個人伝道2


ベック兄

(レトロテープ聞き取り)

続いて個人伝道について学びたいと思います。始めに聖書から2ヵ所ばかりお読み致ししたいと思います。

箴言11:30
30正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。

箴言24:11-12
11捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。
12もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。

ドイツには有名なクリスマスの歌があります。それは次にような内容のものです。

世は失われてしまった。
しかしキリストがお生れになった。
それだから喜べ、大いに喜べ。

この歌によって、二つの事実と一つの命令が明らかにされています。
すなわち第一の事実は、この世が失ってしまっていることが、日々私たちに示されて明らかになっているという事実なのです。しかしながら残念なことに、この事実は当たり前のようになってしまって、ほとんど私たちの心を動さないほどまでになってしまっているのであります。
第二の事実は、キリストがお生れになったという事実が私たちをはるかに感動されるべきものであり、この喜びの訪れはすごくよく宣べ伝えるのに値するものなのです。
そして主の命令は喜びなさい、大いに喜びなさいとということなのです。

この喜びの源とは何かと申しますと、主イエス様がお生れになったということ。大いなる救いの代価を支払われたということ。そして福音が成就されたということ。また、私たちが永久に主のものとなることが許されているということなんです。
しかしながら、この特権は同時に責任をも意味してるのです。そしてその責任とは漁る者となること。すなわち人から人へと福音を宣べ伝えることを意味してるのです。
主イエス様は今日も言っておられます。「私はあなたを人を漁る者としよう」と。

正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心を捕らえる。捕らえられて殺されようとする者を救いだし、虐殺されようとしている貧困者を助けだせ。もしあなたがそのことを知らなかったと言っても、人の心を評価する方はそれを見抜いておられないだろうか。
そこで私たちは今日、二つの点について考えてみたいと思います。
すなわち、その第一は「魂を獲得することの必要性(救霊の必要性)」。
そして第二番目は「魂を獲得することの勧めと前提条件(救霊の勧めと前提条件)」について考えてみたいと思うのであります。

本当は第三番目の点、すなわち「魂いを獲得することの実践的方法について」も学びたいと思うのですけれども、今日は時間の関係で2つの点だけについて、すなわち救霊の必要性と、救霊の勧めと前提条件について考えてみたいと思います。
 
マタイの福音書9:36-38
36また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
37そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
38だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

主イエス様が人になられ、十字架にかかってくださったことの目的は、まさに魂を救うこと以外の何ものでもありませんでした。
主イエス様が群衆をご覧になった時に、主イエス様のうちに何かが起ったのです。すなわち主は群衆をあわれまれ、そのため心のうちに大きな感動が生まれたのです。というのも、この群衆は羊飼いのいない羊のように弱りはてて倒れていたからです。

この言葉、すなわちあわれに思われた言葉は、哀歌3章22節にでています。

哀歌3:22
22主のあわれみは尽きないからだ。

マタイの福音書18:27
27しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

とあります。

マルコの福音書5:19
19「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

マルコの福音書9:22
22もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

とあります。
主イエス様が群衆をご覧になった時、主は彼等を批判したり、攻撃したりすることはなさらず、心の奥底まで彼らをあわれまれたのです。

どうですか、私たちが群衆を見た時に私たちの場合いったいどうでありましたでしょうか。先程お読み致しましたマタイの福音書9章38節-39節については次の5つの点を考えてみることができます。 

第一番目は群衆のまなざし。
第二番目は群衆の大きさ。
第三番目は群衆の苦しみ。
第四番目は群衆の罪。
第五番目は群衆の孤独です。

ちょっとだけ、一緒に考えてみたいと思います。

まず、「群衆に対するまなざし」は非常に大切です。
失われた者の状態は、私たちの心を深く捕えられるに違いありません。ここで大切なことは、主イエス様が何をご覧になったかではなく、いかにご覧になったかであります。主の反応と私たちの反応はしばしば非常に違っているのです。それは弟子たちの場合にも同じでありました。

マルコの福音書10:13-14
13さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

ルカの福音書19:39-40
39するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。
40イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

