先週、私たちはマルコの福音書6章、またヨハネの福音書6章からいっしょに学びました。 聖書には、イエスは群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて、倒れている彼らをかわいそうに思われたと書いてあります。 飼い主のない羊とは、イエス様のおられない羊のことです。主イエス様は助けのない、助け人を持たない、食べ物のない、世話するもののない、導くもののない哀れな人々をごらんになりました。主イエス様は群集を深く哀れまれたのであります。 先週も言いましたように、人間は本当にみな空腹です。私たちの回りに住む人々、また毎日会える人々はみな空腹です。人々はみな、喜びと心からの平安を望んでおます。 たくさんの求めている人が私たちの回りにいます。これらの人々はみな、イエス様とといっしょにならなければならないのであります。 先週学んだところによると、5,000人の人々がイエス様のところへ来て、満腹しました。これは奇蹟です。 しかし人々は、イエス様のところへ行ってはじめて空腹が癒されることも確かです。イエス様のところには、満ち足りた喜びと完全な満足があります。 自分の力に頼って何をやっても、決して平安は得られません。もし、自分で正しい者になろうと努力するならば、益々偽善者とならざるをえません。主イエス様のもとにのみ満足があります。絶えざる喜びに満たされた本当の幸せは、ただ主イエス様との交わり、出会いを通してのみ与えられます。 しかし人間はみな、空腹だけではなく、みな孤独です。私たちの回りに住む人々、また毎日会える人々はみな孤独です。 人々は本当の愛、また喜び、そして心の平安を望んでいます。たくさんの求めている人々が私たちの回りにいます。これらの人々はみな、イエス様といっしょにならなければならないのです。 今日の題名は「来なさい」という、イエス様の呼びかけです。 マタイの福音書14:29
と書いてあります。私たちはどうしたら、救い主なるイエス、解放者なるイエス、癒し主なるイエスとの深い交わり、結びつきに至るのでありましょうか。 この問題についていっしょに考えてみたいと思います。なぜなら、イエス様のみが次のように約束なさったからです。 ヨハネの福音書6:35
と、あります。なんと多くの人がこのみことばの真理を体験的に知るようになったでしょうか。 彼らは力なく、失望、落胆、孤独であった代わりに、今や新しい力と勇気の喜びを見出す者となったのです。かつては生きる望みも勇気もなかった彼らは、主イエス様との結びつきによって人生の目的を持つようになったのです。 来なさい、わたしの元に来なさい。わたしに来るものは決して餓えることがなく、わたしを信ずる者はどんなときにも決して乾くことがないと、イエス様は今日も呼びかけておられます。 イエス様は私たちとの交わりを持ちたく思っておられます。このイエス様は世界の創造者であり、見えるもの、見えざるものすべてをお造りになられたお方です。 しかし、私たち人間のために悲しんでおられます。イエス様はあなたを思っておられます。あなたとの交わりを持ちたく思っておられます。本当にイエス様はただひとつの要求を持ってます。あなたとの交わりを持ちたいんですね。 あなたもこれと同じ要求を持っるのでありましょうか。あなたは、「もちろん!」と言うかも知れませんが、本当にそうでしょうか。 29節、ペテロはこの要求を持っていたんですね。ペテロは舟から出て水の上を歩いてイエスの方に行った、と書いてあります。ペテロは自分の信仰を実験しようとしたのではありません。すなわち、船から降り、水の上を歩けるのかどうか試したのではありません。そうではないんです。ペテロの心からの願いはイエス様のところへ近づくことでありました。 愛する兄弟姉妹よ、イエス様をより良く知るということが、いつも変わらない私たちの願いでなければなりません。「主イエス様よ、あなたとの結びつきが、ますます緊密に親しく、完全になりますように。」 多分、他の弟子たちは考えたことでしょう。「ペテロは何をしようというのか。舟に残っていたらよいのに。ペテロはいつも変わったことをする。私たちは舟に残っているというのに。なぜペテロは水の中に入って行くのだろう。」 ペテロはイエスのところに近づいて行きたいんです。イエスのところに近づく。