個人伝道1


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

キリスト者に与えられた使命について、すなわち個人伝道について一緒に考えてみたいと思います。
キリスト者は自分の職業の他に一つの使命を持っています。しかしわれわれにとってこの使命こそ、生活の全てなのでありましょうか?私たちはこの使命をしっかり持っているのでありましょうか?この使命のために従順であり、そのためにすべてを捧げているでありましょうか?いろいろな場にあって、あなたの周囲にいる人々は、あなたがたが主イエス様の使徒とわかるでありましょうか?
そのためには一分一秒たりともおろそかにせず、主に従順でなければなりません。そのためペテロの手紙第I、1章14節から15節に次のように書いてあります。

ペテロの手紙第I、1:14-15
14従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
15あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

と書いてあります。愛する兄弟姉妹たち、私たちの心の願いは、いったい何なのでありましょうか。
また主イエス様の願いはいったい何でしょうか。
私たちの心の願いと主イエス様の願いは同じでしょうか。
私たちにとって、一番大切なものは、いったい何でしょうか。自分の仕事でしょうか。自分の興味でしょうか。自分の集会でしょうか。自分の奉仕でしょうか。
われわれの心の願いはいったい何なのでありましょうか。
主イエス様は私たちを見たら喜んでくれるのでありましょうか。
主イエス様の心からの願いは、主の御心にかなった生活をして、まことに主を喜ばせることであります。主イエス様は何を欲しておられるのでありましょうか。
主イエス様の心から願いは何でしょうか。主イエス様は何を望んでおられるのでありましょうか。一言で言うならば、主はひとりも滅びることがないように願っておられるのであります。

ペテロの手紙第II、3:9
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と主イエス様は、言っておられます。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

ですから主なる神の願いは、人間が救われることなんです。主は人間を救うために、ご自分のもっとも愛するお方を、すなわち主イエス様をお与えになったのです。
私たちの心の願いは何なのでありましょうか。私たちの願いはやはり人を救うことでしょうか。
もしこの目標を頭に入れてない者は、主を悲しませるなまけ者です。今から私たちは毎週一人の人がこの東京で救われるように祈ろうではありませんか。使徒の働きをちょっと見てみましょうか。

使徒の働き2:46-47
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

使徒の働き4:4
4しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。

とあります。

使徒の働き5:14
14そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

と書いてあります。

使徒の働き5:40-42
40使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
41そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
42そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

使徒の働き6:7
7こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

とあります。毎日という言葉が何回もでてきます。毎日人が救われることを願うのは多すぎるでしょうか。絶対にそんなことはありません。主イエス様は私たちが信じれば信じるほど多くのことをなしてくださいます。私たちは主イエス様に、いくら信頼してもしすぎるとうことはありません。
一つのことがはっきりしています。私たちの不信仰のため、主イエス様は今までにあまり多くのことをなすことができなかったということです。それを認めなければならないのです。

主イエス様がナザレにおられた時、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手をおいて癒されただけであった。主イエス様は彼らの不信仰に驚かれたとあります。
すなわち主イエス様はナザレでもっとたくさんのことをやりたかったんです。しかし彼らの不信仰によって、ただ二、三人を癒されただけでした。
ナザレと同じことが私たちについても言えるのではないでしょうか。すなわち私たちの中でも力あるわざをいままで行なうことができずに、ただ少数の者だけが、罪を赦され喜びを与えられただけなのです。
あなたのここからの願いは何でしょうか。私たちはそれを知っていると思うんです。

あなたはイエス様をもっとよく知りたいのではないでしょうか?あなたは本当の祈り人になろうと思いませんか?そのための道は、あなたが人の魂を獲得するために出かけるところにあるのです。
あなたがもしそれをするのなら、あなたは祈らざるを得ません。そうしたら、主イエス様をすばらしくよく知ることができるようになります。
あなたの心からの願いは何でしょうか?あなたが主イエス様と一緒に人の魂を救いたいと思ってるのであれば、本当に幸いと思います。