マタイの福音書15:23
23しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。

と書いてあります。この個所だけを見てもわかります。すなわちわれわれの主、羊飼いなる主、イエス様の反応と弟子の反応はずいぶん違ったのです。
弟子たちは、イエス様のみもとに行った人々を叱ったのです。また黙らせようとしたのです。そして帰してやってくださいと願ったのです。
何と多くの人々は弟子と同じようにイエス様のみもとに来る人々を叱るのでありましょうか。また、黙らせようとするのでありましょうか。あるいは帰してやってくださいと願うのでありましょうか。
しかし主イエス様は、人間は常に救われなければならない失われた者としてご覧になったのです。それですから、主は批判したり、攻撃したりしないで、彼等に同情され、あわれまれたのであります。私たちが何を見て、いかに見るかということは私たちの心を動かします。

哀歌3:51
51私の目は私の町のすべての娘を見て、この心を苦しめる。

とあります。

私たちが必要としているものは、燃ゆるがごとく救い主の愛、すなわち失われた者が救われるようにという切なる願いであります。主があわれまれたこのことゆえに、無関心でいられるでしょうか。

今まで群衆のまなざしについて考えたんですが、今度は二番目に「群衆の大きさ」について、ちょっと考えてみたいと思います。
私たちは東京、大阪のような大都市を思うとき、やはり、大群衆についても語らざるを得ません。はたして、主イエス様と生き生きとした交わりを持っている人が、この大都市の中で何人いるでしょうか。この人生の意味を見出だしている人々は何と少ないことでありましょうか。本当の喜びと、本当の満足を知っている人々はなんと少ないことでしょうか。彼等は全て救い主を必要としているのです。
これらの大群衆は私たちの心の重荷となっているのでありましょうか。人々が主イエス様を知らずして死を迎えることに対して私たちは無関心であってよいものでしょうか。

ヨハネの福音書8:24
24もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

とあります。
「もし、あなたがたが私のことを信じなければ、自分の罪の中で死ぬのです。」と主イエス様は言われたのであります。

三番目に「群衆の苦しみ」であります。主イエス様の時代の人々は羊飼いのない羊のように倒れ、バラバラに散らされてしまっておりました。同じことが私達のまわりの大部分の人について今日も言えるのではないでしょうか。

ルカの福音書1:47
47わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

と書いてあります。
「わが霊は、わが救い主なる神を喜び讃えます。」救い主を待つことは、すばらしいことであり、羊飼いである救い主を持たないことはもっとも恐ろしいことであります。
主なる神を友として知っている人は、何と少ないことでありましょうか。ヨハネの福音書15章14節に、主イエス様は次のように言われました。

ヨハネの福音書15:14
14あなたがたはわたしの友です。

主イエス様を自分の羊飼いと知っている人は、何と少ないことでありましょうか。
ダビデは次のように告白しています。「主は私の羊飼いである。私は乏しいことがありません。」また、主イエス様を避け所、また隠れ場として知っている人は何と少ないことでありましょうか。

イザヤ書32:2
2彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、

すなわち、主ご自身が彼等にとって避け所であり隠れ場であるという意味です。確信を持って将来を見ることが出来る人は何と少ないことでしょうか。詩篇の作者は確信を持っていました。

詩篇73:24
24あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。

主イエス様によって、私達は非常に富む者にされているのです。私達は主イエス様によって、救いを自分のものとすることが赦されているのです。

エペソ人への手紙1:7
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

と書いてあります。私たちは罪の赦しを持っていると言える人はあまりありません。

エペソ人への手紙1:3
3神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と書いてあります。本当に私達は救いを自分のものにしたから、本当に私たちはまことに富む者であります。またイエス様によって、私達は本当の満足を持っているのです。
また、詩篇の16章11節には、「あなたの御前には喜びが満ちています。」と書いてあります。また私たちの主イエス様によって、私達はとこしえに守られているのです。イエス様の約束を聞きましょう。

ヨハネの福音書10:28-29
28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
29わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

私たちはそのことをよく考えるならば、私たちは礼拝する以外に何もできないのです。
しかし他方において、まだ救われていない人の苦しみは私たちにとって心の重荷とならなければなりません。私は彼らに対して本当に心を動かされているのでありましょうか。
今まで群衆のまなざし、大きさ、苦しみについて考えたのですが、第四番目には「群衆の罪」について、ちょっただけ考えたいと思うにです。群衆の罪について、イザヤ書53章6節に書いてあります。すなわち、