この要求がペテロの心の中で強く叫んでいます。 私はもっとイエス様に近づきたい。私は私の救い主のもっと交わりを持ちたい。ペテロは後ろを振り向きませんでした。ペテロは今や、ヨハネやヤコブが何を考えているだろうなどとは考えません。これはいいことか、悪いことかなどとヨハネやヤコブに尋ねません。ペテロはただ、イエスを見つめています。 もし、私たちが他の人を見たならば、決して前進いたしません。イエス様にもっと近づく。これが私たちの願いではないでしょうか。 もしあなたが神の子であるならば、より良くイエス様を知りたく思うでしょう。もし、あなたがイエス様を知ったならば、あなたはイエス様になおも要求を持つでしょう。 なぜならイエス様もまた、あなたに要求を持っているからです。しかしどうしたら、私たちの救い主との深い交わり、結びつきに至るのでしょうか。 第一番目はイエス様の啓示によってです。 イエス様は弟子たちに向こう岸へ行きなさいと言われたので、弟子たちはは出かけたんです。しかし間もなく強い嵐がやって来ました。風は彼らに逆らって吹いて来ました。 イエス様は、弟子たちを強いて舟に乗り込ませて向こう岸へ行かせてんです。しかし弟子たちは今、絶望な状態にあります。 イエス様の、「行け。」と命じられた途中に、困難があるかも知れません。弟子たちの場合はあったんです。しかし、イエス様がいつもはっきりとした目標を目の前に持っておられました。イエス様は弟子たちにご自身を明らかにされ、それによって弟子たちと親しい交わりを持ちたく思っておられました。 イエス様は弟子たちが悩んでおられるのをごらんになりました。しかし、すぐには彼らのところに行きませんでした。イエス様は弟子たちと親しい交わりを持ちたいと思われましたが、まだ時が早すぎたのです。 たぶんあなたは今、悩みを持ち、それに対する逃れ道がないかも知れません。 たとえあなたが、まだ祈りの答えを聞いていないにしろ、主イエス様はあなたの苦しみを見ておられることを知ってください。 夕方、イエス様は祈るために山へ上って行かれました。そして夜明けの4時頃弟子たちのところへ来られました。イエス様は父とお語りになるために長い間祈られました。 イエス様は弟子たちを長い間苦しみの中に、そのままにしておかれました。しかし、イエス様はご自身を現わされるために、弟子たちのところへやって来ました。 ところが弟子たちは驚きに打たれ、恐ろしさのあまり大声で叫びました。もちろん、弟子たちは臆病者ではなく、強い漁師だったはずです。しかし、彼らはそのようなことを未だかつて経験したことがありませんでした。誰かが水の上を歩いて来る。それは幽霊に違いない。と、彼らは考えたんです。 私たちはどうしたら、イエス様の親しい交わりに近づくことができるのでありましょうか。主イエス様の啓示によってのみ可能です。すなわち、生活の困難の最中におけるイエス様の啓示によって、主との親しい交わりに近づくことができるのです。 弟子たちは、イエス様によって夜中に向こうへやられました。弟子たちは嵐の中に捨てられました。しかしこれはイエス様の導きでした。そのような困難の中でイエス様はご自身を現わしました。 しかし、弟子たちは恐怖のあまり叫び声を上げました。弟子たちはイエス様がご自身を現わすためにこのような困難の内に導き、それによってイエス様とのより深い交わりを持つためであることをまだ知りませんでした。 多分、あなたはなぜ、私はいい働き場所を持っていないのだろう。なぜ、私にはいい両親がないんだろう。なぜ、私の家はこんなに暗いのだろう。なぜ、私は健康でないのだろう。なぜ私には困難が付きまとうのだろう。なぜ、私だけに悩みが降りかかってくるのだろう。このような質問を持っておられるかも知れません。 主イエス様は取りも直さず、あなたと親しい交わりを持ちたく思っておられます。 ですからイエス様はあなたをそのような困難にお導きになったのです。多分、あなたはその導きを分かっていないかも知れません。 しかしイエス様はあなたをそのような苦しみ、困難、またそのような理解し難い困難によってご自身を現わしたいので、あなたとイエス様の親しい交わりに導く。それを信じてください。 私たちは、どうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるのでありましょうか。すなわち、イエス様の言葉による。イエス自身の啓示による。イエス様との親しい交わりに入ることができます。イエス様は、 マタイの福音書14:27
