引用聖句:出エジプト記、15章26節
申命記4:7
詩篇19:12
今の読んでくださった3箇所は、ある悩んでる姉妹が引用してくださったのです。日本人でありながら外国に住んでいて、子どもを2人与えられまして、ご主人は日本人ではなくイギリス人なんです。 いろいろな問題が次々と出てきて、けども彼女は今読みました3箇所を引用してくださったのです。だからもう一回読みましょうか。ま、彼女が引用されたのは、今読まれた順番とちょっと違うんですね。詩篇の19篇から始まったんですね。 詩篇19:12
ダビデはこういう風に心から祈ったから、御心にかなう人となったのです。姉妹の文章とは次のようなものでした。 「昨日、このみことばを読んだ時、私は自分の罪の重さに涙が止まりませんでした。今までのたくさんの罪と、今日もまた犯している罪を思うと、心が重くなりました。 そして自分の感情で接してしまう、主が与えてくださったこの子どもたちは、こんな罪人の私と一緒にいて、まっすぐ主の道を歩んでいけるのかと考えたりもしました。 でも今日テープを聞いて聖書を開いたら、心が楽になりました。すべてを主に渡して主にゆだねたからです。 『わたしは主、あなたをいやす者である。』 この頃は、できるだけたくさんイエス様からの喜びをいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座るたびに開いてみことばを食べています。 『まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。』 私はイエス様が大好きです。」 結局この姉妹は、いろいろなことで悩みましたし、苦しみましたし・・・、けども素晴らしい態度をとったのです。 「私はみことばばを食べています。私はイエス様が大好きです。」 こういう態度をとる人々こそが、要求されているなのではないでしょうか。 パウロは、救われた人々のために考えられないほど悩みました。苦しみました。もちろん祈りながら、適切なみことばを手紙を通して送ったのです。 コリントにいる兄弟姉妹に、彼は何を送ったかと言いますと、 コリント人への手紙第I、16:22
主を愛してる者は主の現われを慕ってる。主を愛してる者は必ず毎日、「イエス様、早く来てー。首を長くして待ってる。」と、祈る者であります。 そして、イエス様を愛してる者はもちろん、イエス様のことを紹介せざるを得ません。イエス様を愛する者は、聞く耳を持っています。 今の姉妹は、「私はみことばを食べています。」結局「主よ、語って。私はどうしたらいいか全くわからない。あわれんでください。しもべは聞いております」。 主と交わりしたい気持ちを持つことこそが、大切なのではないでしょうか。けどもそういうふうに導かれれば、やっぱり今までよりも、やっぱり悩むようになるんじゃないでしょうか。 悪魔の憎しみ・悪魔の攻撃を知らない人の信仰は、間違っているでしょう。主を第一にしたいと思う人々とは、みんな戦いの中に投げ込まれているのです。 パウロは、エペソにいる人々に書いたのです。 エペソ人への手紙6:12
すなわち、人間に対する戦いではない。 エペソ人への手紙6:12
ちっぽけな人間は悪霊に対して何ができましょうか。何にもできません!けども「われわれの格闘とは、悪霊に対する戦いである」と書かれています。 ヤコブもやっぱり厳しい言葉を書いたことがあります。 普通の人たちは兄弟姉妹のこと考えた時、やっぱり「愛する兄弟姉妹よ」・・・そういう気持ちでいっぱいだったんです。ヤコブはイエス様の肉の弟なんですけど、彼は何を書いたかと言いますと、「愛する兄弟姉妹」じゃなくて、 ヤコブの手紙4:4
主イエスではなく、 ヤコブの手紙4:4
思うことだけでも十分だよ。 ヤコブの手紙4:4
結局この世との内面的な分離がなければ、ほんとに主との交わりにあずかることができないなのではないでしょうか。これこそがとんでもない戦いです。 ガラテヤにいる人々に、パウロはまた書いたのです。「肉」とは人間の生まれつきの性質なんです。 ガラテヤ人への手紙5:17
