記念会7、喜び、平安、望み


ベック兄

(小嶋橘平兄記念会、2009/02/14)

今日、このようにして愛する兄弟の記念会で、一緒に聖書について少しだけ考えることができるのは、本当に有り難い。
聖書がなければ、私は来なかったよ。逃げてしまったに違いない。なぜなら、人間を励ますことが出来るのは、聖書しかない。
聖書の言っていることとは本当にすごい。イエス様を信じる者は、死んでも生きるのです。

私も、兄弟には何回も何回も会いましたし、確かに悩んでいたのです。どうしてか、なぜかと、考えられない程考えたに違いない。
答える人間は結局いなかったのです。けれども彼は、苦しくてもイエス様は私の気持ちをわかる。そう思ったのです。
まず、聖書から一箇所読みます。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

私たちは子供を三人亡くしました。一人の人はたいへんだと言うのですけど、ちょっと違います。かえって、うらやましいと思っている。先に、ゴールインしたでしょう。
もしオリンピックの時、先にゴールインすると本人はうれしい。家族ももう喜んでいる。同級生も誇っている。「あの人、知ってる人だよ。」と。
けれども、オリンピックの金メダルだってたいしたものじゃないよ。先に神の栄光に預かることとは、もうすごい。

確かに兄弟は、神の栄光の素晴らしさを想像することができなかった。誰もできません。
けれども彼は、今日の最後の挨拶として、弟の代わりにいうことができれば、必ず言うと思う。
「皆さん、イエス様を信じたのは本当に良かった。いや、天国はもう言葉がありません。残されているあなたたちにも、本当に来てもらいたい。」そういう気持ちでいっぱいだと思うのです。

ある人々は、どうして、なぜと考えます。意味のないことです。愚かな人間だけが、どうして、なぜと考えます。誰も、答えられない。はじめての子供の葬儀の時、ぼくは、自分で司式をしなければならなかったのです。ちょっと面白くないでしょう。
日本で初めて行った葬儀は、自分の子供のためでした。後で、ドイツで初めて行わなければならなかった葬儀も、また自分の子供のためだったのです。
はじめての子供の葬儀が終ってから、イギリス人だったと思いますが、家まで来て、今読んだ言葉を読んでもらいました。ローマ人への手紙15章13節です。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

その時から、この言葉を好きになっただけじゃなくて、結局あらゆる人間にとって必要なことが全部書かれているのです。3つのことが書かれているのです。
喜び、平安、望み。
まことの喜び、本当の平安、生きる望みを持つことができれば、それこそ幸せじゃないでしょうか。

結局、人間の共通点があります。みんな悩んでいます。悩んでいない人はいない。信仰があってもなくても関係ない。人間は、悩む者です。
けれどもある人々は、悩んで、「どうして?」「なぜ?」と考えて、がっかりして失望してしまいます。けれども他の人々もいます。悩みながら喜んでいる。どうして、喜んでいるかと言いますと、先のことがわかっているから。
「私たちは、いつまでも主と共にいる。」、この確信を持つ人々こそが幸せなのではないでしょうか。

確信を持つ人々とは、悩みながら喜ぶことができるのです。そして大切なのは、本当の平安を持つことです。意味は、不安や心配から解放されることです。
それから望みです。生きる希望を持つことが出来なければ、前向き生活を送ることができません。
言うまでもなく、イエス様だけが望みの源です。そして望みの神は、望み無く悩んでいる人々、疲れてしまっている人々の神です。どんなことがあっても、イエス様は永遠に変わらない望みの神です。

今、司会者は変なことを言ったでしょう。「今日の集いは、無宗教です。」、でも聖書、聖書と言ってるじゃないか。
結局、多くの人々はキリストという名前を聞くと、キリストについて何も考えようとしない。イエス様はどういうお方であるか、イエス様は何をなさったのか、全く考えないで、「あ、キリスト教か、うちは違う。」、でもう終わり。はー、困る。
イエス・キリストは、本物のイエス・キリストは、宗教家ではなかったのです。無宗教です。

