引用聖句:使徒の働き、3章1節-11節
昨日のメサイヤの音楽会とは、皆さん感じたんじゃあないかな〜、と思いますけど、ひとつになった証拠なのではないでしょうか。 誰だって一人だったら何もできない、やっぱり、みんな必要なんです。やっぱりひとつにならなければ、だめなんです。ですから今朝は、ちょっとだけひとつになる必要性について、一緒に考えてみたいと思います。 おそらく最近、より悪魔の攻撃を経験していないなのではないでしょうか。結局、主を第一にしようと思えば、悪魔もモーレツに反対してきます。 悪魔の一つの名前は、めちゃくちゃにするものです。パウロはあるときちょっと、暇人になったんです。刑務所に入ったのです。そして、刑務所の中でいつも彼は重荷を感じて、早く出たい、じゃないよ、信ずるものはひとつにならなければ必ず悪魔の勝利になるとわかったからです。 彼は願ったんです。「私の喜びが満たされるように、あなた方は一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ志を一つにしてください。何事でも自己中心や気負いからすることなく、へりくだって、互いに自分よりも優れたものと思いなさい。自分のことだけではなく他の人のこともかえりみなさい。」 考えられないこと、大切な勧めなのではないでしょうか。 ひとつになる鍵のようなものは、一つの目的を持つことです。すなわちイエス様にだけ栄光あれ、こういう目的を持つと、ひとつになります。 メサイヤの中心とは、もちろんイエス様の苦しみ、イエス様の身代わりの死です。そしてこの苦しめられた、また死に至らしめられたイエス様を、心の目で見た人は喜ぶことができるのです。心から主を褒め称えることができるのです。 イエス様の死、勝利の結果は、ハレルヤコーラスでありまた、アーメンコーラスなのではないでしょうか。ほかの言葉で言いますと、自己否定なしにイエス様は中心になり得ないし、このような賛美は心から得られないのです。 昨日のメサイヤの中で引用された個所は、イザヤ書の35章だったんですけど、約束されたメサイヤがくるといろいろなことが起こる、すなわち、そのとき盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳は空けられる、そのとき脚なえは鹿のように飛び跳ね、牛の舌は喜び歌う、荒野に水が湧き出し、荒地に川が流れるからだ、云々と書かれてあります。 ひとつになること考えられないほど大切であります。 パウロは、 コリント人への手紙第I、1:10
命令できないからお願いしただけなんです。 コリント人への手紙第I、1:10
ひとつの心になりなさい。平安を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神さまはあなた方とともにいてくださいます。また同じく、 コリント人への手紙第II、13:11
完全なるイエス様とひとつになりなさい、ということです。 コリント人への手紙第II、13:11
また、 エペソ人への手紙4:3
昔はこのような勧めは大切であっただけではなく、今日も同じく大切なのではないでしょうか。 この読みました、イザヤ書の個所とは、そのとき足なえは、鹿のように飛び跳ねる、とあります。この約束を経験したのは、今読んでもらいました、使徒の働きの3章に出てくる足なえなのではないでしょうか。 おどりあがってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら彼は、神さまを賛美しつつ二人と一緒に、すなわちペテロとヨハネと一緒に宮に入っていったと、ここで書かれてます。 使徒の働きとは、初代教会の誕生について、それから主はこの後どういうふうに導いてくださったかについての歴史の本です。 当時はイエス様は自由に働くことができたし、おそらく何週間かのうちに何万人の人々は、エルサレムで導かれ、救われたのです。 使徒の働き2:41
一日ででしょう? 使徒の働き2:41
救われることとは、本来弟子に加えられることを意味しているのです。非常にみことばのなかで強調されている事実です。 使徒の働き4:7