イザヤ書53:6
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

と書いてあります。罪とは何でしょうか。さまようことです。自分の道に向かっていくことであります。
本当に私たちは、例外なく羊のようにさまよう者でした。一人一人は自分勝手の道に向かって行った者でした。けれども父なる神は、われわれの全ての罪と咎を主イエス様に負わせたと書いてあります。
このようにイザヤは2700年前に群衆のことを描き、また神の開放の道を描いた人であります。そして主イエス様も全く同じように群衆をご覧になったのです。すなわち群衆を失われた罪人とご覧になったのです。
日々私たちは新聞で離婚や殺人、また、盗難のことなどを読みます。このことに対して、私たちは無関心でいていいものでしょうか。このような惑わされた人々に対して私たちは同情を持っているのでありましょうか。
悪魔は人殺しであり、人々を惑わし、欺き、いざない、すべての結果として、絶望と自殺と自暴自棄の状態に人々を落とし入れるのです。しかし主イエス様は、私たちにいのちを与え、豊かなものにするために来られたのであります。
誰でも心の奥底では本当の満足を求めています。しかしそれを与えることができるのは、ただ主イエス様だけなのです。

第五番目に「群衆の孤独」につて、ちょっと考えたいと思うのですが、羊飼いのいない羊のように倒れ、自分勝手な道を行ってしまっていると、主イエス様は群衆の孤独について言われたのであります。
羊飼いのいない羊は本当に孤独なんです。羊飼いを持たないということは、すなわち失われているということを意味しています。
主イエス様なき人間は失われた羊のようなものです。
ルカの福音書15章40節によると、羊飼いは失われた羊を見つけるまで探し求めるのです。それこそが主イエス様の願いのなのです。
しかし何としばしば、このよき羊飼いに対して冷酷な態度をとることでありましょうか。当時の多くの人々は主イエス様に対して冷酷な態度をとったのです。だから、主イエス様は次のように言わなかったらならなかったのです。

ルカの福音書13:34
34ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

とあります。こういうふうに、群衆のまなざし、群衆の大きさ、群衆の苦しみ、群衆の罪、群衆の孤独によって救霊の必要性を知ることができると思います。

私たちは人を漁ることの大切さについて語ってまいりました。いろいろな事実がこのことについてはっきりと語っています。
例えば、地獄の存在。
二番目は、今日の堕落。
三番目は、イエスの死であります。

地獄、すなわちとこしえに失われた状態が事実存在しているゆえに、救霊が必要なのです。
主イエス様ほど、はっきりと地獄について語られた方は他には一人もおられません。また主イエス様ほど、地獄を警告している人も一人もおりません。
地獄とは永久に赦されざる、罪を見ない状態を続けて行かなければならない状態、すなわち永久に罪を犯し続け、永久にのろわれた状態に止まることです。
地獄がありますから、人間は生きている間に救われなければならないのです。地獄がありますから、キリスト者一人一人は、自分の使命を正しく知り、そして救霊のために、また主イエス様のために、魂を救うという目的を持たなければならないのです。

二番目に、今日の地上では、誰でも救われなければならないことを語っています。例えば今日、もはや本当に親密な家族というものは存在せず、そのことは多くの離婚が物語っているのです。
たとえ離婚までいかなくとも、本当の交わり、本当の相互理解、本当の愛の存在する家庭が殆ど存在しないことを私たちは知っています。
また教育の場である学校といえども、子供達に心の支えを与えることができなくなっていることも知っています。政府もまた決して善の模範ではなく、悪魔に惑わされているのです。
今日世界が必要としているのは主イエス様なのです。ただ一人、イエス様お一人だけがあらゆる問題に対して解決なのです。このことは多くの人々に宣べ伝えられなければなりません。そしてそのために、主は用いたく思っておられるのです。地獄の存在、また今日の
堕落によって、救霊の必要が明らかになりました。

三番目に主イエス様のお苦しみもまた、誰もが救いを必要としていることをはっきり語っているのです。主イエス様のお苦しみと死は、間違いなく次のことを語っています。すなわち、主なる神にとって全ての人々の魂が尊いものであります。この世のすべての富にも勝るものであるということです。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

