引用聖句:列王記第II、3章16節-24節
エペソ人への手紙1:17-19
たぶん10年前のことだったと思いますけど、ある家族は初めて御代田に来まして、父親はお医者さんで奥さんと娘さん3人といっしょに来ました。珍しいでしょう、そのとき5人とも悔い改めてイエス様を信じるようになったのです。 5人ともは、その後もちろん集会に集うようになり、「イエス様を信じるようになったのは良かったあ。」、と心から言えるようになったのです。 けども姉妹は、しばらくしてからなんと言ったかと言いますと、「イエス様を信じたとき、救われたときゴールインしたと思ったけど、ちがう。」 結局イエス様を知るようになってから、いろいろなことで悩むようになった。当然です。悪魔の憎しみを感じない人の信仰は、間違ってるとはっきり言えます。 最初に読んでもらったエペソ人への手紙を読むとわかります。イエス様を知るようになったパウロの心からの叫びです。 パウロは未信者のためにそんなに苦労しなかったようです。結局できることとはイエス様を紹介すること。御霊に満ちて導く人はその後にすぐに手を引くのです。なぜなら人を納得させようと思っても無駄です。人間によって納得させられた人の信仰はたいしたもんじゃない。問題になると必ず離れますから。 ですからイエス様を紹介したらすぐに手を引いて、「イエス様、今度はあなたの番です。」、と言えばイエス様は一番喜ばれるのではないでしょうか。パウロはこのような態度をとったのです。 けども主の恵みによって救われた人の多くは悩みの種になたったのです。「私は悩んでいます。私は困っています。涙を流しながら今この手紙を書いています。わたしは苦しんでいます。」、とパウロは何回も何回も書いたのです。 どうしてかと言いますと、せっかく主の救いに預かった人たちがなかなか成長しなかったからです。このエペソ人への手紙とはパウロの祈りです。 エペソ人への手紙1:19
救われることとは確かにすばらしい、考えられない恵みです。けども主に用いられる器にならなければ悲劇的なのではないでしょうか。 神の御心にかなったといわれたダビデはつぎのように言えたのです。 詩篇23:1、5
意味は、わたしは喜びに満たされています。 彼はなんの問題も知らなかったのではないよ。少なくても我々よりも、ずっと大いに悩んだのです。彼はある時、最大の敵は自分の息子だったのです。王様として、彼は逃げなくてはならなかったのです。息子は彼を殺すつもりだったのです。考えられない悩みなのではないでしょうか。敵に憎まれるのは。 でも自分の子供に、ダビデは、「私の杯は溢れています。わたしはまことの喜びに満たされています。」、そう言えたのです。 バプテスマのヨハネも、「わたしの喜びはもう満たされている。もう満足している。」 彼はその秘訣について、イエス様が盛んになりわたしは衰えなければならない、イエス様が中心にあり、イエス様が支配されるようになれば人間はまことの喜びに満たされるようになります。 天にお帰りになったイエス様は、ラオデキヤのクリスチャンたちにたいへんな言葉を書き送ったのです。みなさんよくご存知の言葉です。 ヨハネの黙示録3:17
ちょっと考えられないなのではないでしょうか。 このあいだ御代田である兄弟のメッセージをお聞きになられた方もいらっしゃると思いますが、非常にすばらしいメッセージだったのです。 近いうちに、「主は生きておられる」の中にどうしても掲載してもらいたいと頼んだのですけども、彼は、まことの教会と偽の教会、人間の作った教会と主の建てられた教会について話されたのです。 結局主の建てられた教会は生きている、人間の作った教会はもちろん死んだものです。 兄弟は大きな教会の一番大切にされた長老でした。娘のことで、やっぱり自分の教会連れていっても、なんにもならないだろうと思って集会に集うようになっちゃったのです。娘と奥さんだけ集会に来て兄弟がたまーに見えたのです けどもう無理、自分の教会を離れられない。もちろん何も言えなかったけど、様子みてみましょうと思いました。