長い間イエス様の恵みによって救われ、イエス様に奉仕するようになったパウロは、よく知られてるローマ人への手紙7章の中で告白したのです。 ローマ人への手紙7:24
「本当に 心から善を行ないたいけど無理です。できません。悪しかできない。」やっぱり大変な戦いです。 聖書の言ってる「肉」とは、人間のわがままな意思です。この「肉」に支配されれば、やっぱり一つの目的を持つようになる。「自己実現」は不幸への早道です。 「自己否定」がなければ、主は働くことができません。「自己否定」とは、「自分の思ってることは大切ではない。聖書は何と言っとるか。」結局「主よ語ってください。しもべは聞いております。」この絶えざる態度をとることこそ大切であります。 ペテロも当時の信ずる者を励ましたのです。また注意したのです。 ペテロの手紙第I、5:8
夜昼、悪魔は疲れない。ほんとに悪魔は日夜「主を第一にしたい」「主をよりよく知りたい」と思う人々を攻撃してるのです。けども、聖書の中で何回も何回も書かれています。 「恐れる必要はない。心配しなくてもよい。わたしはあなたがたとともにいる。あなたがたの代わりに戦っている。」 結果はパウロの告白でしょう。パウロは、 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となった。」 自分はもちろん駄目。けどイエス様とつながっていればうまくいくのです。 けども、これは一つのとんでもない戦いなのではないでしょうか。 マタイの福音書から、イエス様の一人の弟子について2、3箇所ちょっとお読みしたいと思います。ペテロについてです。 ご存知のようにペテロは、主イエス様に呼ばれた時、彼はすぐ従いました。もう全部捨てたんです。どうでもいいことになったんです。 今まで大切にしたものは、もう関係ない。「イエス様」こそペテロにとって「全て」になりました。 マタイの福音書16:15
イエス様は弟子たちみんなに聞いたんです。けどもペテロはいつも先だった。 イエス様は別にペテロだけに聞こうとしなかった。けど答えたのは、だいたいいつもペテロ。 マタイの福音書16:16
すごーい証しでしょ? マタイの福音書16:17
幸せ〜。 マタイの福音書16:17
結局父が引いてくださらなければ、誰もイエス様のところに行くことができない。父に引かれた人々だけが、イエス様のところに行くようになり、そしてイエス様はそういう導かれた人々を受け入れてくださる。 御霊はもちろん、イエス様の栄光を表すために日夜働いておられます。ですから救われることとは、決して人間の努力の結果ではない。父は引いたから、イエス様は受け入れたから、私たちは喜ぶことができるのです。 けどもペテロの証しを読むと確かに嬉しくなる。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」「約束された救い主そのものです。あなただけが罪を赦すことができ、あなただけが永遠のいのちを与えるお方です」。 すぐ後でペテロは変わりまして、ほんとにおかしい態度とったんです。霊肉の戦いとはどういうものであるか、21節から読むとわかりますね。 マタイの福音書16:21
ま、宗教家たちから、聖書学者たちから、 マタイの福音書16:21
結局死ななければならない。他の道がないからです。イエス様の教えによって誰も救われません。守ろうと思ってもできないからです。 「イエス様の死」こそがすべてです。イエス様は、 「あなたがたの罪を赦される道とは、わたしの代わりの死だよ。」 と言われました。その時のペテロの態度は22節から。 マタイの福音書16:22
ほんとはね、「抱きしめた。」愛の表れでしょう?ペテロはイエス様を抱きしめて、 マタイの福音書16:22-23
