今日このようにして、愛する兄弟姉妹の記念会で一緒に賛美するができ、また神の御言葉である聖書について、一緒に考えることができるのは本当に感謝です。 葬儀、納骨式、記念会の時、いつも思っているのです。もし聖書がないと、もう逃げたい。聖書こそが、人間に与えられている最高の宝物です。 天国へ行っても新しい聖書はないでしょう。今の聖書で十分だと思います。だからイエス様は、こうおっしゃいました。 マタイの福音書24:35
今、紹介されたように3人の兄弟姉妹は、先にゴールインしたからうらやましいのではないでしょうか。私たちは残された者、追い越された者、また戦い続ける者、悩み続ける者。その意味で、先に天に召された兄弟姉妹は本当にうらやましいと思っています。 確かに、いま司会の兄弟が言われたように、家族の中で一人亡くなると、やっぱりちょっと面白くない、悲しいことですし、寂しいことです。けれども、死は決して終わりではありません。死んでから始まる。誰にとってもそう。 ある人々は、永遠にわたって天国で過ごすようになり、提供された救いを意識して拒んだ人々は、永遠に地獄で過ごさなくちゃいけない。地獄とは光のない所、喜びを知らない所、平安のない所です。想像できません。 真理そのものであるイエス様は、天国の素晴らしさについてよりも、地獄の恐ろしさについて話されました。生きてる間に正直になり、へりくだれば大丈夫です。 今日の3人の兄弟姉妹も、どうして天国へ行ったかと言いますと、へりくだったからです。ある時壁にぶつかって、どうしたら良いかわからなくなっちゃったから、イエス様ごめんなさいと言う気持ちになったのです。 「死は決して終わりではない。」これこそ、革命的な事実です。希望を与える源です。喜びの秘訣そのものです。 聖書は、イエス様にとっても大切であったようです。イエス様ほど、もちろん当時は旧約聖書だけだったんですけど、旧約聖書をイエス様ほど大切にした方はいないでしょう。 イエス様にとって、聖書は、すべてでした。御言葉なしに、イエス様は生きることができなかったのです。 ですから、次のようにはっきり言われました。 マタイの福音書4:4
確かに、理解できないことがいっぱいあります。 有名な山上の垂訓のひとつの言葉は、慰めを与えるものです。イエス様は言われました。 マタイの福音書6:32
天と地を無から材料なしに造られた方が、「知っておられます。」なんでも。今のことだけではなく何億年先のことも知っておられるからです。 私たちは、自分で5分先のこともわかりません。5分先に、私たちいっぺんに死んでしまうかもわからない。大地震が来るかもしれないよ。半年先のこともわからない。 「あなたがたの父は、知っておられる。」という約束は、素晴らしい励ましなのではないでしょうか。 ある混乱してしまった弟子に向かって、イエス様は言われました。 ヨハネの福音書13:7
2,700年前に生きていた預言者エレミヤは次のように記したのです。もちろん、主の口として、 エレミヤ書29:11
イザヤという預言者も同じようなことを言いました。 イザヤ書55:8-9
比較することができない。比べられない。全く違う。すべてを支配なされ、背後にはっきりした目的を持って導いてくださるイエス様は完全です。ですから、主の導きも完全です。 確かに、私たちの思いと主の思いは全く違う。けど、イエス様がすべてのことを働かせて益としてくださると約束してくださいました。 ネヘミヤという預言者は告白したのです。私たちも同じように告白できたら非常に幸せと思います。 ネヘミヤ書9:6
偶然は決してありません。主イエス様が、絶対的にすべてを支配しておられます。 私たちは、多くのことを理解することができないし、説明することができないけれども、イエス様は完全なお方であり、そしてイエス様のご計画もまた完全です。 聖書全体の言わんとしていることは何であるかと言いますと、「主なる神は、人間の苦しみを望んでいるのではない。人間に、最も良きものを与えたいと望んでおられます。」、万物の造り主なる主は、すべての背後に目的を持って導いておられるからです。 確かに、人間の視野は、あまりに狭くて、私たちは多くのことを理解できません。 けれども、主なる神は、愛であり、義なるお方です。決して過ちを犯しません。 私たちには理解できないことはいっぱいあるけれども、主は、人間ひとりひとりを全く個人的に愛して下さり、導いてくださるお方です。 今日の集いの目的は何なのでしょうか。 主のなさったことのために感謝することなのではないでしょうか。 詩篇の作者であるダビデは、次のように歌ったのです。 詩篇103:1-2
