引用聖句:詩篇23篇1節-6節
今日このようにして、愛する姉妹の記念会で、少しだけ聖書から学ぶことができるのは本当に感謝です。今読まれました聖書の箇所こそが、愛する姉妹の確信でした。この掛軸にも書かれていますね。 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」 年配の方々だけではなく、若い人々もこの箇所大好きになってるなのではないでしょうか。来週の火曜日、祭日ですけれども、長野県の御代田の国際福音センターで、二人の若い人々が結婚するようになるんです。そしてあの二人も、同じ箇所を選んだんです。 結局、「主は、私の羊飼いです。乏しいことはない」と言える人は幸せなのではないでしょうか。もちろんこの言葉とは、最近じゃなくて、3,000年に書かれた言葉です。当時の世界を治めた、ダビデ王様の告白です。 彼は、「主は私の羊飼いである」と言っただけではなく、「私は、死の陰の谷を歩くことがあってもわざわいを恐れません。」、意味は「私は、安心して死に向かうことができる。」 愛する姉妹もそういう方でした。「死は終わりではない」と彼女は確信したのです。もし死でもって全部終わればもう大変です。なぜならば人間はみんな、いろいろなことで悩んだり、苦しんだりするなのではないでしょうか。 聖書の中心なるテーマの一つは、「死は終わりではない。」、「死んでからはじまる。」 私たちも夫婦、子ども3人亡くしました。ある人々はもうびっくりして、「大変だったじゃないか。」と言うんですけど、そういう気持ちない。もちろん寂しくなったのは、なったんです。当然です。けども死は終わりではない。必ずまた会えると確信できれば、頑張っていけるなのではないでしょうか。 先にゴールインしたと考えると、かえってねたむようになります。「うらやましい!」という気持ちになります。死は終わりではない。これこそが、聖書の中の最も大切なメッセージの一つです。 イエス・キリストは、何と言ったかと言いますと、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 言うまでもなく、このイエス・キリストとは、宗教家ではなかったのです。だいたいの人々は、とんでもないことを考えるんです。すなわち「キリストとは『キリスト教』という宗教を作った者だ」 もしそうだったら、考えられない犯罪人です。キリスト教とは、280何年後で、ローマ帝国によって作られたものです。イエス・キリストは無宗教です。当然です。今の世界は、みなさんご存知でしょう?滅茶苦茶な世界です。良くなる可能性がない。 確かに多くの人々は、「平和がないから」と言うんです。もちろんそうでしょう。けどもどうして平和がないんでしょうかね。平和の君であらるるイエス様は、否定されてるからです。 人間はまことの神よりも、人間の作った宗教に頼るからです。どうして平和がないか?宗教があるからです。宗教が存在している間平和はありません。政治家が、いっくら頑張っても努力しても、何にもならない。 イエス様を知るようになれば、今まで知らなかった世界を知るようになります。確かにお母さまは、12年前に初めて会いましたし、ゆっくり話し合いましたし、一緒に祈りました。結局、お母さまも、やっぱり「いのちを与えられた、私の代わりに死なれたイエス様こそが、私の救い主である」と素直に信じるようになったのです。 もちろん、理性でもってつかむことができないでしょう。聖書を読んでいない人々も、「やぁー難しい」と考えます。けども難しいだけじゃなくて、理解するために、全く不可能。 多くの人々は、「分かったから信ずる」と言います。これは的外れです。信じるか、信じないか、それだけなんです。けども理性でもってつかむもんじゃない。愛するお母様は、イエス様を信ずることによって生ける希望を持つようになったんです。そして、人間にとって最も大切なのは、それなのではないでしょうか。 よく集会のために沖縄まで行きます。那覇の中心に大きなビルがあるんです。その上にもう馬鹿らしい大きな看板があり、宣伝文句が書かれています。「何でも買います。何でも売ります」 ちょっと変わった店でしょう?普通の店は売るだけ、けどもあの店は「何でも買います」、そして「何でも売ります」、すなわち「欲しいものを与えることができる」、もちろん儲けるための約束にすぎない。 あのような店に入って、「ごめんなさい。ちょっと私は変わらない喜び欲しい。心の平安欲しい。