引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、4章13節-18節
今日、このように愛する兄弟の記念会で、彼の結末の最後について考えることができ、また聖書を通して生きるまことの望みをもつことができれば、本当にありがたいと思います。 そのとき、彼は御代田の家まで来られまして、いっしょに神の代わりの死の大切さについて、罪の赦しについて、プラスアルファ、永遠のいのちについて話すことができ、もちろん彼も素直に祈るようになったのです。 そして人間にとって、だれでもできることなのですけれども、もっとも大切なのは祈ることです。勉強すること、悟ること、立派になることではなく、祈ることこそがもっとも大切なのです。 そして亡くなった人々について彼は祈ったよ。イエス様の御名を呼び求めたということができれば、やっぱりありがたいのではないでしょうか。 彼は英雄になったのではないよ。けれども彼は祈った。祈ることとは助けを求めることです。 そして本当の助けとは一時的な問題の解決ではない。一時的に問題が解決されたとしても、死の問題が解決されなければあんまり役に立たないのではないでしょうか。 結局彼は確かに色々なことを経験なさったし、あるとき非常に成功したこともありますし、けれどもやっぱり壁にぶつかって、全部上手くいかなくなっちゃったし、けれどもお陰様で色々なことで悩んだのは良かったとすぐわからなかったのですけれども、振り返ってみるとそうなのではないかと思います。 その意味で、悩むこととはなかなかいいものです。考えられない多くの人は、「やっぱり悩んだから良かった。」、イエス様に頼るようになり、祈るようになったからです。 私たちは聖書のもっとも大切なひとつの真理について考えると嬉しくなる。すなわち、死は終わりではない。死んでから始まる。 多くの人とは生きている間に楽しもうと思っているのです。けれどもいくら楽しんでも、いつまでもできないでしょ?いつかやっぱり死ななくちゃいけない。それから始まる。 今の人生とはどうして大切であるかと言いますと、永遠の世界の準備期間だからであります。 昔の時代でのスローガンとは、備えあれば憂いなしというものだったのです。確かにそうなのではないでしょうか。 いつ死んでも大丈夫よ。行き先は決まっているという確信を持たない人は、ちょっとかわいそうなのではないでしょうか。 今度大阪で亡くなった百六人の中の一番若者は十七歳だったのです。けれどもやっぱり歳と関係なし。彼女も死んだのです。 ある人は、「いのちを返して。」と言ったのですけれど、それは無理よ。けれども結局多くの人々はやっぱり大変だったのです。 ひとりの人は、一号車にはいっていたのですけれども、その彼は聞いたのです。「神さまー!」と叫んだ人もいたのです。結局そういう状況になるとやっぱり神しかない。けれども神を知らなければ、「神さま」と呼んでもあまり意味のないことなのではないでしょうか。 結局行き先は大切です。永遠の滅びか永遠のいのちかのどちらかでしょう。 イエス様は、「わたしを信じる者は死んでも生きる。」と約束してくださったのです。もちろん永遠にわたって生きる。死は決して終わりではない。これこそが聖書の明らかにしている革命的な事実です。 それだけではない。希望を与える源なのではないでしょうか。喜びの秘訣そのものです。 聖書は結局励ますことができる。力づけることができる。希望を与えることができる書物です。だから聖書は人間に与えられているもっともすばらしい宝物なのではないでしょうか。 主イエス様は聖書について何と言ったかと言いますと、「あなたのみことばは真理です。」 結局イエス様は当時の旧約聖書を信ずることができたから、私たちも安心して信ずることができるのではないでしょうか。 確かに私たちは聖書をわかっていると言えません。けれども問題は、信ずるか信じないか。愛する兄弟は、色々なことがわからなかったと思うけれど、素直に信じたのです。 結局イエス様のように聖書を大切にした人間はいないでしょう。イエス様にとって聖書とはすべてでした。イエス様はみことばなしに生きることができなかった。 だから次のように言われました。有名なマタイの福音書の4章4節ですけれども、次のように書かれています。 マタイの福音書4:4
