「知恵のある者は人の心をとらえる。」と箴言11章30節 に書いてあります。 私達は救霊の必要性について考えました。また救霊の勧めと前提条件についても考えたのであります。前提条件は救霊者の情熱、力、忍耐、恐れと従順であります。 主に従うこと、主イエス様に全てを空け渡すこのことが本当に大切なことです。つまり主イエス様に結び付くことです。主につながることです。自分自身の努力では決して実は結びません。だから主は、「従いなさい。私につながっていなさい。」と命令してくださるのです。 ゲッセマネの園に至まで私に従いなさい。目を覚まして私と共に祈り戦いなさい。ちょうどこの家の前まで私に従いなさい。 たとえあなたが訴えられ、悪魔の憎しみを経験をするようなことがあっても私に従いなさい。宿営の外に出てはずかめを身に受けても、私に従いなさい。十字架に至るまでも私に従いなさい。 恐ろしい孤独と暗黒に至るまでも私に従いなさい。私と共に苦しみを共にする備えをしなさい。私に従いなさい。私はよみがえった者である。私の勝利の力はあなたがたも体験すべきである。 ヨシュア記1:3
「私はあなたがたを人を漁る者にしよう。私がしよう。あなたがたが、どうせできないからです、私がしよう。」 主の行いは創造的な行いです。存在しないものも主の行いによって存在するようになれるんです。 人は自分の力や努力によって、人を漁る者となることはできません。また人は研究や頭の知識で漁る者となることもできません。人はただ神の創造的な行いによってのみ、人を漁るものとなることができのです。 主の御名の栄光のために、また人を救うご奉仕のために私をお用いくださいと、このように主に祈る者は幸いです。 主イエス様が弟子達を人を漁る者としてお用いになるため、弟子達に従うようと呼び掛けられたことは、あなたがたの網を捨てなさいということでした。そして彼らは網を捨て、自分の物を全部捨て、彼らを妨げる物を全て捨て、全てのものを第二次的なものとして捨てたのです。パウロもまた自分の網を捨てました。彼は言っております。 ピリピ人への手紙3:7
主の働きにとって妨げとなるものは、自分自身のもの全てであります。私達の最大の敵は私達自身の自我であります。主のみことばは言っております。 ゼカリヤ書4:6
使徒の働き1:8
私に従いなさい、そうすれば私はあなたがたを人間を漁る者にしょう。 今まで私たちは次のことを考えてきました。すなわち、第一番目は救霊の必要性について、第二番目には救霊の勧めと前提条件について、そして今、第三番目に「救霊者の実践的な方法について」考えてみたいと思うのです。 この場合大切なのは第一番目に主に対するわれわれの態度と、第二番目に人々に対するわれわれの態度です。 まず主に対するわれわれの態度は、より頼む態度でなければなりません。これは私達の祈りの生活の中に表れてきます。主のために人を獲得したいと思う者は、次の5つのことをやってみること。 第一番目は祈りの手帳をつくること。 第二番目に、まず、主に呼び求めること。 第三番目に罪に余地を与えないこと。 第四番目に信仰によって祈ること。 第五番目に奇跡を期待することです。 この5つのことについて、ちょっとだけ考えたいと思うんです。 第一番目は祈りの手帳をつくることです。 まず主が救いたいと思っておられる人の名前を、主があなたに示してくださるように主にお願いしてください。これこそがあなたにとって一番大切なこととならなければなりません。 ですから、軽率にいろいろの人の名前を書くことはやめましょう。まず祈り、そしてあなたの心の奥底に深く入り込んでくる人がいるならば、その人の名前を書いてください。 まだ救われていない家族、親戚、友人、仕事の同僚等、これらの人々があなたにとって心にかかる重荷としておかれることでしょう。 その人の名前と共に、そのことを思いついた日にち、また与えられた約束を書き、そしてその名前の後にその人が救われた日を書き込むための余白を空けておいてください。 書いた名前は決して消してはなりません。 ただ彼が死んだ時だけとか、信者になった時にだけ名前を消しましょう。そしてその人が、主を自ら体験する時まで祈り続けましょう。 ある人は2〜3日で救われるかも知れませんが、しかしある人は何ケ月も、何年もかかるかも知れません。しかし大切なことは主に祈り続けることです。 第二番目に主に呼び求めることです。まず主に呼び求めることが大切です。あなたが主について人々と語る前に、まずあなたが救いたいと思っている人について主に語ってください。そうでなければ、全ての人間的な努力は何の価値もありません。 救霊は神のみわざです。ですからまず、主が呼び求められなければならないのです。主にお願いしてください。そうすれば全てが与えられるのです。救霊のために祈りなさい、そうすればその魂があなたに与えられるでしょう。 第三番目に罪に余地を与えてはいけません。全て意識して行なった罪は主に告白されなければなりません。さもなければ、本当の祈りの生活は不可能です。 詩篇66:18