ですから、私たちは如何にしてキリストのために魂を獲得することができるかという問いについて、一緒に考えてみたいと思います。4つの問いに分けてみますと、

第一番目は、重要な質問と確証。
第二番目は、魂の救いの根本状況(条件)。
第三番目は、魂の救い(救済者)。
第四番目は、魂を救う人に対する忠告。

であります。

まずはじめに、重要な質問と確証について考えてみたいと思います。
私たちは主のものとして、生きておられる方のまことの子どもとして、人の魂を救う者でしょうか。あなたは、どれだけたくさんの魂を主イエス様のところへ導いたのでありましょうか。
それともあなたは一生涯信心深い様子はしてるけれども、何をおいても必要な救いの奉仕をなおざりにしている人々に属するなのでありましょうか。
魂を漁らないキリスト者は、ちょうど土地をそこなう、実らない土地のようなもんだということをご存知でしょうか。主イエス様のために、救われていない人の魂を獲得することをためらったり、そのチャンスがないんだなどと言ってはなりません。
申し訳とか、言い訳はいつもやりたくないということを表しています。主イエス様との生き生きとした結びつきをもって、生活をしているキリスト者は、魂の滅び行く人々に主イエス様の道を指し示す人々にほかなりません。さらに私たちは、人の魂を救うということは偉大な仕事であり、しかも主なる神が、人間にこの仕事をお許しになったというこをご存知でしょうか。

主イエス様がペテロとアンデレがついて来るのを見て、次のように言われました。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と。
イエス様に従っている者は、それはとりもなおさず主イエス様から人を漁る人として召されたことを意味しています。あなたはこの大切な事実を確信し、自覚しているのでありましょうか。
また一方救われた者として救いの奉仕をしない者は、必ず霊的にそこなわれるのであります。どうでもよい者だというような者になってしまうのです。将来主イエス様の前に進みでるとき、空手の人はどんなにつらいことでしょう。

ダニエル書12:3
3思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

私たちはこのすばらしい約束に面と向かっていながら、なおも信心深いなどということで満足していられるのでありましょうか。いいえ、私たちが最初の愛を捨てないかぎり、私たちはそのままでおられないはずです。
もしあなたが最初の愛を捨てしまってるなら悔い改めなさい。そして主からの力で自分を満たし、主イエス様の名前によって勇気を持ち、魂の救いの働きにでかけなさい。

続いて第二番目の点、すなわち魂の救いの根本状況について考えてみたいと思います。
キリスト者は魂を救うものでなければなりません。魂を救う者でないキリストはどうでもよいという危険な状態にいるのです。なまぬるいんです。
しかしイエス様との生き生きした結びつきをもって生活している人は、地獄に滅びゆく他の人々を無関心にながめているなどということはできないはずです。それどころか、必ずこの確実な滅びに落ちゆく失われた魂を救い、主イエス様のとこへ導こうとするんです。
このために必要としているものは、いったい何なんでありましょうか。

第一番目は繊細な感情であります。意見であります。
イエス様に対してまだ回心していない人を救うためには意見が大切です。まごころと愛のこもった慎みが、これから蒔こうとする土地に用意されなければなりません。
この意見とは、まず救われつつある人の個人的関心事の相手になってあげるということです。話している間にも、その人に何が必要かを指し示してあげることが必要です。繊細な感情です。

第二番目に主イエス様との祈りの結びつきもどうしても必要です。この結びつきがなければ意見は何の役にも立ちません。決定的な勝利は絶えず祈りによって勝ち取られるんです。

第三番目にはいわゆる能力であります。
魂救う者は聖書を用いなければなりません。神のみことばだけが魂を救う力を持っているのです。
聖書を用いようとする人は聖書を知らなければなりません。聖書を応用することができなければなりません。そのためには個々の聖書の個所を暗記することをお勧めします。

第四番目にみことばを信ずる信仰です。
必要なのは、主のみことばが真実であるということを絶対的に確信することです。聖書に対して、みことばに対して、少しの疑い、少しの不安でも持っているならば、結果は不確かな者となり失敗します。
なぜなら疑いとか不安は聖霊の働きを無力にするからです。疑いとか不安は、ちょうど小児麻痺のウィルスのようなものです。例えば神なき者、回心していない者は滅びるという確信のない者は魂の救済にも活発でないのです。

