来るべき方が来られる


ベック兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:ペテロの手紙第II、3章9節
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

もうしばらくすれば、来るべき方がこられる。遅くなることはないと、へブル人への手紙の著者は書いたのです。イエス様は、「あたまを上に上げなさい。贖いは近づいたのです。」と。
もうちょっとでイエス様はおいでになります。そして今日かも知れない。なぜならば、イエス様は「もう直ぐ」と言われたからです。
どういう状況に置かれていても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って将来に向かうことができるのです。どうしてですかと言いますと、みことばが与えられているからです。

イエス様は聖書について次のように言われました。当時は旧約聖書しかなかったんですけど、「あなたのみことばは真理です。」
イエス様にとって、創世記からマラキ書まで全部真理でした。この天地は滅び去ります。しかしわたしの言葉は決して滅びることはないとイエス様は言われたのです。
結局、将来について私たちに話するほかの本は、全部単なる夢にしかすぎません。聖書だけが、未来についてはっきりとしたことを宣べているのです。
なぜならば、聖書は主ご自身そのものであるからです。

聖書を見ますと、歴史についてなんといっているかと言いますと、主なる神はこの地上で三つの舞台、すなわち
第一番目、異邦人、いわゆる国々。
第二番目、イスラエルの民。
そして第三番目、教会、主イエス様のからだなる教会でお働きになるとはっきり書いておられまます。

まず主なる神は、異邦人の世界において、アダムからノアをすぎ、バベルの塔の審判までを啓示されました。創世記1章から11章までのことです。
当時の世界は、ペテロの手紙第IIによると、洪水によってだめになったのです。この洪水について、聖書の中で詳しいことを言っているのですけど、いろいろな国々行くと、洪水についての伝説ですかね、何処でもあるんです。全部で213ほどの伝説があるんです。ちょっと不思議なんです。

そして共通してる点があります。第一番目前の世界は滅ぼされた。
どうしてであるかと言いますと人間の堕落です。洪水とは偶然に起こったものではなかった。洪水は神のさばきだった。いろいろな国々の神々は違ってますけど、共通してる点はそれだったのです。神のさばきとして当時の世界はだめになった。
第二番目、避難する船があった。第三番目、箱船に入った8人だけが救われた。
213の伝説の中でやっぱり8人しか救われなかったとあります。当時の世界は人間のわがままのために滅び、今の世界はいつか滅ぼされる。ペテロの手紙第IIによると、水ではなく火でま、原子爆弾であるかもしれない、火で滅ぼされるようになる。どうしてであるかというと結局人間の罪のため。人間は聞く耳を持っていないからです。

そして二番目。主はご自分の霊によって、もはや罰しようとしなかった国々は、自分自身の道を行くことを1度お許しになりました。
そして聞く耳を持っていない人々に話しても話にならない。だからひとりの聞く耳を持つ男が選ばれるようになったのです。まあ創世記12章からです。アブラハム。
アブラハムは呼ばれるようになり、そしてアブラハムとアブラハムの子孫に、主はご自身を啓示してくださったのです。このアブラハムの子孫とはいうまでもなくイスラエルです。

全旧約聖書は、このイスラエルの民の啓示について語っています。けどイスラエルの民は、救い主であるイエス様を退けました。そのとき主は、イスラエルの民を退け、イスラエルの民を大切なものとされなくなったのです。

第三番目。主は五旬節の日に、ご自分の啓示の場所としてイエス様のからだなる教会をお建てになったのです。
今日、教会は神の働きのもっとも大切な中心点となってます。この教会とは、すべての教会にいる、教派の中にいる、団体の中にいる本当の意味で新しく生まれ変わった信者たちのことを意味しているのです。
ある人々は、「教会だめ。集会はいい」と言います。これやめなければみんなつまずくんです。「教会もだめ。集会もだめ」
栄光ある教会は、将来主ご自身がつくってくださるのです。将来、主ご自身がからだなる教会、およびイスラエルの民、それから異邦人にお会いになります。すなわちイエス様は、過去を支配しておられるお方であり、また現在のもっとも大切なお方であられ、そして未来においても起こるすべてにおいての中心におられるお方でもあられます。