これは、単なる提案ではない。主の命令です。3節 詩篇103:3-5
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。造り主なる神、万物を支配なさるお方は、自分自身を主イエス様を通して明らかにしてくださいました。 イエス・キリストの名前は、いっぱいあるけれども、ある名前は「望みの神」あるいは、「慰めの神」です。 イエス様は、次にように約束されました。 ヨハネの福音書14:18
確かに、残されている人々は、やっぱり寂しくなりました。けれども私たちは決してひとりぼっちではない。イエス様は、良い牧者であり、素晴らしい導き手であり、比類なき守り手であり、養うお方です。救いとは、良い牧者である望みの方に頼ることです。 人間を見ると確かに2種類の人間がいます。多くの人々は、望みのない人々です。どうして望みがないかと言いますと、先のことばかり考えるから、先のことが見えないから、考えられないから、信じられないからです。そうすると、やっぱり、望みがない。 けれども、もう一種類の人間は、望みに満たされている人々です。望みに満たされている人々です。彼らは確信しています。「私たちは、いつまでも、主と共にある。」、こういう人々が幸せです。 そして今日の記念会の兄弟姉妹は、この確信を持っていました。死は終わりではない。必ずいつまでもイエス様と一緒になる。 喜びを持つこと。すなわち変わらない喜びを持つことこそが大切です。言うまでもなく人間はみな悩みます。 信仰があっても、なくても・・・。 けども、イエス様を知るようになった人々は、悩みながら喜ぶことができる。プラスアルファー、心配から、不安から解放されます。それから、生ける希望を持つようになったのです。 信頼することによって、このような変わらない喜びを、心の平安を、生ける希望を与えられるようになります。 救い主との関係がなければ、すべては、むなしい。これこそが、先に召された兄弟姉妹の確信したところでした。 愛する兄弟姉妹は確信しました。すなわち、本当の幸せとは、自分の心を満たすことができるお方、すべての問題を、解決できるお方を知ることです。なぜならば、そういう方によってすべての問題は解決されるからです。 すべての問題を解決できるお方は、言うまでもなく人間ではない。十字架の上で犠牲になったイエス様です。 愛する先に召された兄弟姉妹は、この愛するイエス様につながるようになったから幸せでした。召されたお母さまも、兄弟も救われるようになっただけではなくゴールインしました。 彼らは今、何を考えているのでしょうね。想像できません。表す言葉もない。 でもこの地上で、主とつながっている詩篇の作者たちは、告白しました。 詩篇16:11
私にとって、神の近くにいることが幸せなのです。結局、召された3人の兄弟姉妹は、「イエス様を信じたから良かった。幸せ。」としか言えないのではないでしょうか。 どうして彼らは幸せになったかと言いますと、悔い改める恵みが与えられてたからです。 彼らは、「ちょっと悪かった。ちょっと失敗した。」と思うようになっただけではなく、「もう私たちは全然ダメ。イエス様、憐れんでください。」と叫んだからです。こういう気持ちを持つこととは、十分です。 結局、兄弟姉妹ははっきり体験的に知っていたのです。すなわち、人間なんて大したもんじゃない。過ちを犯したくないけど犯す。やっぱり私たちも、わがままなのです。そして、自分自身を救おうと思ってもできません。 良い行いも、いかなる努力も、自分自身を救うことはありません。ただ、イエス様のみが救いをもたらすことができる。 イエス様による以外、まことの救いはない。イエス様は、私たちの一切のわがまま、過ちを贖う救いの代価を払ってくださった。 愛する、先に召された兄弟姉妹は、おおいにその恵みに預かるようになりました。 彼らの死とは、彼らの存在がこの世から亡くなったということではなく、ただ単に、肉体と霊とは分離したにすぎません。肉体は朽ち果ててしまいますけど、いずれその中から甦りの体、栄光の体が、甦ります。 信じる者の魂は、死ぬ瞬間ただちにイエス様の御許に行くと聖書は語っています。 パウロという男は、イエス様を第一にしたから、何回も捕まえられましたし、おそらく7年間は刑務所の中で過ごしたのです。 刑務所の中で、彼は次のように書きました。 ピリピ人への手紙1:21-23