結局、救ってくださった人々は仲間に加えられるようになった。4章4節、しかし、みことばを聞いた人々が大勢信じ、男の数が、5000人ほどになったと、考えられない祝福でした。 こういうふうに2章には、多くの人々はみことばを聞いただけではなくみことばを受け入れ、すなわちイエス様を信じ、受け入れられたことについて書き記されています。 けどそのとき、救われた人々が、いかにして救われまた、救われることによって何を自分のものにするようになったかということについて、2章ではなく3章に書かれているのです。宮のうつくしの門に置かれていた、生まれながらの足なえが直されたということについて書き記されています。 けど、彼は救われた者を主の御霊がどのようにして導き、その信仰を全うさせ、代価を教えているひとつの教えなのかと思います。 イエス様に救われ導かれることも大切ですけど、そういうふうに救われた人々は、今から先いかにして進むできかということも、非常に大切なのではないでしょうか。 赤ちゃんが生まれることとはおしまいじゃない、これから大きくならなくちゃいけない、育たなくちゃいけない、教育しなくちゃいけないからです。 この男はまったく新しくされました。すなわち、新しいいのち、新しい喜び、新しい目的のうちに生まれ変わらせられたのです。けどこの男に起こったもうひとつの大切なこととは、今話したようにこの男が、信ずるものの群れに加えられたのです。 この足なえはイエス様のみもとに来た、その時に信じるものの群れに加えられました。 多くの人は祈り、イエス様に従うと言うんですけど、それは結構ですけど、そののちみことばにだけ頼らなければ、人間の言葉は無視してもいいでしょう?けども、みことばにだけ頼らなければ、そして、信じるものの群れに加えられなければ非常に心配です。 足なえは、誰にも教えられなくてもはっきりわかったのです。このイエス様を知るようになった人々とともにならなくちゃいけない、とわかったのです。 今話したように2章では、イエス様は救われた者を毎日毎日信者の群れに加えてくださったことが書いてありますけど、3章では救われた体なる教会に加えられたということが何を意味しているかについて書き記されています。 結局、この足なえとはみんなとひとつになったのです。ですから、何回も同じこと書いています。今の読みました3章8節でもね、 使徒の働き3:8
ペテロとヨハネと一緒になっちゃったんです。3章11節。 この人がペテロとヨハネに付きまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいにソロモンの廊という回廊に彼らの所にやって来た、とあります。 ここでもペテロとヨハネと一緒だったのです。4章14節も同じこと書いてます。 使徒の働き4:14
結局、いつも一緒になったのです。イエス様がこの癒された足なえを、体なる教会に加えられたので彼はもう離れられなくなってしまったのです。ペテロとヨハネと一緒になりました。 信じるものの群れに加えられる、とは何なのでしょうか?四つのことを意味してるのではないかと思います。 第一番目、ほかの信者により頼み合うこと、お互いに助け合うこと。 新しく主なるいのちに預かった人が、これから成長していくにはどうしても信じる群れに加わっていかないとまずいのです。 病を癒されたこの足なえは、信者と一緒に同じ道を歩いていきました。この足なえはこの交わりはどうしても必要であることを感じ取ったからでしょう。 この交わりに加えられるということを、足なえは自分で自発的にしたのです。勧めがあったからではない、もちろん強制されたからでもない。喜んで彼はペテロとヨハネと一緒になったのです。 もう何年も前に、テレビのニュースキャスターである兄弟のことを覚えるといつも感じました。 結局もう、テレビ局の人々とはもうこれ以上の関係はいらない、もう縁が切れた、私は違う世界のものになっちゃった。集会の兄弟姉妹と逢いたい、話したい、そういう気持ちでいっぱいになったんです。 ですから、病室の自分の名前をはずしてもらったし、誰からもわからないように、集会の兄弟姉妹だけ。 結局、彼はイエス様を知るようになっただけではなく、結局、兄弟姉妹とひとつになったと、はっきり知るようになったのです。信者とひとつになることが、主の目的であります。 この3章を見ると、癒されたこの足なえは、ペテロとヨハネの前を喜びのあまりに飛び跳ねて先に行っちゃった、とは書いてないんです。彼らと一緒に宮に入った、と書かれています。 