けどもペテロはイエス様から離れたくなかったからだけで、「イエス様が殺されたら、いったいどうしましょうか。」 けどもイエス様は「ありがとう。ペテロ」と言おうとしなかった。「サタン、下がれ。」結局「あなたは、わたしの弟子ではない。わたしの同労者ではない。あなたはわたしの用いる器なのではない。悪魔の側に立つ者である」。 いったいどうして?別に犯罪犯さなかったでしょう?けどもイエス様ははっきり、 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 自分の気持ちによって、理性によって、感情によって動かされればそういう者になる。聖書の言われてる「自己否定」とは、結局それなんです。絶えず「主よ語ってください。しもべは聞いております」という態度をとらなければ、結局駄目なんです。 ま、26章見ると、またペテロのことをよりよく知るようになります。 マタイの福音書26:33-34
ま、2〜3時間あとです。3ヶ月あとだったら、半年あとだったらまだわかる。けどもイエス様は、 マタイの福音書26:34
ペテロは、今まで「やっぱりイエス様の言ってることは本当です。疑おうと思っても疑えない。あなたはいのちの言葉を持ってる。あなたから離れられない」と、ペテロは言ったんです。けど今度彼は聞く耳がなかった。 マタイの福音書26:35-41
マタイの福音書26:70-72
ペテロは、「イエスを知らない」と言った。 マタイの福音書26:73-75
「もうおしまい。もう希望がない。この罪は赦され得ない罪である」と、彼はもちろん思ったにちがいない。 ヨハネの福音書の中で、ペテロはイエスに「主よ。あなたのためにはいのちも捨てます。」と彼は思ったのです。ま、霊肉の戦いとは結局そういうものなんです。 ペテロは確かに聞く耳を持っていたから、イエス様に従ったんです。3年半一緒に過ごしたんです。イエス様の愛を十分に経験しました。けども自分の気持ちによって支配された時、いっぺんに駄目になったのです。 結局そういう失格者は、めったにいないなのではないでしょうか。そうすると多くの人々はちょっと考えられない。ペテロも考えられなかったんです。「あり得ない」と彼は確信したんです。 けどもイエス様の言われた通りになっちゃったんです。 結局多くの人々は確かに考えられない。説明することもできない。けども聖書は説明されています。どうしてペテロはこういうふうになっちゃったかと言いますと、イエス様のせいなんです。 イエス様は、ペテロを守ろうと思ったならばできたよ。たとえばイエス様は、ラザロを死なないようにしようと思ったならば、簡単にラザロを癒すことができたでしょう? 今朝も一人のちょっと悩んでる父親は、娘のことちょっと聞いたんです。結局あの娘もね、おそらく何百回、何千回、「どうして?」と思ったに違いない。 そうすると、やっぱりちょっとノイローゼ気味になるし、「何のために生きなくちゃいけない?」と思うようになります。けども、もちろん私たちは説明することができないよ。イエス様のせいにすれば、一番楽なんです。 ペテロはどうして失敗したなのでしょうか。ルカの福音書2章の中で、イエス様はちゃんと前をもって、ペテロに次のように言われたのです。 ルカの福音書22:31
「わたしは悪魔の祈りを聞いたし、よしとした。」ちょっと、考えられない。 悪魔は「私はあなたの弟子たちを、主にあのペテロというやつをめちゃくちゃにしたいけど、いいんですか?」主が許さなければ、悪魔は1mmも動くことができない。そしてイエス様は「OK」とおっしゃったんです。 ルカの福音書22:31-32
素晴らしい必要な注意だったけれども、ペテロは駄目でしたね。 ルカの福音書22:33-34
ね。人間の最大の敵は、やっぱり自分です。けどもペテロは変えられました。 弟子たちは、「イエス様が復活なさる」ともちろん信じませんでした。想像できなかったから。理解できなかったからです。3日間彼らはどこかで隠れてしまって、「今度、私たちも死ななくちゃいけない」と思っちゃったのです。 もうアウトです。イエス様が殺されてしまったから、もう何の希望もない。ね、3日目によみがえると信じたならば、別に問題なかったよ。3日間だって人間は、どういう状況に置かれていても耐える力を持っています。寝る必要はない。食べる必要もない。 けども彼らは「もうおしまいだ」と思ったんです。 ま、イエス様はまず弟子たちに会おうとしなかった。姉妹たちに出会ったのです。そして姉妹たちに頼んで、「弟子たちとペテロのところに行きなさい。 わたしは生きてるよ。」と、イエス様は意識して「・・・と、ペテロ」という名前をつけたんです。 