イザヤ書59:1-2
と、主が聞いてくださらず、主が聞き届けてくださらなければ、全ての人間的な努力はむなしく、誰も救われません。誰も主に逆らうことはできません。詩篇97篇5節に非常にすばらしいことが書いてあります。すばらしい約束です。 詩篇97:5
とあります。 イザヤ書59章1節-2節、これを見て判るように誰も主に逆らうことはできません。しかし信者の生活における罪は、主の御手を束縛してしまいます。全ての罪は私たちの良心に負担となり、この負担となった良心をもってしては、私たちは人々を、ただ恐がらせるだけでありましょう。 あなたが意識している罪を全て告白してください。そして主の血潮の確信のゆえに感謝してください。そうすれば信頼して祈ることができ、あなたが人々の救いのために、単純に感謝することによって、信仰によって主のための人々をいただくことができるのです。 もしも、あなたが何年も特定の人のために祈り続けてきたにもかかわらず、一人も信者にならなかったならば、罪が主の祝福を妨げているのではないかどうか、真剣に吟味してください。 第四番目には信仰によって祈ってください。もしもわたしたちが、心の中にいかなる罪の余地をも許さないならば、私たちは信仰によって祈ることはできます。 信仰によって祈るということが、いかなる疑いをも生じさせないということです。主は祈るようにとお命じになりました。ですから私は祈ります。そうすれば主は答えざるを得ないのです。というのは、主は決してうそをおつきにならないお方ですから、「求めよそうすれば与えられます。」 もしも私たちが祈って何も与えられないというならば、そんなことは絶対あり得ないんです。神の約束は完全に心配するに足るものです。もしも私たちが全然祈りをかなえてもらった経験がないならば、それはしばしば私たちが信じないことによることが多いのです。 あなたの理解や感情が大切なのではなく、主のみことばに対するあなたの信頼が大切なのです。神のみことばは神の御約束です。神の御約束は私達が銀行に出せばお金がもらえる小切手のようなものです。 神の約束は神の行いである。しかも神の創造的な行為なのです。私達が主のみことばを信ずるかぎり主は働いてくださり、大いなる奇跡を起してくださるのです。私たちの祈りは答えられるのです。 第五番目に正しく祈ることを知ってください。次のことは否定することができない事実です。すなわち人が祈るなら、神は聞いてくださり、行動してくださいます。 祈りは主を動かすのです。あなたが正しく祈ることを知っているならば、主を祈りの引手として知るようになるでしょう。あなたが手帳に書いている人々のために、毎日祈ってください。主の前に真剣に彼らのことを思うならば、主は答えてくださり、彼らを救ってくださいます。 あなたの祈りが全て聞き届けられるという、強い要求を持ってください。主が奇跡を行なってくださるということを完全に意識して期待してください。 もしも特定の人が信者にならないならば、何が妨げになっているかを主にたずねてください。そして自分自身を大切にしないで、あなたの生活の中の全て妨げを明らかにしてもらってください。 毎日、この祈り、求めのために決まった時間を持ってください。それを何者にも妨げられないようにしてください。 今まで私たちの、主に対する態度について考えてきました。そこでこれから第二の点の、「人間に対する私たちの態度」について考えて見ることにしましょう。 主が私たちに未信者を重荷としてお与えになり、その全てのために私たちが祈り求め、信仰によってお願いし、期待するだけでは決して十分ではありません。 主は私達を人を漁どる者としてお用いになりたいのです。すなわち私たちはその人々と直接話し合わなければなりません。 祈りの中で主に語りながら、人々と話す勇気を持っていない信者がいるのです。主は信者一人一人に、あなたは私の証人と言われているのです。内住の聖霊によって、信者は誰でも主について証しすることができるのです。その場合、いくつかの点が考えられなければなりません。 第一番目は不必要に議論をしないでください。 確かに場合によっては議論せざるを得ない場合があるでしょう。