キリスト者に与えられた使命について、すなわち個人伝道について一緒に考えてみたいと思います。 キリスト者は自分の職業の他に一つの使命を持っています。しかしわれわれにとってこの使命こそ、生活の全てなのでありましょうか?私たちはこの使命をしっかり持っているのでありましょうか?この使命のために従順であり、そのためにすべてを捧げているでありましょうか?いろいろな場にあって、あなたの周囲にいる人々は、あなたがたが主イエス様の使徒とわかるでありましょうか? そのためには一分一秒たりともおろそかにせず、主に従順でなければなりません。そのためペテロの手紙第I、1章14節から15節に次のように書いてあります。 ペテロの手紙第I、1:14-15
と書いてあります。愛する兄弟姉妹たち、私たちの心の願いは、いったい何なのでありましょうか。 また主イエス様の願いはいったい何でしょうか。 私たちの心の願いと主イエス様の願いは同じでしょうか。 私たちにとって、一番大切なものは、いったい何でしょうか。自分の仕事でしょうか。自分の興味でしょうか。自分の集会でしょうか。自分の奉仕でしょうか。 われわれの心の願いはいったい何なのでありましょうか。 主イエス様は私たちを見たら喜んでくれるのでありましょうか。 主イエス様の心からの願いは、主の御心にかなった生活をして、まことに主を喜ばせることであります。主イエス様は何を欲しておられるのでありましょうか。 主イエス様の心から願いは何でしょうか。主イエス様は何を望んでおられるのでありましょうか。一言で言うならば、主はひとりも滅びることがないように願っておられるのであります。 ペテロの手紙第II、3:9
と主イエス様は、言っておられます。 ヨハネの福音書6:40
ですから主なる神の願いは、人間が救われることなんです。主は人間を救うために、ご自分のもっとも愛するお方を、すなわち主イエス様をお与えになったのです。 私たちの心の願いは何なのでありましょうか。私たちの願いはやはり人を救うことでしょうか。 もしこの目標を頭に入れてない者は、主を悲しませるなまけ者です。今から私たちは毎週一人の人がこの東京で救われるように祈ろうではありませんか。使徒の働きをちょっと見てみましょうか。 使徒の働き2:46-47
使徒の働き4:4
とあります。 使徒の働き5:14
と書いてあります。 使徒の働き5:40-42
使徒の働き6:7
とあります。毎日という言葉が何回もでてきます。毎日人が救われることを願うのは多すぎるでしょうか。絶対にそんなことはありません。主イエス様は私たちが信じれば信じるほど多くのことをなしてくださいます。私たちは主イエス様に、いくら信頼してもしすぎるとうことはありません。 一つのことがはっきりしています。私たちの不信仰のため、主イエス様は今までにあまり多くのことをなすことができなかったということです。それを認めなければならないのです。 主イエス様がナザレにおられた時、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手をおいて癒されただけであった。主イエス様は彼らの不信仰に驚かれたとあります。 すなわち主イエス様はナザレでもっとたくさんのことをやりたかったんです。しかし彼らの不信仰によって、ただ二、三人を癒されただけでした。 ナザレと同じことが私たちについても言えるのではないでしょうか。すなわち私たちの中でも力あるわざをいままで行なうことができずに、ただ少数の者だけが、罪を赦され喜びを与えられただけなのです。 あなたのここからの願いは何でしょうか。私たちはそれを知っていると思うんです。 あなたはイエス様をもっとよく知りたいのではないでしょうか?あなたは本当の祈り人になろうと思いませんか?そのための道は、あなたが人の魂を獲得するために出かけるところにあるのです。 あなたがもしそれをするのなら、あなたは祈らざるを得ません。そうしたら、主イエス様をすばらしくよく知ることができるようになります。 あなたの心からの願いは何でしょうか?あなたが主イエス様と一緒に人の魂を救いたいと思ってるのであれば、本当に幸いと思います。 ですから、私たちは如何にしてキリストのために魂を獲得することができるかという問いについて、一緒に考えてみたいと思います。4つの問いに分けてみますと、 第一番目は、重要な質問と確証。 第二番目は、魂の救いの根本状況(条件)。 第三番目は、魂の救い(救済者)。 第四番目は、魂を救う人に対する忠告。 であります。 まずはじめに、重要な質問と確証について考えてみたいと思います。 