繊細な感情、主と祈りの結びつき、能力(聖書を用いる能力)、そして四番目にはみことばを信ずる信仰はどうしても必要です。

これから第五番目になりますけれども、決して絶望することのない信仰も必要です。
ある場合には完全に見込みがないように思われるかもしれません。しかしイエス様を考えている人は、意外なことを経験することが許されます。
絶望している信仰ではイエス様の偉大さをみることができません。しかしイエス様に錨を下ろした信仰は、主の御手を動かすことができるんです。人を主のみもとに導こう思えば、このような決して絶望することのない信仰を持つ必要があります。

それから第六番目に忍耐も必要です。
忍耐のない魂の救済者は役に立つどころか害になります。結果を豊かに結ぶ魂の救いとは、神の時を考えることに馴れていなければなりません。なぜなら主なる神の時は、私たちの時とは違うからです。まったく異なっているからです。
例えばノイローゼ気味の辛抱強くない漁師はあまり魚を獲らないか、また全然魚を獲らないのと同じです。魂を救いたいと思いながらもこの忍耐を知らない人は、当を得た、しかも絶対必要なイエス様の忍耐をなおも学んでください。

マタイの福音書4:19-20
19イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
20彼らはすぐに網を捨てて従った。

と書いてあります。

今まで、重要な質問と確証及び魂の救いの根本要素について話しましたが、これから魂の救済者、すなわち魂の救い手について一緒に考えてみたいと思ます。

第一番目は、人の魂を救う者は完全に主イエス様に従う者でなければなりません。中途半端な信者は魂の救い手となることはできないのです。
中途半端な人は三つの興味を持っています。信心深そうな話とか、信心深そうな趣味を、または楽しみの場所とかを愛しているのであります。
あらゆる施設を主イエス様の意志として受け取る備えのない人は、結果の乏しい人です。また何かあることで妥協してしまっている人は、ちょうどルカの福音書に出てくる畑を耕す人のような者です。すなわち「手にスキを付けてから、すなわち後ろを見る人のような者です。」全然妥協のない断固とした態度の持ち主だけが主イエス様と一緒に十字架につけられたすばらしい生活をすることができます。

第二番目は、実り多い魂の救い手は聖霊に満たされていなければならないということであります。
主を信じる者の中で聖霊に満たされている者は割合に少ないということは非常に悲しい事実です。聖霊によって示された道を行かない者は多くの実例が示すように良心、またはふざけ半分の信仰にその人を追いやるのです。
キリスト者の生活に主イエス様の死と、よみがえりの力が働いていないならば、聖霊の満たしを自分のものとすることができません。
聖霊の満たしをいつも願っているものは、前もってローマ人への手紙6章6節のどうしても必要な真理を自分のものとしなければなりません。ちょっとお読みします。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