証拠なることは、イエス様は無神論者に迫害されたり、誤解されたのではない。宗教家によって、聖書学者によって迫害され、憎まれ、殺されたのです。
ですから時々、教会へ行く人々は、変なことを言います。「仏教はだめ、キリスト教は良い。」でも、聖書の言っていることは違う。
仏教も、キリスト教もたいしたもんじゃない。人間の作ったものだからです。生きるまことの神は、人間の作ったものを絶対に受け入れられません。

今の世界は、皆、知っているでしょう。めっちゃくちゃ。良くなる可能性はまずない。
大体の人は、経済のこと云々と考えていますが違うのです。宗教のせいです。宗教が存在している限り平和になりません。政治家達が、何をやっても無駄です。
イエス・キリストは平和の君と呼ばれています。けれども現代人の大部分は、平和の君なしに平和を作ろうと思っているから、うまくいくはずがない。

多くの人々は、やっぱり環境のせいですと言います。環境を良くすれば問題ない。違う。
今の人間、良い環境に置かれたとしても、すぐに不完全になります。人間はわがままだからです。そして、わがまま病を癒す薬はないんです。
イエス・キリストだけが、望み、喜び、平安を与えることがおできになるお方です。

確かに、兄弟のことを考えれば、主に親、兄弟、姉妹も、おばあちゃまも、やっぱり悲しくなったでしょう。
はじめて生まれた孫と、おばあちゃんは今朝言われたのです。私たちは、どうしてか、なぜかわかりません。聖書の中で、あなたがたの天の父は知っておられるとあります。人間は、5分先のことでさえも、わからないでしょう。惨めだよ。
あなたがたの天の父は知っておられる。だからいいじゃないの。ある時、イエス様の一人の弟子は変なことを思ったのです。その時、イエス様は答えとして、何と言ったかと言いますと、次の通りです。

ヨハネの福音書13:7
7イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

どうして何でもえきるお方が、愛する兄弟の死を許したのでしょうか。今はわからない。後でわかると約束されています。
もう、2,600年前にエレミヤは書いたのです。主の口として。

エレミヤ書29:11
11わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

結局主は、平安、将来と希望を与えるお方です。私たちはわからない。当然です。
イザヤは、次のように書きました。

イザヤ書55:8-9
8「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
9天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

結局、人間の考えていることと主の思っておられることとは全く違う。ですからどうして、なぜと思っても、あまり意味のないことです。
どうしても不幸になりたかったら、どうして、なぜと考えなさいとしか言えない。今わからないけど、いつかわかる。
ですからこの態度をとると、すべてが益になるんですって。
今、損したと思うかもしれない。違う。あり得ない。ネヘミヤ記に次のように書いてあります。この態度をとる者は、本当に幸せです。

ネヘミヤ記9:6
6「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。

結局偶然は存在しません。主が、絶対的にすべてを支配しておられます。私たちは多くのことがわからない。本当はね、すべてわからない。けれども、主は全部知っている。
私たちは、結局理解できないから何も説明することが出来ませんけど、イエス様は完全です。そして、イエス様のご計画も導きも、もちろん完全です。
イエス様は、人間が苦しみ悩むことを全然望んでいないのです。最も良きものを与えたいと望んでおられるからです。万物の造り主なる主は、すべての背後にはっきりとした目的をもって導いて下さるお方です。

我々人間の視野はあまりにも狭いので、結局、どうしてなぜと考えてもわかりません。
主は、決して過ちを犯しません。私たちには理解できないことがたくさんあるとしても、主は人間一人一人にとって、最も益となることを考えておられます。
聖書のひとつの大切な真理は、「死は終わりではない。」という事実です。革命的な事実です。希望を与える源です。そして、まことの喜びの秘訣でもあります。

聖書はこんなに厚いものですから、多くの人は読もうとしない。なぜならば、勉強しなければならない、わからなければならないと思ってるからです。
けれどもはっきりと覚えるべきです。わかるもんじゃない。信ずれば力になります。
聖書は、決して勉強しなくちゃいけない学校の教科書のようなものではありません。どうして私たちは聖書を必要かと言うと、元気になるためです。元気の源です。