私たちは主のものとして、生きておられる方のまことの子どもとして、人の魂を救う者でしょうか。あなたは、どれだけたくさんの魂を主イエス様のところへ導いたのでありましょうか。 それともあなたは一生涯信心深い様子はしてるけれども、何をおいても必要な救いの奉仕をなおざりにしている人々に属するなのでありましょうか。 魂を漁らないキリスト者は、ちょうど土地をそこなう、実らない土地のようなもんだということをご存知でしょうか。主イエス様のために、救われていない人の魂を獲得することをためらったり、そのチャンスがないんだなどと言ってはなりません。 申し訳とか、言い訳はいつもやりたくないということを表しています。主イエス様との生き生きとした結びつきをもって、生活をしているキリスト者は、魂の滅び行く人々に主イエス様の道を指し示す人々にほかなりません。さらに私たちは、人の魂を救うということは偉大な仕事であり、しかも主なる神が、人間にこの仕事をお許しになったというこをご存知でしょうか。 主イエス様がペテロとアンデレがついて来るのを見て、次のように言われました。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と。 イエス様に従っている者は、それはとりもなおさず主イエス様から人を漁る人として召されたことを意味しています。あなたはこの大切な事実を確信し、自覚しているのでありましょうか。 また一方救われた者として救いの奉仕をしない者は、必ず霊的にそこなわれるのであります。どうでもよい者だというような者になってしまうのです。将来主イエス様の前に進みでるとき、空手の人はどんなにつらいことでしょう。 ダニエル書12:3
私たちはこのすばらしい約束に面と向かっていながら、なおも信心深いなどということで満足していられるのでありましょうか。いいえ、私たちが最初の愛を捨てないかぎり、私たちはそのままでおられないはずです。 もしあなたが最初の愛を捨てしまってるなら悔い改めなさい。そして主からの力で自分を満たし、主イエス様の名前によって勇気を持ち、魂の救いの働きにでかけなさい。 続いて第二番目の点、すなわち魂の救いの根本状況について考えてみたいと思います。 キリスト者は魂を救うものでなければなりません。魂を救う者でないキリストはどうでもよいという危険な状態にいるのです。なまぬるいんです。 しかしイエス様との生き生きした結びつきをもって生活している人は、地獄に滅びゆく他の人々を無関心にながめているなどということはできないはずです。それどころか、必ずこの確実な滅びに落ちゆく失われた魂を救い、主イエス様のとこへ導こうとするんです。 このために必要としているものは、いったい何なんでありましょうか。 第一番目は繊細な感情であります。意見であります。 イエス様に対してまだ回心していない人を救うためには意見が大切です。まごころと愛のこもった慎みが、これから蒔こうとする土地に用意されなければなりません。 この意見とは、まず救われつつある人の個人的関心事の相手になってあげるということです。話している間にも、その人に何が必要かを指し示してあげることが必要です。繊細な感情です。 第二番目に主イエス様との祈りの結びつきもどうしても必要です。この結びつきがなければ意見は何の役にも立ちません。決定的な勝利は絶えず祈りによって勝ち取られるんです。 第三番目にはいわゆる能力であります。 魂救う者は聖書を用いなければなりません。神のみことばだけが魂を救う力を持っているのです。 聖書を用いようとする人は聖書を知らなければなりません。聖書を応用することができなければなりません。そのためには個々の聖書の個所を暗記することをお勧めします。 第四番目にみことばを信ずる信仰です。 必要なのは、主のみことばが真実であるということを絶対的に確信することです。聖書に対して、みことばに対して、少しの疑い、少しの不安でも持っているならば、結果は不確かな者となり失敗します。 なぜなら疑いとか不安は聖霊の働きを無力にするからです。疑いとか不安は、ちょうど小児麻痺のウィルスのようなものです。例えば神なき者、回心していない者は滅びるという確信のない者は魂の救済にも活発でないのです。 繊細な感情、主と祈りの結びつき、能力(聖書を用いる能力)、そして四番目にはみことばを信ずる信仰はどうしても必要です。 これから第五番目になりますけれども、決して絶望することのない信仰も必要です。 ある場合には完全に見込みがないように思われるかもしれません。しかしイエス様を考えている人は、意外なことを経験することが許されます。 絶望している信仰ではイエス様の偉大さをみることができません。