彼はどうして自分の教会を離れたかというと、その教会で今のヨハネの黙示録の箇所についての学び会がありました。 「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」この学びの後で、長老たちが5、6人でしょう、集まって非常に喜んだのです。「わたしたちは、こういう死んだ教会でないからありがたい。」 兄弟はこれを聞いて、「もうおしまい。」、と思ったのです。それくらい死んだ教会であることもわからなければ、もう居場所がない。やめて集会に来るようになった。 死んだものであることがわかれば良いほうなのです。それくらいわからなければ、もうおしまいなのではないでしょうか。 今朝もひとりの姉妹とちょっと話したのですけど、問題になるのはいつもなんであるかと言いますと、自分で喜んでみことば聞くことは結構です、でもまわりの人、家族、親戚、友人たちを、自分の行ってる教会に連れて行くことができなければ大問題です。 自分の信仰だったら、牧師や人間を見ずにイエス様だけを見れば保たれるでしょう。けどもほかの人々も導かれなければ、大変な問題です。 イエス様はあるときつぎのように叫ばれたのです。 ヨハネの福音書7:37-38
結局意味は、その人が用いられる器になり通りよき管になる。その人を通して周りの人々も導かれ自由になり満たされるようになるのです。 イスラエルの民はどうして特別に選ばれたのでしょうか。結局主の道具となるためです。主はイスラエルの民にご自分自身を啓示されたのです。 預言者は、ヨナを除いてみなイスラエルの民に遣わされたもので、聖書はイスラエルの民に与えられました。どうしてかというと、イスラエルの民が用いられるためでした。イスラエルの民を通してほかの国々も、まことの主に出会う必要があったからです。 初めに読んでもらった箇所の中で、水で満たされた谷についていろいろなことが書き記されていました。その時のイスラエルの民は、モアブの人々に攻撃されたのです。そしてこのモアブの人たちは、イスラエルの人たちを完全に滅ぼそうという目的を持っていました。けどもその時の選ばれたイスラエルの民は、もう弱くてなんの力も持っていなかったのです。いかにしてモアブの敵とまみえたら良いのでしょうか。 列王記第II、3:16-18
わたしたちはどういう問題を持っていても、主にとって小さなことだ、主によって不可能なことはありません。 確かにその時のイスラエルの民は、何の力もなく敵の前に立ちました。彼らの問題は水がなかったのです。食べ物がなくても、そんなにひどくないけど、水がなければもう無理。イスラエルの民が水を持っていなかったのは滅びに近い状態でした。 けどもその翌日、モアブの人たちは負けた。この秘密はどこにあったのでしょうか。イスラエルの民は、主が助けてくれなければおしまいだとわかったのです。悔い改める恵みに預かり、主に従おうと思ったのです。 列王記第II、3:16
そのとき雨が降りそうになかったし、どこにも水が流れてくる様子もなかった。けどもイスラエルの民は、まったくばかげた考えられないことを、信仰によってしました。すると水溜りに水が満ちただけじゃなくて、水が谷いっぱいに満ち溢れた。 もしわたしたちが主のみことばに従順に従うと、いつも主は必ず応えてくださり、満たしてくださるのです。 水はイスラエルの民にとって救いであり、また力でした。そしてこの同じ水は敵にとっては災いとなってしまったのです。なぜならモアブの人たちは、この水を血と間違えたのです。 命の水の流れは、イスラエルの民の絶望的な状態からの逃れ道でした。イスラエルの民は、結局従ったから問題は解決しました。イスラエルの人々が、モアブの人たち向かって立った時、確かに力を持っていませんでした。それと同じように私たちが悪魔に立ち向かう時も、自分の内面的な弱さ、力のなさを、覚えるのです。 歴代誌第II、7:14