今日の記念会の兄弟も姉妹も、はるかにまさったものを得るようになりました。「万歳。おめでとう。」と言いたいのではないでしょうか。 その意味で、今日の集いは喜びの集いです。なぜならばイエス様が、愛する兄弟姉妹を導いて下さり、最善の時に召してくださったからです。 今日は、イエス様の忠実さを褒め称えるお祝いです。イエス様は約束してくださいました。 ヘブル人への手紙13:5
こう約束してくださったのです。ですから、先に召された兄弟姉妹は、イエス様の約束を信じ、すべてをゆだねることができたから、主は、ご自分の約束を守ってくださり、導いてくださいました。 聖書の中で、いろいろなことを命令しています。ひとつの命令は、 テサロニケ人への手紙第I、5:16
たまに喜びなさいじゃないよ。一週間おきに喜びなさいでもないよ。「いつも」喜びなさい。旧約聖書の中で358回、新約聖書の中で133回、喜ぶことの大切さが述べるられています。 誰からも奪われることのない喜びの秘訣は、今話したように、イエス様を知ることです。イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間的な思い、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀感、そして絶望など、あらゆる悩みが解消してしまうのです。 そしてパウロにおいては本当の、喜び、平安、満足が与えられるのです。 イエス様は、私たちにまことの救い、すなわち罪の赦しを与えるためにこの世に来てくださり、救いの代価を払ってくださいました。言うまでもなくまことの主イエス様とは、無宗教です。宗教と関係のないお方です。 このイエス様を体験的に知るということは、永遠の命を持つことを意味しているのです。 イエス様との交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源があります。イエス様こそ命、希望、喜び、平安の泉、そのものであるからです。 まとめてみると、イエス様によってすべての悲しみは喜びに変わります。イエス様によって疲れ果てた者は、新しい力を得ます。イエス様によって、あらゆる人間的な努力のむなしさや、あせりが、全き平安と安らぎの静けさに変わるのです。 本当の喜びの泉は、イエス様ご自身にほかならない。 先に、召された兄弟姉妹は、はっきり確信したのです。すなわち、変わらない喜びがなければ、人生は全く苦しいものになる。変わらない喜びがなければ、人生は退屈なものになる。 あらゆる人間にとって最も大切なのは、罪の赦しを得ることです。なぜならば罪が赦されると、主なる神との交わりが可能となるからです。そして、父なる神との交わりによってのみ人間は満たされ、幸せになれるのです。 すなわち誰からも奪われることのない喜びの根拠とは、今話したように罪の赦しです。罪とはなんでしょうか。人間と、主なる神の間である隔ての壁です。 ある人々の場合は、この壁は1ミリしかないかもしれない。別の人の場合は1kmであるかもしれないけど、主から見ると同じです。壁は壁です。この壁が取り除かれなければ、交わりはあり得ない。 イエス・キリストの犠牲によって、イエス様の身代わりの死によって、この人間と神との隔ての壁が取り去られたと聖書は言っています。 身代わりとなるお方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ救いの道がない。罪の赦しはない。こう聖書は何回も何回も言っています。 そうでなけば、永遠の滅びになる神の怒りのもとに、永遠に存在しなければなたない。 イエス様が十字架で死んでくださった時、イエス様は人間の代わりに死なれたのです。イエス様の死は、罪に対する聖なる神の裁きでした。 イエス様の死によって罪は罰せられたから、今になって聖なる神が罪を赦すことをできるだけではなくて、赦したくて赦したくてしょうがない。 聖書は簡単に言います。 ヨハネの手紙第I、1:9