と書かれています。 何年前だったかちょっとわからないけれど、ある大手企業に勤めた人々がいまして、ひとりは東京に住んで、ひとりは名古屋だったのですけれども、東京に住んでいる兄弟なのですけれども。 彼は私に頼んで、「一度名古屋まで行きませんか。もっとも親しい友だちの奥さんはもう末期の癌で長くないよ。けれども二人ともはイエス様のこと、まったくわからない。いっしょに行こうよ。」 あの兄弟は集会の中で特別な人物でした。跡継ぎは今日までいないのです。ちょっと残念なのです。 すなわち彼は、どなたか病気になった、どなたか入院されたと聞いたとき、もういのち懸けで行ったのです。会社遅くても、終わったら必ず病院に行って、病院にいました。すごかったよ。 彼の頼んだことをして、いっしょに名古屋の病院まで行きまして、あの場で彼の友人も、今では兄弟なのですけれども、奥さんも素直に聖書の話を聞いただけではなくて、「あっ!それしかない。」と思って、祈りました。 「イエス様。私もわがままだよ。ごめんなさい。けれど代わりに死なれたからありがたい。感謝します。今からのこと、もういいよ。よろしくお願いします。」 あの名古屋の姉妹は希望を持って死ぬことができた。その場に私もちょうどいたのです。何ヶ月後だったかちょっと忘れましたけれども、見舞いに行った時、ちょうどその時召されたのです。 もう何の心配もない。結局、希望を持っていたからです。けれどもどなたか召されれば、問題は残されている人なのです。残されている人々は希望を持つことができなければちょっとかわいそう。 あの亡くなった姉妹の記念会のために色々な人々が案内されたのです。そのとき案内したご主人は次のように書いたのです。 「もし、聖書を知らなかったら、苦しみや悲しみにさいなまれ、運命を呪ったことでしょう。 主イエスを信じて、家内は死の恐怖から解放され、私も生き様が変わりました。 今は再び天国で姉妹とめぐり合える喜びと、主のみこころと愛に感謝の気持ちです。」 結局、聖書があったから良かった。私たちも同じように言えるのではないでしょうか。 聖書があるから希望があります。造り主なる神、すなわち万物の支配してくださったお方。すべてを支配し、背後に導いてくださるお方とは、望みの神と呼ばれています。また、慰めの神と呼ばれています。 多くの人たちはもうがっかり、もうあきらめなくちゃいけないと考えています。けれどもイエス様は、わたしはあなたがたを孤児とはしないと約束してくださいました。 残されている人々の中でそれを必ず今まで経験した。ちょっと寂しくなったけれど、やっぱり一人ぼっちではない。イエス様は近くにおられると経験することができたのです。 今、先に読んでくださった個所の中で、当時のパウロは、結局残された人々を励ますために書いた個所なのです。 私たちは再臨なさるイエス様を待ってたのですけれど、実はうちの子どもは亡くなったよ。うちのおじいちゃんも亡くなった。いったいどういうこと? この質問に答えるためにパウロは書いたのです。眠った人々のことについて。眠った人とはイエス様を信じ、先に死んだ人々なのです。ですから聖書は、死んだ、死んだ云々ということばを使わないで、眠ったと言うのです。 眠るのはもちろんからだなのです。愛する兄弟は召された瞬間、中にはいっている霊とたましいは直ちにイエス様のところに行って、からだは火葬場で焼かれるようになり、今その灰とはあまり役に立たない。大切ですけれど。 ですから普通の人は墓を作ったりして、あるいは納骨堂に入れたりして。結局終わりじゃないからです。 御代田の納骨堂は、待合室と呼ばれています。もちろん普通の墓もそうです。墓と言ったら、あんまりいい気持ちではない。待合室と考えると違うでしょ?終わりじゃない。 パウロは、「眠った人々のことについて、あなたがたに知らないでいてもらいたくない。」、どうして? あなたがたが、他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。今日の集いもそのためでしょ? 悲しみに沈まないために今日の、愛する兄弟の記念会がもたれるようになったのです。彼のためじゃないよ。 ある人々は間違って祈るのです。「今亡くなった人が、私たちを見て云々。」と。嘘です。 兄弟はこの世のことを見られない。感謝でしょう。守られている。もし亡くなった人々が私たちを見えるようになればもちろん怒る気持ちにならない。天国で。けれど非常に悲しくなると思う。 どうしてあの人々はもっと聖書に頼らないの?もっともっと単純にイエス様に拠り頼まないと、と思うようになるに違いない。 けれどもあることを天国で知らされるようになります。罪人のひとりが悔い改めると、天国で大いなる喜びになると書いてあるのです。 そしたら、もし愛する兄弟の記念会を通してひとりの人だけ祈るようになれば、すなわち、「イエス様。ごめんなさい。私は完全じゃないよ。過ちを犯したくないけれど犯す。私もわがままなのです。ごめんなさい。」と祈ると、そういうことは兄弟わかるようになる。大いに喜ぶようになる。 望みのない人々は悲しみに沈む人であるとここで書いてあります。