祈りのへの呼びかけです。 主の呼びかけは今日も同じです。主は満たしたいと心から望んでおられます。おなたの口を大きく開けよ。わたしはそれを満たそう。私たちはよみがえりの力を持つために、毎日主に会わなければいけません。このほかのどんな方法によっても、問題は解決されません。このほかのどんな手段によっても、われわれの家族、親戚を、主に導くことはできません。 これによらなければ、決して私たちから永遠の命に至る水は湧き出ないでしょう。 イスラエルの民は、ほんとうに主の偉大さを知り、前よりも主を拝むようになったに違いない。水で満たされた谷を見た時。 列王記第IIの4章もみてみましょう。大好きな箇所なのです。 列王記第II、4:1-7
彼女の必要は満たされただけでなく、彼女の不安、心配から解放された。借金は全部払えただけでなく、安心して生活できるようになった。 彼女の置かれていた状態は、本当にたいへんだったでしょう。夫は死んでしまい、そして二人の子供は奴隷にされそうになった。考えられない悩みです。彼女の頼みどころの夫が亡くなり、子も奪われようとしていたのです。 彼女はどうして、なぜわたしはそんなに悩まなければならないと考えなかったのです。非常に賢い女性だったから。やっぱり神のみことばを運ぶ方の所に行こう。自分でどうしようああしようと考えても、意味のないことです。 彼女は何を持っていたかというと、一瓶の油だけです。ほかに何も持っていなかったのです。 ヘブライ語では、一人の人に油注ぐにたる油が瓶の中にはいっていたと書かれています。意味は、ほんの少ししか入っていなかった。いっぱいだったら、まあなんとかなる。けどもう空っぽに近いものしか持っていなかったのです。 油とは昔だけではなく今日も貴重なものです。そのために何回も戦争になったし、油を持っていれば金持ちである。昔も油は大切でした。 病人とともに祈る時、オリーブ油で、病人は油注がれた。そのときの油は癒しの力を意味するでしょう。もちろんこのやもめは油を栄養物として食べました。それは命の力。 また、油は明かりをともすために、明かりの力も意味しました。 やもめの悩みは、油のつぼがあったけどほとんど空っぽでした。少しはあるけど十分な量ではなかった。これこそが彼女の悩みの種でした。 彼女はどうして立派であったかというと、自分の悩みを隠そうとはしなかった。なんにも隠さず全部話したのです。ひとつの油のほかは何もありませんでした、自分の悩みを、公に話す人にだけ手助けできると、聖書全体は言っているのです。 もちろんこのやもめとは、イスラエルの中で一人だけだったのですけど、本当は当時の全イスラエルの霊的な状態だったのです。なんの力もなかったのです。 イスラエルの民は、癒し、命、明かりの力を持つべき民だったのですけど、彼らは主を第一にしないで偶像礼拝し、主との交わりがなくなってしまったのです。 もちろん礼拝のために集いました。けど癒しの力、命の力、明かりの力がなかったのです。形はあったけど力はなかったのです。油のつぼがそこにあったけど、そこに何も入っていなかったのです。 ま、形式的に集まることは、主に忌み嫌われることです。エリシャはやもめに言いました。「ほかに行って、隣の人々からも器を借りなさい。少しばかりでははいけません。空いた器を借りなさい。」 おかしいじゃないの。どこから油を持って来るの?このような馬鹿げたことを理解できないけど、彼女は従ったのです。従順に従ったのです。空いた器を借りるようになったのです。 それからうちに閉じこもりなさい。山上の垂訓に似ている呼びかけがあります。「戸を閉じて隠れたところであなたの主に祈りなさい。」、悩みを持ってイエス様の所に行きなさい。イエス様だけが助けることができ、イエス様だけが助けることがおできになるのです。 そしてうちに入って、あなたの子供たちとこもって、すべての器に油を注ぎなさい。変わった命令です。けどもこれこそが、信仰の従順そのものです。やもめは油をつぎました。ほとんど空に近かった油のつぼが、泉になってしまったのです。 もし私たちが信仰の従順によって主に従うなら、私たちの空虚は満たされるだけでなく、主のご栄光が現れ、周りの人々も導かれ満たされるようになります。 信仰の従順なくしては主に喜ばれることはできません。 