私たちはその例を使徒の働きの中で見出すことができます。しかしながら、それは聞いている第三者にとっての益となるべきです。 主のみもとに来るべき人に対しては議論しないほうがいいでしょう。議論は人をつまぜかせます。柔和な霊をもって人に近づくようにしてください。 全ての議論は人間の心に訴えるのではなく、せいぜい理性に訴えるだけです。議論は人を服従させることができるかも知れませんが、それは大切なことではありません。そうですから、あなたがどのように主を体験し、そして主があなたにとって何を意味するかを、単純に証しするの方がはるかに益であります。 あなたが主を信頼するようになってから、主の平安と主の喜びはいかにあなたのものとなったかを言ってあげてください。これは議論され得ない事実なのです。 第二番目に事実を指し示してください。あなたが体験したことは事実です。主イエス様が十字架で成就してくださったことも事実です。この事実が指し示されるべきです。それは聖書を指し示すことよりもはるかに大切なことです。 かしこい人はしばしば教えを指し示します。しかしその結果はどうかと言いますと人間が自分の考えを修正されうるということで、これは救いと何の関係もありません。例えば、聖書的な教えの論理は理性によって理解されたとしても、それは救いと何の関係もないことです。 多くの人々は聖書の教えを信じ、それを正しいと認めますが、それらの人々は救われることはありません。人が正しい聖書の教えを理解したとしても、救われなかったならば、それは人間にとって何の役に立でありましょうか。全然役に立ちません。 ある一人のお爺さんが、毎週教会に行っており、それは彼にとってよい習慣となっていました。彼は聖書的な教えの正しさを疑いませんでした。 彼はいつも厳格な語を使ってきました。彼は家ではしばしば理性を失い非常に怒ったのです。彼の小さな孫は教会からの帰り道、お爺さんにたずねました。「お爺さん、お爺さんは、イエス様を信じているの。」「静かにしなさい。」という言葉が、お爺さんの答えでした。 しばらくして、小さな子供はまたたずねました。「お爺さん、お爺さんはイエス様を信じているようには全然見えないんだけど。」「子供は黙るべきである。」という言葉が、お爺さんの興奮した答えでした。 しかしその子は、しばらくしてからもう一度、たずねました。「お爺さん、お爺さんはどうしてイエス様を信じないの。」それに対してお爺さんは、もう何も答えることができませんでした。彼は主が彼に語られたことを知り、しばらくしてから彼の全生涯を主に空け渡したということです。 彼は聖書的な教えの説明に納得したのではなく、彼のかわいい孫娘こそ主の器として用いられたのです。 あなたが福音を宣べ伝える時、人からあざわらわれることを恐れないでください。まだ幼稚だと思われることを恐れないでください。りっぱな理解力が人を納得させるのではありません。ただ幼子のように事実を指し示してください。 第三番目には、真剣な態度をとってください。私達が人々を主に導こうと思うならば、本当に真剣であることが、私達を特徴づけなけなければなりません。 もしも私達が、わざと人々によく見られようとしたり、笑わそうとするならば何の結果も残らないでしょう。この場合には死ぬか生きるかが問題になっているのであり、宗教や道徳が問題なのではなく、とこしえに救われるのか、永遠の滅びに至るかが問題となっているのです。だから真剣な態度をとってください。 四番目に、よい機会のために祈り求めてください。祈りの中で私達は、主が、私達が話し合ってみたいと思う人と一緒にしてくださるように祈り求めるべきです。 最近私は一人の若い信者の娘さんについて書いた本を読みました。彼女は証しをする機会与えてくださるようにと祈り求めました。彼女はある大きな百貨店で働いていました。彼女は2〜3人の同僚を招待し、救われる必要性について語りました。一人の若い娘は特に目立った服装をしており、傲慢でどうにもならないほどでした。ところが彼女も招待されたのです。 はじめ彼女は福音を拒みました。「私は全てにわたってこの世の楽しみを愛しているのです。私は全てお受けする気持ちはありません。」と言いました。 信者の娘は、「全てを家でもう一度考え直して、自分の決心をイエス様に言ってほしい。」と頼みました。彼女はひざまずき、自分の全生涯を主イエス様に空け渡したのです。彼女の外観は突然変わりました。彼女は質素な洋服を着るようになり、彼女の傲慢な態度は色あせたように消え去ってしまったのです。 それから2〜3日経って、百貨店の支配人は彼女を呼び寄せ、「おめでとう。」