遅くなって本当にごめんなさい。ひとりの重病人の所へお見舞いに行ったのです。その時、ちょっと有り難い気持ちになります。なぜなら、私も病気ですから。 健康人は、病人を励まそうと思っても、やっぱりうまくいかない。私も白血病もあるし、糖尿病もあるし、もうひとつの癌もあります。けれども、どうして病気になっちゃったか、考えたことはありません。 確信しているのは、運命でもないし、偶然でもないし、天罰でもない。 愛する姉妹のことを考えてても、ちょっと早すぎたんじゃないかなあと皆は思うでしょう。「どうして?」、今話したように偶然ではなかった。もちろん天罰でもなかった。聖書の答えは、不思議な答えです。特別に愛されたからです。 彼女だけではなく、残されたご家族も、親戚も、特別に愛されてるからです。 今、確かにぴんと来ないかもしれない。考えられないかもしれない。本当なのです。 病院からここまでの途中までに、車の販売屋さんの前を通ったのです。その車屋さんの名前は、「幸福」なんです。なかなか良い宣伝ですね。ここで車を買うと幸福になる。もちろん、絶対にそうでしゃない。世界中の車を買ったとしても、幸せになるとは言えません。 けど愚かな人間の多くは、ああ言うふうになれば、こう言うふうになれば、幸せになれると、思ってるのじゃないでしょうか。病人は、健康になれば幸せになれると思うけど、うそ。健康人も、皆幸せじゃないよ。 経済的に悩んでる人は、急に大金持ちになれば、幸せになれると思うでしょう。違う。大金持ちは悩んでいます。自分のつまらない財産がなくならないように。可哀そう。 結局、一時的な幸せとはたいしたもんじゃない。永遠なるものを持っていなければならない。 二種類の人間がいるんじゃないかなと思います。一種類は、死について考えたくない人々。結局死にたくない人々です。 聖書は彼らについて何と言ってるかと言いますと、一生涯死の恐怖につながれている奴隷と呼んでいるのです。一般に、死のことについて何か話そうとすると、それを嫌な顔して拒む人が多い。 もう一種類の人間、姉妹もそういう姉妹でした。彼女も死の恐怖から解放されたのです。死は終わりではない。だから安心して生き生きとした希望を持って、死に向かうことができる。 死んでもイエス様と共に生きるようになる。愛する姉妹は確信を持っていたから、やっぱり幸せでした。 パウロという男は、当時のいろいろ悩んでいる人々を励ますために次のように書いたのです。 テサロニケ人への手紙第II、2:16-17
「永遠の慰めとすばらしい望み」という言葉が出てきます。人間にとって必要なのは、これなのではないでしょうか。 確かに、どうして、なぜと考えないほうがいい。答えられる人間はいないから。 けどもイエス様はひとつの答えとして言われました。「あなたがたの天の父は知っておられる。あなたがたがわからなくても。」 それからイエス様は、ひとりの困惑した男に言ったのです。「私がしていることは、今はわからないが、後でわかるようになります。」 もう2,600年前に、次のような言葉が記されたのです。 エレミヤ書29:11
将来と希望を与えることこそが大切なのではないでしょうか。 もうひとつの言葉を別の預言者は書いたのです。 イザヤ書55:8-9
すべてを支配なされ、また背後で導いてくださるイエス様は完全です。だから、主の導きも完全な導きです。 確かに、私たちの思いと主の思いとは、ちょっと違うだけではなくて全く違う。けれども、イエス様がすべての働かせて益としてくださると約束してくださいました。 昔のネヘミヤのように告白したいものです。 ネヘミヤ記9:6
確かに、姉妹が召された時多くの人々にとってショックだったんじゃないかと思います。寂しいことだったし、悲しいことでした。けど、死の別れとは一時的なものにすぎません。必ず再会できる。この確信こそが慰めであり、喜ぶことができる源です。 イエス様は多くの名前を持っているのです。ひとつの名前は、望みの神です。望みの神が生きておられる限り、喜ぶことができます。 人間は、どういうふうに喜びと希望と平安に満たされることができるかと言いますと、姉妹はその答えに、「イエス様を信じればいいよ!」と言うに違いありません。 今日の記念会の目的とは何でしょうか?言うまでもなく、姉妹を励ますためではない。彼女は喜びでいっぱい。もし、戻ることができたとしても、彼女は「嫌!」と言うでしょう。天国は、あんまりに素晴らしいからです。 今日の記念会の目的とは、姉妹の生活の結末をようく見て、彼女の信仰に習いなさと聖書は言っているのです。 愛する姉妹の生活の、生まれてから死ぬまでの生活ではなくて、彼女の生活の結末をようく見て、彼女のように信頼しなさい。主に頼りなさいと。 姉妹の死ぬ前にとった態度を思い出して、その信仰に習いなさい。習うために、もちろん考えなくちゃならない。本当に考えてる人は、愛する姉妹のように、信ぜざるを得なくなります。 そして信じてる人は、目先のことだけではなくて、将来のことについても、すなわち自分の死についても考えるようになります。 