と書いてあります。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです

と書いてあります。このことを体験的に知ることが勝利の生活の秘訣であります。

第三番目に、魂を救う人は祈りの人でなければなりません。この場合、静かな小部屋での祈りや交わりの祈りが問題なのではなく、絶えざる主イエス様との祈りの結びつきが問題です。
人の魂を救いたいと思う人はこの非常に大切な仕事をしている間、イエス様と絶えず結びつきを持っていなければなりません。さらに次のような事柄を祈ることが大切です。
  1. 主イエス様は私たちをいつも適当な人間に結び付けます。私たちは会う人全部に、いきなりその人の魂の救いについて語りかけるなどということはできません。主はいつも適当な人を結び付けます。
  2. 主イエス様は私たちにいつも適当な言葉を送ってくださり、個々の人の取り扱いに適当な方法を主は示してくださいます。
  3. 主は私たちがするこの仕事を吟味してくださいます。魂の救いの働きの前後の祈りは、働く人と同じ位大切です。祈りのないキリスト者はみじめな姿です。あわれな者です祈りなきキリスト者は喜びがないし、実を結ばないし、救霊者とはなり得ません。
私たちの祈りの生活の様子はどうでありましょうか。私たちが祈りの霊がなくなる理由はどこにあるのでしょうか。全ての邪魔者を取り除かれなければなりません。
何の罪かいちいち名前をあげて主の前に告白しなさい。主の御前に次の質問してるのをじっくりとお考えになってください。
  • 私の祈りの生活は罪によって力のないものとなっていなかったでしょうか。
  • 私の祈りの生活はあせり、不規則、不信仰によって妨げられていなかったでしょうか。
  • 私の祈りの生活は実りがなかったのではないでしょうか。また自分は主イエス様との交わりをもって、人々の魂を救う力をもっているでありましょうか。
  • 私は自分のこと、自分の仕事、自分の家族のためにだけ祈るのでありましょうか。それとも全世界のためにも祈るのでしょうか。
  • 自分の祈りの生活はいろいろな思い煩いのために弱くされてはいないでしょうか。祈りのうちに大きな仕事をしていることができるそれをいつも覚えてください。
  • 私たちの祈りの生活は成長しているのでありましょうか。私たちは毎日の祈りの意味と力をより多く学んでいるのでしょうか。この問いに対して私たちの答えはどうでしょうか。
私たちの生活をみますと、その失敗の全ては祈りがなかったことから出ることがわかります。祈りによって全てが可能になるのです。心から祈れば多くの人々が救われます。

魂の救済者は
第一番目に、徹底的に主にだけに従わなければならない。
第二番目に、霊に満たされていなければならない。
第三番目に、祈りの人でなければならないのであります。
今度は第四番目になりますけども、魂を救う人は魂を救いたいという要求で満ちていなければならない。

まだ救われていない人の苦しみを見て、涙も流さないようなクリスチャンは、イエス様のために情熱を燃やすが何を意味するのかを知らない人です。自分が手術する患者を愛さなくても、その外科医はよい外科医であるかも知れません。滅び行く人を愛さない魂の救済者は、実を結ぶことのない魂の救済者であります。
スコットランドのジョン・ノックスはどう祈ったのでしょうか。「主よ。われにスコットランドを与えたまえ。さもなくば私は死にます。」と祈りました。
主イエス様のために情熱をもたず、主のために人を救おうとする気持ちを精神と魂にみなぎらせていない人は、自分の信仰の生涯を信心深い理想主義としてしまうのです。

ここまでは重要な質問と確証及び魂の救いの根本要素などから、魂いの救済者について考えましたが、これから魂を救う人に対する忠告を致したいと思います。
第一番目に、どうしたら魂の救いの働きをすることができるのでありましょうか。
  1. 口で話すことによってです。その方法によって魂の救済はもっとも効果の多い大切な方法です。この方法の右にでるものはありません。個人的接触はしばしば奇跡を現わします。この接触を妨げる障害が山のようにあっても、信仰は山をも置きかえるということをはっきり知ることが大切です。
  2. この次はトラクトによってです。魂の救いの働きをすることができるんです。トラクトを配ることによって、いろいろな書物、読み物をあげることによってです。もちろんこの場合、いい本、よいトラクトだけを配る注意が肝要であります。読者には一番よい種を蒔くように心がけます。収穫の時に失望しないようによい種を蒔きましょう。
    本はたくさん出ています。トラクトもたくさん出ています。でも実際によいのは僅かです。そのトラクトはまだ回心していない読者が曖昧に妥協することなく、二者択一、あれかこれか一つを選ぶことを迫るようなものでなければなりません。
  3. こんどは個人的な手紙によってです。手足を切断された、そして木の切り株のように横になったままでいなければならない若い婦人がいました。この婦人はこの痛ましい状態にもかかわらず、主イエス様のために働きたいと思ったのです。
    この人は長い間考えた後に指物師(家具職人)に自分のからだを固定することができ、マグネットを備えた台をを作らせました。このように大変骨の折れる方法で、次々と数千通の手紙を書いたのです。この手紙が数百人の人を救うエンジンとなったのです。個人的な手紙を通しても伝道することができるんです。
  4. あるいは、もう一つは集会に招くことです。この場合、もちろん福音を宣べ伝える者は生まれ変わった者であることと、全福音を省略することなく宣べ伝えること、及び聖書の霊感を信じてるものであることが前提となっています。この霊感とは聖書の神の言葉であり、主なる神が人に書かせたのが聖書です。聖書を書いた人は聖霊によって書いたのですが、自分の考えで書いたのではありません。ですから、聖書は霊感の書です。
今まで、第一番目にどうしたら魂の救いの働きをすることができるかについて考えたのですが、こんどは第二番目になりますけれども、こんどは牧会の個人的相談に対しては次の点に注意することが必要です。
  1. 一般に、男性、女性両方、牧会者は同姓の人とするのを常にすべきです。困難な問題の場合はいつも経験に富んだ兄弟または姉妹にまかせられるべきです。
  2. 牧会の相談のときには第三者がその場にいないことが必要です。もちろんどうしてもそれが望まれればその限りではありません。
  3. あなたと話してる人の話をさえぎってはいけません。むしろ、あなたはその人の話を聞きながら、この場合には聖書のどの個所を適用すべきかを祈るとともによく考えることです。いつも目標をつかんでいなければなりません。この目標から、自分を決してそらしてはいけません。本来の目標と、結局導く機会を逃してはなりません。
  4. あなたはたとえ挑戦されても、激しい言葉で答えてはいけません。テモテへの手紙第II、2章24節-26節に次のように書いてあります。