聖書がどうして与えられているかと言いますと、悩んでいる人間が生きる希望を持つためです。結局人間の心の奥底に、生ける希望を持つためです。
結局心の奥底を知っているお方は、人間の絶対に誤解しないで、真心から愛しておられるお方とは、万物の支配者であり、万物の支配者そのものです。
どうしてかなぜかわからないけど、いいじゃないの。わからなくても。

イエス様に与えられている名前はいっぱいあります。まことの神に与えられている名前は、聖書の中で300以上です。私たちは、ひとつの名前しか持っていない。ある人々は、別の名前も適当に使っているんですけど、まことの神は名前が300以上です。
ひとつの名前は、「慰めの神。」また、「望みの神。」あるいは、「インマヌエル」です。インマヌエルとは、「神が私と共に居る」と言う意味です。
そしてイエス様は、天にお帰りになる前に言ったのです。「わたしは、あなたがたを孤児とはしない。」と約束してくださいました。

確かに兄弟はいろいろなことで悩みました。悩んでいる人はいっぱい居ます。
何年前に、私はある大学の教授から一枚の手紙をもらいました。ちょっと部分的にお読み致します。
彼は非常にドイツ語うまくて、ドイツ語を教えた先生だったから手紙もドイツ語で書かれていたのです。

「私は、あなたと出会って信頼することができた。しかし、私の心の奥底を明らかにすることができませんでした。泣きたくなかったからです。私の態度は愚かなものであるかも知れませんし、おそらく主なる神の前に、単なる傲慢なのではないかと思います。
実は私の心は時々真っ暗闇になり、結果は罪悪感であり、死にたいとしか考えられないときがよくある。
自殺しようとよく考えます。ですからこの間も、私そのものは、涙にいっぱいにされた不幸そのものでした。

私は、どうして突然悩むようになったり、苦しみようになったりするのか、全くわかりません。
しかし私はイエス様を信じ、また私のために心配して、私を愛する人々がたくさん居ます。私は、どうして急に暗い気持ちになるのか、さっぱりわかりません。
私は、わがままなのでしょうか?私の信仰は、弱いのでしょうか?

すべては、いっぺんに暗くなり発作のように来るものです。私は、祝福されていると知りながら突然、暗い気持ちになります。
私は、今日はじめて自分の気持ちを言葉で現したのです・・・」

主なる神が完全なお方であり、主のご計画も当然に完全です。主なる神は、我々の苦しみを望んでおられるのではない。我々に最も良きものを与えたいと心から望んでおられます。
イエス様は本当に、ちょっと理解しにくいことをいっぱい言われました。ひとつは、「悲しむ者は、幸いです。」
これを悩んでいる人が聞くと、いったいどういうものか。ぴんと来ません。

人間の考えている不幸とは、本当は、幸せになるためのまことの救いを得るために必要なものです。
人間はやっぱり、神様にああしてくれ、こうしてくれと言います。一時的に問題を解決してもらいたいのは人間の願いです。けれども、主なる神は全く違う。主はいろいろな問題、悩み、苦しみ、病気を与えて下さいます。人間を愛しているからです。
結局人間は、本当の意味で悩まなければ助けを求めないよ。必要ないからです。助けを求めなければ、助けぬ主を知ることは出来ません。そうすれば、永遠の滅びです。だから悩むこととは、良いものです。

我々は今はわからない。辛いよ。でもわかる時が必ず来ます。ウソを知らないイエス様は約束して下さいました。私の所に来る者を私は決して捨てません。意味は、自分自身を低くする者、イエス様の前に頭を下げる者、憐れみを乞う者は、受け入れられ救われます。
イエス様を信じる信仰とは、もちろんなんでしょうか。決してキリスト教に入ることじゃない。聖書を研究して、わかろうと努力することではない。あるいは、より良い人間になろうと思うことではない。
イエス様を信じる信仰とは、英雄的な行いではありません。自分の無力さ、自分の惨めさ、自分の罪深さを認めることです。聖書は、はっきり何回も何回も言っているのです。すなわち、自分を低くする者は受け入れられます。

