引用聖句:詩篇25章14節
詩篇33:8
詩篇33:18
詩篇103:13
詩篇128:1-6
ご存知のようにあの集会所は地震のとき完全に潰れてしまったのです。けどもそのとき75歳のお父さんはおそらく生まれてから初めて心開いて祈るようになりました。 「イエス様。どうか私のわがままをお赦しになってください。あなたを信じ受け入れます。」 家族の方々は必ず長い間あのお父さまの救いのために祈り続けたでしょう。けどもその祈りが聞かれたとき、もう本当に驚いてしまったのです。 息子である兄弟はそのとき、私にひと言葉だけ言ったんです。「私は主を恐れています。」、結局主の働きの結果だったからです。 似てることを二、三週間前に経験しました。結局ぼくと同じ歳の人、僕よりも三日前に生まれた人なんですけども、頼まれたから訪ねたんです。寝室のドアのところ、何を書かれていたかと言いますと、 「入ってはいかん。死なせてくれ。」 結局もう、どうせダメだからもう誰にも会いたくない。けどもイエス様のことを話したとき、彼もやっぱり同じように祈るようになり、急に精神的に元気になったんです。 「この話を前から聞いたならば良かったぁ〜。」と言っただけではない。「ふたつの問題まだある。」、「なあに?」、「いやー、仏壇のこと。」 結局彼の奥さんは、36歳のとき医者のミスで亡くなったのです。二人の子ども残して。 息子は34歳のとき、心臓麻痺でやっぱり亡くなったんです。二番目の奥さんはふたりの子ども育てたんです。 けどもこの亡くなった奥さんのため、また息子のためにやっぱりお坊さんの紹介で、「高い仏壇買わないともうダメよ。」 280万円出して、すごいものを買ったんです。 けども娘は、「そんな大きな物を買ったのはけしからん。私はほしくない。置く場所がない。」云々と言ってるのです。 「これだけだったら物でしょう?」、「あ、そっか。物か。そしたら捨ててもいいの?」、「うん。もちろんそうよ。」、「ありがたい。」 「それからね、オレは死ぬと家内のことだれが面倒見るの?」 「主はやっぱり、やもめたちの面倒を見ると聖書は言ってるから心配ない。」 「あ、そうか。ありがたい。」 「そしたらオレの葬儀はね、あなたやるの?」、「うん。喜んでやります。」、「あ、よろしくお願いします。」、「日にちだけは決めないんですけど。」 もちろん、どなたかこのようなはっきりとした態度取るのは滅多にいない。 ですからぼくもやっぱり「主を恐れています。」としか言えなかったのです。 もちろんどなたかこのような態度取ると、悪魔は猛烈に反対する。結局奥さんは、ちょっと間違って、電話でそういうこと全部娘に話したとき、彼女はもう大変だった。 「カトリック教会に行ったし、集会だって本物じゃないはずです。教会という名前を付けてないとけしからん。もう絶対に縁を切る。あなたの面倒見ません。葬儀も出ません。」 そこまでいっちゃったんです。 ちょっと大変なんですけども、一昨日また見舞いに行ったとき、父親に頼んで、「あなたは娘を呼んで来て。あなたの口から聞くとまったく違う。娘も導かれ、救われるように是非祈ってください。」 あの娘も夫婦の間うまくいってないんですね。彼は会社と結婚してるから、会社、会社、会社。 子ども二人いますけども、そういう状況なんです。けども主は働くとやっぱり私は恐れてるとしか言えないなのではないでしょうか。 結局聖書全体を見ると、主を恐れることこそが、考えられないほど大切なのではないでしょうか。 世界中の大部分の人間は主を恐れていない。そうすればおしまいなのではないでしょうか。 今読みました箇所は本当に同じこと強調しています。 詩篇25:14
また、 詩篇33:8
それから、 詩篇33:18
詩篇103:13
そして、 詩篇128:4