    テモテへの手紙第II、2:24-26
    24主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、
    25反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。
    26それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。

    すなわち、いつも変わりなく、親切でいなさい。
  5. 勇気を持ちなさい。だれにも恐れをいだいてはなりません。恐れをいだく、不安を持っているキリスト者は他の人に全然感銘を与えません。使徒たちの持っていた大胆さを覚えてください。彼らの内に住まわれた主は、われわれの内にも住んでくださるのです。
  6. 議論してはなりません。

    テモテへの手紙第I、6:20
    20テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。

    と書いてあります。

    テモテへの手紙第II、2:23
    23愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。

    とあります。あなたの議論は聖書に書かれているものであってほしい。なぜなら、神の言葉が、岩を引き裂き、打ち砕き、ハンマーのようであって、あなたの論拠は岩を砕くことはできません。
  7. たずねている人、自身に聖書の個所を読んでもらうことを忘れてはなりません。そのたびごとに、その人に聖書のみことばが真理であることがわかったかどうか尋ねなさい。、もしわからなかったら、もしそうすることが必要なら、あなたは聖書の他の個所を引用して、その人に聖書のみことばを説明してください。いかなる場合も聖書をおろそかにしてはなりません。

マルコの福音書1章16からお読み致します。

マルコの福音書1:16-18
16ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

「イエスはシモンをご覧になった。」シモンは名前だけを用いました。そのうちにシモンは人間の弱さを表わしています。主イエス様がシモンをはじめてご覧になった時、イエス様はシモンを特別によい人間とは思いませんでした。
シモン・ペテロは十字架にかかられたイエス様を、鶏の鳴く前に何度も知らないと否定しました。ペテロに聖霊が降りた時、すばらしい説教をすることも、イエス様はその時知っておられたのです。
すなわちイエス様は人間だけを見るのではなく、イエス様は恵みによってその人間がいかに変るかも見ておられます。イエス様はシモンをご覧になったように私たちをもご覧になっておられます。あなたがよい人であろうが、悪い人であろうが、またあなたが適当な人であろうが構わないんです。とにかくあなたをご覧になってあなたを呼んでおられます。
主イエス様の言葉を聞いてください。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエス様は言われ、また祝ってくださるのです。

この学びの最後に、もう一つの大切な質問について考えてみたいと思います。すなわち救われたいと思っている人を如何に取り扱うか?という質問です。
自分の魂の救いに悩み、救われたいと思っている人は、すでに聖霊の働きのもとにいます。なぜなら聖霊は罪に対して人の目を開かせる方です。けれども、まず本当の後悔の念があるかどうかを試してみてください。後悔のないところは信仰はあり得ません。悔い改めのない信仰は救いを得させる信仰ではありません。