けれども死は終わりではない。 イエス様は生きておられ、愛する兄弟は病気のために死ななかったよ。主の決められた時だったから、主は、「いいよ、大丈夫でしょ。おいで、おいで。」、それで霊とたましいがダメになったから、だから出ただけ。 結局この個所によると、ふた種類の人間がいます。ひと種類は、望みのない人々です。どうして望みがないかと言いますと結局、先のことわからないから。考えられないから。想像できないから。信じられないから。 けれどももう一種類の人間がいます。望みをもつ人々です。どうして望みをもっているかと言いますと、先のことわかっているから。「私たちはいつまでも主とともになる。」とここで書いてあります。 「私たちはいつまでも主とともにいることになる。こういうわけですから、このみことばをもって互いに慰め合いなさい。」 いつまでも愛する兄弟といっしょになるよ。もうちょっと、心ひとつにして大いにイエス様をほめたたえるようになると考えると、やっぱりありがたい。 そうすると、彼のことを考えると羨ましい。私たちはちょっとそこまで到達していない。まだゴールインしていないから。私たちは追い越された者です。兄弟は先にゴールインする恵みを与えられるようになりました。 愛する兄弟はどうして希望をもつようになったかと言いますと、祈ったからです。 主の御名を呼び求める者は救われます。永遠のいのちをもつようになります。安心して死に向かうことができると聖書は言っているのです。 救い主であるイエス様は嘘を知らない方です。信頼できるお方です。このイエス様に祈るとイエス様は聞く耳を持つお方だけではなく、必ず答えてくださいます。 結局兄弟は色々なことで確かに悩みました。苦しみました。けれど幸せになったのです。 どうして彼は幸せになったかと言いますと、もちろん幸せになりたかったからです。幸せになりたくない人はおそらくこの世にいない。けれど大体の人々はあきらめているのです。なりたいけれど、どうせ無理でしょう。決してそうではない。 幸せとはすべての問題を解決できる方に頼ることです。そしてすべての問題を解決できるお方とは、もちろん人間じゃないよ。罪の問題を解決した、死の問題を解決してくださったイエス様です。愛する兄弟は何でもできるお方に頼るようになったから幸せでした。 私たちはまだ生き続けなくちゃならない。戦い続けなくちゃならない。 けれどももうちょっと、私たちもいつまでも主イエス様といっしょになると考えると、本当に嬉しくなります。 もうすでに3,000年前にある王さまは書いたのです。「主よ。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがとこしえにある。私にとって神の近くにいることが幸せなのです。」、これこそが愛する兄弟の告白なのではないでしょうか。 聖書の言っていることとは、非常に簡単で、決してむずかしくない。ひと言葉で言いますと、「悔い改めてから信じてもいいよ。頭を下げるとOK。へりくだれば、ごめんなさい、そういう気持ちがあれば大丈夫。」と聖書は言っているのです。 確かに宗教によって影響を受け、毒された人々とは考えられない。本当にそうよ。そんなに簡単よ。うん。そんなに簡単です。 なぜならば、父なる神にとっても、十字架につけられた主イエス様にとっても、簡単ではなかったからです。 多くの人々は聖書を知らなくても、聖書の個所を知っているのです。不思議なのです。「神は愛なり。」、大体みんな知っている。 けれども大体の人間の間違った結論は、神は愛だから私のわがままぐらい赦すであろう。 とんでもない。もっとも厳しいお方とはまことの神です。愛のかたまりである神は厳しくて厳しくてしょうがない。 例えば、生きている間に一回だけちょっと怒ったことがある。一回だけ愛のない態度を取ったことがあると言うともうダメ。永遠のほろびです。そんなに厳しい方です。いや、大変です。 そうするとふたつの道しかなかったのです。ひとつの道は、人間はみんなどうしようもない者ですから、わがままのかたまりであるからやっぱり人間ひとりひとりを罰しなくちゃならない。みんな永遠に滅んでもらいたいという道か、あるいは、人間の代わりにまったく罪を知らない方を犠牲にするかのどちらかでした。 主イエス様とはもちろん神の性質をもっていたから、罪を犯す可能性がなかった。 このイエス様を犠牲にすると父は永遠の昔から思っただけではなく、イエス様の永遠の昔から、人間はひとりもいなかったとき、「いいよ。わたしは犠牲になる。」 考えられない。愛する兄弟もそれを聞いたとき結局、希望が沸いて来た。 父なる神は、わたしの大好きな大好きな兄弟のためだったら、わたしは自分にとってすべてのすべてであるキリストを犠牲にすると決めただけではなく、十字架につけられたイエス様の心構えも同じものでした。 