主を恐れればOK。祝福が流れると言えるなのではないでしょうか。 はっきり言えることとは、すなわちイエス様のない人生は、まったく無価値なものです。無意味なものです。 なぜならば、主のみが罪を赦すことができるし、心の平安を与えられるし、真の満足を与えるお方であるだけではなく、すべての問題を解決する力をもつお方であるからです。 そして同じように言えることは、主の祝福がなければ、人生はみじめなものになってしまいます。 この詩篇の128篇の著者は幸い、あるいは幸福、そしてしあわせ、それから実を結ぶという表現を使ってるんですけど、すべては主の祝福の結果です。 「主を知るようになったから、しあわせになった。もうちょっとで天国だ。」と言える人はいっぱいいます。 私たちは自分だけに拠り頼むと、みじめになることは決まっています。だからこそ主の助け、主の祝福を求める必要があり、その主に目を向けると、だれでもが元気になり、結局主の祝福こそ、すべてにまさって大切です。 むかしのヤコブは本当はずるい男でした。自分、自分、自分のことしか考えられなかったのです。 ヤコブの名前の意味は、「欺く者」。面白くない名前ね。ちょっと考えられない。けども彼の名前は変わったんです。 イスラエル。「神が戦う」という名前に変えられたのです。彼は結局もう、大嘘つきで、偽善者で、父親でさえも騙してしまったのです。ずるいよ。 そして目的に達したんです。金持ちになった。けど平安がなかった。喜びもなかった。だからもう全部どうでもいい。心から叫ぶようになったのです。 「私はあなたを捜せません。私を祝福してくださらなければ。」、こういうふうに主に向かって叫ぶ者はしあわせなのではないでしょうか。 主の祝福を受ける人々とはいったいどういう人々なのでしょうか。 この詩篇128篇の中で書かれています。 詩篇128:1
今日もある家族がいまして、姉妹はあるとき電話したんです。「うちの子どもが捕まえられた。泥棒した。けど嬉しい。主を恐れるようになっちゃったから。」 結果はそれだったらもうすごいじゃないですか?主を恐れる恐れこそが考えられないほど大切です。 自分の子ども、自分の孫は主を恐れるようになればもうOK。そうでなければもう心配で心配で・・・。 主を恐れることはいったい何なのでしょうか。詩篇の作者は111篇の10節に次のように書かれています。 詩篇111:10
である。主を恐れない者は愚か者です。 本当の意味で主を恐れた人々の証しに耳を貸しましょう。 アブラハムは、「私はちり灰にすぎません。」と告白しました。 ヨブは、「私は自ら拝み、ちり灰の中で悔います。」 アサフという詩篇の作者は、「私は愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。」 ダビデは、「私は主に対して罪を犯した。」と。 イザヤは、「わざわいなるかな。私は滅びるばかりだ。私は汚れたくちびるの者です。」と。 ペテロは、「主よ。私から離れてください。私は罪深い者です。」と叫んだのです。 ヨハネは、聖い主を見たとき、その足もとに倒れて、死人のようになったと書き記されています。 主を恐れる人こそ幸いであり、しあわせであり、また幸福です。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は、へりくだって心砕かれた人々です。 そしてまた主の光によって自分のみじめさ、自分のむなしさを知るようになった人々です。 そういう人々こそが今日捜し求められています。 イザヤ書の66章。主を恐れることと、主のみことばの前におののくこととは同じだとあります。 イザヤ書66:2
確かに今の世で求められてる者とは頭のいい人々でしょう。優秀な人々。魅力な人々。権力をもつこと。健康な者。金をもつ者なのではないでしょうか。 主の求められてる者とはまったく違う。すなわち、心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れてる人々です。 今日もある姉妹が見えてますけど、何年か前にご主人の弁護士事務所へ行ったんです。 そのとき一つのポスターがあったんです。もうちょっと驚いたんです。何を書かれていたかと言いますと、「人間は騙されやすい。」 確かにそうでしょう。