次の個所を読めばわかります。

マタイの福音書22:32
32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」

詩篇38:6
6私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

コリント人への手紙第II、7:10
10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

私たちが主イエス様に罪を告白しないかぎり、主なる神は私たちの罪を赦すことができません。ですから悔い改めたい罪人がまず第一に、自分の罪を主イエス様に告白することが大切です。
イエス様は約束してくださいました。私のもとに、私のところに来る者は私は決して捨てません。ダビデは自分の罪を言いあらわしたから、罪の赦しを確信することができました。

詩篇32:5
5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

救われたいと思ってる人に、「世の罪を取り除く神の小羊」として主イエス様を教えて上げなさい。

イザヤ書53:4-6
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

あるいは、

ペテロの手紙第I、1:24
24「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

ガラテヤ人への手紙3:13
13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

あるいは、

ヨハネの手紙第I、2:2
2この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

まだ救われたいと思っている人に、「主イエス様は正しい者のためではなく、罪人のために亡くなられたこと」を教えて上げなさい。

ローマ人への手紙5:6
6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

さらに、救われたいと思ってる人に、「主なる神は、罪人であり神の前に滅び失われていることを認めている人を義とされる」ことを教えて上げなさい。

ローマ人への手紙4:5
5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

コリント人への手紙第II、5:21
21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

まだ、救われたいと思っている人に、「主イエス様のまことの力」を教えてください。
イエス様の死はすべての罪を洗い聖めます。もしあなたがイエス様の血潮を信じるならば、あなたの罪は取り除かれ、もはや神はその罪を思い出すことはしません。
主を信じる者は救われて、もはや裁きに至ることはないと聖書は言ってます。

イザヤ書1:18
18「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

ローマ人への手紙3:24-25
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

ローマ人への手紙5:7-10
7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

ヨハネの手紙第I、1:7
7御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

エペソ人への手紙1:7
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

救われたいと思っている人に、「主イエス様が完全に救うことがおできになること」を教えて上げなさい。

ヘブル人への手紙7:25
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

ユダの手紙1:24
24あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、

ペテロの手紙第I、1:5
5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

救われたいと思っている人に、「どうして救われるか。すなわち自分の行いではなく、ただ、ただ信仰により救われること」を教えて上げなさい。

ローマ人への手紙3:25-26
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

使徒の働き16:30-31
30そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

ヨハネの福音書3:16、36
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
36御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ローマ人への手紙10:9-10
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

救われたいと思っている人に、「信仰は感情と全然関係がない」と、教えなさい。多くの人は罪の苦しみのうちに滅びるという感情にとらわれています。ですからその人には、「信仰とは、主イエス様がなされた救いのみわざを自分から見つめることである」ことを教えて上げなさい。

ヘブル人への手紙11:1
1信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

と書いてあります。主イエス様、ご自身が約束してくださったのです。
すなわち主イエス様の血はすべての罪から聖めることを、滅び行くあらゆる感情にもかかわらず信じましょう。主は約束してくださったからです。

もう一回言いましょうか。救われたいと思ってる人を如何に取り扱うべきでしょうか。悔い改めたい気持ちがあるかどうか調べてください。
なぜならば悔い改めのないところに信仰はあり得ないからです。悔い改めのない信仰は救いを得さす信仰ではありません。信仰のない悔い改めも役に立たないものです。
  • 悔い改めたい罪人がまず第一に、自分の罪を主イエス様に告白することの大切さを教えてください。
  • また世の罪を取り除かれた主イエス様を、心の目で見るようにと教えてください。
  • イエス様は正しい人のためでなく、また罪人のために亡くなられたことを教えてください。
  • また主なる神は、罪人であり神の前に滅び失われていることを認めている人々を義とされたことを教えてください。
  • また主イエス様の血の力を教えて上げなさい。また主イエス様の血の力はすべての罪を洗い聖めます。
  • イエス様が完全に救うことができ、いやすことができ、解放することがおできになることを教えてください。
  • 救われたいと思っている人にどうして救われるか、自分の行いではなく、ただ信頼することにより、信仰により救われることを教えてください。
  • また救いの土台なるものは、確信の土台なるものは決して自分の感情ではなく、理性でもなく、主のみことばだけである。だから、みことばだけに頼るようにと教えてください。




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