なぜならば、弟子たちはペテロを弟子と思わなくなっちゃった。3回も「イエス様を知らん」という男とは、もう全く信頼できない。もう無視してもいい。 だからイエス様は意識して、「わたしの弟子とペテロに言いなさい。」と言ったのです。 ペテロはそれを聞いたとき、嬉しくなったでしょう。けどもやっぱり確かめたかったんですね。 「見てみよう!」 ヨハネと一緒に走りました。ま、ご存知でしょう?ペテロは何歳だったかわからないけども、結婚していましたし、ヨハネは、まだ20歳くらいだっただろう。そうすれば、一緒に走ってもね、やっぱりペテロは負けたんです。 ヨハネは先に墓に行って、「あ・・・」すぐわかった。「もうない。ああよかった!みんなに伝えましょう。」けどもペテロは満足しなかった。墓の中に入って、全部徹底的に調べたんです。「やっぱりそうか。嬉しい!!」 ま、このペテロとはどうして失敗したのか。イエス様が赦したからです。彼にとって必要だったからです。 なぜならば、彼はやっぱり弟子たちの口のような者だった。イエス様が何かを聞いたとき、彼はいつも先に答えた。そのままで続けたら、彼は必ず傲慢になる。当然です。 人間は成功すると、思う通りにいくと、知らないうちに傲慢になります。 イエス様のご奉仕の結果、考えてくださいよ。「0」と等しいなのではないでしょうか。イエス様は神学校の校長先生で、おもに12人のために一生懸命祈ったり、努力したりしたのです。 一人は悪魔になって。イエス様はユダについて何と言ったかと言いますと、「この人は生まれなかった方がよかった。」なぜならば、心かたくなにしてしまったし、悔い改める余地がなかったからです。 もし彼は、十字架につけられたイエス様のところに行って、「イエス様、そういうつもりではなかった。 実は3年間偽善的な態度とった大嘘つきです。赦して。」という態度とったならば、イエス様何と言ったかと言いますと、「OK。あなたの罪は赦された」と言ったに違いない。 「あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにいる」と言ったに違いない。 けども彼は頭を下げたくなくて、自殺してしまったのです。そしてペテロは、3回もイエス様知らんと言ったし、他の弟子たちみんな身の危険を感じたとき、姿を消して逃げたんです。 その意味で、イエス様はちょっと可哀想じゃないの?ペテロと違いまして、ね。 五旬節の時ペテロはね、あちこちの旧約聖書の箇所を引用して、結果として三千人悔い改めて、救われて、洗礼受けたんです。その後ですぐ男だけ五千人導かれたのです。ペテロのせいだよ。彼はこういうふうに導かれたのです。 そして彼は傲慢にならなかったのは、考えられない。奇跡そのものです。どうして傲慢にならなかったかと言いますと、結局自分の失敗を忘れられなかった。 パウロについても同じこと言えるでしょう。彼はもう最高に用いられた人でした。けども彼は、殉教の死を遂げる前に何を書いたかと言いますと、 「私は、罪人のかしらです。」「一番ひどい者は私。」どうして、こういうふうに言えたかといいますと、結局自分の汚い、恐ろしい過去を、忘れられなかったからです。 私たちは謝ると、悔い改めると、イエス様は「赦す」だけじゃなくて、「忘れちゃう」んですってえ。ありがたい。そうでなければ、天国は「天国」じゃないでしょう?人間は忘れられないけど。 これこそがやっぱり恵みだよ。主は駄目な者を捨てようとしない。 ま、ペテロはこういうふうに砕かれるようになったから、用いられるようになったのです。 けどもこの戦いは、もちろん「続く戦い」です。死ぬまでの戦いです。「今から、もう少し楽になるんじゃないか」ということとは、夢です。楽にならない。 使徒の働きの中で、いわゆる教会の歴史を伝える本の中で、やっぱりペテロについていろいろなことが書いてあります。 確かにペテロもやっぱりイエス様の弟子だったけども、五旬節までほんとの意味での弟子ではなかった。彼は自分の思いによって、自分の気持ちによって、支配されたからです。 五旬節から彼は変えられたのです。けどもだからと言って戦いはなくなったなのではない。 