へブル人への手紙の中に、「主イエス様は昨日も、今日も、いつまでも変わらないお方です。」
イエス様は、からだなる教会のかしらとして、御自身の教会にお会いになります。花婿として花嫁にお会いになる。その日は、教会のかしらのイエス様にとって何を意味しているなのでありましょうか。
たいてい、私たちはこの日は教会にとって、我々にとって何を意味してるのかと考えます。けどこの日は、第一にイエス様の日、すなわち教会のかしらの日でならなければならないなのではないでしょうか。
主イエス様は、その日に教会のかしらとしてあきらかになります。エペソ人への手紙1章を見ると次のように書かれています。

エペソ人への手紙1:22-23
22神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

私たちは、今それを聖書に書いてあるから信じますけど、イエス様はその日に教会のかしらとして目に見えるように現れてくださるのです。
それはイエス様、すなわちかしらにとって偉大な日です。イエス様が御自分のからだと結ばれるのです。すなわち、かしらが肢体とひとつとなり、一つの全体をかたち造る日であります。
肢体がかしらを慕うと同じように、かしらは肢体を慕ってると言えます。この日は、イエス様は教会のかしらとしての目に見える知恵を与えるのです。

主イエス様に出会うこの日は、「子羊の婚姻」、すなわちキリストと教会の結びつきに導き入れるのです。それは「子羊の婚姻」と呼ばれていますけど、私たちはまず第一に「花嫁」、すなわち教会を考えます。
けどそれは、あらゆる死の苦しみの報いを受けた、子羊の偉大な日でならなければならないのでしょうか。子羊はほふられ子羊の婚姻の日を祝うのです。

イエス様は捕まえられる前に、弟子たちに次のように言われたのです。
「わたしは苦しみを受ける前にあなたたちといっしょにこのすぎ越しの食事をすることをどんなに望んでいたか。」
けどイエス様はそのあとで、わたしは十字架につけられ、弟子たちはみな臆病者になり逃げてしまう。けども、それにしてもイエス様はあなたたちとともになることをどんなに望んでいることか。それと比べれば、将来の子羊の婚姻についていかに望むのか、もう言葉で言い表せないでしょう。

花嫁だけではなく、花婿も婚姻の日を切に求めています。すなわちすべての満たされること、および最終的な結合を求めているのです。
呼び声があるまで、花婿が来るまで長い長い待つ期間があります。二千年近くの期間がある。けど花婿がまもなく来ます。花婿は花嫁に向って、イエス様は教会に向ってきて、からだなる教会と雲の中でお会いになるために、もう一度天を離れるということを、信ずるものにたいする愛がイエス様をそうさせるのです。
主イエス様といっしょに天国にはいるということはなんという栄光でありましょうか。
イエス様が、父なる神に自分の花嫁を紹介するのです。イエス様のそばに花嫁がいるということは、なんという考えられない喜びでありましょうか。

福音書の中で、罪人は一人でも悔い改めるならば天国では大きな喜びがあると書かれてあります。ですから、一人子の花嫁が天国に入ったならば、何という大きな喜びが天国の広間に響き渡るのでしょうか。
イエス様は、喜びと求めをもってこの日を待ちわびておられます。花嫁が用意するまで、イエス様はなんと長い間待たねばならないことでしょう。けどこの日は、悪魔に対するイエス様の力強い勝利の日でもあります。
イエス様は、悪魔の非常に強い反対にもかかわらず、あらゆる国々の救われた人々を集め、御自分の花嫁にされることに成功します。イエス様は、悪魔との恐るべき戦いによってそれを成し遂げます。悪魔はイエス様に対する全部の憎しみを、イエス様のからだなる教会に向け、教会の中にイエス様を追いかけられるのですけど、イエス様は「勝利者」です。
再臨の日がイエス様の悪魔の働きを滅ぼし、からだなる教会を守る力を持っていたということを証明されます。悪魔が教会を完全に滅ぼそうとする時、イエス様は教会を引き上げられるのです。
教会が悪魔の手にとどかないとき、天の軍勢は力強く「イエス様が勝利者だ」ということを再臨の日に告げ知らせれるのです。

