(始めの部分が録音されていませんでした) ・・・だから喜びの集いなのではないでしょうか。 私たちは、どうしてこのような集いで心から賛美することができ、主をほめたたえることができるかと言いますと、「死は終わりではない」から。 夕べ、ちょっとアメリカから帰ったばかりなんですけども。今まで何回もニューヨークまで行きましたし、ボストン行きましたし、サンフランシスコ行きましたし、ロサンジェルス行きましたし、今回は一番危ない町ワシントンまで行きまして、ある人々に「行かない方がいい、危ない」と言われたんですけど。 ・・・やっぱりちょっと違うアメリカを経験したんです。もう平安と平和そのもので!ちょっとびっくりしました。 ジョン・F・ケネディの墓も見ましたし、それからアメリカの初めての大統領である、ワシントンの墓までも行きまして、墓と言っても、棺。一つの、普通の棺でしょうか。分からないけども、大理石で作られた棺の中に入れられて、そしてちょうど目の前にあるんですけども・・・。 それ、別にどうでもいいけど、このワシントンの棺の上に、やっぱり聖書の言葉が書かれていました。嬉しかった。今の読まれました箇所です。 ヨハネの福音書6:35
愛する姉妹たちはこれを経験するようになったから、うらやましい。先に天国にゴールインしたから、ほんとにうらやましいと思ってるんです。残されたわれわれとは、ちょっと・・・可哀想じゃないですか? なぜならば今の世界を見ると、決してバラ色ではないでしょう。「安心して。今から少しずつ良くなる」と、思う人は頭のおかしい人々です。大変な早さで悪くなる一方です。 けども姉妹たちもゴールインした。結局「死は終わりではない。」これこそが聖書の中心テーマです。「私は絶対に死にません」と言える人は、おそらくないでしょう。 「いつになるか分からないけれど死ぬであろう。」けどもそうすると、死んでからどういうことになるかと分からなければ、確かに面白くない。 愛する姉妹たちの確信とはなんであったかと言いますと、 「私たちの知るようになった生けるまことの神とは、望みの神です。望みの神が生きておられる限り、もう希望がある。」 二人はどういう姉妹たちであったかと言いますと、結局心から喜ぶことができた姉妹たちです。先にゴールインしたから、「おめでとう」と言いたいのです。 私はワシントンでね、自分の誕生日お祝いされてしまったし、いろんな人「おめでとう」と言ったんですけど、どうして「おめでとう」と言ったか、ピンとこない。どうでもいいけど。 聖書の中でね、「おめでとう」という言葉も出てきます。 ルカの福音書1:28
結局「主がともにおられる」から、おめでとう。そうすると、愛する姉妹たちのこと考えると、ましてや「おめでとう」と言えるなのではないでしょうか。 マリヤに向かって、「主はあなたとともにいる」から、おめでとう、と言ったんです。 私たちは姉妹たちも「主とともになった」から、ましてや「おめでと!」と言うべきなのではないではないでしょうか。 結局この世で2種類の人間がいます。 ある人々は、「望みのない人々」であると聖書は言っています。どうして「望みのない人々」であるかと言いますと、彼らは先のことが見えないからです。先のこと考えられないからです。あるいは、信じたくないからです。 そして別の種類の人間は、「望みに満たされている人間」です。どうしてであるかと言いますと、先のこと分かってるから。すなわち「私たちは、いつまでも主とともになる」という確信を持っているからです。 愛する姉妹たちも、生ける望みを持つ二人の姉妹たちだったのです。結局これこそ、最高なのではないでしょうか。 今朝、あるドイツの歌を読んだんですけども、愛するお二人の姉妹たちの気持ちそのものを表す歌であるから、ちょっと読みます。 主イエスよ。 あなたの忠実さは、計り知れない大きいものであり、またあなたの愛は、私を愛しつづけてくださり、 そしてあなたのあわれみは、毎日私を満たしてくださいます。 あなたの私に対する忍耐のゆえに、私は安心してあなたにより頼みます。私は、あなたに信頼することができる。 なぜならば、あなたは決して私を捨てないから。あなたの光によって、心配もまた恐れもなくなる。 従順に従うための勇気も与えていてくださり、いかなる患難があっても、あなたは私を導いてくださる。 絶対に忘れたくないなのは、 『人々にあなた様を紹介するために救われた』ということ。 あなたは祈りを聞いてくださるからこそ、崇拝しながら私はあなたをほめたたえます。確信を持って私は告白します。 すなわち、あなたにとって「遅すぎる」ということはありえない。あなたは近くにおられるから、嬉しくて嬉しくてしょうがない。 あなたにだけ、栄光あれ。 姉妹たちのこと考えると、やっぱり二人ともこの2つの心からの願いを持っていました。 今の歌の中の文章をもう一回読みます。 絶対に忘れたくないなのは、 『人々にあなた様を紹介するために救われた』。 ね、いつか天国に行くために救われたんじゃない。「イエス様を紹介するために救われた」。