ペテロは、3年間イエス様の愛を受け、ともに生活してイエス様の成された多くの奇跡を目の当たりに見て、イエス様こそが救い主であり、主であり、解放者であると経験したから、どこへ行っても話すことができたのです。 けどもある時、使徒の働きの10章、11章に書いてあるんですけども、彼は祈るようになったのです。「これから主よ、何をしたらいいなのか教えてください。」 結果として「彼は、異象を見た」と聖書は言ってるのです。天から大きな布に包まれた、いろいろな種類のきよくない、汚れた、食べてはいかん動物が入っていたのです。 そして天からの声があったんです。「ペテロ、これを食べなさい。」ペテロは「いや」と言ったんです。「従います。」そういう気持ち、全然なかったのです。 「いやです。私はきよくないものを食べたくない。『食べてはいかん』と、聖書は言っとるじゃないか」。 それから同じことを、もう一回経験したし、そのあとでもう一回同じことを経験するようになったのです。 ペテロは3回イエス様を否んでしまったし、ここで3回同じ幻を見たのです。それで、彼はもちろん考えるようになったはずです。 「いったい、どういう意味ですか。主よ語って。」 天から電報がこなかったんです。けども一人の異邦人の召使いが言ったんです。「ペテロ、ペテロ。私たちの主人であるコルネリオのところへ来てもらいたい。みんな待ってるよ。」 コルネリオという男は、イスラエルの民に属さない異邦人、ローマ人でした。そしてユダヤ人は、ユダヤ人でない人々と関係を持ちたくなかった。あいさつさえもしなくなかった。みんな滅ぶべき者です。汚い者です。 ですからこの異邦人のところへ行くのは、考えられない戦いだったんです。もしその前にこの幻を見ていなかったならば、絶対に行かなかったんです。けども仕方がなくて行ったんです。みんな待ってたんです。首を長くして。 彼は行って、もちろん祈りながら、主に頼んだでしょう。 「何をしゃべったらいいの?みんな聖書のことわからないし、ABCから始めましょうか」云々と。ま、彼に示されたのは違う。何も説明する必要はない。 「わたしを主として、紹介しなさい。」そして、ペテロはそうしたんです。「イエス・キリストは、すべての者の主である。」と言うんです。 人間的に考えれば、ちょっと的外れだよ。何を言ってるの?イエス様の流された血について、ちょっと説明したらいいじゃないか。けども彼は、「イエス・キリストは、すべての者の主である」と言ったのです。 そして彼のメッセージが終わらないうちに、彼らは御霊に満たされた。悔い改めて、信じて、聖霊の宮になっちゃった。聖霊に満たされた。 結局ユダヤ人たちの五旬節の経験したことを、彼らも経験するようになった。ペテロは夢にも思ったことがない。 彼はどうしてほんとは行きたくなかったかといいますと、行けば必ず誤解されます。ヨハネはやっぱり賛成しないでしょう。ヤコブだって必ず反発します。 どうしようか・・・。 確かに彼は攻撃されたんです。他の弟子たち、他の信じる者の攻撃の的になったんです。ま、彼は何と言ったかといいますと、 使徒の働き11:17
彼は何と言ったかといいますと、 「確かに私もあなたがたのように考えたんです。異邦人を無視してもいい。異邦人たちは救われなくてもいい。 けどもこういうふうに導かれたから、もう手上げだった。私は何もできなかった。」 かつてのペテロは、確かにイエス様の働きの邪魔虫でした。「主よ、どうしたらいいか?」と思わないで、そして結果としてイエス様を否んだのです。 ここで彼はやっぱり違う態度とったのです。「私のような者が、どうして神を妨げることができようか。」結局彼はそのとき本当の意味での弟子になったのです。 ほんとの弟子とは、主だけが中心になってもらいたいと願います。ほんとの弟子は、いろいろなこと理解できなくても主を崇拝します。 ちょっと旧約聖書のヨブ記から、2、3節読みましょうか。なぜならばこのヨブも、いろいろなこと経験しました。彼は「どうして?なぜ?」と考えようとしなかった。全部主のせいにしたんです。 私は前にヨブの経験したこととは、もしかすると何ヶ月間かかって経験したものであるけども、ゆっくり読むとやっぱり違う。 ヨブ記1:16-18