このやもめは、預言者の言葉を聞いて不可能なことを信じたから、奇跡を経験するようになったのです。わたしたちは、聖書により主の御心を知ることができます。主のみことばをしっかりとつかみ、信仰の従順によって前進しましょう。 それが、我々のとりうる唯一の道です。 やもめの悩みは大きな富に変わりました。信仰の従順により、やもめの心の傷は癒され、また飢餓もなくなり、彼女は周りの人々を照らす光となることができたのです。 水に満たされた谷について、油で満たされたつぼについて考えました。我々にとって大切なのは、御霊に満たされることではないでしょうか。 イエス様こそがあらゆる癒し、あらゆる命、あらゆる光の源です。もし私たちが信じる者として、主との堅い結びつきを持っていなければ、わたしたちは結局空っぽの器にすぎません。 油というレッテルが貼られていても、中身はほとんどない。なるほど集会にやってくるけど、うちに力がない。 イスラエルの民は敵を攻撃しましたけど、うちなる力はほとんどなかった。我々の場合はいったいどうなのでしょうか。 谷は水で満たされた。つぼは油で満たされた。わたしたちは御霊に満たされなければならない。水も、油も、聖書の中で御霊を象徴するものです。 イスラエルの民に、主は現れました。けども民の心は二つに分かれていました。一方では主を礼拝し、また一方では偶像を拝んでいました。 やもめは少し油を持っていましたが、それだけでは十分ではなかったのです。イスラエルの民もやもめも、たくさん持っていませんでした。ぜんぜん足りなかったのです。 わたし達は、霊的に死んでいる周りの人々の中で、主の証し人として立とうと思いませんでしょうか。 エリシャの言葉に従いましょう。「ほかに行って、隣の人々から空いた器を借りなさい。」、結局理解できなくても、どうしたら良いかとわからなくても、従うと主は祝福してくださいます。 アブラハムという男は神の友と呼ばれ、信仰の父と呼ばれたのです。彼について創世記12章に書かれています。 創世記12:1
主よどこまで?あなたは知る必要ありません。従えば導かれます。 我々は何キロも先も知りたいと思うけど、主は1メートルずつ導いてくださる。あんまり面白くない。 ヘブル人の手紙11:8
アブラハムに彼の旅の目的を尋ねても、彼は「私もわからない。」、としか言えなかったのです。これは馬鹿げたことではないでしょうか。世の人の目から見れば、確かにおかしい。けど主の目から見れば、それは信仰の従順であり、その後に大きな祝福が伴います。 わたし達は、なぜ貧しいのでしょうか。貧しくありたいからですか?主は、「あなたの口を大きく開けなさい。わたしは満たそう。」、と呼んでおられます。 困ったやもめはエリシャのところに行き、助けを求めました。結局ただ空っぽの器を用意しないさと言ったのです。決してむつかしいことではない。 確かに人間的に考えてもおかしいとしか言えないでしょう。でも従うとき、主は恵んでくださいます。空っぽであった器とは、用いられる器になりました。 イエス様の弟子たちは、つぎのように証しすることができました。 ヨハネの福音書1:16
弟子たちとは、満たされた者となったのです。当時の全世界の人たちは福音を聞くようになったんのです。なぜなら弟子たちは、もう喜んで、命がけでイエス様のことを紹介したのです。満たされたからです。 詩篇81:10
イエス様は、ほんとうに少しだけではなく、満たしたいと望んでおられます。ヨハネの福音書2章、イエス様のカナの結婚式のはじめての奇跡について書かれています。 ヨハネの福音書2:7-8