人間にとって一番大切な言葉は、「ごめんなさい。」です。それだけなんです。
もちろんこのような素晴らしい花に向かって、ごめんなさいと言っても意味のないことです。人間のわがままの代わりに犠牲になられた十字架の上で死なれたイエス様に頼まなくちゃならない。
「イエス様、ごめんなさい。」、心からこの態度をとる者は、生きる希望を持つようになります。ですから本当の救いとは、人間の努力、人間の研究の結果ではない、主なる神の恵みの現れに過ぎない。

今日の集いは、なんのためやっているのですかね?兄弟のためじゃない。彼はもういないよ。別世界です。彼は、戻ることが出来ても、嫌だと言うと思うよ。もう十分です。
イエス様のところがあんまり素晴らしいから。そしたら、今日の集いの意味は、結局、残されている私たちのためです。
結局人間は、自分の死について考えるべきじゃないの?

普通の人間は死について考えたくない。愚かだからです。私も5年前から病気になっちゃたんです。
診察の部屋へ行くと、番号を見るとわかるよ。1、2、3、5、6、7、8、10となるのです。4号室もない。9号室もない。
結局人間は、病院へ行っても、自分の死について考えたくない。どうせいつか死ぬんだから、どうして考えたくないの?結局先のことがわからないからです。先のことがわかれば、別にいつ死んでも。

パウロは一度書いたのです。「キリストと共にいることの方が、はるかに素晴らしい。」、もし自分で決めることができたら、もう少し生きたらどうですか、あるいは死ぬ方がいいか。
パウロは、この世を去ってキリストと共になることははるかに素晴らしい。
うちの娘の墓の隣に、ふたつの墓があるのです。ひとつの墓はたぶん金持ちの墓らしい。立派なものです。夫婦の墓らしい。

何を書いているかと言いますと、外人ですから英語で書いてあるのです。いまもそうですけど、「We loved Karuizawa.」、私たちは軽井沢が好きだった。
残された人に言えたのは、それしかない。軽井沢は良かったけど、もうおしまい。ほかの隣の墓は、英語で、「Be with Christ, which is far better.」、「キリストと共になることは、はるかに勝っている。」
ですから兄弟は、はるかに勝ったものを自分のものにすることができた。

結局イエス様は、全てを知っておられ、背後で導いて下さるお方です。二、三日前に吉祥寺でまた葬儀がありました。
彼も娘を亡くしたのです。あの娘は白血病になって、病気と闘って亡くなったのです。そして今度、急に彼も倒れたのです。奥様はそれを電話で伝えた時、ひとつの文章だけ言ったのです。「私は、主を恐れています。」
結局、今の世界はどうして病気の世界になったでしょうか。悩む世界になったのでしょうか。生きるまことの神を恐れる恐れがない。そうすると祝福がない。神を恐れることこそが最も大切です。

神とは、もちろん天と地を無から材料無しにお造りになったお方です。この方を恐れないことは、不幸への早道です。
今の世界で求められている人間は、どういう人間でしょうかね。やっぱり頭の良い人々です。きれいな人々かもしれない。優秀な人々、魅力的な人々、金を持つ人々、権力を持つ人々は、大切にされています。
まことの神が大切にする人々とは、そういう者ではない。心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人々です。

確かに人間は騙されやすい。まことの神は騙され得ない。砕かれている心を持たない人は、祝福され得ません。
神のみことばである聖書におののかない人も、決して祝福され得ない。結局、天と地を創造された方を恐れない者は、何があっても祝福され得ない。そうすると、将来は真っ暗闇なのではないでしょうか。
イエス様は墓場で素晴らしい言葉を言ったことがあります。