そしたら全部1日で聞いたことなんです。悪いニュースばかりです。われわれと似てますね。新聞を見ても、テレビを見ても、悪いニュースばかりです。新聞の書いてること、テレビの放送されてること、信じないで。うそです。ほんとにうそです。ひっどい世界です。めちゃくちゃな世界です。 ヨブは悪いニュースばっかり聞いたんです。読みましょうか。 ヨブ記1:13-19
悪いニュースばっかり。 ヨブ記1:20
ちょっと考えられない。 ヨブ記1:21
やっぱり主のせいです。主はとられた。だから主と関係を持ちたくないと彼は思わなかった。 ヨブ記1:21-22
私たちは聖書を読むと、どうしてこういうふうになったのか分かる。もちろん彼も分かったんです。「主はとられた。」 けどもその背後のことを、彼は分からなかったんです。私たちは分かる。悪魔が主のところに行ったんです。 今日も悪魔は毎日、夜昼、主に近づいてるんですよ。もちろん悔い改めるためじゃない。導かれるためじゃない。信ずる者を訴えるためです。 今は地獄が存在してるけど空っぽです。誰も入ってないよ。地獄に悪魔よりも早く入る者は、反キリストとにせ預言者です。その後で悪魔が入るようになります。 悪魔は今天国に行く自由がある。そして必死になってわれわれを訴えるために言ってるのです。当時悪魔は、主の臨在で聞いたのです。 「あなたはわたしのしもべであるヨブのこと見ただろう。彼は自分のこと考えようとしないし、わたしを畏れてるし、わたしのためにだけ生きたいと思ってる。」 生まれつきそういう者はいないよ。どうしてこういうふうになったのか分からないけども、やっぱり主が恵んでくださったから。 彼はそれからもう「自分のことどうでもいい」と思ったのです。主は「わたしのしもべ、ヨブのような者はいない」と。 悪魔の答えは、 「そうだろう。大金持ちだろう?病気も知らないし、10人の健康な子ども持ってるし、そういう人が信ずるのは、別に難しくないよ。彼のもの全部とられれば、彼はあなたのこと呪いますよ。あなたと関係を持ちたくなくなるよ」。 と、悪魔は言うのです。主は許しちゃったんです。 「あなたの思う通りにやりなさい。ヨブの10人の子ども殺してもいいよ。彼の全財産をとってもいいよ。彼が重病人になっても結構。弟子たちは彼を攻撃しても私は許す。奥さんでさえも、自殺した方がいいと言うことも私は許します。」 それで悪魔は嬉しくなったでしょう。主は許したからヨブは全部なくしました。全部主のせいです。 けどもヨブは主を捨てようとしなかった。ヨブは主を礼拝した。 ヨブ記42:2
不幸を通してです。あの不幸を通してです。その前に頭の知識として認めたかもしれないけど、ほんとの意味で不幸を通して、主をよりよく知るようになったのです。 ヨブ記42:5-6
結局主を知れば、自分のこともわかるようになります。頭をあげられない。彼はいろいろな人からいろいろなこと聞いたでしょう。彼の答えは非常に素晴らしい答えでした。 ヨブ記5:8-9
「主を知ること」こそが、すべてなのではないでしょうか。 彼は全部失ったんです。これは主のせいでした。何ヶ月の間、その状態であったのかちょっと分かりません。 なぜならばヨブはね、知らないうちに罪を犯しちゃったんです。大変な罪を犯しました。どういう罪であったかと言いますと、彼はね、ずっと自分のこと攻撃した友達のことを考えたくなくなっちゃった。 もうあいさつしたくない。彼らは自分と一緒に悩もうとしなかったし、みんな 「天罰だよ。あなたはよっぽどの罪を犯さなかったならば、愛なる神はそういうこと許さないはずです。悔い改めなさい。悔い改めなさい。」 その時ヨブはどういう罪を犯したかと言いますと、友達のために祈らなくなっちゃった。 「もう疲れた。もう関係を持ちたくない。」 けども主の光に照らされた時、彼はまた違う態度とったんですね。 ヨブ記42:10
ヨブ記42:10