大好きな大好きな兄弟のためだったらわたしは無視されても、捨てられても、殺されても結構。 人間的ならばおかしいよ。「全部。やめて。」と言いたいよ。 自分のためにキリストを犠牲にすることなんてもったいないとしか言えない。このような愛を受ける資格のある人間はいない。 けれど兄弟はそれを聞いたとき、「あー、ありがたい。」と思うようになったのです。 へりくだれば大丈夫。過去はどうであれ、悔い改めてから赦されたことを信じてもいいよと聖書は言っているのです。 「イエス様は、自分のわがまま、過ちを贖う救いの代価を払ってくださった。」、救われる条件とは、ただ悔い改めと信仰だけです。 愛する兄弟は聞く耳を持つようになっただけではなく、ありがたいと思うようになったのです。 わかったからじゃないよ。いい気持ちになったからでもない。聖書はそう言っているからです。 そして大切なのは、私たち人間の考えていることじゃなくて、神のみことばである聖書は何と言っているかということです。 聖書全体の言っていることは、自分自身を低くする者は高くされる。へりくだればOKということです。 どうしてそんなに簡単かと言いますと、イエス様は犠牲になったからです。父なる神にとってもイエス様にとっても決して決して簡単ではなかったからです。 愛する兄弟のたましいは、死んだ瞬間直ちにイエス様のところに行ったのです。聖書の中の一ヶ所、ちょっと見てみましょうか。 ピリピ人への手紙の1章の中で、パウロという男は自分の願いについて不思議なことを書いたのです。 そのとき彼はのんびりして、ある別荘の中でくつろいだのではない。ローマの刑務所の中でした。 彼はイエス様を紹介したから、何年間も刑務所の中で過ごしたのです。 私は刑務所にはいったことがないけれど、あんまり面白くない所なのではないでしょうか。何の自由もないし、いや、大変です。 けれどこの刑務所の中で彼は書いたのです。 ピリピ人への手紙1:21
キリストからもう離れられない。 ピリピ人への手紙1:21
死ぬこともまた益です。 損ではない。 ピリピ人への手紙1:22
彼は最高の教育を受けた男で、けれどここで正直に言っているのです。私にはわからない。しかし、 ピリピ人への手紙1:23
世を去ることとは死ぬことでしょ?私の願いは世を去って ピリピ人への手紙1:23
この個所を読むといつも旧軽井沢の墓石に書かれていることばを思い出します。このことばなのです。 「キリストとともにいることとは、はるかにまさっている。」 その隣にまた別の墓石があるのです。もちろん全部外人墓地ですから、英語で書かれています。何を書かれているかと言いますと、「We loved KARUIZAWA.」、「軽井沢好きだった。」 We、私たちと書いているから、夫婦の墓らしい。結局彼らの言えたこととは、残されている人々に言えたのはそれしかないのです。 軽井沢好きだったけれど、もうおしまい。死ななければならなかったから。ちょっと気の毒なのではないでしょうか。 その隣の墓石は「With Crisit, which is far better.」、「キリストとともにいることとは、まるかにまさっている。」と書いている。やっぱり全然ちがうでしょ。 この、目に見える世界を大切にすると、遅かれ早かれ認めざるを得ない。すなわち、虚しかった。 愛する兄弟のように、「イエス様。ごめんなさい。」そういう気持ちを持つようになる人々とは、生きる希望をもつようになります。パウロのように思うようになります。 私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっている。 愛する兄弟はイエス様といっしょになった。イエス様の栄光にあずかるようになりました。本当に羨むべき立場に置かれたのです。 イエス様のみもとには確かに病気がない。疲れもない。重荷もない。病もない。弱さもない。喜びばっかりです。 愛する兄弟は結局色々なことを勉強して、わかったから信じたのではない。この考え方は宗教的です。「やっぱり勉強不足ですから今から一生懸命読みます。云々と。」、違う。 どうして、わからなくても信ずることができるかと言いますと、十字架の上で犠牲になったイエス様は嘘つきじゃないからです。詐欺師でもない。自分の約束を守るお方であるからです。 へりくだればOKと、イエス様は何回も何回も言われたのです。愛する兄弟は救われた。 けれど救いとは何でしょうか。まことの救いとは、まず罪の問題の解決です。主は私のわがまま、過ちを赦されただけではなく、忘れてくださったという確信を持つ人々こそが救われている。 第二番目。