そうでないと弁護士もあんまり仕事がないでしょう。 けども主は違う。主は騙されません。砕かれてる心をもたない人は祝福され得ない。みことばにおののかない人は決して祝福されません。主を恐れない人は何があってもすべてはむなしい。 ひとつの問いが出てきます。すなわち、万物の造り主なる神を恐れることとはいったい何なのでしょうか。 そのための条件とはいったい何なのでしょうか。三つのこと言えます。 ・第一番目。主を個人的に知ることです。主についての色々なことを知ることじゃない。主ご自身を知ることです。 ・第二番目。主を心から喜ばせたいと願うことです。 ・もう一つ、主にすべてをささげることです。 まずもっとも大切なのは主を知ることです。 そのために人間は色々なことで悩みます。そのために主は色々な面白くない困難や問題を与えてくださいます。 罰としてじゃない。教育するためです。 主を知るために私たちはまず、自分が主から離れてる者であること、自分はわがままであること、すなわち罪の中に失われていることを認めなければならない。 主の判断は確かに面白くないけど、本当なんです。すべての人は罪を犯したため、主の栄光を受けられなくなっている。 ローマ人への手紙3:10
正しい人は ローマ人への手紙3:10
ローマ人への手紙3:12
それから自分は自分で自分を救うことができない、自分自身を変えられないということも認めなければならない。 いわゆる良い働きや、良い生活をすることによっては決して主を知ることはないし、救われません。 ただおひとりだけが人間を救うことができます。すなわち、人間の代わりに救いの代価を支払われた主イエス様です。 ペテロはこの事実について次のように書いたのです。ペテロの手紙第Iの3章18節を見ると、次のように書かれています。すばらしい事実です。礼拝のもととなるべきです。 ペテロの手紙第I、3:18
イエス様のみもとに導かれた人々こそが、主ご自身を知り、救いにあずかった者です。 そういう人々だけが主を恐れることができ、それによって人間を恐れる恐れからまったく解放されます。 主を知ることとは罪より救われ、地獄より永遠の滅びから救われ、天国が保証されてることを意味します。 信ずるようになった人々は、みな自分の心の中にもっておられた満たされない心に気付かされ、そして自分は主なる神から離れた者であり、主からの罰を受けなければならないということに気付かれました。 そのときイエス様の十字架の福音について聞かれ、自分の受けるべき刑罰を受けられた死なれたイエス様を信じ、だれでも マタイの福音書11:28
ある兄弟は前に、「忘れ物がないか。」と言われたんです。よくあるらしいけども、前に喜びの集いだったんですけど、ひとりの非常に悩む者が見えたんです。本当は嫌でした。 お兄さんに勧められて、どうしても喜びの集いに行ってもらいたい。彼の奥さんは愛人を作って逃げてしまったんです。小さい子ども三人残して。 彼はもうどうしようもない。結局この小さい子どもが離れることだって。けどお兄さんはあんまりうるさかったから、仕方がなくて来たんですけど、もちろん集会に出られないよ。暇がないんです。 ですから一時間半ぐらい、ちょっと僕と話し合って、喋って、それから早くまたどなたかの兄弟に頼んで、駅まで連れて行ってもらったんですね。 降りたとき、運転する兄弟は彼に聞いたんです。「どう?忘れ物ないでしょう?」、「いや。あります。」 けど後ろの席見ても何もない。「何あるの?」、「自分の思い煩いを忘れた。」と言ったのです。 その後彼は脳溢血で倒れて、体不自由になり、けど喜んでいます。 人間的に考えれば大変です。けどもこういう不幸がなかったならば、彼は心開かなかったに違いない。 こういうふうに忘れ物したらいいよ。今回もね、喜びの集いでしょ? 集まってる人々はみんな悩んでる人々ばっかり。ですから自分の重荷を全部下ろして、自由な身となって帰ることができればすごいなのではないでしょうか。 主を知ることこそが大切です。