もちろん、ペテロとヨハネもともに喜んだのです。真の教会の特徴とはそれです。ともに悩むことであり、ともに苦しむことであり、ともに喜ぶことです。 けれど、ペテロとヨハネは踊りあがったと書いてないんです。普通に歩いたなのではないかと思います。癒された足なえは、どうしてペテロとヨハネを待っていっしょに宮に入らなければならなかったなのでしょうか? 彼は40年間ものあいだ宮の門の前に座らされたのです。今度は何とかして早く入ろうという気持ちがあったかもしれないけど、彼はそうしなかったのです。 長い間動かないでいた彼が、一変にその病を癒されたのですから、大喜びで一人で宮の中に駆け込み、主を賛美し感謝したとしても別に変ではなかったでしょうし、不自然ではなかったんですけど彼は一人で宮の中に駆け込むことはしなかったのです。二人と一緒に入ったのです。 また彼が、一秒も惜しまず家族のもとに帰り、また友達の所に行き、自分の身に起こった不思議な救いを語ったということも書いてないんです。 なぜこの足なえはペテロとヨハネと一緒に行ったなのでしょうか?話したように命令されたからではないでしょう。3章の6節 使徒の働き3:6
ペテロはイエス様を指し示し、イエス様の力によって足なえを癒しました。足なえが癒されたのは、ペテロやヨハネのおかげではなかったんです。イエス様が、癒してくださったのです。 足なえは、ペテロやヨハネに着いていく必要は全くなかったんです。自分の道を行くことができたはずですけど、彼はそうはしなかったのです。足なえはすぐにでもこの喜びを家族に伝えたい、気持ちがあったでしょう。けども彼はそうしなかったのです。 言うまでもなく、ペテロとヨハネは「あんた、われわれによって、病を癒されたから、今度我々の弟子になってもらいたい、私たちに従ってこないといけないよ、我々の群れとひとつにならなくてはいけません。」と、彼らはもちろん言わなかったのです。 足なえが群れに加わったということは、人が定めた規則ではなかった。足なえの心のうちから出て来た。心からの願いでした。 もちろん足なえが、ペテロとヨハネに従っていったのは、彼らに対する感謝の気持ちではなくまた、ある規則を守りたかったからではなく、またあの二人と一緒だったら良いなのではないか、彼らのともになろう、そういう気持ちもなかったでしょう。 彼らとどうしても命の交わりを持たなければならないという、心の奥底からの気持ちからそうしたのであります。 癒された足なえはペテロとヨハネと信者たちにより頼みました。 そうしなければ、自分の信仰生活は成長しないことがわかったのです。彼はもちろん一人で歩くことができたのですけど、それにしても自分勝手な道を行こうとしなかったのです。 足なえは40年間、足を動かせなかったんです。ですから癒されたとき、ペテロとヨハネにしがみつき、そのうちにだんだんくるぶしが強くなり、体の平均を取ることができしばらくたってから一人歩きするようになったのではない! もう癒されたとき、ペテロとヨハネに頼らないで一人出歩いただけじゃなくて踊りあがったと書かれてます。彼は一辺に癒され元気になったのです。支えは必要とはしなくなったのです。 イエス様の力によって癒されたのであるから、一人で走ることが、歩くことが、踊りあがることができたのです。 ですけど、一人で歩けたのであったから、ペテロとヨハネといっしょに行かなくても良いのでなかったのです。やっぱり兄弟姉妹との交わりが必要であると、確信したからです。信じるものの間で交わりを持つことによって、心の成長が期待できる、と彼ははっきり確信したのです。 ですから信じるものの集いとは、信仰の成長の場所であります。心の成長を願う人は信者の間の交わりを保ち、信者のうちに溶け込み信じるものとひとつになることです。 そのためにパウロは信じるもののために夜昼問わず祈りつづけたのです。 第二番目、他の信者と一緒に証しすることです。 証しすることとは、人を納得させることではなくて、イエス様を紹介することだけです。結局イエス様を人に伝えることです。 ペテロとヨハネも、いやされた足なえが三人でイエス様の救いを証明したわけですが、三人が三人とも救われたと言いましたので、他の人々は納得しないわけにはいきませんでした。 使徒の働き4:14