心配から解放させてもらいたい。永遠のいのち欲しい」と言っても、もちろん買えません。どういう宗教に入っても得られません。 けども、イエス様を信ずるようになれば得られます。もちろん誤解しないで。イエス様を信じることとは、イエス・キリストを分かることじゃないんです。イエス・キリストを分かった人間はいない。人間は、人間のことでさえも分からないでしょう?大変ですよ! 何十年間一緒に住んでいても、「いったい何を考えてるの?相手の人は?」という気持ちになり得ることですし、あるいは自分の生んだ子どもの気持ちでさえも、分からないなのではないでしょうか。 人間は、人間のことでさえもわからなければ、どうしてこの大宇宙を創造された方を分かるなのか。無理。できません。けど信ずれば、愛する姉妹と同じことを知るようになります。すなわちもう安心して死に向かうことができる。「死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたは、私とともにいるからです。私は、いつまでも主の家に住まいましょう」。結局、死は終わりではない! イエス・キリストとはどうしてこの世に来てくださったなのでしょうか。人間の罪の問題を解決するためだけ。一つの宗教を作るためでもないし、人間にいろいろなことを知らせるためでもなく、人間は、罪ほろぼしのために、何もできないから、イエス・キリストは遣わされたのです。 生きるためじゃなくて、死ぬためです。イエス様は、それを弟子たちにもう何回も何回も何回も話されたんですけど、全然駄目でした。彼らは聞いた。けど本当の意味で聞く耳がなかったんです。 そしてイエス様は、犯罪人のようにつけられ、殺されてしまった時に、弟子たちはみんな姿を消したんです。もうおしまい。けどイエス様は3日目に復活すると言ったのに、全部きれいに忘れた。 イエス様のことを信じたならば、別にかくれんぼしなくてもよかったし、「あ、あと2日、あと1日、何時間後で、また会える!」という確信があったならば、3日間だって寝なくてもいいじゃないの?食べなくても結構なんです。彼らはそれを信じなかったんです。 けども、イエス様は確かに復活なさいました。聖書は次のように言っています。 ヨハネの福音書20:19-20
その瞬間、彼らは、もちろん何を確信したかと言いますと、「やっぱり、うそつきではなかった。私たちは騙されなかった。だから、希望がある」。 別れの言葉として、イエス様は弟子たちに、 ヨハネの福音書14:18-19
このイエス様は40日間、何回も何回も、弟子たちに出会ったり、話し合ったり、交わったりして、「一緒に食べた」とも書いてあります。もし霊だけで現われたなら、食べられません。けどイエス様は弟子たちと一緒に、ちゃんと召しあがったのです。それから昇天なさったのです。 その昇天なさったイエス様は、後でまた一人の弟子に現われたのです。この出会いについて、聖書は次のように言っています。 ヨハネの黙示録1:17-18
「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」。その後、臆病者になってしまった弟子たちとは、考えられない力を持つようになり、当時の知られている全世界に出て行って、「イエス様は、生きているよ!イエス様は復活なさった!罪ほろぼしのために代わりに死なれた!」と宣べ伝えるようになったのです。 愛する姉妹は、3つのことを素直に信ずることができたのです。 第一番目。イエス様は私のためにも死なれた。代わりに死なれた。罰せられた。ご存知でしょう?宗教の作った宗教の神々とはみな怖い。恐ろしい。ああしないと、こうしないともう大変だ。 人間を罰する神はいません。必要ないからです。キリストが罰せられたからです。愛する姉妹は「イエス様は、私のために死なれたから、だから安心して死に向かうことができる」。 第二番目。愛する姉妹は、イエス様は私をも受け入れたと信ずることができたのです。理解することができなかったでしょう。特別にいい気持ちになったことでもないでしょう。 どうして信じたの?結局イエス様は「へりくだればOK。頭を下げれば大丈夫」と約束してくださったからです。十字架の上で、代わりに死なれたイエス様は、詐欺師でもないし、うそつきでもない。自分の約束を守るお方です。 このイエス様は「へりくだればOK」と言われたから、私たちは安心して信ずることができる。愛する姉妹は、この恵みにあずかるようになったのです。 