主を知ることとは、「自分のわがままは赦されている。私でさえもよしとされ、義と認められている。」、「主はわれわれが恐るべきお方ではない。自分の救いそのものです。」 この確信こそが最高の宝物なのではないでしょうか。まず大切なのは主を知ること。 二番目。主に喜ばせたいと切に望むことです。 二、三日前にひとりの青年から電話があって、どういう集いであったかちょっとわからないけども、彼はもちろん学生なんですけど、ギターを弾くんです。 非常にうまい。東京の四谷で特別な集いがあったし、陛下の家族の中の人も見えたし、スペインの大使も見えたし、色々な人集まったんです。 今までいつもプロだったんです。今度は普通の学生だったけど、みんな非常に喜んで、「もう、良かった。」 そして彼はリンデの本、英語の版、その偉い知人の人々に配ることができたから非常に嬉しかった。 けども電話したとき彼は急に質問したんです。「イエス様は喜んでたでしょうか?」、そういう心配があればありがたいなのではないでしょうか。 前に武蔵野文化会館でよく音楽会をやってたんです。音楽は餌だけだったんですけど、いつも五、六人証ししてくださったんです。 あるとき、お医者さんと看護婦さんたちだけ。別のとき、先生たち。幼稚園の先生、小学、中学、高校、大学の先生たちばっかり証しして、別の日、癌にかかった人々ばっかり証ししたんです。 そのとき、32歳で癌で亡くなったんですけど、その姉妹も証しして本当にすごかった。もう喜びそのものでした。 彼女の父親はまだ救われていなかったんですけど、もうバカみたいに後ろに行ったり、前に行ったり、ずっと写真を撮ったんです。 おそらく最後のチャンスだと思ったでしょう。もう、すごい証しでした。 終わってからちょっと廊下で会ったんです。中で輝いた顔で話して、廊下で会ったときぺっちゃんこでした。「いったい何があったの?」、「イエス様は私の話を聞いて喜んでたでしょうか。」それだけでした。 結局ね、そういう心配をもつ人はしあわせなのではないでしょうか。 イエス様を信ずることだってもう結構ですけど、十分じゃない。自分の代わりに死なれたイエス様、喜ばせたい気持ちがなければ、信仰は本物かどうか問題なのではないでしょうか。 父なる神が喜んでくださるなのは、いうまでもなくイエス様しかない。ですから大切なのはこのイエス様と結び付いてることです。 結び付いていれば生涯は変えられます。そこには実を結ぶことが見られます。 自分の努力ではなく、内に住み給もう主イエス様だけが勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。 色々な生き方があります。大部分の人間は自分自身を喜ばせる生き方です。子どもが回転木馬に乗って、クルクルクルクル回るんですけど、1ミリも前進しない。 結局自分、自分のこと考えればちょっとかわいそうなのではないでしょうか。自分のことばっかり考えるとすべてはうまくいかない。 結婚生活も家庭生活も社会生活もうまくいきません。結果として、結局恐ろしいほどの競争、ねたみ、憎しみなのではないでしょうか。 イエス様は自分自身を喜ばせようとはなさらなかったと聖書は言ってます。 イエス様だけでしょう。自分自身を喜ばせるとはいったい何なのでしょうか。自己満足です。 どうして実りが少ないなのでしょうか。なぜならば、自分を喜ばせているから。何かの役割を演じたいと思うから。自分自身を同情するからです。 人間を喜ばせようとする人はもちろん同じくかわいそう。 人間を喜ばせようと思えば、人間の奴隷になります。内面的に不自由になり、大変神経を使ったりします。それによって不幸になり、失望します。 一言で言いますと、主を恐れることのない人は、心の支えを持たず、自分のことばっかり考え、そしてほかの人を顧みることをせず、どうしようもない者になってしまいます。 ひとりの詩人は次のように告白したのです。ひとつの歌なんですけども、 「人間が私を批判したり、ほめたり、大切にしたり、誤解しても構いません。主よ。