再臨は、救われた人々にとって一体何を意味してるのでしょうか。花婿として花嫁にお会いになる。それから7年あとになりますけど、イエス様は王としてイスラエルの民にお会いになります。
その時、イスラエルの民全体は悔い改めて、民として全体が救われます。ほかの国々についてそういう預言が一切ない。本当の意味での将来性のある国はイスラエルしかない。

第三番目。イエス様は裁判官として異邦人にお会いになります。これこそがイエス様の将来であります。今日は一つの点にだけ考えてみたいんです、すなわちイエス様のからだなる教会にイエス様がお会いになるという事実です。我々にとっていっちばん大切です。
多くの人々は、やっぱりイスラエル、イスラエルと言います。もちろんイスラエルのために祈るべきです。けどイスラエルの民は、今日まで自分の力、自分の知恵に頼って、主に頼ろうとしない。
だから、もっと大切なのは我々のまだ救われていない家族の人々、親戚友人たち、同級生たちです。

イエス様はおいでになります。イエス様の携挙の日、空中再臨の日は特別な意味において、イエス様のからだなる教会の日でもあります。
主なる神の、もっともすっばらしいお考え、また主のすっばらしい傑作は、イエス様のからだなる教会なのではないでしょうか。主がわたしたちにお造りになってくださったものを見て驚嘆し、主よあなたの働きはなんとすばらしいものでしょうかと、拝みながら感謝すべきなのではないでしょうか。
すなわち私たちは創造、おもに人間は、主なる神の力の大きな啓示なのではないでしょうか。

次に、イスラエルの民、すなわち神の計画の救いのために特別の使命を持った神に仕える民は、主の知恵と偉大さの啓示そのものです。
イスラエルの民は、主はいかに力強いかをすべての国々が認めるということのために、定められていたのでありました。けども、イエス様のからだなる教会は、より立派でより力強いのです。
これこそ本当に主の傑作であり、パウロはイエス様の教会における主の賢さと偉大さを、人間の言葉で表現することができなかったんです。
イエス様のからだなる教会は、悪魔のあらゆる攻撃に対する主の勝利を現してます。神の働きは、みな悪魔の分捕り品となり、あらゆる創造はこの破局に廃墟となりました。

イスラエルの民は自分の神を捨て契約を破りました。けど教会のからだは、よみの力にも打ち勝つと約束されています。教会は犯されることがありません。教会は打ち負かされることはありえない。
あらゆる悪魔の攻撃に打ち勝つということは、主にからだなる教会には特別のいのちと力が宿っているからです。
その秘密の鍵なるものは五旬節です。

五旬節に聖霊がくだり、120人の信者たちに宿ったとき、この人たちは一つの人格、すなわち聖霊がすべての者のうちに宿ったので新しく結ばれたのです。すなわち信じた者は、みなこの有機体、有機的なつながり、主のからだに加わりました、そして今日まで信者たちの交わりこそが、主の働きの第一の目標です。
まことの教会は、生きてる救い主、生きておられる主として、イエス様を受け入れたすべての者の交わりです。イエス様は聖霊によって一人一人のうちに住んでおられます。そして、聖霊を宿している者はみな一つの有機的な交わりに属するのです。
すなわちまことのキリスト者は、イエス様のからだを形造るのです。

教会は、五旬節の日に初めてこの地上にできたものです。そのとき聖霊は地上にくだり、信者たちの心のうちにご自分の宮をお建てになったのです。
生きてる信者は、五旬節の日から聖霊がからだなる教会とともにこの世を離れるその偉大な日まで、地上にいつもイエス様のからだなる教会をかたち造るのです。
その偉大な日に、教会はイエス様にあって死んだ人々ともに、子羊の婚姻としてイエス様に引き上げられるのです。なんという偉大なる日なのでしょうか。
それは事実上イエス様の日と教会の日であります。

