この世の困難


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/09/05)

引用聖句:ローマ人への手紙1章1節-6節
1神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
2――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
3御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
4聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
6あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、

この間、ちょっと古いメモを見つけました。88歳で天に召されたおばあちゃんのメモだったのです。このおばあちゃんは、イエス様を信じ受け入れて、次のように書いたのです。
「イエス様を信じましたから、本当に毎日平安に過ごさせていただいております。
生きている間にどれだけ読めますか分かりませんが、今は毎日聖書を読むこと、テープを聴くこと、お祈りすることだけが楽しみになりました。」
幸せな姉妹ではないでしょうか。

ある姉妹は、前に次のように書いたことがあります。
「今、私の目の前には、二つの道があって、一つは、主から目が離れ、涙の日々を送るか、もう一つは、主に信頼して、希望に満ちた日々を送るかです。
この二つの選択が日々あり、その中へ今回のことも含め、今までのことも全て、主のご計画と受け止め、また、この主のご計画には意味があると受け取った時、内側に生きていく力をいただく主に信頼していこうという思いになります。」云々と書いたのです。
結局、こういう証しですか、文章を読むと、はっきり分かります。すなわち、主は生きておられます。
これは単なる思い込みではない。主は生きておられ、そして主の恵みは、自分のために十分であると。

今、兄弟が言われたように、今日からの題名は、「この世の困難」について考えたいと思います。+α、「主イエス様のよみがえりの大切さ」について、また、「主の同労者になる必要性」についてです。
今読んでもらいました個所の中で、ローマ人への手紙1章1節に、「キリスト・イエスのしもべパウロ。」、結局、原語はもちろんしもべではなくて、奴隷となっています。イエス・キリストの奴隷であるパウロ。4節。

ローマ人への手紙1:4
4私たちの主イエス・キリストです。

結局パウロにとってイエス様とは、自分の罪を赦してくださったお方だけではなく、すべてでした。
「主よ、私はどうしたらいいの。お教えになってください。」、毎日、彼は必ず何十回もこういうふうに祈ったのです。自分で分かっているのではない。だからイエス様に頼らなくてはいけない。

そして信ずる者にとって彼も同じ思いを持っていたのです。結局、イエス様を信ずることとは結構ですけれど、決して十分ではない。
5節の終わりに、「信仰の従順」という表現が出てきます。本当の意味でイエス様を信ずる者は、やっぱり従順に従う者となります。なぜならば、相変わらず迷える羊であるからです。
時々証しの中で、「私は迷える羊でした。」と言います。「今はどう?」とみんな聞きたいでしょ?相変わらず同じ。「迷える羊だった。」ではなくて、今もそう。将来もそうでしょう。わがままだったわけではない。今現在もそうですし、将来もそうでしょう。

このどうしようもない者は、イエス様に頼れば、イエス様が主となると、やっぱり違います。
パウロの経験とは何であったかと言いますと、私を強くしてくださる方によって私は何でもできる。自分が立派になった。強くなったのではない。イエス様に頼ることによってです。
今日の一番大事な問題は、いったい何なのでしょうか。この世の一番足りないところは、いったい何なのでしょうか。もし私たちがあらゆることについて考えても、結局この世の人々の困難は、いのちなのではないでしょうか。全人類の飢え渇きは、やっぱりいのちなのではないでしょうか。偽物ではなく、やっぱり本物が欲しい。

初めに私たちは、神なき人々について、ちょっと考えてみましょうか。すなわち、生きていらっしゃいます、唯一の神なしの人々の飢え渇きも、いのちです。
生まれながらの人は、生きるまことの神に対して目くらですから、彼は知らずに闇のうちにいのちを見い出そうと努力しています。もちろんこの人々は、主なる神のいのちや、霊的ないのちや、永遠のいのちを全然考えません。
けれど、いわゆるいのちに対する憧れがあります。金に対する飢え乾き、自分の名誉が欲しいこと、あらゆる快楽の後ろに、このいのちに対する憧れがあります。

次に私たちは、あらゆる信心深い宗教的な人々を観察してみましょうか。お寺へ行ったり、線香をあげたりする人々は、とても多いのではないでしょうか。
彼らは自分の宗教が、あるいは自分の習慣が自分たちを救うと思っている。あらゆる習慣の後ろに隠れた不安があり、このいのちに対する飢え渇きがあります。
けれどこれは異邦人の宗教がこういうふうであるばかりではなく、いわゆるキリスト教の場合も同じです。

残念ながら、ドイツだけではなく、日本でさえも多くの牧師さんたちは、本当の福音を宣べ伝えないで、この代わりに、この世と同じ快楽と楽しみなどを与えています。
この事実はやはり、信心深い宗教家の人々も同じく、まことのいのちに対する飢え渇きを持っていると証明しているのではないでしょうか。
また、もし私たちはいわゆるキリスト教の国々へ行くと、考えられない大きな集まりや集会を見ることができます。

そして私たちはびっくりして、その人々に聞き、彼らはすぐに「私たちは純福音を持っています。」、「私たちは奇蹟を行なう力を持っています。」、「ここにいのちがある。いのちです。」と言います。
度々この人たちは、主イエス様の名を使って奇蹟を行ないます。けれど知らないうちに悪魔の力で行ないます。
これは恐るべき事実です。