とここで書かれてます。 目に見えません、感じることもできませんでしたけど、主の霊はイエス様が本物である、救いを与えることができるお方であることが証明されるようになったのです。 イエス様は約束してくださったんです。 マタイの福音書18:20
これこそがあの、いやされた足なえが体験したのです。三人は心がひとつになっており、イエス様はその人々の中に住み、主イエス様がその中にとどまっておらるるということが、三人を取り巻く人々に自然と分かったのです。 三人の周りには三人に反対する人々も取り巻いていましたけど、イエス様が三人のうちに折られるということがもう、明らかにされたのです。これこそ、信じる者のつとめなのではないでしょうか。 一人一人がばらばらになっていたのではなく、ペテロ、ヨハネ、足なえが現したイエス様のご臨在を現すことこそ大切です。 一つになると、私たちのうちからイエス様が光り輝き、現されることができます。この主の証しは、三つに分けられるかもしれない。 第一番目、ペテロは証しして、福音を宣べ伝えてイエス様を紹介したのです。そして、もちろんペテロは主の霊の言葉を用いてイエス様を人々に証ししました。 第二番目、一緒にいたヨハネは、口を開かなかったようです。黙って、けど祈ったんです。彼の祈りこそが考えられないほど大切でした。 そして三番目、いやされた足なえは、もちろん死なれ復活なされ、そして今なお天に生きておられる、イエス様の御力を証明する救われている人たちだったんです。 ペテロ一人だったらちょっと、良くなかったでしょう。二人だけだったとしてもあまり良くなかったんです。三人が一緒になったとき、やっぱり主は働くことができたんです。 確かにいやされたこの足なえの名前でさえも、書いてないし、けどもイエス様が生きておられる救い主であることを、彼は証明したのです。いやされた足なえが非常に大切な役割を演じたのです。 確かにペテロは、このいやされた足なえについてあんまり話そうとしなかったのです、結局、我々ではなく主にだけ栄光あれ。 結局主が生きておられるから、主は彼をいやしたと、彼は心から証ししたのです。民の方たちや長老たちは、三人から出てくる力をもちろん説明することができなかったのです。けども彼がいやされたことをみな認めざるを得なかったのです。 ペテロはなぜ、私たちを見つめるのですかと叫び、自分たち三人ではなく、イエス様を指し示したのです。結局人々は、三人の中にイエス様を見たのでした。信じる者が一つになっていればいるほど、疑うことのできない証人となるのです。 そして、その証しは信者のうちに高めあられて、イエス様がおられるという、すばらしい力となるのです。 一つになると、主は必ず恵んでくださり、働いてくださるのです。 主を証しすること、紹介することこそが大切です。一つのおしえを宣べ伝えることよりも、また人を納得させることではなく、結局、イエス様を紹介することだけで十分であります。 信じる者の群れに加えられるということはいったい何なのでしょうか? 今話したように、他の信者により頼み合うこと、お互いに助け合うことです。 第二番目、他の信者と証することです。 第三番目、他の信者とともに戦うことです。 イエス様が、二人でも三人でも私の名において集まるところには、私もその中にいるからですと言われたとき、その信者の群れに悪魔の攻撃が加えられることも、はっきり予告してくださったのです。 ペテロ、ヨハネ、足なえも、間もなくこの攻撃を経験しなければならなかったのです。もし三人がバラバラに宮に入り、一人で祈りをしたならば攻撃はなかったんです。 けど彼らは三人が一つになり、一緒に行き、いっしょに証ししましたから、とんでもない迫害が起こったのです。一緒に証しすると、悪魔は必ず攻撃します。 3章4章を見ると、いやされた足なえは夜、牢屋の中に入れられたことがあることがわかります。いやされた足なえは、ペテロとヨハネと一緒にいたと書いてありますから、夜も牢屋で3人一緒に過ごしたことがわかります。足なえも一緒に訴えられるようになったのです。 本当にあまり面白くない、信仰生活の始まりなのではないでしょうか。癒されて主のものとなった最初の夜を、牢屋の中で過ごさなければいけなかったとは、ちょっと考えられない信仰生活の出発なのではないでしょうか。結局、戦いが始まったのです。 けども、次の日エルサレムにいた多くの兄弟姉妹は集まったんです。そして彼らは、祈るために集まったんです。けど祈ることだけでは、ちょっと十分ではない。 我々の聖書とは、結局祈りの材料として与えられています。書かれてるから祈ることができる。約束されてるから、期待を持って待ち望むことができるのです。 みことばを読みながら祈ること、祈りながらみことばを読むことこそが大切です。初代教会の人々は詩篇を読んだのです。どういう詩篇を読んだかといいますと、2篇であります。非常に短い所ですから、ちょっとお読みいたします。 詩篇2:1-12