あなたに喜んでいただけることこそ、私にとってはすべてのすべてです。」 この態度取る人は本当に祝福されます。 (テープ A面 → B面) ・・・取る者は、人間の判断から解放され、隣人に対する行動は正しいものとなり、自分自身のために生きるのではなく、ほかの人々のために生きたいと思うようになります。 主に喜ばれたいという切なる願いをもつことこそが大切です。主を恐れてる者は、主を喜ばせたいと心から望んでいます。 主を恐れることとはいったい何を意味してるのでしょうか。今話したように、まず主を個人的に知ること。第二番目。主を喜ばせることです。 第三番目。主にすべてをささげることです。明け渡すことです。ゆだねることです。ささげること。もっとも良いものをささげることこそが主を恐れる結果です。 よく知られてる箇所なんですけども、もう一回ちょっと開いちゃいましょうか。 創世記22:2
創世記22:5
創世記22:12
現実問題として、ささげなくてもよかったんです。結局彼らは二、三時間だけじゃなくて、少なくても三日間歩いたんです。80キロだったんです。 そして私は長い間ね、イサクはちょっと五、六歳の子どもだったと思っちゃったんです。この間色々なことを調べてから彼は少なくとも25歳だったんですって。ちょっと・・・。 途中で22章の7節、8節見るとわかります。 創世記22:7-8
結局3日間ふたりはいっしょに歩いた。どういう会話だったかわからない。アブラハムの気持ちはもちろん想像することができない。 ですから主がはっきり言ったのは、 創世記22:2
この子はアブラハムにとってすべてでした。 創世記22:2
ほかの子どもいないんです。 創世記22:2
殺しなさい。ちょっと考えられない。 25歳の息子縛るのは大変だよ。もし彼が反発したならばお父さんはお手上げだよ。お父さんよりもずっと強かったはずです。 けど彼も賛成したんです。すごい・・・。 主ははっきり「あなたの愛されているひとり子であるイサクをいけにえとしてささげなさい。」と言われたとき、アブラハムは「嫌です。」と言わなかったよ。 「主よ。どうして。なぜ息子をささげなくちゃいけないの!もしイサクが死んだらあなたの約束は反故になり、何の価値もないなのではないでしょうか。」と彼はつぶやかなかった。 確かに主は何をするのかわからなかったけども、ローマ人への手紙4章によると、彼は確信したのです。 主は死人をよみがえらせることができる。私は今イサクを殺しても、主にとって簡単です。 結局どうしてか彼ははっきりわからなかった。わかったなのは、主はまことの礼拝者を求めておられます、そして礼拝することとは、ささげることなんですと。 そしてささげることとは、主を恐れる結果であるとここで書かれてますね。 創世記22:12
主の祝福を受ける人々とは、主を恐れる人々です。だから詩篇の作者は、「幸いなことよ。すべて主を恐れる者は。」と。 ある姉妹は本気になって祈ったんですって。「主よ。もしそれを通して主人が救われれば私に癌を与えてください。」と。 本気になってそう祈ったんです。この祈りはちょっと聞かれなかったんです。彼女は癌にならなかったけど、ご主人は脳溢血で倒れてしまった。体は不自由になった。 「やっぱりイエス様こそ。」と彼は確信するようになったのです。けども主を恐れる気持ちの表われとは結局そういうものなんです。 主を知らない人々はもうおかしいと思うに違いない。 主の祝福を受ける人々とはいったいどういう人々なのでしょうか。今話したように、第一番目の答えは、主を恐れる者です。もうひとつの答えは、前に読みました詩篇の128篇の1節に書かれています。 詩篇128:1
主を恐れることは大切ですけども、もうひとつは主の道を歩むことです。生まれつき主の道を歩む者はもちろん一人もいない。 生まれつきの人間についてみことばは次のように言っています。 エペソ人への手紙の2章、ちょっと見てみましょうか。 エペソ人への手紙2:1-5
