教を作るためではない。何か新しいことを知らせるためではない。イエス・キリストの来られた唯一の目的は、死ぬことでした。 我々と少し違うね。私たちは、生きるために生まれてしまった。イエス・キリストは死ぬことができるために生まれた。神として死ねないからです。聖書は言っています。 ヨハネの福音書1:29
イエス様が始めて公に現れたとき、バプテスマのヨハネという男は、こういうふうにイエス様を紹介しました。 イエス・キリストとは、いったいどういうお方なのでしょうか。イエス様は光です。唯一のまことの光です。そして、この光であるイエス様は、言われました。「わたしは光として世に来た。」 何のためにイエス様は自分をそのように明らかにしたのでしょうか。人間にとってどうしても必要なのは、光であるイエス様を知ることによって解放され救われるからです。この光であるイエス様に出会う者は、いったい何を言うのでしょうか。 最後の三番目のことですけれど、イエス様は「わたしを信じる者は、だれもやみの中にとどまることがない。」ということです。 大切なことは、ここに記されていることが、何かある物を信ずる、ある宗教に入るのではなくて、「わたしを信じる者は、」とイエス様は言われました。 つまり、信仰の内容が大切です。その信仰の内容とは、すでに成就されたイエス・キリストのあがないの御わざです。 イエス・キリストは、我々の罪滅ぼしのために犠牲になり、救いの御わざをなしてくださいました。 ただ、人間一人の力では、決して暗やみから脱出することはできなかったでしょう。ただ、人間だけの力によっては、決して良心の呵責からの解放は実現しなかったでしょう。 そしてまた、人間だけの力によっては、決して、まことの満たされた人生を知ることができなかったでしょう。 これこそ、イエス・キリストが永遠の昔から持っていた栄光を捨てて、この地上に来てくださるため大いなる犠牲を払ってくださったことの理由であります。 そしてまた、罪を知らないお方として、我々のために罪そのものとなってくださるという大変な犠牲を払ってくださったことの理由です。 私たちこそ、本来ならば、聖なる神のさばきを受けるべき者でした。けれど、イエス様は、我々の身代わりとなって、その神のさばきを、いわゆる天罰をご自身の上に受けてくださり、そのことを通して、あがないの道を開いてくださったのです。 イエス様を信ずる信仰とは、とりもなおさず光に来ること、すなわちイエス様の御もとに来ることを意味します。 そして、光であるイエス様の御もとに来る者は、必ず受け入れられ、その債務は赦されるようになるに違いない。 |