信じる者、エルサレムの兄弟姉妹は、結局集まり、その3人とともに祈りのうちに、ともに働いていたのです。今読みました詩篇の2篇を開いて、主に向かって声を上げて、祈ったのです。 この一致がありましたから、迫害がともなったのです。信じる者がまったく一つになり、ともに証しするなら、迫害も必ずやって参ります。 信じる者の戦いは人間に対する戦いではない、血肉に対する戦いではなく、天上にいる@悪霊に対する戦いであると、パウロはエペソ人への手紙6章12節に書いたのであります。 そして足なえは信仰生活の初めに、経験したから悟ったのです。 悪魔のこの世を支配しようとする目的は、いったいなんでしょう。 悪魔の憎しみは、油そそがれた主なる神さまの御子である、我々の主イエス様に向けられているものです。イエス様は、十字架上で悪魔の働きに打ち勝ちましたが、その戦いはなっんという戦いだったことでしょう。 約束された助けぬし、慰め主である御霊がくだった記念すべき日、五旬節以来、主の御臨在をあらわすものはみな、悪魔の攻撃の的となります。主イエス様を信じる群れに加わったということは、この恐るべき悪魔の霊的な戦いに加わったことをも意味しているのです。 ペテロ、ヨハネ、足なえが迫害に会った時、この3人に属する同じ三人の群れが集まり、心合わせ祈りました。そのときやっぱり詩篇の2篇を開いて、読みながら祈ったのです。 そしてこの詩篇2篇は、神さまの御子イエス様がこの世を支配して下さるように、という願いを込めた祈りだったのです。「自分はどうでも良い、けど、イエス様の支配を明らかにしてもらいたい。」と。 信じる者は、あくまで防御的ではなく、攻撃的だったのです。初代教会の人々は、あらゆる面から攻撃を見ましたけど、別にがっかりはしなかったんです。 「ああ、イエス様の約束された、預言された通り。」、と分かったからです。 イエス様本人が、あなたがたもわたしが憎まれたように、あなた方も憎まれるようになる、わたしが迫害されたように、あなた方も迫害されるようになる、とイエス様ははっきりと言われたのです。 いやされた足なえは、癒された時、大喜びで飛び歩きましたが、この喜びだけを持っていただけでは足りない、また主のうちに救いがあると人に宣べ伝えるだけではだめで、どうしても他の信じる者とともに、祈りを合わせて戦わなければならないということを、初めてのエルサレムでの祈り会でよく悟ったのです。 信者たちは平和のために祈らなかったのです。また霊的な戦いが休戦状態になるようにと祈らなかったんです。 今からこそ!、主を紹介しましょう。 信者たちは祈りのうちに戦ったのです。主の御臨在を証しつづけるための大胆さのために、彼は祈ったんです。そしてこのような祈りは必ず聞き届けられます。4章の31節を見るとわかります。 使徒の働き4:31
あらゆる心配から開放されたのです。当然です!主を恐れる者は人間を恐れる必要はないからです。わたしたちも、祈りにより、初代教会の人たちと同じようにありたいのではないでしょうか。 疑いもなくいやされた足なえは、ペテロとヨハネとともに、大勢の信者の群れの仲間の所へ一緒に行ったに違いない。もし足なえが癒された時、おのれの道に歩んでいたならば、かかる大いなる祝福には預からなかったでしょう。 集まった人は、ペテロとヨハネの兄弟姉妹であり、主は同じである、また自分とペテロとヨハネは兄弟姉妹で、主はひとつであるからこの信者たちはみんな自分の兄弟姉妹であることを、彼は分かったときうれしくなったに違いない。 今まで彼はもう、ひっとりぼっちだったのです。これからは多くの家族の中に加えられるようになりました。 足なえがいやされた、癒されてペテロとヨハネとともに行くということは、いったい何を意味していたのでしょうか? それは憎しみであり、迫害であり、牢屋であり外的な戦いであり、祈りの戦いでした。