と言いました。なぜなら彼女はそれほどまでに変わったからです。実は、もし彼女が一週間以内に変わらなければ、彼女をやめさせることが会議で決定されていたのです。彼女はお客様に対してもサービスが不親切だったため、百貨店は彼女のそのような態度は損失が増し加えるだけと判断したのです。 しかし彼女はその週にイエス様に出会い、全く新しい人となりました。彼女は百貨店にとどまることができただけではありません。彼女はこの会社で人を漁る者となりました。一年間に百人以上の娘さん達が、彼女によってイエス様のもとに導かれたのです。 2〜3の人は非常に難しく、そのためにあなたはそれらの人々と話すことを恐れているかも知れません。それでしたら、まずその人々のために祈ってください。そうすればあなたが証しをする機会を与えられるでしょう。 主があなたに一人の人間を示されたならば、その人のために証しする機会が与えられるまで祈ってください。どんな結果になるだろうかと心配しないで下さい。主が行動してくださるのです。 五番目に、同じ仲間の人々を獲得するようにしてください。すなわち看護師は他の職業の人よりも同じ看護師仲間の間で働くほうが実りがあり、医者は他の職業の人よりも医者仲間の間で働いたほうが好ましく、病人は健康な人よりも病人仲間の間で働くほうが望ましく、学生は学生仲間で、労働者は労働者仲間の間で望ましいと言えましょう。 もちろん、医者が患者さんの間で証しをしたり、先生が学生に対して主イエス様を指し示したり、工場経営者が労働者に対して主イエス様を証ししたり、上に立つ人がその部下を救い主のもとに導こうとすることがあります。もちろん例外があるのです。 しかし靴屋さんが大学の教授を主に導たり、清掃夫が医者を回心させたりすることは自然ではありません。もっとも主が、そのようにお導きになり、このような奇跡をしてくださるわけですが、それが自然な姿であるとは言えません。だから、前提として同じ仲間の人々を獲得するようにしてください。 六番目に、あなたの知っている人のために、毎日主に祈ってください。そのことによって特定の魂が、特にあなたの胸中に置かれることになります。 それらの人々の名前をあなたの祈りの手帳に書いて、この人々がはっきりと救われるまで、毎日、毎日その人々のために祈り求めてください。まずその人々のために集中的に祈ってください。 それから主を見つめながら、全てを主にゆだねながら、この人たちに語りかけることをやってみてください。あなた自身が体験した主の呼び掛けについて証しをしてください。すなわち主イエス様があなたにとって何を意味しているかを語ってください。 そのような証しには、いかなる反論もでてこないはずですし、そのような証しは絶対忘れさられることはないのです。 最後の第七番目になりますけれども、時がよくても悪くても、主イエス様のことについて語ってください。 テモテへの手紙第II、4:2
あらゆる機会を用いて、主イエス様による福音を指し示してください。失われた機会は二度とはやってこないのです。主があなたをいつも主イエス様の証人として用いになることができるように、聖霊の導きに対して心を開いていてください。 医者があらゆる患者にいろいろ異なった取り扱いをしなければならないように救霊者、すなわち人を漁る者もあらゆる人を正確に知らなければなりません。 私たちは常に、なぜある人が救われ、別の人が救われなかったのかの原因を充分に考えて、疑惑的です。人々が救い主を知るに至らないならば、これはしばしば私たち自身の責任であり、それでしたら厳密な自己吟味が大切であります。 もしも私たちが徹頭徹尾、主におゆだねし、主に導いていただく備えができているならば、主が恵みを賜り、私たちを人を漁る者としてお用いになってくださることを体験するでしょう。 次のことについて語って参りました。救霊の必要性、救霊の勧めと前提条件、救霊の実践的な方法であります。 最後にまとめとして、詩篇126篇5節-6節をお読みしたいと思います。 詩篇126:5-6
とあります。 キリスト者の主な課題は、キリストが、死んだ魂を救うこと。魂を救うために、私たちの主は天の栄光を捨ててくださったのです。魂を救うために、主イエス様はこの地上で生き、そして死んでくださったのです。 魂を救うために主イエス様は死んでくださったのです。魂を救うためによみがえってくださり、今も生きていてくださるのです。 今日一人の魂が主を見いだすならば、天には大いなる喜びがあるのです。今読みました詩篇126篇5節-6節では、次の5つの事柄が、語られています。 一番目、救霊のための命令。 二番目、救霊のための前提条件。 三番目、救霊のための手段。 四番目、救霊のための確信。 五番目、救霊のための結果。 であります。この5つの点について、簡単に考えて終わりたいと思うんです。 一番目は救霊の命令。6節です。出ていく者という表現がでてきます。魂を獲得したいと思う者は出ていかなければなりません。 主イエス様の命令は次のようなものです。「全世界に出て行きなさい。」 マルコの福音書16:15