愛する二人の姉妹たちは、そういう気持ちでいっぱいだった。 「自分はイエス様を知ることによって、確かにまことの喜びを見出した。やっぱり周りの人々も同じ喜びを持っててもらいたい。」 と、二人ともは何十年間心から願ったのです。 そして、もう一つ。「あなたにだけ 栄光あれ。」 「自分が中心になりたい」、そういう気持ちがなかった。「イエス様だけが、誉むべきお方である」と、二人ともは心から思っていたから、やっぱり幸せでした。じゃなくて、幸せです! 私たちよりも元気だからです。何の心配もないし、苦労もないし、孤独もないし、喜びばかりだから。やっぱり「おめでとう!」と言いたいのです。 結局二人ともは、まあ特別な聖書学者ではなかったでしょう。 もちろん聖書こそが元気のもとである、とお二人は何回も何回も経験なさったのです。聖書とは、知識を得るために読むべきものなのではない。いくら読んでも解るもんじゃないから。 けどもはっきり言えることとは、どういう状況に置かれていても聖書を通して元気になる、それも一つの理解できない「秘密」なのではないでしょうか。 読むでしょう?けどピントこない。けど、関係なし。元気になる。安心して前向きに生活することができるのです。 二人の姉妹たちは、3つのことをずっと確信し続けました。 第一番目。「イエス様は私のために死なれた」。 私たちもみな、この姉妹たちの確信を持つことができなければちょっと可哀想。 聖書とは、人間が何を信ずべきか、何をやるべきかを強調する本ではない。強調されてるのは、主イエス様は罪ほろぼしのために犠牲になられたということです。そして姉妹たちも、それを心から体験的に知るようになったのです。 「イエス様は私のために死なれた。罪ほろぼしのため。イエス様は私のわがまま、私の過ちを赦しただけじゃなくて忘れた。永久的に忘れられた。」 これこそ、変わらぬ喜びの秘訣なのではないでしょうか。 第二番目は、「イエス様は私を受け入れた」。 イエス様によって受け入れられた人々とは、何十年間だけじゃなくて、永久的に受け入れられている。もう行き先は決まり!天国です。 確かにピンとこない。二人ともはそれを理解することはできなかったし、けども信じたんです。疑わずに信じたのです。どうして? イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と約束したからです。 結局「死んでから始まる」。これこそ、聖書の中心テーマです。 もう一つの、愛するお二人の姉妹たちの確信したところは、 「イエス様は、私を最善のときに導いてくださる。私は年のため、病気のために死にません。主は呼んでくださる時、初めて死ぬのです」。 結局主は「もういいだろう?おいで。」と呼ばれた時、駄目になった体の中から霊とたましいが出て、天国に行っちゃた。それだけなんです。 イエス様とは、救ってくださるお方であり、生ける希望を与えていてくださり、そして最善のときに召してくださるのです。 ですから前に言われたように、今日の集いとは愛する二人の姉妹のためのものじゃない。「二人のための記念会・納骨式ですから、行かなくちゃ」と思われるかもしれないけど、ちょっと違うんです。お二人のためじゃなくて、残されてる人々のためです。 二人はもう天国までゴールインしたから、二人のために私たちはなーんにもすることができない。問題は残されてるご家族・親戚・知り合いの人々です。彼らもやっぱり、生ける希望を持つようにならなければ、ちょっと大変なのではないでしょうか。 私たちは正直に認めざるを得ない。私たちは負けた。二人の姉妹たちは先にゴールインしたから。 ね、「追い越された者の集い」でしょ?今日は。 けどもそれだけじゃなくて、「イエス様を紹介する集い」です。イエス様とは二人の姉妹たちを恵んでくださり、彼女たちの心のまなこを開いてくださり、彼女たちの過ちを、わがままを赦してくださったお方です。 だから「このイエス様を紹介してもらいたい」とふたりも心から願っています。 「私たち二人のこと、いいよ。忘れてもいい。けどみんな、イエス様に頼ってもらいたい。絶対に後悔しないから。」 これこそが、愛するお二人の心からの願いです。 また今日の集いとは「残された者の集い」「追い越された者の集い」「イエス様を紹介する集い」だけじゃなくて、やっぱり前に話したように、「喜びの集い」です。 死は勝利にのまれたから。イエス様は生きておられるのです。 弟子たちはそれを発見した時、考えられないほど嬉しくなったに違いない。イエス様は、何回も何回も言われたのです。 「わたしの死とは、あなたがたの受けるべき天罰です。わたしは死ななければならない。他の道がない。 あなたがたは、一つの教えを信じ込むことによっては決して救われません。 罪ほろぼしのために、あなたがたはどういう宗教に入っても、いくら聖書を勉強しても、金を出しても、全く無駄。 人間の罪ほろぼしのために、私は遣わされたのであり、人間の罪ほろぼしのために、私は犠牲になる。 十字架の死こそが、その唯一の道です。