孤独からの解放でもあります。人間はみんな孤独病にかかっている。みんな悩んでいる。 けれども兄弟も確信することができた。イエス様は私のために代わりに死なれただけではなく、生きておられます。良い牧者として迷える羊である私を導いて守ってくださるお方であると、信ずることができたのです。 もうひとつ、まことの救いとは、死を恐れる恐れからの解放です。 多くの人々は死にたくない。死にたくないらしい。ですから普通の病院で、診察する部屋があるでしょう?私はいつも近くの病院へ行くのですけれども、十あるのです。本当は八なのです。一、二、三、・・・五、六、七、八、・・・十になっちゃうのです。 四の部屋もない。九の部屋もない。結局人間は苦しむことについて、死について嫌です。考えたくない。けれどおかしいよ。確実でしょ。いつか死ななくちゃ。もし再臨がなければ。 愛する兄弟は、「私はイエス様のことピンと来ない。けれどもこのイエス様とは私のために死なれたことをありがたい。やっぱりイエス様を喜ばせたい。イエス様のために生きたい。イエス様のためにどうしたらいいの?」と思うようになったのです。 ローマ人への手紙14:8
ですから生きていても死んでも同じことだよ。イエス様のものです。 初代教会の人々はこの確信を持っていたからやっぱり幸せでした。死んでもイエス様とともに生きるようになる。この確信こそが最高のものなのではないでしょうか。 イエス様とはいったいどういう方・・・ (テープ A面 → B面) ・・・ずいぶん来るようになって、定年になった兄弟たちもいるし、前にあんまりいなかったのです。 昼間でしょう。みんな勤めなくちゃいけないから。けれどもそのときやっぱり二人しかいなかったのです。そしてだいたい一人司会しなくちゃいけない。 ちょっとどうしようか、私は考えたのですけれどやっぱり頼みたくなかったのです。 一人は話したくて、話したくてしょうがない人がいました。もう一人はもう穴があればもうはいりたい。口下手でもう全然ダメ。 私は決めたくないから、あなた二人で決めてください。ジャンケンでもいいから。口下手の人になっちゃったのです。 彼は、「みなさん、よく・・いらっしゃいました。ほ、ほ、本物のイエス様はみなさん、本物のイエス様は・・・」、みんな笑うようになっちゃったのです。何回も、「本物のイエス様」と言っちゃったのです。 けれど私は急に嬉しくなっちゃった。やっぱり本物のイエス様がいると、偽者のイエス様もいるでしょう?偽者のイエス様とはキリスト教を作った者なのです。 聖書の中心とは本物のイエス様です。宗教と関係のない方です。ですから兄弟はクリスチャン、いわゆるクリスチャンになったのではないよ。本物のイエス様に祈っただけなのです。 偽者のキリストは要求します。「勉強して、悟らないとダメ。」、「しっかりしなさい。立派にならないと、完璧でないとダメ。」、金までも要求されちゃう。これこそ笑い話です。わがままな人間の汚い金、欲しい神はいないよ。全部うそ。 愛する兄弟は本物のイエス様に祈ったのです。結果として、「ありがたい。感謝です。」と思うようになりました。結局兄弟は、「イエス様は私のものです。」と言えるようになったのです。 3,000年前にダビデも、「主は私の羊飼いです。」と言えたのです。私はもちろん相変わらずどうしようもない迷える羊にすぎない。迷える羊は、生まれてから死ぬまで迷える羊です。 宗教的な考え方は、迷える羊は、頑張って、頑張って、頑張って努力すれば、羊飼いになる。うそ。なるものじゃないよ。 ダビデは、私は相変わらずどうしようもない、無力な、なんにも知らない羊です。けれど、それ別にどうでもいい。主は私の牧者です。私の導き手です。守り手です。主は私のものであると確信できるようになった兄弟は本当に幸せでした。 主は私のものであり、私も主のものであると言える人々こそが幸せなのではないでしょうか。天国で、イエス様の近くで大いに喜んでおられる兄弟の切なる願いとは、いったい何なのでしょうか。 彼の証しとは、「イエス様を信じたのは良かった。それから、私の記念会に出るひとりひとりも、イエス様の救う力を解放してもらいたい。肉親の方々、親戚の方々みんなひとり残らず、例外なく、イエス様を信じて、私のもとに来てもらいたい。」、そういう気持ちでいっぱいです。 イエス様は言われました。「わたしは死んだが、見よ。いつまでも生きている。」、いつまでも生きている方に信頼すると間違いない。後悔しない。 ですから、愛する兄弟のようにみんな、今晩でもいいし、帰り道でもいいし、「イエス様。私もわがままなのです。あなたのことピンと来ない。けれど確かに私も完全じゃないからごめんなさい。今からよろしく。」、この態度を取れば絶対に後悔しません。 |