と言われました。この言葉をイエス様はあなたにも言っています。イエス様は、ご自身の言葉によってご自身をあなたに現わそうとしています。 あなたは神の子として、たとえ神の導きが分からないにせよ、人、また環境にせいにしてはいけません。イエス様はあなたを危険の中に見捨てはしないんです。イエス様はあなたとの深い交わりを持ちたいのであなたを生活の困難の最中において、またご自身にみことば中にご自身を現わしたんです。 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」あなたはわたしである、というイエス様のみことばを聞いたことがあるのでしょうか。 イエス様は弟子たちにご自身を現わしました。それまでと全然違った形でご自身を現わしました。ですから弟子たちは大変びっくりし、恐れのあまり叫んだんです。 しかし、それはイエス様の啓示でした。しかし弟子たちはそれを幽霊と思ったのです。 私たちもしばしば弟子たちと同じではないでしょうか。イエス様のあなたに対するみことばを聞いてください。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」 ドイツ語で一つのパンフレット、トラクトがありますけども、この間、愛する姉妹のお宅で小さな家庭集会をやったんですけど、そのときもこのトラクトを読んだんですけど、もう一回ちょっとお読みいたします。このトラクトの題は「このことはわたしから来た」という題です。 わたしの子よ。あなたはあなたを苦しめるものが何かを考えたことがありますか。 このようなトラクトであります。本当に心をひとつにして覚えましょう。すなわち、すべてのうしろにあるイエス様を見ることです。 それはあなたの環境、回りの人、あなたの苦しみではありません。 主はあなたに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言っておられます。 私たちは、どうしたら主イエス様との深い交わりに至ることができるのしょうか。 生活の困難の最中における、イエス様の啓示によって、主との親しい交わりに近づくことができるのです。主イエス様はご自身を明らかにされました。すなわち、嵐とくるしみの理解し難い導きの中において。 しかし弟子たちはイエス様を認めず、幽霊だと言って叫び声を上げました。何と私たちはしばしば自分だけを見、また人間、環境、私たちの悩みだけを考えて叫び声を上げることでしょう。 みなさん、それはあなたの苦しみではありません。そのうしろにはイエス様が立っておられます。それを信じましょう。 またイエス様は、ご自身の弟子たちに言葉によっても明らかにされました。弟子たちは、イエス様の声を聞いたときに、幽霊だと思っていたのがイエス様であることを知りました。 あなたはご自分が暗い内にあっても、また悩みの中にあってもそれを認めますか。それはイエス様なんです。 弟子たちはイエス様の「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」という御声を聞きました。それは聞きなれた声でした。私たちの主人だと弟子たちは安堵のため息をつきました。 主イエス様は自然を従わせる権威をもつ方です。すなわちイエス様は湖の上を歩かれた、と聖書は言っています。 もちろん、今日このみことばの終わりに疑問符を打ち、この事実を認めないばかりか、批判する動きさえ強まっているんですけども、主イエス様を本当に体験的に知るようになった人は、この事実を少しも疑わずに、全知全能なる主がそれをする力をもっておられることを確信しているんです。 来るべきメシヤについて、メシヤの支配と権威についてすでに旧約聖書の中で預言されていました。 イザヤ書9:6