イエス様は召使いたちに、「水がめに水を満たしなさい。」、と言われました。弟子たちは水がめの縁までいっぱいにしました。そのとき彼らが必要としたのは、もちろんぶどう酒であって水ではありませんでした。 水いっぱいにしても、何にもならないと思ったらそれは全く意味のないことになったでしょう。召使いたちは、人間的には主の命令を理解することはできなかったけども、彼らは従ったから奇跡を経験するようになったのです。 従順を通して、彼らは奇跡を経験し、豊かな満たしを受けたのです。 要求されていることは、素直に信じ、主の要求に従順に従うことだけです。これこそが、自分が満たされ、さらにほかの人々のために用いられる秘訣です。御霊に満たされる秘訣です。 御霊に満たされることは、もっとも大切なのではないでしょうか。五旬節の日、教会の誕生日の日、みんな御霊に満たされたのです。彼らは聖霊の宮になっただけではなく、ほんとうに聖霊に、主に満たされたのです。 私たちの、御霊に対する態度こそが考えられないほど大切です。信ずる者として、御霊を無視することができ、あり得ることです。 前に話したラオデキヤの教会の兄弟姉妹は、聖霊をもちろん意識しなかったけど無視したのです。 イエス様を信ずるなら誰にでも聖霊は宿っています。けれども問題は、聖霊の宮であるか、あるいは聖霊の牢屋、刑務所であるかと言うことです。 多くの兄弟姉妹はみことばに正しく向かい、御霊の導きに正しく従うことをしない。 義務的に信ずるからみことばを読む。でも心から、「主よ語ってください。従いたいから。」、そういう気持ちがなければ、いくらみことばを読んでもなんにもなりません。 二番目のとりえる態度は、聖霊を部分的に受け入れることです。すなわち言葉を変えていうならば、御霊が信ずる者の全支配権を持つのではなく、部分的な支配権を持つことです。 そのような場合には、御霊はお客様としてよそよそしく取り扱われるのです。おもに自分が支配し、決定し、ときどき御心は何かを尋ねるような信者が少なくないのではないでしょうか。 そのような生活の結果は決して幸福ではなく、みじめです。 第三番目は、御霊にすべてを明け渡し、御霊がすべての支配権を持つという態度です。この態度を持つ人々は、生きているのは私ではないイエス様です。 私は無視されてもイエス様が盛んになれば私は喜ぶ、とバプテスマのヨハネは決心したから、喜びに満たされたのです。 御霊に満たされるとは、もちろん感情の問題ではなく意志の問題です。すべてを主に明け渡した時にはじめて、わたし達は御霊に満たされます。したがって御霊に満たされる前提条件は献身、自己否定であり、第二に主が支配権を持ってくださった事実を確信し、感謝することです。 いうまでもなく我々の決断にかかっています。聖霊に満たされるまで待つ必要はない。私たちが心を開いて、すべてを主に明け渡しさえすれば、ただちに満たしてくださるのです。 大切な質問はつぎのような質問でしょう。すなわち御霊に満たされてるかどうか、知ることができるかということです。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
御霊が支配できるならば、御霊の実は啓示されるのです。これらは決して敬虔ぶった宗教家、あるいは宗教的な人の努力の結果ではなくまさに御霊の実です。 もし私たちが、自分の弱さと空虚さを意識して歩むなら、主が信仰の従順によって満たしを与えるということを経験します。 何も持っていないから証しすることができないと思う人もいる。けど自分の考えや自分の感情は大切ではない、主ご自身があなたの泉であるからです。私たちが主にだけ頼れば、主はわたしたちの空虚を必ず満たしてくださいます。我々の空虚は主の力、よみがえりの力を必要とします。わたしたちの持っているものが大切なのではない。主がなんであるかが大切なのです。 またわたし達は、もうすでに受けた祝福はそんなに問題ではない、私たちがこれから受ける満たしが問題です。 主は私たちによみがえりの力を与えようとされています。この満たしはいっぺんにやってくるものではなく、だんだんにやってきます。すなわち私がいま満たされているこの状態は、いつまでも続くと言うことはできません。 けどもその満たし、主の力は必要とするときに、信仰の従順により主から与えられることを経験するようになります。主は「あなたの口を大きく開けよ。わたしは、それを満たそう。」、と呼んでおられます。主は私たちを祝福したい。どうしてでしょうか?我々を通してほかの人を祝福されるためです。 |