あの変な、ひどい友達のために祈った瞬間から主は働くようになった。 われわれもいろいろなことで悩んだり、苦しんだりするでしょう?けども一番は、会いたくないいやな人々のために祈ったら、主は必ず働きます! 祈ることが許されてるのは、ほんとにすごい特権です。 けども祈ることよりも大切なことがある。主を礼拝することです。ね、祈ることだって自分の願いの言い表わしにすぎないでしょう? 「礼拝」とは、すべてを何もかも主にゆだねることです。 ほんとの意味での礼拝者とは、やっぱりイエス様でしょう。前に読みました箇所もう一回読みます。これは確かに一つの祈りです。けどもそれだけではない。 マタイの福音書26:39
結局イエス様は永遠の昔、「神の小羊」と呼ばれたのです。人間は一人もいなかった。すなわち主は「わたしの創造する人間は完全です」。 ま、決まってる。完全なる神は、不完全なる人間を造りません。はじめの人間は、われわれよりもずっと頭が良くて、健康で、美人だったに違いない。完全でした。 けどこの完全なる人間は、悪魔に誘惑されて不完全になり、わがままなかたまりになってしまったのです。 もし私たちがかぐわしい者であれば、全く違うことやったと思うよ。人間を造る前に、まず悪魔を滅ぼすべきだった。そうすれば人間は誘惑され得ないし、完全で、いつまでも主と交わることができた。 主はそうしなかった。どうしてか、なぜか解らないよ。天国行ってから聞いちゃいましょう。びっくりすると思う。もちろん主なる神の目から見ると、いまの人間の歴史だって、5秒くらいですよ。たいしたもんじゃない。 けども永遠の昔、イエス様は「わたしは堕落する人間の代わりに死ぬ。」と、決心したのです。 初めて公に現われたとき、バプテスマのヨハネは、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」 イエス様は、もちろん何回も言われたのです。 「わたしの流された血によってのみ、罪が赦されます。わたしの代わりの死こそが、あなたがたの本来受けるべき天罰です。」 イエス様はそれを全部わかったんですけども、今の箇所を見ると、ちょっと驚くんじゃないですか? マタイの福音書26:39
「死にたくない」なのではないよ。けども「父から離れられない。離れられたらもう呼吸することができないじゃないか。」 イエス様はこの世であまり笑わなかったと思う。「悲しみの人」と呼ばれていたからです。イエス様の唯一の喜びとは、何であったかと言いますと、「父と話すこと。祈ること。」 祈ることができるから、どういうつらいこと経験しても関係ない。ま、イエス様とは「祈り」そのものでした。「主に対する叫び」そのものでした。 けども十字架につけられることによって、父との関係がなくなる。なぜならば十字架につけられたイエス様は「永遠なる神」よりも、「愛されてる御子」よりも、「罪のかたまり」とされる。全ての人間の全ての罪、わがまま、過ちを犯した者として、イエス様は取り扱われたのです。考えられない。 こういう者と父は交わることができない。やっぱり捨てなければならない。だからイエス様は十字架の上で、 「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか。」 もちろん私たちは「3時間だけだろう?」と言うかも知れない。けどイエス様にとって地獄の地獄でした。 「父から離れたくない。けどもいいよ。わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」 ですから、イエス様の祈りとは「自分の願いの言い表わし」よりも、やっぱり「本当の礼拝」です。 私たちも主を礼拝すべきなのではないでしょうか。そうすると、毎日何回も「私の願うようにではなく、あなたのみこころだけがなるように。」と、祈るべきなのではないでしょうか。 「主よ。あなたは常に完全なお方です。全きことをなさいます。あなたの道は完全です。理解することができないけど、あなたを心からあがめます。」という態度とることができれば、ほんとに幸いです。 パウロは結局、「十字架こそ」「十字架だけ」と言い続けたのです。コリントで彼は、 コリント人への手紙第I、2:2
罪とされた方、呪われた方。 コリント人への手紙第I、2:2
コリント人への手紙第I、2:2
ガラテヤ人への手紙6:14
「十字架」こそ、われわれの礼拝のもとであるべきです。 |