約束されたメシヤは、ひとりのみどり子だけではなく、力ある神であると、イザヤ書9章6節に書いてありますね。 福音書の中でよく、人々は驚いてこう言った。風や湖まで言うことを聞くとはいったこの方はどういう方なのだろう、という箇所が書き記されております。 イエス様が、力ある神と名づけられていることからしても、イエス様が自然現象をも支配し、湖を鎮め歩かれたことは決して不思議なことではなく、言わば当然のことだったのです。 もちろん、風や湖を鎮めるなどということは、イエス様にとってそれほどたいしたことではありませんでした。なぜなればイエス様ははるかに大きなみわざをなされたからです。 たとえば、罪を赦したことがありますし、またご自分の力でイエス様は蘇えりたもうたのでありますし、また、イエス様は永遠の命を与えることのできるお方であります。 神は一切をキリストの足元に従わせ、一切のものの上に立つ頭であるキリストを教会にお与えになったと、聖書は言っています。 ペテロの手紙第I、3:22
と聖書は言っています。 確かに主イエス様は自然を従わせる権威を持つお方であられます。しかしそれだけではありません。イエス様はすばらしい慰めを与える方でもあります。 今、読みましたトラクトを読んでも分かるんですね。 わたしである。このことはわたしから来た。しっかりしなさい。 わたしだ。恐れることはない。 もちろんこのみことばは簡単な気休めではなく、このみことばの背後には全能なる主が立っておられます。 私たちは本当に主に依り頼んでいるのでありましょうか。私たちの目に見えるあらゆる恐れや不安、心配ごとなどから目を転じて、ただ主だけを見上げましょう。 私たちは自分自身を見たり、他人を見たり、あるいは感情、考え、意思などを大切にすることなく、絶えずみことばを第一としなければなりません。 イザヤ書41:10
と、イザヤ書41章10節に書いてあります。また13節に イザヤ書41:13
なぜ、主がこのようなみことばを言われたのでありましょうか。どうしてイエス様は弟子たちに向かって「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたのでありましょうか。 ヨハネの福音書16章33節にその答えが書き記されております。 ヨハネの福音書16:33
本当にイエス様はご自身を弟子たちに啓示してくださいました。自然を従わせる権威を持つ方として、またすばらしい慰めを与えるお方としてであります。 どうしたら私たちは主イエス様との交わりに近づくことができるのでありましょうか。イエス様の啓示に対する私たちの答えによってです。 イエスの啓示に対する私たちの答えによって、私たちは主との交わりに近づくことができると聖書は言っています。 マタイの福音書14:27
と、書いてあります。 イエス様はこの言葉を弟子たちみんなに言われたのです。ですから、彼らという表現が使われていますね。複数形になっています。 イエス様は彼らに言われたんです。弟子たちみんなに言われた言葉です。イエス様は弟子たちみんなにご自身を現わしてくださったんです。 しかし、ペテロだけが答えたんですね。イエス様はペテロだけに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ったのではありません。弟子たちみんなにこういう風に言われたんですけれども、ただひとりだけがイエス様の啓示に答えました。ペテロでしたね。 マタイの福音書14:28
主イエス様のご自身現わしに対して答えたのはペテロだけでした。 私たちはいったいどうしたら主イエス様との親しい交わりに近づくことができるのでありましょうか。イエス様の啓示に対する私たちの答え方によってです。 主が「わたしである。」と言って、私たちにご自身を現わされるとき、イエス様は私たちに決定を迫ります。ヨハネはイエス様に答えませんでした。ピリピも答えませんでした。ヤコブも同じです。ペテロだけがイエス様に答えました。 マタイの福音書14:28
ペテロは自分自身にこのように言い聞かせました。イエス様がご自身を現わされるとき、ご自身のためではなく、私のためにご自身を現わされるのだと。 愛するみなさん、イエス様は言われました。「わたしは道であり、真であり、命であり光であり、パンである。」と言われました。これはイエス様のご自身の啓示です。 イエス様の啓示に対する私たちの答えはどうでしょうか。決定しますか。ペテロのように答えますか。 主よ。あなたは父のみもとに行く道ですか。自由と喜び、罪の赦しへの道ですか。もしそうなら、私にここまで来い、とお命じになってください。 もしあなたが今、聖書をなにも知っていないのでしたら、今日祈ることができます。 