マタイの福音書4:19
この命令に従わない者は決して、人を漁る者とはなれません。 ルカの福音書14:23
多くの人は、最もよいキリスト者は最もよい救霊者であると思っています。あるいは道徳的に最も高い地位にある人が最もよい救霊者と思い込んでいます。 しかしそれは間違いです。もしもそうであれば、パリサイ人達は最もよい救霊者でなければならなかったでありましょう。しかし実際はそうではなかったのです。 今日でも忠実に集会を訪れ、忠実に聖書を読み、一人もつまずかせないように気を使っている信者が大勢います。しかし彼らによっては、一人の魂も主のみもとに来ることはありません。これは非常に悲しい事実です。 また他の人は次のように考えています。私の毎日の歩みによって、他の人々は救われるような、そのように神に祝福された人生を送りたい思う。しかし事実はそのような模範的な歩みといえども、他の人を救うことはできないのです。 これは救霊のための道ではありません。もちろん私達の生活が主イエス様を表すということは大切なことですが、しかしこれが一番大切なところではありません。失われた人々のところに行くことです。 また多くの人々は、救霊のためには多くの聖書知識をもたなければならないと考えています。そして聖書のことを最もよく知っている人がよき救霊者であると思います。これも多くの場合決してそうではありません。 失われた人々のところへ行きなさい。これこそ神の第一のご命令です。 しばしば、救霊とは特別の賜物であるかのように考えられがちです。すなわちよい教養を身に付け、よい性質の賜物を持っている人々、すなわち潤沢な人を引き付けるような、そういう人々がよい救霊者である考えられがちです。 しかしこれも決して正しくありません。 一番大勢の人々を主のみもとに導くことは、一番失われた人々を探し求めていく、そのような人々なのです。 私たちは救霊の場合に、人間の力や知恵が問題なのでないということを知らなければなりません。一人の人間が説得され、イエス様のものとなるためには、聖霊の力が必要なんです。 主イエス様の命令と約束は次のようなものです。すなわち「行きなさい。私はあなたがたとともにいる。」、この命令に従うことが大切なことです。 主イエス様の命令は次のようにも言っています。「失われた者のところへ行きなさい。そして喜びの訪れを伝えて、その人々を私のところへ連れて来なさい。」 いかなる状態のもとにあっても、できるだけ多くの人々を主のみもとに導きたいと思ってる人はそうされます。 イザヤ書32:20
と書いてあります。 伝道者の書11:4
だからこそ、パウロはテモテへの手紙第IIに次のように書きました。 テモテへの手紙第II、4:2
種を蒔きなさい。 テモテへの手紙第II、4:2
人々は、福音を宣べ伝えには聖書の一ヶ所だけでも充分です。ヨハネの福音書3章16節を暗記してください。そしてこのみことばを宣べ伝えなさい。 何千人という人々がこのみことばによって救われたのでありましょう。 行きなさい。おそらくあなたは何を語るべきか知らないでしょう。しかし主があなたとともにいると約束してくだすったことを覚えなさい。主はいつもあなたとともにいて、あなたを助けてくださいます。主に信頼してください。 行きなさい。あなたの周囲には、心開いている人、またあなたによって救われなければ人がいるのです。出て行くのです。出て行かない者は、束をかかえてたえて変わらない。 二番目に、救霊のための前提条件。彼らは泣きながら出ていく。ここで泣くということは砕かれた心、すなわち心の奥底が動かされた状態を表します。 この心が動かされた状態でなければ、出かけていくことはできないでしょう。主イエス様は群衆をご覧になった時、彼らをあわれまれたのです。主イエス様はエルサレムを思ったとき、泣いてくださったのです。 失われた羊に対する羊飼いの愛、また放蕩息子に対する父親の愛は、罪人に対する主イエス様の愛を私たちに示しているのです。泣きながら出ていくことは救霊のための前提条件なんです。偉大なる救霊者パウロは次のように言っています。 使徒の働き20:31