疲れているからおいで!私のところにおいで!キリスト教に入るのじゃないよ。ただ私の所に来なさい。私の所に来る者を、私は決して捨てません。 先に召された愛する兄弟姉妹は、今はイエス様と共に主の栄光に預かっています。彼らは、本当にうらやむべき所に置かれます。なぜなら、イエス様のみもとで悲しみもないし、病いもないし、弱さもないからです。 信じる者の確信に満ちた言葉は、イザヤ書の12章に書かれています。 イザヤ書12:2
すなわち先に召された兄弟姉妹にとって、死ぬことはイエス様と共になることを意味していたから平気でした。 イエス様の大いなる恵みによって、愛する兄弟姉妹はまことの救いに預かる者となりました。 まことの救いとはいったいなんでしょうかね。罪の問題の解決です。赦された、忘れられたと確信することこそが、愛する兄弟姉妹の確信でした。 また孤独からの解放こそが、まことの救いの結果です。ちょっと寂しいけれども、ひとりぼっちではない。イエス様は、いつも私たちから離れず、捨てない。愛する兄弟姉妹はそう確信することができたのです。 もうひとつ、まことの救いとは、死を恐れる恐怖からの解放です。「いつ死んでもいい、行き先は決まっている。天国だよと。」、そう言える人だけが、幸せなのではないでしょうか。 初代教会の人々とは、そういう人々でした。彼らはなんと言ったかと言いますと、 コリント人への手紙第I、15:55
私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利をくださいました。 ローマ人への手紙14:8
これは、初代教会の兄弟姉妹の喜びの証しでした。 死んでもイエス様と共に生きるようになる。そう確信できることはなんという幸せでしょうか。 イエス様はどういうお方なのでしょうか。すなわち、いかなる罪をも贖う偉大なる救い主です。あらゆる束縛から解き放ってくださる偉大なる解放者です。 イエス様は死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるために来られ、十字架の上に救いの代価を払ってくださったのです。 死の恐怖からの解放こそ、聖書の提供されてる救いです。イエス様は生きておられます。 天国で、イエス様の近くでおおいに喜んでいる我々の愛する兄弟姉妹の切なる願いは、どういうものなのでしょうか。 必ずみなさん、「イエス様の救う力を知ってもらいたいよ。肉親の方々や、知り合いの方々、親戚の方々は、みな例外なくイエス様を信じて、私たちのもとに来てもらいたい。」、そういうものであるに違いない。 あなたがたの大部分は、御代田の国際福音センターに来られたことがあると思いますが、集会が終わってから、みんなが掃除するのです。センターの中を一生懸命掃除するのです。 頼まれた人はいなくて、みな自発的にするのです。楽しみながら。 その時集会所の中はだいたい空っぽです。そうするともう子供、5〜7歳くらいの子供は、集会所の中でぐるぐる走って走って、もう運動場になっちゃうから楽しい。 ある時に、一番後ろで入ってる坊やを捕まえたんです。 「ちょっとちょっと」 「何ぃ...?」 「イエス様のこと信ずるの?」そう聞いたのです。 あの坊やは、「大好き!!」 ちょっとどうしてかなと思って聞いたのです。「どうして大好きなの?」 「イエス様、死なないから。」 ほう...。いい答えじゃないの。イエス様死なないから、それから、 「わたしの、わがまま赦してくれるから。」 5,6歳のこども、自分がわがままとわかったよ。だいぶの大人でさえも、それくらいもわからない。ちょっと悲劇だよ。 でも、あの坊やは、「わたしのわがまま赦すから、イエス様大好き。」、それで、「イエス様はわたしを愛してるから大好き。」 子供のようにならない限りダメなんですね。大人はダメ!子供はOK!どうして?正直、素直だからです。 もし、皆がこの確信を持っていれば。「イエス様は死なないから。」、「イエス様は私のわがまま赦してくれるから。」、「イエス様は私を愛してるから。」と、言うことができれば。 そして結論として、「イエス様、大好きです。」と言えれば幸せなのではないでしょうか。 |