「主よ。あなたは心からの平和への道ですか。もしそうなら、私にここまで来い、とお命じになってください。」 と祈ることができます。 主よ。あなたは光ですか。そうなら、私にここまで来い、とお命じになってください。 私の真っ暗闇を光にしてください。 主よ。あなたは命ですか。そうなら、私にここまで来い、とお命じになってください。 私にどうか永遠の命を与えてください。 主よ。あなたは心理ですか。もしそうなら私を御元に行かせてください。 ここまで来い、とお命じになってください。真理を私にお示しになってください。 イエス様はご自身を明らかにされました。イエス様はあなたに、「わたしである。」と言われました。あなたはそれに対する答えをもっておられますか。 イエス様はあなたの答えを待っています。今日、私たちは我と我が胸に尋ねてみましょう。 イエス様の啓示に対していつ、私たちは答えたのでしょうか。もし、あなたがまだ生まれ変わっていないなら、あなたは全然お答えしていません。 神はあなたを救うため、ご自身の愛する御子、イエスキリストを死に渡されました。イエスキリストの血潮は、あなたの罪を負うために流されました。あなたはそれに答えたことがありますか。 もしあなたがそれに答えていなければ、あなたは一番大きな罪を犯していることになります。あなたはその罪のために永遠に滅びてしまいます。その罪のために、喜びもなければ平和もありません。あなたがそれに答えるまで、神の怒りがあなたの上に留まります。 主よ、もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私を御元に行かせてください。ここまで来いとお命じになってください。 主よ。もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、罪の赦しの確信を与えてください。 主よ。もしあなたが私のために亡くなられたのでしたら、私に新しい命を与えてください。 あなたは今日、こういう風に答えようとは思いませんか。 大部分の新約聖書の手紙を書いたパウロは、なぜイエス様を信じるようになったのでありましょうか。パウロはなぜイエス様を宣べつたえる宣教者になったのでありましょうか。 それはイエス様の啓示によってでした。 ガラテヤ人への手紙1:12
と書いてあります。また、 ガラテヤ人への手紙1:16
と書いてありあます。そしてパウロはこのイエスの啓示に答えました。 使徒の働き26:19
と書いてあります。 私たちはどうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるのでありましょうか。イエス様の啓示に対する私たちの答えによってです。 もしあなたがキリスト者であるならば、もうすでにあなたはイエス様の啓示に対してお答えになったはずです。 信者として私たちはもうすでに、しばしばイエス様の啓示に対して答えて来ました。しかし、もし私たちの生活振り返るならば、自らを恥ずかしく思わないでしょうか。 イエス様はしばしば困難な導きの最中においてご自身を啓示されました。しかし、私たちはそれに対して答えませんでした。 そこには反抗、自分を愛すること、自分の思い、自分の計画とかがありました。それによって私たちはイエス様の愛を退け、踏みにじったのです。 どうしたらイエスキリストとの親しい交わりに近づくことができるのでありましょうか。 第3番目の答えはイエス様の召しによってです。主の召しによって、私たちはイエス様との親しい交わりに入ることができます。 ペテロはこのイエス様の召しを待たなければなりませんでした。ペテロはイエス様がお呼びになるまで待たねばなりませんでした。しかし、イエス様はペテロをお呼びになりました。 そのとき、イエス様はペテロだけをお呼びになったんです。どうしてでしょうか。なぜならばペテロだけがイエス様の啓示に対して答えていたからです。もし、私たちがイエス様の啓示に答えないならば、なんと大きな恵みがなくなってしまうことでしょう。 私たちは多分信仰のうちを歩みたく思っているでしょう。しかし、「ここまで来い。」というイエス様の声が、絶えず先になければならないことを忘れないでください。 マタイの福音書14:29