主の道を歩むとはいったい何なのでしょうか。三つのこと言える。 第一番目。光の中を歩むことです。 聖書の中の最もすばらしい箇所のひとつは、ヨハネの手紙第Iの1章7節です。 ヨハネの手紙第I、1:7
聖書の中心なるテーマとは、御子イエスの血です。御子イエスの血はすべての罪からきよめるとあります。 主の道を歩むこととは、光の中を歩むことです。何にも隠さなくてもいい。ありのままで主に近づくと、主は首を長くして待っておられます。赦したくて、赦したくてしょうがない。 第二番目。主の道を歩むこととは、真理に歩んでることです。 ヨハネは、ヨハネの手紙第IIIの中で次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第III、1:4
真理に歩まなければ私はもうぺちゃんこです。悲しくて悲しくてしょうがない。 もうひとつ、主の道を歩むこととは、信仰によって歩むことです。コリント人への手紙第IIの5章の7節。初代教会の証しでもあります。 コリント人への手紙第II、5:7
目に見える現実によって動かされれば悪魔の勝利になります。 信仰によって歩むこととは、イエス様から目を離さないことです。 おそらくこの世でしあわせになりたくない人はいないでしょう。けど、しあわせになりたいと思っても本当にしあわせになることはできないと思い込んでる人々はいっぱいいるなのではないでしょうか。 主の道を歩むことこそがしあわせの秘訣です。自分勝手な道を歩む者は束縛され、不自由になり、間違いなく不幸になります。 けども主の道を歩む人とは必ず祝福されるからしあわせになります。したがって光の中を歩みましょう。 真理に歩みましょう。信仰によって歩みましょう。絶対に後悔しないからです。 私たちが必要とするただひとつのものは、主の祝福を受けることです。なぜならば私たちは主の祝福を受けるときのみ、結局すべてのものをもつようになるからです。 すなわち心は満たされ、喜びをもって、平安をもって、生き生きとした希望をもって前向き生活することができるからです。 主の祝福がわれわれの上にとどまることができなければ、私たちは本当にあわれな者です。 すべての点において、主は祝福したいと望んでおられます。主の祝福のひとつの現われとは、前に読みました詩篇の128篇の2節と3節なのではないでしょうか。もう一回読みます。 詩篇128:2-3
あなたの子らは、あなたの食卓を囲んでとは、親子の楽しい交わりなのではないでしょうか。 親子の楽しい交わりとは、もう稀なものになっちゃったなのではないでしょうか。今の世界は本当にもう冷たい世界になってしまったのです。 ここでぶどうの木とオリーブの木とは主の祝福の賜物を象徴してるものです。一言で言いますと、すべての点において主は私たちを祝福したいと心から望んでおられます。 毎時間ごと、毎分ごと、毎秒ごと、一瞬一瞬主は祝福したいと望んでおられます。しかも今日から将来に至るまで主は祝福したいと望んでおられるのです。 そしてその将来のあるとき私たちは永遠に栄光の主イエス様と一つになることを赦されるようになります。 この主に本当に誉れ、栄光、崇拝がありますように。 詩篇145:17-19
もう一ヶ所、 申命記5:29
どうして主を恐るべきか。主は怖いからじゃない。罰せられないためなのではない。 どうして主を恐れるべきかと言いますと、祝福されるためです。 何年か前にある姉妹から電話があったんです。彼女は結論を先に言ったんです。 「主人は主を全然恐れていません。うちへ帰ると大きな声を出したりして、子どもはみんな泣いてる。恐ろしくて。だれが何と言っても聞く耳がない。」 もちろん彼女は、「どうしましょうか。」と聞かなかったよ。「わかった。祈るしかないだろう。」もちろんその通りです。 けどあのご主人もイエス様を信ずる者だったよ。どうしてこういうふうになったかと言いますと、奥さんの判断は正しかったでしょう。 主を恐れていない。そうするともう大変だ。 ある知り合いの人は、非常にいい仕事をした兄弟だったんですけども、彼は人を滅多にほめなかったよ。最後のほめ言葉は何であったかと言いますと、「見て見て。あの姉妹、向こうの兄弟は主を恐れてる。」 主を恐れることこそが考えられないほど大切です。祝福のもとだからです。 ソロモンは箴言の10章の22節を読むと次のように書いたのです。 箴言10:22