しかしイエス様に錨を下ろした信仰は、主の御手を動かすことができるんです。人を主のみもとに導こう思えば、このような決して絶望することのない信仰を持つ必要があります。 それから第六番目に忍耐も必要です。 忍耐のない魂の救済者は役に立つどころか害になります。結果を豊かに結ぶ魂の救いとは、神の時を考えることに馴れていなければなりません。なぜなら主なる神の時は、私たちの時とは違うからです。まったく異なっているからです。 例えばノイローゼ気味の辛抱強くない漁師はあまり魚を獲らないか、また全然魚を獲らないのと同じです。魂を救いたいと思いながらもこの忍耐を知らない人は、当を得た、しかも絶対必要なイエス様の忍耐をなおも学んでください。 マタイの福音書4:19-20
と書いてあります。 今まで、重要な質問と確証及び魂の救いの根本要素について話しましたが、これから魂の救済者、すなわち魂の救い手について一緒に考えてみたいと思ます。 第一番目は、人の魂を救う者は完全に主イエス様に従う者でなければなりません。中途半端な信者は魂の救い手となることはできないのです。 中途半端な人は三つの興味を持っています。信心深そうな話とか、信心深そうな趣味を、または楽しみの場所とかを愛しているのであります。 あらゆる施設を主イエス様の意志として受け取る備えのない人は、結果の乏しい人です。また何かあることで妥協してしまっている人は、ちょうどルカの福音書に出てくる畑を耕す人のような者です。すなわち「手にスキを付けてから、すなわち後ろを見る人のような者です。」全然妥協のない断固とした態度の持ち主だけが主イエス様と一緒に十字架につけられたすばらしい生活をすることができます。 第二番目は、実り多い魂の救い手は聖霊に満たされていなければならないということであります。 主を信じる者の中で聖霊に満たされている者は割合に少ないということは非常に悲しい事実です。聖霊によって示された道を行かない者は多くの実例が示すように良心、またはふざけ半分の信仰にその人を追いやるのです。 キリスト者の生活に主イエス様の死と、よみがえりの力が働いていないならば、聖霊の満たしを自分のものとすることができません。 聖霊の満たしをいつも願っているものは、前もってローマ人への手紙6章6節のどうしても必要な真理を自分のものとしなければなりません。ちょっとお読みします。 ローマ人への手紙6:6
と書いてあります。 ガラテヤ人への手紙2:20
と書いてあります。このことを体験的に知ることが勝利の生活の秘訣であります。 第三番目に、魂を救う人は祈りの人でなければなりません。この場合、静かな小部屋での祈りや交わりの祈りが問題なのではなく、絶えざる主イエス様との祈りの結びつきが問題です。 人の魂を救いたいと思う人はこの非常に大切な仕事をしている間、イエス様と絶えず結びつきを持っていなければなりません。さらに次のような事柄を祈ることが大切です。
何の罪かいちいち名前をあげて主の前に告白しなさい。主の御前に次の質問してるのをじっくりとお考えになってください。
魂の救済者は 第一番目に、徹底的に主にだけに従わなければならない。 第二番目に、霊に満たされていなければならない。 第三番目に、祈りの人でなければならないのであります。 今度は第四番目になりますけども、魂を救う人は魂を救いたいという要求で満ちていなければならない。 まだ救われていない人の苦しみを見て、涙も流さないようなクリスチャンは、イエス様のために情熱を燃やすが何を意味するのかを知らない人です。自分が手術する患者を愛さなくても、その外科医はよい外科医であるかも知れません。滅び行く人を愛さない魂の救済者は、実を結ぶことのない魂の救済者であります。 スコットランドのジョン・ノックスはどう祈ったのでしょうか。「主よ。われにスコットランドを与えたまえ。さもなくば私は死にます。」と祈りました。 主イエス様のために情熱をもたず、主のために人を救おうとする気持ちを精神と魂にみなぎらせていない人は、自分の信仰の生涯を信心深い理想主義としてしまうのです。 ここまでは重要な質問と確証及び魂の救いの根本要素などから、魂いの救済者について考えましたが、これから魂を救う人に対する忠告を致したいと思います。 第一番目に、どうしたら魂の救いの働きをすることができるのでありましょうか。
マルコの福音書1章16からお読み致します。 マルコの福音書1:16-18