とあります。主イエス様の唯一の願いは、失われている者を探し求め救うことでありました。賢い者は同じことを行なうのです。

今まで私たちは救霊の必要性について考えて参りましたが、今度は二番目に、「魂の救霊の勧めと前提条件」について、すなわちいかに人々が獲得されるべきであるか、そのために絶対必要なものは何であるかということです。
私たちの主は漁師ペテロに呼び掛けられました。今から、あなたは人を漁る者となるべきです。魚をとることと、救霊の間には若干の類似点があります。
そこで5つの点について一緒に考えて見たいのです。ちょっと簡単に申すならば、
第一番目は、目的を自覚すること。
第二番目は、人間を知ること。
第三番目は、よいえさを使うこと。
第四番目は、自分を見えないようにすること。
第五番目は、自分に気をつけること。
です。

まず、第一に目的をはっきり自覚しなければなりません。
今まで私たちは救霊の必要性について考えてまいりました。何が一番大切であるかもう判っているのであります。すなわち道徳や宗教が問題なのではなく、救いが問題なのです。
目的を自覚するということは、自分の欲することを知り、自分のなすことを測量することに他なりません。あなたの全存在はそのことに向けられなければなりません。
できるだけたくさんの魚を獲りたいと思う漁師は、全神経を集中して魚を獲らなければなりません。彼はそのあい間に本を読んだり、ラジオを聞いたりすることはいけないことであります。魚を獲るためには集中力と決断力が必要です。
主イエス様のために人を漁ろうと思う人は、同様に全神経を集中して、それを断固として行なわなければなりません。目的をはっきりと自覚しましょう。
あなたが主イエス様のために救いたいと思う人だけを考えましょう。すなわち多くの祈り、たゆまざる決意、そしてこれらの人々に従事することが必要です。

第二に、あなたの魚のことを正しく知る必要があります。人々を主イエス様のもとに導こうと思っている人はまず、第一に聖書のことを知らなければなりません。そして第二に人間の心のことを知る必要があります。
あなたの魚のことを正しく知ってください。人は皆異なっているのです。私達は人々を知り、尊敬し、とりわけ、愛さなければなりません。
魚を獲ることも人を漁ることも、それを学ぶことは一朝一夕にできるものではありません。聖霊は、聖書と自分の心を知っている者だけをお用いになることができるのです。

第三に、えさとしてもっとも良いものを使うべきです。最も良いものだけを用いましょう。
実際にはまた色々な魚がいるわけですけど、魚と同じようにえさも色々あるわけです。全ての魚に対して針はただ一つだけであり、それはすなわち、神のことばなんです。
けど一つの魚に対して、それにふさわしいえさが選ばれなければなりません。漁師は魚に合わせなければならないのです。神のみことばを愛してるにもかかわらず、魚に合わせることをしない人、すなわち救われる人に合わせることをしない人々がいます。
しかしそれでは人々が驚いて逃げてしまうのです。魚に責任があるのではなく、責任は漁師にあるのです。

第四番目に、自分自身を見えないようにします。つりをする場合三つの原則があるそうです。すなわち第一は見えないようにすること。第二も見えないようにすること。第三もまた見えないようにすること。すなわちこのこそがもっとも大切なことなのです。
旧約聖書の中では祭司は神と人間との仲労者として存在しました。いつの時代のカトリック教会も同じことを、わがもの顔でやってるのです。
しかし新約聖書においては、それとは違った原則が通用しているのです。すなわち、自分自身を見えないようにすることであり、人を漁る者は決して中心になってはならないのです。
パプテスマのヨハネは本当に人を漁る者でありました。彼は人々に主イエス様のことを指し示しましたが、その秘密は、彼はすなわちイエス様は盛んになり、私は衰えるということでありました。
魚は良い目を持っております。人々も私達が前面に出ようとしているのか、それとも人々を探し求めて、救おうと願っているお方がニセであるかどうかを見ているのであります。
魚は私達を見ているかぎりはえさを食べようとしないでしょう。たとえどれほど聖書的でありましょうと、私達が前面に出てしまうなら人々は離れてしまうでしょう。
ねらわれるべきただ一つのえさは、主イエス様なのです。見えなくなるようになりたいと思うことは一朝一夕できるものではなく、ただ苦しい教訓によってのみ、これを学ぶことができるのです。