毎日覚えることばなのではないでしょうか。主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。 これ以降、祝福式でのメッセージでへ続きます。 確かに、この二人の赤ちゃんは何もわからないよ。もちろん何も要求されていない。 けども当時の親は結局、赤ちゃんをイエス様のところに連れて行ったのです。イエス様が誘ったからです。 マタイの福音書18:1-3
イエス様は結局はっきり言われたのは、大人はみなダメ。例外なく。赤ちゃんはOK。 日本語の聖書では「子ども」』となってるんです。原語を見ると、「赤ちゃん」となってる。赤ちゃんは何にもわからない。 親の名前もわからない。いつ産まれたのかわからない。何もできない。 けども赤ちゃんの特徴とは、赤ちゃんは正直です。裏表がない。泣きたいと思えば泣くよ。みんな喜ぶかどうか関係ない。結局、裏表がない。 われわれもやっぱり正直にならないとダメなんです。正直になることとは、「あわれんでください。どうしようもない者でした。」、だけじゃない。 今もそう。将来もそうでしょう。「あなたがあわれんでくださらなければおしまい。」 それから赤ちゃんはもちろん素直なんです。もう少し大きくなってから、やっぱり母ちゃんは、父ちゃんは・・・そういう気持ちになる。 素直に信じますよ。私たちも安心して主の約束を信ずることができる。へりくだればOK。 人間は悔い改めてから信じてもいいと聖書は言ってるのです。何を信ずればいいか。イエス様の約束です。 当時の親は赤ちゃんをイエス様のところに連れて行ったとき、反対する人もいました。 もちろん無神論者たちじゃない。イエス様といっしょに生活した弟子たちでした。ちょっと考えられない。 意味は信ずる者の考えとイエス様の考えとは違う。読みましょうか。 マルコの福音書10:13
怒ったんです。弟子たちは。どうしてか想像できるでしょ? 今ふたりだけです。もし五、六十人だってもし一人叫ぶと泣くとみんな始まるんです。もう大変な合唱になります。 ですから弟子たちは、ある意味でまともな男でした。「うるさいから。今、どうせイエス様の話わからないでしょ?小学校行ってからで大丈夫よ。今帰れ。」、けどもイエス様は、違う。 マルコの福音書10:14
子どもは死ぬとね、必ず天国です。大人とはちょっと違うかもしれない。 空中再臨のあとで子どもはみんないなくなる。想像できない・・・。子どものいない世界は想像できない。けど、なる。 恐ろしい時代になります。ですから今の子どものために別に心配する必要ない。 そうしたら、どうしてもう今日連れて来たの?結局ね、どういうふうに育てたらいいかわからない。 今かわいいでしょ?大きくなればなるほど大変だよ。でしょ? なんと多くの人が、産まなかったほう良かった。そう。子どもこそが悩みの種になってる。 「結局部屋から自分はもう出ない。」、もう何年間も。何にも働きたくない。全部嫌です。テレビばっかり。 親にとって大変だよ。ですから自分はどうしたらいいかわからない。気持ちの表われとは子ども連れて来たことなのではないでしょうか。 この子どもは自分のものじゃないよ。覚えて。自分の所有物だと思えばうまくいかない。自分の物であると思えば自分で育てなくちゃいけないでしょ?けどできるもんじゃないよ。 自分の子ども、うまく育てようと思っても無理。だからイエス様の助けを、イエス様の導きを必要としてるのです。 イエス様は、「連れて来て。わたしは待ってるよ。」、結局イエス様は祝福してくださればもうそれだけなんです。 別に東大に入らなくてもいいよ。 会社の社長にならなくてもいい。けども主に祝福されればもうそれで十分ですし、すべてなのではないでしょうか。 |