使徒の働き20:20
と書いてあります。人々の前でも、家々でもパウロは福音を宣べ伝えました。すなわちパウロは出かけていきました。しかも泣きながら出かけていったのです。 将来裁きの日、あなたの仕事仲間や親戚の者が、イエス様の救いについて私に誰も語ってくれなかったという場合があります。 詩篇142:4
と書いてあります。 「私の魂に気を配る者もいない。」これは今日、何千人という人々の叫びなのです。このような多くの人々のとこしえの運命に対して、私たちは無関心でいられるのでしょうか。 福音は私たちにゆだねられているのです。ゆだねられている私たちはどのような態度をとるべきでしょうか。次の歌は私が非常に感銘させられた歌です。 恵みの時は終わりに近づいている。彼らが永遠に滅びないように、心の奥底から動かされ、主の愛とあわれみのうちに私たちは出かけて行くべきです。そうすれば、私たちは多くの人々が信じるようになるということを体験するのです。 次のことを覚えましょう。失われた人々を探し求めて行かない者は、主に対して不従順であり、自分自身の救いに対して冒涜であり、主の命令に不従順な者なのです。 第三番目に、救霊のための手段、ゆっくりとちょっと考えたいと思います。 詩篇126:6
と書いてあります。この種はルカの福音書8章11節によると「神の言葉」です。束を抱えて帰って来るべきならば、すなわち多くの人々が救われるべきならば、私たちは神の言葉を必要とします。 ヤコブの手紙1:23
ヤコブの手紙1:21
また、 ペテロの手紙第I、1:23
ここではっきり書いてあります。すなわち、種は「神のみことば」です。人間の賜物とか、人間的な影響力、あるいは魅力というものが人々を救うのではなく、ただ神のみことばが回心の種なのです。 人々が改革されることが問題なのではなく、人々が救われることこそ大切なことなのです。そしてこれは戦いを意味するのです。 コリント人への手紙第II、10:4
とあります。人々が救われるまで、また回心するまでこの戦いは続きますが、主のみことばはどうしても必要なんです。 ヘブル人への手紙4:12
と書いてあります。また、 エレミヤ書23:29
とあります。 主の言葉を自分のものにしなさい。主の御約束に頼りなさい。議論によって人を説得しようとしてはいけません。ただ主のみことばだけが納得させるのです。 主のみことばは神の種です。主のみことばは罪について、世にその誤りを認めさせると書いてあります。主の御言は罪人に対する神の愛を示します。主のみことばは信仰とあらゆる確信の土台であります。 四番目には、救霊のための確信です。泣きながら出かけていき、みことばの種を蒔きに行く者は100%収穫を待つことが出来ます。 そういう者は束を持ち帰るでしょう。すなわちたった一つの穀粒ではなく、束を持ち帰るとみことばは約束してくださるのです。これは主の約束です。そして神は決して嘘をおつきにならない方です。主は必ず約束を守られます。 もちろん、あなたが宣べ伝えた全ての人が救われるわけではなく、おそらく100人宣べ伝えた内の10人だけが救われるかも知れません。しかし主は収穫を与えてくださいます。 多くの失望も経験もするでしょう。しかし主は、御名のゆえ、御約束のゆえに実を与えてくださいます。 最後に、救霊のための結果です。彼らは喜びながら帰ってきますとあります。人々が救われるというより大きな経験をすることは殆どありません。 羊飼いはいなくなった一匹の羊を見つけた時、大喜びで帰ってきて友達や近所の人を呼び集め、いなくなった羊を見つけましたから、一緒に喜んでくださいと言うでしょう。 女の人が無くした銀貨を見つけた時、友達や近所の女たちを呼び集め、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでくださいと言うでしょう。 また放蕩息子が帰ってきた時祝宴がはじまりました。というのは、この息子が死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだからです。 それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら喜びが天にあるのですとあります。主イエス様が十字架にかかってくださった時、この喜びを思ったのです。主イエス様は自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。私達の主は、やがてもたらされる大いなる収穫をするのです。 |