引用聖句:ヨハネの手紙第I、1章1節-4節
ヨハネの手紙第I、1:7
今読んでくださった箇所の中で、一番大切なことばとは、「交わり」と「喜び」なのではないでしょうか。 人間はみな悩みを持つ者で、さびしくてどうしたらよいか分からないような者なのではないでしょうか。 この間ある41歳の女性が、自分自身とある犯罪人とを比較したのです。その犯罪人は、大阪の近辺で8人の子どもを殺しました。 彼は、3回も結婚して離婚したのです。結局、愛を求めた男です。けれど全部思うように行かなかったから、「孤独のかたまり」になってしまったのです。 彼女は、「私は彼の気持がよく分かる」と言うのです。今41歳ですが、25年間も精神科にかかっていたのです。何回も精神病院に入るようになったのです。 けれど別におかしい人ではありません。ちゃんと勤めていました。 私が初めてお母さんから彼女のことを聞いたのは10年前でしょうか。今回本人も同じことを言ったのです。結局、「友だちが欲しい。」 小さいときからそれだけ欲しかったのです。「友だちが欲しい!」、気ちがいのように「友だちが欲しい!」と叫んだのです。 そうするとやっぱり、「また精神病院に入れた方が良い」とみんなが思って、彼女を精神病院に入れるようになったのです。 この間金沢で、67歳の奥さんと初めて会いました。彼女は癌なのです。その上、ご主人が脳梗塞で倒れてしまったのです。 夫婦として今まで頑張って働いて来ました。ご主人は、銀行員でした。彼の生涯は「銀行は大きい。」、彼女は「商売は大きい。」でした。 彼女は、商売をして、本当に馬鹿らしいほど儲けたのです。けれどご主人は倒れてしまった。結局、もう働くことが出来ない。 彼女も働けなくなったし、ご主人の面倒を見るのも面白くない。「むなしい。さびしい…」。誰でも分かる話なのです。 今朝のテーマは、『孤独病を癒す薬』です。分かるでしょう。みんな「孤独病」にかかっています。 けれど、「孤独病」を癒す薬がないのではないでしょうか。 実は今、兄弟がお読みになった箇所の中にあるのです。御父に愛されていることを味わい知ることこそが、その薬なのではないでしょうか。まことの交わりを持つことこそが、その薬なのではないでしょうか。孤独な人間にとってどうしても必要なのは、交わりではないでしょうか。 使徒の働きに出てくる、主の恵みによって救われた人々の交わりのような、まことの交わりとはいったいどんな交わりであるかを、知るべきではないでしょうか。 ちょっと使徒の働き2章を開きましょう。 使徒の働き2:42-47
この箇所を読むと、初代教会の人々は喜びに満たされていたと、はっきり言えます。 何故なら、本当の意味での交わりを持っていたのではないでしょうか。 ここに出てくる信徒たちは、五旬節のときに救われた人たちですけれど、ここに「彼らは使徒たちの教えを守った」とあります。 この使徒の教えとは何でしょう。使徒が伝えたのは、もちろんイエス様の教えでした。教えよりもイエス様ご自身でした。 終わりの時代に生きる私たちにどうしても必要なのは、この使徒の教えにとどまることではないでしょうか。 けれど、私たちはそれとともに、「信徒の交わりとは如何なるものであるか」を知っているのでしょうか。 この信徒の交わりを、本当の意味で知るべきです。使徒の教えがイエス様ご自身であるなら、信徒の交わりもイエス様との交わりを意味しています。 聖書を見ますと、聖書にはただ一つの交わりが書かれています。それは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです。 コリント人への手紙第Iの1章を見ると、次のように書かれています。 コリント人への手紙第I、1:9
この御子イエス様との交わりこそ、本当の交わりの源です。私たちは本当に父、ならびに御子イエス様との交わりを知っているのでしょうか。 この交わりは表面的な希望によって生まれるものではありません。 この交わりは、教理を同じくするという理由で生まれたり、また会議を通して決議された結果生まれるというものではありません。 この交わりは、いのちと霊の交わりです。この交わりの間には、少しの暗いところも、陰もあってはなりません。 父、ならびに御子イエス様との交わりには、完全な信頼がなければなりません。 父なる神は、御子イエス様を心から信頼され、ご自分の計画を全部教えてくださり、イエス様に委ねられました。全部の計画を少しの不安もなく委ねることがお出来になったのです。 反対に、イエス様の父に対する態度も全く同じでした。 イエス様は父なる神に完全により頼み、少しも疑わず父のみこころを行なわれました。 あのように驚くべき深い悩みの中にあるときも、十字架に向かって歩まれるときも、少しも疑わず、全き信頼を父に置いておられました。 イエス様と父なる神は、お互いにそのように信頼し合っておられたので、その間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼が交わりです。 この父と御子の素晴らしい交わりに、人間も加わることが出来るとは驚くべきことです。 「主は、何ゆえに私たちをこの交わりに召してくださったか」を、知るべきではないでしょうか。 ただ一つ分かることは、はかり知れない主のご愛のゆえにこれは可能であります。 イエス様は、この交わりに私たちを招いてくださるために、この地上にお出でになったのです。 