もう一つ、第三番目。お母様は、「私は最善の時に死にます。イエス様は、私を最善の時に召してくださるのです。」、人間は歳のため、あるいは病気のために死にません。主イエス様が呼ぶ時、初めて死ぬのです。 4年前でしたかね、召されたのは。主イエス様は、4年前に「いいだろう?おいで」と呼んでくださった時、もう駄目になった体の中から、霊とたましいが出て天国に行っちゃった。それだけ。 ですから先にゴールインしたから、うらやましい。私たちはみんな残されてる。まだ戦わなくちゃいけない。まだ、いろいろなことで苦労しなくちゃいけない。その意味での今日の記念会は、「残された者たちの集い」です。「追い越された者の集い」です。 もちろんそれだけではない。「死を克服してくださったイエス様を紹介するための集い」です。それだけではない。 私たちはよく、「喜びの集い」という表現を使います。昔、昔、私たちは「バイブルキャンプ」という言葉を使いました。それを聞いてある人は、「天幕で寝なくちゃいけないの?」と聞いたんです。もちろん違うよ。後で名前を変えて「修養会」という名前をつけた時、ある人たちはびっくりして「やっぱり勉強しなくちゃいけないの?」 そんなことないよ。それで、ある時から「喜びの集い」と名前をつけるようになったんです。けどもね、「喜びの集い」という名前をつけても、集まってる人々は、みんな悩んでる人々ばっかり。苦労してる人々ばっかり。孤独病にかかった人々ばっかり。 どうして「喜びの集い」であるかと言いますと、結局イエス様が紹介されてるから。そして悔い改められる可能性があるからです。 結局、聖書はちょっと厚い本でしょう。大変だよ。けども内容的は難しくない。「神は、高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを与える」。愛する姉妹は、頭を下げるようになったんです。祈るようになったんです。 すなわち、「イエス様。確かに私は、べつに過ちを犯すつもりではなかったし、けどやっぱり完全じゃない。ごめんなさい。あわれんでください。赦してください」。この砕かれた態度があれば、OK。 聖書の中で書かれていますけれども、愛する姉妹も心から信じたことです。 ローマ人への手紙4:25、5:1
聖書の中で複数形になっています。けども姉妹のことを考えれば、単数形で読んでもいいだと思う。なぜならば、姉妹の個人的な告白でもあるからです。ですから、もう一回単数形で読みましょうか。 「主イエスは、私の罪のために死に渡され、私が義と認められるために、よみがえられたからです。 信仰によって義と認められた私は、私の主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」 だから、私は安心して将来に向かうことができる。イエス様の呼びかけとはいったいどのようなものなのでしょうか。「すべて疲れた人、精神的に疲れた人、いろいろなことで悩んでる人は、おいで。わたしのところに来なさい。」 「キリスト教に入れ」じゃない。「教会に行け」じゃない。「わたしのところに来なさい。休ませてあげます」 愛する姉妹は、結局この招きの言葉を聞いただけじゃなくて、やっぱり彼女は祈るようになったのです。イエス様のところに行くこととは、結局祈ることです。そして彼女は、3,000年前に証ししたダビデのように言えるようになったのです。すなわち、 詩篇32:1
ダビデと同じに姉妹も、 詩篇23:4
今、愛する姉妹はイエス様とともになったのです。本当にうらやましい。彼女は天国の状態について、もちろん多くのことを知るようになったのです。天国のことについて聖書は次のように言っています。 ヨハネの黙示録21:3-4
夢の世界です。けども愛する姉妹は先にゴールインする恵みにあずかるようになったから、本当に幸せです。もし姉妹がここまで来ることができれば、言うに違いない。 「イエス様を信じたのはほんっとに良かった!もう天国のことについて何も言えない。適当な言葉がないけど、お願いします。みんなまた天国で会ってもらいたい。」 そのために必要なのは、結局祈ること。 「イエス様ごめん。私も完全じゃない。不完全でわがままですけど、私のためにも死なれたからありがたい。今からよろしく。全部おまかせいたします。」 この態度とると決して後悔しない。すなわち愛する姉妹と同じように、はっきりとした確信を持つようになります。すなわち、「私の国籍は天国です。」 |