第五番目は、自分自身に気をつけることです。すなわちあなたの心の状態が非常に大切なのです。
魚は針を持つ手がなんであるかを感じるのです。私たちが失望、落胆したり、打ちのめされた状態でいる時、誰もイエス様のみもとに引き寄せることができないでしょう。
鱒を獲る場合は、針は水面スレスレにおいて、それを軽く動かさなければならないそうです。そしてえさだけが見える状態にしなければなりません。
次に心が開放されても喜びをもって、主イエス様を見上げ、主は必ず奇跡をなしてくださるということを100%信頼する、このような態度の時にのみ、人々は主イエス様のみもとに引き寄せられるのであります。

箴言25:11
11時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。

と書いてあります。金のりんご、すなわち救いの福音は銀の刻物にはめられるわけで、従ってそのように魅力的なものでなければなりません。
以上のことをまとめますと、主なる神の平和が私たちを満たしていること、そして主イエス様の喜びが私達から輝きでていること、そして主の御霊が私たちに人を漁るための可能性を与えてくれることが大切であります。

最後にもう一度、聖霊が人を漁る者としてお用いになることのできる人のことについて考えたいと思うのであります。
5つことが大切です。簡単に申しますならば、
救霊者(人を漁る者)の情熱。
第二番目は、救霊者の力。
第三番目は、救霊者の忍耐。
第四番目は、救霊者の恐れ。
そして最後に、第五番目は、救霊者の従順。
この5点について考えて終わりたいと思います。

まず第一は、人を漁る者の情熱であります。

ヨハネの福音書10:16
16わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。

私はそれを導かなければなりません。とイエス様は言われたのであります。他の羊とは遠く離れていて、人間的に見ると救われ得ない人々のことです、私はそれも導かなければなりません。これこそ主イエス様の情熱なのです。
私たちもまたこの情熱を必要としているのです。この情熱がなければ、私たちの行いはすべてむなしいものです。
人を漁る者ジョ−ジレ−ナ−ドは必死になって次のように祈りました。「主よどうか私に多くのたましいをお与えください。さもなければ私は死にます。」このことによって、主は彼に多くの魚、救われる魂をお与えになったのです。
この願いは楽しみではなく苦しみであり、有頂天になることではなく戦いであります。殆どの信者はこの苦しみ、この戦いを恐れ、そのためその人生は祝福された者となるができず、主イエス様が約束されたようないのちの泉が流れ出てこないのです。
本当に人を漁る者となった弟子たちに主イエス様は次のように言われました。

マルコの福音書10:38
38わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

すなわち生きるようになりますということです。すなわちこの苦しみこそ、人を漁る情熱の秘密なのです。その代価は死ぬことであり、衰えることであり、見えないようになり、ただ声だけとなることが生きる備えであります。
私達は次のように祈り求めようではありませんか、「主よ。どうかわたしに人々をあなた様のみもとに導く情熱と深い飢え渇きをお与えになってください。私はあなたが、私を祝福してくださるまであなたを離しません。あなたが私を救霊のためにお用いくださるまで離しません。」

二番目には、人を漁る者の力であります。人を漁る者パウロは絶対必要な力について、私達に語っております。

コリント人への手紙第II、5:14
14キリストの愛が私たちを取り囲んでいる

私たちはみんな、神の愛をについてほんの少ししか知りません。神の愛は私たちが考えるよりもはるかに大きなものです。この神の愛こそ人を漁る者の力なのです。
愛には様々な種類があります。例えばいわゆる隣人愛、それから主に対する愛、そして最後に私たちに対する神の愛であります。
第一の種類の愛については再三、再四語られています。すなわち「汝の敵を愛せよ。」これです。しかし、実際は今日の人間の特徴は、ただ自分自身のことだけを考える、隣人の幸せは胸中にないのです。
次に主イエス様に対する愛があります。それなくして私たちの人生は永遠に価値のなき者として止まるのです。この愛が欠けている場合に主は次のように言われます。「私はあなたの燭台をあなたから取り去ろう。私はあなたが最初の愛から離れてしまったことを非難します。」
更に私たちに対する主の愛があります。これは私たちが主の愛によって満たされることであり、これこそ一番大切なことであります。