「イエスはシモンをご覧になった。」シモンは名前だけを用いました。そのうちにシモンは人間の弱さを表わしています。主イエス様がシモンをはじめてご覧になった時、イエス様はシモンを特別によい人間とは思いませんでした。 シモン・ペテロは十字架にかかられたイエス様を、鶏の鳴く前に何度も知らないと否定しました。ペテロに聖霊が降りた時、すばらしい説教をすることも、イエス様はその時知っておられたのです。 すなわちイエス様は人間だけを見るのではなく、イエス様は恵みによってその人間がいかに変るかも見ておられます。イエス様はシモンをご覧になったように私たちをもご覧になっておられます。あなたがよい人であろうが、悪い人であろうが、またあなたが適当な人であろうが構わないんです。とにかくあなたをご覧になってあなたを呼んでおられます。 主イエス様の言葉を聞いてください。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエス様は言われ、また祝ってくださるのです。 この学びの最後に、もう一つの大切な質問について考えてみたいと思います。すなわち救われたいと思っている人を如何に取り扱うか?という質問です。 自分の魂の救いに悩み、救われたいと思っている人は、すでに聖霊の働きのもとにいます。なぜなら聖霊は罪に対して人の目を開かせる方です。けれども、まず本当の後悔の念があるかどうかを試してみてください。後悔のないところは信仰はあり得ません。悔い改めのない信仰は救いを得させる信仰ではありません。 次の個所を読めばわかります。 マタイの福音書22:32
詩篇38:6
コリント人への手紙第II、7:10
ヨハネの手紙第I、1:9
私たちが主イエス様に罪を告白しないかぎり、主なる神は私たちの罪を赦すことができません。ですから悔い改めたい罪人がまず第一に、自分の罪を主イエス様に告白することが大切です。 イエス様は約束してくださいました。私のもとに、私のところに来る者は私は決して捨てません。ダビデは自分の罪を言いあらわしたから、罪の赦しを確信することができました。 詩篇32:5
救われたいと思ってる人に、「世の罪を取り除く神の小羊」として主イエス様を教えて上げなさい。 イザヤ書53:4-6
あるいは、 ペテロの手紙第I、1:24
ガラテヤ人への手紙3:13
あるいは、 ヨハネの手紙第I、2:2
まだ救われたいと思っている人に、「主イエス様は正しい者のためではなく、罪人のために亡くなられたこと」を教えて上げなさい。 ローマ人への手紙5:6
さらに、救われたいと思ってる人に、「主なる神は、罪人であり神の前に滅び失われていることを認めている人を義とされる」ことを教えて上げなさい。 ローマ人への手紙4:5
コリント人への手紙第II、5:21
まだ、救われたいと思っている人に、「主イエス様のまことの力」を教えてください。 イエス様の死はすべての罪を洗い聖めます。もしあなたがイエス様の血潮を信じるならば、あなたの罪は取り除かれ、もはや神はその罪を思い出すことはしません。 主を信じる者は救われて、もはや裁きに至ることはないと聖書は言ってます。 イザヤ書1:18
ローマ人への手紙3:24-25
ローマ人への手紙5:7-10
ヨハネの手紙第I、1:7
エペソ人への手紙1:7
救われたいと思っている人に、「主イエス様が完全に救うことがおできになること」を教えて上げなさい。 ヘブル人への手紙7:25
ユダの手紙1:24
ペテロの手紙第I、1:5
救われたいと思っている人に、「どうして救われるか。すなわち自分の行いではなく、ただ、ただ信仰により救われること」を教えて上げなさい。 ローマ人への手紙3:25-26
使徒の働き16:30-31
ヨハネの福音書3:16、36
ローマ人への手紙10:9-10
救われたいと思っている人に、「信仰は感情と全然関係がない」と、教えなさい。多くの人は罪の苦しみのうちに滅びるという感情にとらわれています。ですからその人には、「信仰とは、主イエス様がなされた救いのみわざを自分から見つめることである」ことを教えて上げなさい。 ヘブル人への手紙11:1
と書いてあります。主イエス様、ご自身が約束してくださったのです。 すなわち主イエス様の血はすべての罪から聖めることを、滅び行くあらゆる感情にもかかわらず信じましょう。主は約束してくださったからです。 もう一回言いましょうか。救われたいと思ってる人を如何に取り扱うべきでしょうか。悔い改めたい気持ちがあるかどうか調べてください。 なぜならば悔い改めのないところに信仰はあり得ないからです。悔い改めのない信仰は救いを得さす信仰ではありません。信仰のない悔い改めも役に立たないものです。
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