ヨハネの福音書11:25
25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

死は終わりじゃない。創造主の目から見ると、今の人類の歴史は非常に浅いものです。神の目から見ると5分くらいかな。永遠の世界から見ると全然違う。この大宇宙の支配者なる神は、ちっぽけな人間を考えている。
この主は、兄弟のことを1秒も忘れたことがない。人間は大いに愛されている。
ある時、ひとりの人は家まで来て、座って、「こんにちわ。」と言わないよ、はじめての言葉は、「私は、ゴミです。」

言わなかったけど、言いたかったのは、「おめでとう。」、「私はだめ。憐れんでもらわなければ、もうおしまい。」、そこまで行けば、溢れるばかりの希望が与えられます。
自分で頑張ればと思っても疲れます。聖書は、頑張って、頑張ってと言ってないよ。聖書は、頑張ってとは言っていない。降参した方が早いと、言っているのです。
結局、生きるまことの神は、人間のことが大好きです。どうしてかわかりません。愛される理由がないのです。天国に入る資格もないのです。どうしてか、なぜかわからないけど、イエス様はすべての人間のために死なれました。

イエス・キリストは罰せられたから、人間を罰する神は本当は存在していない。けれども、すべての宗教の神々とは恐ろしい。良い子にならないとダメ。でも、良い子になるもんじゃないでしょう。人間は。生まれて死ぬまでわがままなんだよ。
聖書は、良い子になれなんて言っていないよ。ありのままでいいよ、おいで、私の所に来なさい。
これは、生きるまことの神の呼びかけです。

初代教会の人々とは、正しく判断しました。すなわち今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、とるに足らないものです。
聖書の中で、ちょっと残念でえすけど、天国の素晴らしさについて、そんなにたくさん書いていない。地獄の恐ろしさについて、比較的にたくさん書いている。
地獄でみんな全くひとりぼっちになる。話し相手がない。喜びもない。希望もない。

聖書は、天国について何と言っているかと言いますと、神、ご自身が、彼らと共におられて、彼らの涙をすっかりぬぐい去ってくださる。もはや、死もなく悲しみ叫び苦しみもない。
ぴんと来ない。考えられない。夢の世界だよ。死もない、悲しみもない、叫びもない。
愛する兄弟は、この世界を知るようになった。うらやましい。本当に。私たちは、皆残された。追い越されちゃった。天国の素晴らしさはもう考えられない、素晴らしい。

イエス様とは、いったいどういうお方なのでしょうか。イエス様は永遠の昔から、人間がいつどこで生まれ、どういう性質を持つようになるのか、どういう過ちを犯すのか、全部わかったんです。そして自分勝手に決めたのです。
完全なものとして作られた人間、途中で悪魔に誘惑され堕落する人間の代わりに、私は死にたい。ちょっと考えられない。だから、イエス様はこの世に来てくださったのです。
キリスト教作るためじゃない。2,000年前に、イエス様は3年半、公に教えることが出来たでしょう。3年半だよ。それで殺されてしまったのです。

このイエス様は今日また、この世に来るようになれば、間違いなく一月以内に殺されます。
なぜならばイエス様は、本当のことを言われたからです。私だけが真理そのものです。私だけが永遠の命を与えるものです。私だけが天国の道そのものです。私を通してでなければ誰も天に入ることはできない。
現代人はそれを聞きたくない。嫌です。どうしてであるかと言いますと、頭を下げたくないからです。

へりくだることだけが要求されています。そして兄弟も、イエス様のことを聞いたとき、もちろんいろいろなことわからなかったでしょうけど、やっぱり素直に祈りました。「ごめんなさい。」それで、十分です。
だから救われることとは、考えられない程簡単です。
どうしてであるかと言いますと、イエス様は「私はよみがえりです、命です、私を信じる者は死んでも生きる。」

愛する兄弟の信じたイエス様とは、どういう方でしょうか。宗教家ではなかった。
あらゆる災いを抑する救い主であり、いかなる罪をもお赦しになるお方であり、またあらゆる束縛から解き放ってくださるお方です。
ご遺族の方々、親戚、知り合いの方々。結局、後に残された方々に慰めの言葉を読んで終りたいと思います。

イザヤ書40:31
31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

ピリピ人への手紙4:5-7
5主は近いのです。
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。




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