よく言われます。備えあれば憂いなし。今度は、誰の番かわからないでしょう。歳の順じゃないよ。けども何があっても、死んでも必ずイエス様と一緒になり、愛する姉妹と一緒になると確信できれば本当に有り難いなのではないでしょうか。 姉妹はどうしてイエス様を信じるようになったのでしょうか。どうして生まれたのか、どうして生きなくちゃいけないのか、死んだらどこへ行くのか、そういう大切なことについて考えるようになったのです。 そして、結局悩むようになった。悩んでいない人はもちろんいない。けれども姉妹は、「私は偽物はいりません、本物が欲しい。」、そういう気持ちを持つようになりました。 求めた結果として見いだしたのです。すなわち、「イエス様こそが、私のわがままを、私の過ちを赦してくださった。」と信じるようになりました。 どうしてこういうふうになったかと言いますと、結局、彼女は祈るようになりました。イエス様、ああして下さい、こうして下さいじゃない。イエス様、私も確かに完全ではない。私も我儘なんですけど、ごめんなさい。そういう砕かれた気持ちになればいいのです。 ちょっと考えられない。けれども、姉妹はそれを体験的に知るようになったのです。 姉妹は、はっきりわかりました。すなわち大切なのは、人間の考えていること、人間の思っていること、人間の感じていることではない。十字架の上で、私たちの罪の代わりに死なれたイエス様の約束だけです。確かに姉妹も、イエス様のことをはっきりとわからなかった。誰もはっきりわかってないよ。 人間とイエス様の違いとは、何でしょうかね。人間は、自分で考えて自分で動くのです。イエス様はそういうお方ではなかったのです。 イエス様は自分で考えるよりも、動くよりも、まず祈りました。 「おとうさま。どうしたらいいの。教えて。私の思いではなく、御心だけがなるように。」、あらゆる人間は、そういう気持ちを知らない。 私たちは、いつ助けを求めるかといいますと、壁にぶつかってからです。 愛する姉妹は祈った結果として受け入れられた。そう確信することができたのです。結局、姉妹は、本当に幸せな方でした。 本当の幸せの結果とは、なんでしょうね。悩みながら喜ぶことができることです。すべての不安、心配から解放されること。それから、希望を持って前向き生活ができること。安心して、死に向かうことができること。愛する姉妹は、それができたのです。 すごいと思う人がいるかもしれないけど、本当はね、彼女はね、たいしたもんではなかったよ。彼女は、なんでもできるお方に頼ったから、だから楽になった。 残していくご主人のこと、息子のこと考えるときっと泣きたい気持ちになったよ。もちろん、いろいろ考えると...でも、もういいよ、おまかせ致しますという態度がとることができたから、やっぱり有り難いなのではないでしょうか。 確かに姉妹は、長い間は医者を必要としなかった。健康だったから。長い間、姉妹は救い主は必要なかった。頑張ればなんとなかなると思い込んでしまったから。でもある時から、やっぱり一人で無理とわかったから、助けを求めました。 マタイの福音書7:7
求めよ。そうすれば与えられる。この約束を、姉妹は体験的に知るようになったのです。 聖書全体の言わんとしていることは簡単です。へりくだれば大丈夫。頭を下げれば主は受け入れてくださり、赦してくださり、永久的に受け入れてくださると聖書は言っています。 確かに、宗教に頼ると間違いなく騙され、後悔するようになります。 けれども、十字架の上で私たちの永遠の救いのために死なれたイエス様、救いの代価を払われたイエス様を信じると後悔しません。愛する姉妹の信じるようになったイエス・キリストとは宗教と関係ないお方でした。 姉妹は言えたのです。私は本物を見い出したのです。このイエス様から離れられない。 愛する姉妹は、心の拠り所、心の平安、まことの喜び、はっきりとした目的、そして生き生きとした希望を持つようになったのです。それから去年、ゴールインする恵みに預かるようになったのです。 死んだよりも、ゴールインしたと考えるべきなのではないでしょうか。そう考えると、うらやましい。私たちは、まだ生きなくちゃいけない。まだ、苦労しなくちゃいけない。まだ、悩まなくちゃいけない。 姉妹は、もう孤独でもないし、悲しくないし、喜んで毎日「イエス様、ありがとう。信ずることができた恵みありがとう。」、そう言うようになっています。 ピリピ人への手紙に次のような箇所があります。 パウロという男は、イエス・キリストを信じるようになったから、いろいろなことで悩むようになった。何回も、おそらくあわせて7年間は、刑務所の中で暮らしたのです。妥協せずにイエス様に従ったから。 ローマの刑務所の中で彼は書いたのです。 ピリピ人への手紙1:21-23