しかし私は3日目に復活する。」 弟子たちはそれを何回も聞いた。聞いたけど、本気にとろうとしなかったんです。結局考えられなかったからです。 彼らは、3年半イエス様と一緒に生活したでしょう?そしてイエス様の言われた言葉とは、やっぱりみんなすごい。 「あなたの言葉とは、いのちを与えるものだ」、そこまで言われたのです。 けどもイエス様が自分のよみがえりのことについて話されたとき、彼らは聞く耳を持っていなかったんです。 ね、3日目に復活なされば、3日間くらい寝なくてもいいだろう。3日間くらい食べなくてもいいだろう、それくらい我慢できますよ、みんな。 けど彼らはそれを信じられなかったから、逃げたんです。かくれんぼして。もちろん寝ようと思っても寝られない。食べたい気持ちもなかった。もう、ぺっちゃんこでした。 そしてやっぱりイエス様は、言われたとおりに3日目に現われたんですね。前に読みました箇所もう一回読みましょうか。 ヨハネの福音書20:19-20
この喜びとは人間の言葉で言い表せない。やっぱりイエス様は詐欺師ではなかった。うそつきではなかった。イエス様は生きてる! 結果として彼らは、一人除いて、ヨハネを除いて、みんな殉教の死を遂げてしまったのです。喜んで復活なさったイエス様のために犠牲になったのです。 ヨハネの黙示1:18
愛する姉妹たちも、このいつまでも生きておられるイエス様を信じただけではなく、「私たちは、召されればいつまでもイエス様とともになる」という、動かすことのできない確信を持っていたのであります。 二人ともは、「立派であった」よりも、「主は恵んでくださった」からです。 二人ともは、「私たちも立派になりたいけど無理。相変わらず駄目。だから助け手であり、導き手であられるイエス様が必要なのです。 私たち二人ともは、迷える羊に過ぎない。だからこそ自分を導き、守る羊飼いであるイエス様を必要とする」。 二人ともは、「私たちは、頑張らなくちゃけない。立派にならなくちゃいけない」・・・、こういう夢から解放されたから自由になり、そして二人の喜びを見た周りの人々の多くは、やっぱりこのイエス様を知りたいと思うようになったのです。 結局すべての、いわゆる人間によって作られた宗教の呼びかけとは、「勉強しなさい。悟らなければ駄目。」 聖書の言ってることは、「悟るもんじゃない。いろいろ勉強しても解るもんじゃない。そのままで、へりくだって信ずれば、自由になる。」 主の呼びかけとは、十字架の上での呼びかけなんですけど、 ヨハネの福音書19:30
ま、「終わっちゃった。」「救いのみわざは成し遂げられた。」 主なる神は、人間から要求するお方ではない。赦したいお方です。へりくだれば、降参すれば、「ごめんなさい」、「あわれんでください」、「赦してください」、そういう心構えがあれば、主は喜んで赦してくださるのです。 三千年前の王様であるダビデは、次のように言ったのです。姉妹たちも同じこと言えたのです。 詩篇32:1
また初代教会の人々とは、次のように言えたのです。 エペソ人への手紙1:7
自分の「聖書の勉強の結果」じゃない。自分の「努力の報い」でもない。「主はあわれんでくださるお方であるから」です。 愛する姉妹たちの知るようになったイエス様とは、どういうお方なのでしょうか。あらゆるわざわいを良くする救い主であり、すべての罪をお赦しになる贖い主であり、またあらゆる束縛から解き放ってくださる解放者であります。 キリスト教に入ってもね、遅かれ疲れてしまう。束縛されるからです。要求されるからです。けども無宗教であるイエス様に頼ると、ほんとの意味で自由になります。 姉妹たちも解放された者になったのです。そしてダビデのように言えたのです。 詩篇16:11
二人はもうイエス様と一緒になったのです。この栄光この素晴らしさについていくら考えてもピンと来ませんし、想像できません。 愛するお二人の姉妹たちの経験なさった救いとは、結局「過去の克服」であり、「罪の問題の解決」であり、また「死の恐怖からの解放」であります。「死は決して終わりではない」。 ヨハネの黙示録を見ると、次のような箇所があります。何回も読んでもピンと来ない。想像できないからです。 けどお二人は体験的に知るようになった。「そうだ、そうだ。」と必ず言えます。 ヨハネの黙示21:4、22:3、5
ね、ある意味で笑い話という人もいるかもしれない。太陽のない世界を想像してくださいよ。できません。 ね、涙のない世界、死のない世界、悲しみのない世界、叫びのない世界、苦しみのない世界だって考えられない!! けども姉妹たちも、この世界に入っちゃったから、先にゴールインしたから、ほんとにうらやましいと思います。 お二人の姉妹の生活の結末について、私たちもやっぱり考えるべきです。 そうすると次のように判断するに違いない。 ローマ人への手紙8:18
ま、イエス様を信じ受け入れ、イエス様に明け渡し、自分の過去がすでに清算されてしまったこと、そして言い表わすことのできない栄光が自分を待っている、と確信することができる人は、ほんとに幸せです。 |