ルカの福音書5章によると、すばらしい魚獲りについてしるされていますが、網は引き裂けかけてしまいました。ヨハネの福音書21章にもすばらしい魚獲りのことが書かれていますが、ここでは網は引き裂けませんでした。
船には最初のできごとがよみがえりの前に起こり、第二のできごとはよみがえりの後に起ったことであり、すなわちはじめは人間の力でやろうとして失敗し、後の場合は主の力によったため成功したことを意味してます。
主は私たちが失われた人の救霊ために努力することを望んでおられます。しかし自分自身の力によると必ず失敗しますが、肉の力ではなく主のよみがえりの力、主の愛の力によって効用することが大切です。
主の愛が私たちを満たし、この愛によって私たちが失われた者のところにかりだされるまで、私たちは神のもとにとどまる必要があります。

救霊者の情熱、救霊者の力、第三番目は人を漁る者の忍耐について、ちょっとだけ考えたいと思うんですが、

ヤコブの手紙5:7
7見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。

とあります。忍耐をもって待つこと、そのことも学ばなければならないことですが、一朝一夕にできるものではありません。
私たちの神の特徴の一つは寛容と忍耐であります。決して失望、落胆することがありませんように。魚を獲る場合も大抵は希望どおりにならず、忍耐をもって待たねばなりません。しばしば人があきらめようとするまさにそのとき、魚が餌に喰いつき、それからどんどんに釣れるようになる場合が多いのです。
自分が、一人の人に対して何も起らないから、その人のために祈ることを止めようとする、まさにそのときにことが起るのです。忍耐を持って待ちましょう。そうすれば主は祈りを聞いてくださり、あなたは奇跡を体験するでしょう。
この主なる神の寛容と忍耐がなければ、人々は私たちから離れて行き、そのためのすべての努力はむなしいものとなります。

第四番目は、人を漁る者の恐れる態度であります。他の人を主のみもとに導こうとする者は悪魔の攻撃のまっただ中に立たされます。人は罪の告白を聞き、そして罪の恐ろしさを感じます。この場合大切なことは、罪を憎んで罪人を愛することです。罪そのものを憎んで、罪人を愛すことです。

ユダの手紙1:23
23火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。

とあります。この罪に対する憎しみがなければなりません。
私たちの中に罪があるならば、悪魔は私たちにつけこむ余地を持ち、聖霊はさまたげられることになります。もしもあなたが意識して罪の中に生きるならば、他の人を主のために獲得しようと試みることを止めてください。
主なる神が用いる、人を支配する者は、まことに神を恐れる態度の人であります。主なる神によって用いられる人は、自分の不完全さ、また足りなさをよく知っています。しかしながら、彼は全てを完全に主にゆだねるのです。この主を恐れる恐れは、自分勝手な行いから私たちを守ってくださる。その結果、主が私たちをお用いになることができるのです。

最後の点は五番目になりますけれども、人を漁る者の従順であります。
全ての信者に主のみことばがあてはまります。すなわち主は、「わたしに従ってください。そうすれば、わたしはあなたがたを人を漁る者にしよう。」と言っておられます。
では何がいったい大切なのでありましょうか。主に従うことです。「わたしに従がってください。」とイエス様は言われます。主に従うことだけが要求されてるのです。その他のことは何の役にも立ちません。
ここで従うということは、日常生活小さなことにも忠実であることを意味します。

ルカの福音書19:17
17あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

と語られ、また約束されております。
あなたの人生の全てを主に渡し、主に全てをゆだねてください。そうすればこの瞬間から、すぐあなたはしもべになっております。
しかしまず、主に仕えるための養育と準備を始めることです。そうすれば、主はあなたを人を救うためにお用いになるでしょう。主に従うこと、主に全てをあけ渡すこと、このことが大切なのです。
つまり主に結び付くこと、主につながることが大切なのです。私たちの必死の努力は決して実を結びません。実は、私たちが主につながっていること、主に従うことの結果なのです。
「わたしに従いなさい。」「わたしにつながっていなさい。」




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