イエス様がこの地上におられたとき願っておられたことは、第一に、弟子たちがこの交わりに入ることが出来るようになることでした。 そして、私たちは救われるために救われただけではありません。この素晴らしい交わりにあずかるために救われたのです。 私たちは、良心の咎めが消され、救いの確信を得るために召されただけではなく、この交わりにあずかるために召されたのです。 もし人が、父ならびに御子イエス様との交わりに入りますと、使徒の働きにある「信徒の交わり」に入ったことになるわけです。 使徒の働きに出てくる信徒たちは、もちろん別に特別な人々ではなかったのです。使徒たちも、同じく特別な人々ではなかったのです。 使徒は如何にして造られたのでしょうか。使徒は主に選ばれ、特に召された人々です。 マルコによる福音書の3章を見ると、次のように書かれています。 マルコによる福音書3:13-14
「福音を宣べさせ」るためであったのです。 弟子たちはどうしてみもとに呼ばれたのかと言いますと、まずイエス様の近くにいるため。彼らを身近に置くため。 その後で彼らは、福音を宣べ伝えるため、イエス様を紹介するために遣わされたのです。 イエス様は、弟子たちを、使徒たちを、まず第一にご自分の近くに置くために召されたのです。その後で、遣わすために召されたことが分かります。 イエス様は、ご自分が永遠の昔から持っておられた父との交わりに、使徒たちも入ることを願われたのであります。 そしてイエス様は、今日も全く当時と同じように、この交わりに私たちがあずかることを願っておられます。 父ならびに御子主イエス様との交わりにあずかることが出来るとは、何という特権でありましょうか。 この交わりを喜ばずして、他のもので満足することがあっては残念です。 私たちは、イエス様に仕えることが一番大切であると考えるかもしれないけれど、主のお考えは違います。 イエス様は、まずご自分との交わりを持つことを、私たちに求めておられます。 人は、熱心に働く人がいれば、良い働き人だと考えますけれど、主のお考えは違います。主のために熱心にご奉仕をしますが、主との親しい交わりを持っていない人がたくさんいます。 これは本当に哀れなことです。 私たちは、弟子と同じように、この世と罪から逃れるために選び出されましたが、そればかりではなく、父ならびに御子主イエス様との交わりにあずからなければなりません。 そして、あずかるべく召された者です。 信徒の交わりは、父ならびに御子主イエス様との交わりであり、これはいのちと霊の交わりです。 イエス様のからだの交わり、すなわち信徒の間の交わりは霊の交わりですから、そこには制限がなく、不安がなく、疑いがなく、全き信頼がなければならないはずです。 この交わりに私たちは召されているのです。 しかし問題は、「どうしたらこの交わりに、全き信頼に入ることが出来るか」ということです。 弟子たちも、最初はイエス様と親しい交わりを持っていなかったのです。最初は、ただイエス様と関わり合いがあるといった程度でした。 イエス様は弟子たちを召し、彼らは3年の間イエス様と共に生活しました。 この間、イエス様はご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために、何とかして弟子たちと親しい交わりに入ろうとなさいました。 イエス様は、彼らを父なる神との親しい交わりに導こうとなさいましたが、彼らは理解しませんでした。 イエス様は、弟子たちと少しの疑いもない全き信頼をおく交わりにお入りになりたかったのですが、いざイエス様が深いみこころを示そうとなさると、弟子たちはイエス様を誤解してしまったのです。 弟子たちはそればかりではなく、お互いの間にも深い交わりを持てませんでした。ただ関わり合いがあるといった程度でした。 彼らの間には交わりがなかったばかりではなく、時々喧嘩をし、言い争うこともあり、イエス様がその仲裁をなさらなければならないといった有様でした。 12人の弟子は、ユダを除いて心からイエス様を愛していました。そのためにすべてを捨ててイエス様に従って来たのでした。 それにもかかわらず、彼らの間にはまことの交わりがありませんでした。お互いに妬み、誤解し、争いました。 ヤコブとヨハネは自分が一番偉くなりたいと思い、他の人々を除け者にして二人で相談しました。 マルコの福音書10章を見ると、次のように書かれています。 マルコの福音書10:35-41
どういうふうに騒ぎになったか想像できます。 このような弟子たちの交わりには本当の交わりはなかったと言えます。 けれど、やがて五旬節になったとき、弟子たちは変わりました。このときから彼らはまことの交わりを持つようになったのです。 「ペテロが立ち上がったとき、みな他の11人も共に立ち上がった」と、使徒の働きに書かれています。 ペテロが立ち上がったとき他の者も一緒に立ち上がったのですが、これは、前もってそのように相談していたわけではありません。自発的に自然にそうなったのです。12人の使徒は、もはや12人の一人一人ではなく、12人が一つのからだを成したのです。 五旬節の日の立役者は、なるほどペテロだったのですけれど、聖書を見るとペテロだけが目立ったわけではなかったことが分かります。 「人々はみなを見て驚いた」と書かれています。「ペテロを見て」ではない。「みなを見て驚いた」です。 五旬節は、まことの教会、主の教会の誕生日です。 