もし、ヨハネとヤコブも、「ペテロができることは、俺たちもできる。」と言って同じことをやったらどうだったでしょうか。結果をここに描きたくないんですね。 ペテロだけがイエス様に、「来なさい。」と言われました。イエス様はご自身をあなたに現わされましたでしょうか。あなたはお答えになったでしょうか。 マタイの福音書14:28
ペテロは、イエス様が「おいでなさい。」と言われるまで待たねばなりませんでした。私たちもまた、イエス様の召しを聞くまで待たねばなりません。 しかし、もし主イエス様がお呼びになったなら、行動を起こす時期です。チャンスです。 もしイエス様がお呼びになったなら、私たちは人を見てはならず、後ろを振り返ってはいけません。もしイエス様がお呼びになったなら、私たちは周囲に気を使ってはいけません。 さて、イエス様はペテロに、「来なさい。」と言われました。ペテロは舟から降り、水の上を歩きました。水がペテロを浮かしたのではなく、イエス様の言葉がペテロを水の上に浮かせてのです。 もしイエス様が、「来なさい。」と召されたら、そのときに大切なのは、実験してみることではなく、イエス様の言葉を信じることが大切です。 もしイエス様が、「来なさい。」と言われたのなら、ためらってはいけません。待ってはいけません。振り返ってはいけません。環境を気にしてはいけません。 もしイエス様が、「来なさい。」と言われたのならば、イエス様だけを見てください。他の人の言うことは気にも留めないことです。 兄弟姉妹よ。救い主との生きた交わりが大切です。これは他の何ものにも勝って大切です。 ペテロは舟から降りました。ペテロはイエス様のみもとに近づこうと思ったからです。そして、ペテロはイエス様のみことばによって水の上に浮きました。 その前までは、ペテロは波に悩まされ、同じところを漕ぎ回っていました。しかし、今はイエス様の言葉によって水の上を歩いています。そして、ペテロはイエス様を見ています。 最後に私たちはどうしたらイエス様との親しい交わりに近づくことができるのでしょうか。 四番目の答えは信仰の従順によってです。 しかし、信仰の柔順は水を通らねばなりません。もし私たちがイエス様との親しい交わりに入りたいと思うならば、私たちは水を通ねばなりません。すなわちイエス様が「来なさい。」と言い、わたしたちがそれに従うならば水のなかを通らねばなりません。攻撃と敵対の中を通らねばなりません。 敵がやって来るのは当たり前の話です。悪魔はペテロがイエス様のみもとに行くことを欲しませんでした。で、大嵐が来ました。 ちょっとだけ、3っつの嵐について3ヶ所読んでみたいと思います。 ヨブ記1:19
と書いてあります。大風によって、ヨブの7人の息子と3人の娘は一度に死んでしまったんです。私たちはこの大風が悪魔の仕業であること、そしてそれをも主が許されたことを知っています。 悪魔は自分がしようと思っていることを、すべて自分勝手にすることはできません。悪魔でさえも、神のご目的が成就されるために用いられているに過ぎないんです。御座におられる主がすべてを支配しておられる方です。 ヨブは、嵐によって自分の富み、財産、名誉、地位、更に子ども、友達そして助け手としての妻をも失ってしまったんです。しかし、ヨブはこの苦しみを通して、自分自身と主ご自身をよりよく知ることができたんです。考えられないほどの苦しみの結果は何であったかと言いますと、ヨブ記42章5〜6節にヨブはつぎのように告白しています。 ヨブ記42:5-6
そして10節、 ヨブ記42:10
と書いてあります。 私たちも主が何かをお取りになられたとき、たとえそれがわからなくても、あとになってはるかに多くのものが与えられることを知るべきです。 第二の嵐はヨナ書に書いてありますが。 ヨナ書1:4
と書いてあります。ここで書いてありますように、この嵐の原因は主ご自身でした。この嵐のために人々は大いに悩まされました。 ヨナ書1:5