この日は、教会のかしらとしてのイエス様自身にとって何を意味しているなのでしょうか。救われていない人々は、直ちに自分の救い主として受け入れることを要求しています。
イエス様は、顕わるる日はノアの人々と同じように、救われていない人は無関心であると言っておられます。すなわち、救われていない人々は自分の生活や教育に夢中になっていて、主イエス様をまったく忘れているのです。イエス様は突然来られます。
イエス様を信ずる者は引き上げられ、信じたくない人々は取り残されます。
いっしょに働いていた者は、主と会うために引き上げられ、他の者は自分だけで働き続けるために取り残されます。マタイの福音書の24章で、イエス様はこの空中再臨について次のように言われました。

マタイの福音書24:40-41
40そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

けどそれは、残された者にとっては何を意味しているなのでしょうか。
恵みの日は過ぎ去り、審判の日が始まっていることを意味しています。退けられた救い主は、その時正しい審判者となり、その前に神なきものは刑罰を受けるために現れなければならないと、パウロはテサロニケ人への手紙第IIではっきり書いたのであります。

テサロニケ人への手紙第II、1:7-9
苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

ある時代に、人間はあざけりながら主の来臨の約束はどうなったの?二千年近くがすぎました。そしてイエス様が再び来るという約束は果たされていません。イエス様はまだ来なかったなのでしょうか。
前に兄弟がお読みしましたペテロの手紙第IIの中ではっきり書かれています。

ペテロの手紙第II、3:9
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

だから、イエス様はあなたのために再び来られることをためらっておられるかも知れない。イエス様は、多分あなたがたご自身を受け入れるのを待っておられのかも知れない。もしかすると、あなたは欠けている主のからだなる教会を満たす最後の一人なのかも知れない。
主はあなたの入ることのできる恵みの扉を、もう少しすると閉じるかも知れない。

救われている人々にとって、再臨の事実はどんな種類の要請なのでしょうか。はっきり言えることは、信者たちは聖められることです。希望が聖めることを要求します。この希望は主と人の前に非難されることがなく、聖く正しくあることをわれわれに要求します。
また希望は、私たちが滅びることがないように、主イエス様と何時も顔と顔を会わせていることができるように、われわれに忠告しています。

ペテロの手紙第II、3:14
14そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

ヨハネの手紙第I、2:28
28そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

ヨハネの手紙第I、3:3
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

もしイエス様が今日来るとしたら、われわれの心を聖いと思うなのでしょうか。それとも私たちの心はイエス様に反対する気持ちで満たされてるなのでしょうか。あるいは無関心なのでしょうか。それともわれわれは、他の人に反対して、妬みや、堅くなさや、憎しみ、腹立ち、皮肉に満ちているのでしょうか。
もし今イエス様が来たとしたら、私たちはまだ支払っていない債務を残してるなのでしょうか。果たしていない約束や、知られていない罪を残してるなのでしょうか。イエス様は今日来られるかもしれない。
使徒たちは、しみも傷もなく、平安をもって御前に出られるように励みなさい。とあります。

もう一つ、私たちの主の再臨に対しての望みは、私たちにこの世から離れて生活することを要求してます。もちろん外面的にではなく、内面的であります。
一瞬間で、私たちはこの世とすべてのこの世のものを捨て、イエス様の聖い聖域に住むようになる。主の御臨在こそ、われわれが永遠にとどまる所です。そして主は、この天国の空気を呼吸することができる用意をさせようと思っておられるのです。
ですから、主は目に見えないものと永遠のために、今分けようと思っておられます。主はわれわれの心に、もうすでに天国の者であり、この世の旅人であるという自覚を深く持たせようと思っておられます。

ペテロの手紙第I、1:13-15
13ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
14従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
15あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

とあります。
最後にもう一つ、私たちのイエス様の再臨の希望は実りのある生活を要求します。もしイエス様が再臨されると、報いが主とともに来ると聖書のなかで何回も書かれてます。
そしてイエス様は、忠実な働きに対して報いを与えてくださいます。聖く燃える心でイエス様に人々を導いた者は報いを受けます。
主の再臨を早めるため、できるだけ多くのたましいを主のために獲得しなさいと、使徒たちはみんな書いたのであります。

ヨハネの黙示録22:20
20これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

この心構えを持つ人々は幸せなのではないでしょうか。




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