これはすべて救われた結果として起こった、自動的な結果ではなかったのです。 もし足なえがすくわれたとき、すぐ自分のうちに帰っていたならば、そういうことはもちろん起こらなかったのです。すべてのこれらの苦しみは、困難は、ともに生活する所から起こったものです。また共に証しするところから起こってきたものです。 信じる者の群れは、地獄の力を滅ぼす勝利者なる主イエス様の器、道具であるべきです。 私たちが一つになって、ともに生きぬいていくことは、考えられないほど大切です。主がこれに対して、私たちの心の目を開いてくだされば、本当に感謝だと思います。 信じる者の群れに加えられた、ということはいったい何を意味しているのでしょうか。 今話したようにまず、ほかの兄弟姉妹により頼み合うこと、お互いに助け合うことです。皆お互いのこと必要であるからです。 二番目、ほかの信者と証すること。イエス様を紹介することです。 三番目、ほかの信者とともに戦うことです。 そして最後に、ほかの信者とともに満たされることです。 変わらない喜び、主の心の平安、また生ける希望に満たされることです。聖書によると、信じる者の群れは満たされるところです。 イエス様の満たしはともにする生活においてのみ、経験することができることは、一つの奥義であり、秘密なのではないでしょうか? いやされた足なえは、聖霊が何であるか、ほとんどなんであるかがわからなかったでしょうし、けども彼はそれと関係なくほかの人と同じように御霊に満たされたのです。 おそらく五旬節についていままで何も聞いたことがないかもしれない。けどそれと関係なし、彼は五旬節の力を十分に経験したのです。 使徒の働き4:31
と書いてあります。 祈っていた信者たちは、もうすでに五旬節のとき満たされていたのです。けれども、続いて満たされなければ、結局主は用いることができません。彼らは新しく満たされなければならなかったのです。 私たちももちろん同じように、絶えず満たされつづけなければいけません。高く引き上げられ、天におられるイエス様の属する我々の命となり、満たしとなり、力となりたく願っておられるのです。 エペソ人への手紙1章23節を見るとわかります。非常に、あまりピンとこない言葉です。本当の意味でつかめない言葉なのではないかと思います。 からだなる エペソ人への手紙1:23
信じる者の群れ、ということです。建物とは関係ない!、キリスト教という組織と関係ない!、イエス様に属する者は エペソ人への手紙1:23
信じる者の群れはイエス様のからだであり、またイエス様が満ち満ちておられるところです。祈りながら、どうかこの秘密を私に教えてという態度を取るべきなのではないでしょうか。 もし、いやされた足なえが、自分の道を歩んでいたならば、この満たしはもちろん経験しなかったんです。足なえは、自分の生活は主にある兄弟姉妹と助け合わなければ成り立っていけない、と思いましたから一緒に行ったのです。 彼は、コリント人への手紙第Iの12章の13節のみことばを結局知るようになり、味わったなのではないかと思います。 コリント人への手紙第I、12:13
ここで何を書かれていますかと言いますと、一つの御霊により、一つのからだとなる。この事実を、足なえは経験したのです。回心によって、彼は個人的な油そそぎ、聖霊の満たしを経験しなかったのです。 足なえは回心して信者の群れに加えられました。そして主のからだに加わり、かしらなるイエス様より、からだなる信者たちに下される満たしに預かることができたのです。 ほかの兄弟姉妹とともに、彼は満たされました。聖書には書いてないけど、ほかの兄弟姉妹は、この足なえによって祝福されたのではないかと思います。なぜなら、祈り会をはじめたのも、この足なえがきっかけになったからです。 信じる者の群れは満たされるところであると、聖書全体ははっきりと言っているのです。 この満たし内にあって、初めておのおのの信者は満足できる状態にあるのであり、このとき初めておのおのの方々が、おのおのの奉仕に預かっていることができると言えるのです。もし私たちが主に満たされて生活しているなら、もし私たちの群れに誰かが入ってくるときその人たちも直ちに満たされるようになります。 私たちはこのように、主に満たされ、主があるわれるまでに満たして満たされるものとなりたいものではないでしょうか、。 |