と書いてあります。主の目的は意識的に主の御顔を避けて、背を向けたヨナという預言者を回復させることでした。 今日でも神から逃げようとしている信者たちは大勢います。あらゆる困難は、決して裁きではなく、神から逃げようとしている信者たちをみもとに集めるための手段なんです。 ヨナは幸いにも主の恵みによってみもとに立ち返ることができ、彼の宣べ伝えた福音によって何千人もの人が救われました。 三番目の嵐は、使徒の働き27章に記されていますが、すなわちパウロは非常に多くの嵐を通って信仰生活を全うしましたが、いろいろな苦しみを通して成長したんです。 たとえばコリント人への手紙第IIの11章の23節から28節まで読むと、パウロの経験した嵐はどういうものであったか、よくわかることができると思うんですね。 いろいろな嵐を通してパウロはつぎのように言うことができるようになりました。 「この世は私にとって死んだ。私もまたこの世に対して死んだんである。 もはや私が生きているのではなく、キリストがうちあって生きているのだ。」 このパウロは、使徒の働き27章に記されているように、大嵐に遭遇したんです。20節をみると、彼らが助かる最後の望みも今や絶たれると思えるほど激しい暴風雨が、何日も吹きまくったことがわかります。 276人の人々は、全く望みなき状態に置かれていたんです。14日間、彼らは何も食べず、暗闇の中に漂流していたんです。 このような絶望的な状態にあって、囚われの身であるパウロは少しの恐れも不安も持たずに、それらを睥睨する王のように立って言ったんです。 使徒の働き27:22、34
主に全くより頼むことによって、パウロは全き確信を持つことができたんです。主は、私たちもパウロと同じように、あらゆる困難や、苦しみを超越して立つことができることを、こころから望んでおられます。 私たちは、どういう風に主をよりよく知ることができるのでありましょうか。大嵐を通して、いろいろな困難や苦しみを通してであります。もし人々がイエス様との深い交わりを持ちたいという、憧れを心に深く持っているならば、いつも嵐と攻撃と敵対が起こります。 マタイの福音書14章に戻りまして、聖書はペテロについてもいろいろなこと言っているんです。 すなわち、彼が超人間でないことをよく現わしています。私たちと同じように全く普通の人間でした。ペテロは風を見て沈み始めました。ペテロは注意を横に反らしました。ペテロはイエス様だけを見ませんでした。 もし私たちが環境、人間、自分を顧みるならば、イエス様のみことばの浮力がなくなって沈み始めます。 イエス様のみことばに従う道は、攻撃に続いていますが、イエス様のみことばに従う道は、イエス様の御手に続いています。すなわちイエス様に近づく道です。 信仰の従順の中に私たちが何かを始めれば、たとえ途中で自分の思うように行かなくても、終わりは必ずイエス様の御手のうちにあります。 「来なさい。」というイエス様のみことばに従順であるならば終わりはイエス様の力強い腕の中にあります。 マタイの福音書14:31
ペテロは、波の間に呑まれてしまう当然の刑罰を受けて然るべきでした。しかしイエス様はそうさせませんでした。イエス様はご自分のためにあなたを沈めさせませんし、溺れさせません。 それにはイエス様の名誉がかかっています。イエス様はあなたに、「来なさい。」と言われましたから、あなたを沈めさせることはできません。 しかし、イエス様はペテロにひとこと言わねばなりませんでした。 マタイの福音書14:31
イエス様は、「信仰は強い。あなたの信じた通りになるように。」とは言っていません。イエス様はペテロを訓戒しなければなりませんでした。しかし、イエス様はご自分の手を差し伸べられました。 もしイエス様が私たちの方に御手を伸ばされたならば、それは災難の裁きの手であり、それは救い主の手であり、私たちに救いを与える手です。 イエス様はペテロを連れ戻さざるを得ませんでした。イエス様はペテロを波の中から引き上げ、しっかりした場所、すなわちご自分のみことばのうちに置かなければなりませんでした。 マタイの福音書14:31
そこに私たちの思うようにいかないことが横たわっています。なぜあなたはいろいろなことを見るのですか。なぜあなたはイエス様だけを見ないのか。 兄弟姉妹、イエス様との親しい交わりは、私たちの求めるところであるばかりでなく、主イエス様の求めてくださるところでもあります。 イエス様はご自身を明らかにされました。決定してください。 マタイの福音書14:28
イエスが、「来なさい。」と言うまで待ちなさい。しかし、イエスがあなたを呼ばれたならば、ためらわないでください。他の人を見ないでください。波や困難を見ないでください。 ただイエス様だけを見てください。 |