このまことの教会とは、一つの宗教団体でもないし、一つの組織でもありません。このときから、信者はもはや一人一人バラバラでなく、イエス様をかしらとする肢体に綴り合わされたのです。 ペテロと他の使徒たちは本当に一つでした。霊の交わりを持っていました。使徒たちはお互いに全く信頼し、そこには、互いに喧嘩し疑い恐れるといったことは見受けられませんでした。全部新しくなったのです。 五旬節の前までは、このような交わりは、天の父なる神と主イエス様との間にしかありませんでした。けれどこの五旬節の日から多くの人々もこの交わりに入ることになったのです。 「3千人の人々がこの交わりにあずかった」と記されています。 「これらの人々は、使徒の教えを守り信徒の交わりをなした」と書かれています。 彼らは、主イエス様のみことばを自分たちの生活の基準として受け入れ、自分たちはすでに信仰の交わりにあずかっているという自覚を持っていました。 この交わりは外から来るのではなく、内に住んでおられる御霊の故に生まれた交わりです。 ですからパウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書くことが出来たのです。 エペソ人への手紙4:4-6
これは、彼らの一つになった素晴らしい交わりの源でした。交わりとはすべてのものを共有にするということです。 初代教会の兄弟姉妹はそうしていました。使徒の働き2章を見ると、次のように書かれています。 使徒の働き2:44
とあります。 誰も自分の持ち物を主張する者なく、「日々心を一つにしていた」と書かれています。 彼らは霊において一つであったばかりでなく、考えも願いも心も一つであったのです。これこそ信徒の交わりであり、主イエス様のからだとしてあるべき姿です。 私たちの一人一人が使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなしたと言える状態になったら、素晴らしいのではないでしょうか。 使徒たちはイエス様と共に過ごした3年間、このまことの交わりを知らずに過ごしていました。これは交わりに入る準備のときだったのです。 この3年間は、実りのない3年間のように見えます。けれどこの3年の年月の間に、彼らの古い性質は少しずつ取り除かれていったのでした。 もし弟子たちがイエス様に従わず自分の職を持っていたなら、彼らは信心深い人々として尊敬されながら生涯を終えたことでしょうけれど、イエス様と共に歩んでいた彼らは、自らの姿を教えられ、主のみもとで本質的に造り変えられてきました。 主の光に照らされ、彼らの心の暗いところは次第に取り扱われて、明るみに出されていきました。彼らの心に隠された思いが現わされてきました。 もちろん弟子たちは、他の人々より悪い人々だというわけではありませんでした。 けれど主の光に照らされたとき、絶望的な自らの真相を教えられたのです。イエス様が十字架におかかりになったとき、彼らは全く絶望してしまいました。そのとき、彼らはバラバラになって逃げてしまったのです。 まことの交わりの秘密はどこにあるのでしょうか。前に読みましたヨハネの手紙第Iの1章7節に書かれています。 ヨハネの手紙第I、1:7
「光の中を歩んでいるなら」、条件付です。「光の中をあゆむと」、です。光に照らされることこそが大切です。 しかし、私たちが今持っている悩みは、光のうちを歩むどころか、光の中に立つことすら出来ないでいるのではないでしょうか。 イエス様の光に照らされると、私たちの生まれながらのものは徹底的に駄目であり、役に立たない汚れたものであることが分かります。 イエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも正しくなります。 御霊は私たちの上に注がれ、私たちは一つのからだとなるように本当のバプテスマを受けました。この事実について、パウロはガラテヤ人への手紙の中で次のように書いたのであります。 よく知られている、信じる者にとって一番大切な箇所ではないかと思います。 ガラテヤ人への手紙2:20
パウロは、「私はもうどうでもいい。もう死んだ。生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」、この事実が土台になって、初めてまことの交わりが生まれてきます。 私たちは日々この立場を取り、認め、主の前にすべてを明け渡すとき、御霊は豊かに私たちを満たしてくださり、父ならびに御子主イエス様との豊かな交わりにあずからせて下さいます。 「救われるためにだけ救われたのではない。父、また主イエス様との交わりを持つために救われた。」 この交わりとはどういうものかと言いますと、光の交わりです。いのちの交わりです。愛の交わりです。 この交わりが私たちの中に与えられると、「主ご自身がそこにおられる」と言われるほど、主のみ栄えを表わす私たちとなることが出来ます。 教会は、聖書の中で、「聖霊の宮」、あるいは「神の住まい」と呼ばれています。「神の家とは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、信仰の基礎なのです」と、書かれています。 私たちもこのような教会になりたいものではないでしょうか。 私たちを召し、父ならびに御子主イエス様との交わりに入れてくださった主イエス様に、心から感謝しようではありませんか。 |