愛する姉妹は、「はるかにまさったもの」を自分のものにすることができたから、本当にうらやましい。 姉妹は「、イエス様は私のものです。主は、私の牧者なるお方であり、乏しいことはない。死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが、私と共にいるからです。」 これこそが、3,000年前のダビデの証しだけではなくて、愛する姉妹の告白でもあります。 イエス様は私のものです。私そのものは、弱い、何も知らない何もできない羊にすぎません。だから、私は羊飼いなるイエス様が必要です。 私は不真実であっても、イエス様は変わらない。イエス様のご愛は永遠なるものです。イエス様に愛されている。これこそが、愛する姉妹の喜びの源であったのです。 姉妹も、次のように言えたのです。「主イエスは、私の罪のために死に渡され、私が義と認められるために甦られたのです。信仰によって義と認められた私は、私の主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」 この世で皆さんご存知でしょう。数えられない程の宗教があります。宗教は人間が作ったものです。だからたいしたもんじゃない。 天と地を創造されたお方は、人間の作ったもの、あらゆる宗教は受け入れられません。なぜなら宗教は人間に要求します。勉強しなさい、完璧になりなさい、金を出しなさい。これが宗教の特徴です。 イエス様の呼びかけとは全く違います。姉妹の大好きな呼びかけとは、イザヤ書の43章でした。 イザヤ書43:4
姉妹は、心から確信を持って言えたのです。「私は、イエス様に愛されている。イエス様は、私のことを考えているし、心配してくださる。」、これこそが、本当の幸せなのではないでしょうか。 自分のわがままをイエス様に告白する者には、誰に対しても、イエス様は、「あなたの罪は赦されている。忘れられている。」と言ってくださいます。 聖書による罪とは、主なる神と人間の間にある隔ての壁です。この壁が取り除かれなければ、交わりはあり得ない。姉妹は、この壁はイエス・キリストの流された血によって取り除かれたと確信するようになりました。まことの救いとは罪の赦しです。 詩篇32:1
ダビデだけではなく、愛する姉妹も心から言えたのです。 エペソ人への手紙1:7
自分の努力した結果ではないのです。頑張った報いではない。恵みそのものです。 愛する姉妹は、本当に喜ぶことができた。どうしてであるかと言いますと、「私はひとりぼっちではない。あなたが、私と共におられるから。」と、死んでも、イエス様と共に生きるようになると確信できることは、まことの幸福なのではないでしょうか。 かつてのダビデは言いました。 詩篇16:11
詩篇73:28
生きる望みを持たない人は、死ぬと旅立つとよく言います。 生きる望みを持つ者は愛する姉妹のように、ゴールインしたと言います。全く違う。 愛する姉妹は、目的地に着いた。主イエス様と一緒になったのです。 将来について、聖書はいったい何と言ってるのでしょうか。聖書は、今の世界はたいへんな速さでおかしくなる、悪くなると言っています。 人々は、「たいへんだ、考えなくちゃいけない、ブレーキをかけましょう。」と言うのです。でも、ブレーキがないのです。今の世界は、本当にもう希望のない世界です。 将来、私たちを待ち望んでいるのはいったい何なのでしょうか。イエス・キリストの再臨です。イエス・キリストはまた来られます。そして、イエス様が再臨なさると、先に召された愛する姉妹の体が甦ります。なぜならば、イエス様ご自身が復活なされたからです。 イエス様はご自身の死によって、死の力を持つものを、悪魔を滅ぼしたからです。 そしてその時、この地上で生きている私たちは、天に引き上げられるようになります。死を見ないで、そのままで天に引き上げられるようになります。 天国の状態について、聖書は言っています。 ヨハネの黙示録21:4
夢の世界でしょう。考えられない。けど愛する姉妹は、この世界を知るようになったからうらやましい。 これを考えると初代教会の思ったことがわかる。 ローマ人への手紙8:18
今、やっぱり寂しくなった。やっぱり面白くない。けれども今、いろいろなことわからなくても、わかる時が必ず来ます。 死の前にして生き生きとした希望を持つこととは当たり前ではない。 この希望と確信の根拠は、「私は受け入れられている。永久的に、受け入れられている。イエス様は、私のために死なれた。罪滅ぼしのために、代わりに死なれた。このイエス様は、私を受け入れた。それだけではなく、私を最善の時に召してくださる。」と、姉妹は確信したのであります。 天国でイエス様の近くで、大いに喜んでいる愛する姉妹の切なる願いは何でしょうかね。 イエス様の救う力を知ってもらいたい。肉親の方々、知り合いの方々、親戚の方々、ひとりひとりは、みな例外なくイエス様信じて、私のもとに来てもらいたい。そういう気持ちでしょう。 最後に、もう一箇所読んで終わりましょう。ペテロの書いた言葉です。聖書の中では複数形になっていますが、愛する姉妹の証しとして、単数形で読みます。「私たち」ではなく、 私 ペテロの手紙第I、1:18-19
これこそが主なる神の恵みの現れです。主なる神だけが、できる御業です。 イエス様だけが誉め称えられるべきお方なのではないでしょうか。 |