ところで、どうしてそんなに大勢が集まるのでしょうか。ここに歴史的、習慣的、組織的なものではなく、いのちらしいものがあるからです。
みな、「いのち、いのち、本物が欲しい!」であるからです。
結局、本物を欲しいという気持ちこそが人間の願っていることではないでしょうか。

いわゆる新興宗教は、確かに多くあります。政府でさえも、この新しく興った宗教に対して新聞をもって、疑問をもって攻撃したこともありますけれど、あまり役に立たなかった。どうしてでしょうか。やはり、ここでも、いのちらしいものがあるからです。
ただの仏教的な習慣では、彼らが満足しなかったから。けれど、本当の主イエス様によって救われた人々も、霊的な飢え渇きを持っているのではないでしょうか。
あらゆる会議や特別な集会がこの事実を証明しています。

もし、ある種の市民は本当の心の糧をもっていれば、すぐに聴きたい人々が飛んで来ます。大きな困難がある。全人類は本物、まことのいのちに対する飢え渇き、憧れをもっているのです。
けれど、いのちとは一体何なのでしょうか。いのちとは何を意味しているのでしょうか。
この飢え乾いている人々に聞くと、彼らはみな、「現実です。現実。」と答えるでしょう。みな生き生きとして経験を持ちたいのです。彼らは色々な教理や教え、儀式や形式を欲しくないのです。だから彼らの飢え渇きは、やっぱり本物に対するものです。生き生きとした現実、生き生きとした経験をみな求めています。

それから、いのちとは何かと聞くと、多くの人々は、「力です。」「力が欲しい。」と言います。力強いいのちを求めているのです。
ただの、死んだ冷たい力のない習慣的な信仰ではなく、力、能力、ダイナマイト。何かによって残る力を欲しいのです。
いのちとは何なのでしょうか。ある人々は「現実」と言いますし、別の人々は「力」と言いますし、また、ほかの人々は「満たし」「満たされること」と言います。

いのちとはまことの満足です。だから、みんながこのようないのちを得るために求めていて、努力しています。
あらゆる人間は、生き生きとした現実、生き生きとした経験、また、進む力と能力、そして一番深い困難を満たす満足を求めているのではないでしょうか。
これこそがこの世の困難です。

もし私たちが主イエス様との親しい交わりをもっていれば、やっぱりこの世を見ると悩むようになり、前よりも祈らざるを得なくなるのではないでしょうか。
この世の困難に対する答えは、いったい何なのでしょうか。主の答えは、主イエス様のよみがえりです。イエス様は復活なさいました。イエス様は生きておられます。
あらゆる困難は、いのちということばにまとめられているので、それと同じように答えは、よみがえりということばに全部含まれています。

どうか一度、使徒の働きを読んで、そして、よみがえりということばがくると、いつも印を付けてください。これこそ最も大切だと、だれでもが認めざるを得ない。
新約聖書の一番大切なことば、一番深い秘密とは、よみがえりであるということが分かります。
けれど、よみがえりとはいったい何なのでしょうか。五つのことをちょっと考えたいと思います。

まず、よみがえりは、人間にとって新しい立場を意味しています。
二番目。新しいメッセージを意味しています。
三番目。新しい力。
四番目。新しい知識。
五番目。新しい満たしを意味しているのです。

よみがえりは、全く新しい立場を意味するのです。したがって、よみがえりは、古いものは全部過ぎ去った。全て新しくなったことを意味します。
すなわち、よみがえりを経験した人は、全く新しき立場をもっています。
前に全然知らなかった立場をもっています。イエス様とともによみがえったことは、全く新しい立場を意味しています。

二番目。新しいメッセージも意味しているのではないでしょうか。すなわち、イエス様の十字架こそがメッセージの中心になるに違いない。
ちょっとコリント人への手紙第Iの2章を見てみましょうか。

コリント人への手紙第I、2:1
1さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

しようと思ったならば出来た。
けれども、みこころではない、と彼ははっきりわかったのです。ですから彼の出した結論は、

コリント人への手紙第I、2:2
2私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

人間的に考えれば、結果は良くなかった。彼は誤解され、憎まれるようになってしまったのです。
けれども、これこそがよみがえりを意味しているのではないでしょうか。なぜなら、古いものは全部過ぎ去られなければ、新しい立場はあり得ないことであるからです。
十字架無しに、全て新しくなることはできません。十字架無しに、よみがえりはあり得ないことです。よみがえりの根本は、主イエス様の十字架です。

もしある人はイエス様とともによみがえったということについて話すけれど、イエス様とともに十字架につけられたことについて話さなければ、意味のないことではないでしょうか。
もし十字架がわれわれの実際生活に影響を及ぼすと、私たちはよみがえりの力も経験することができるのです。
よみがえりは人間にとって全く新しい立場を意味しています。したがって、よみがえりは、古いものは全部過ぎ去った。全ては新しくなったことをも意味しているのです。

第三番目。よみがえりは、人間にとって全く新しい力を意味しています。けれどこの力は、少しも人間的な力ではありません。
よみがえりの力によって生きる、また奉仕する力は、全く、徹頭徹尾、主からの力です。全然人間の力ではありません。
ところがこれは、人間が少しもなすことが出来ない。人間はゼロだけであることを意味しているのです。

やっぱり覚えるべき事実です。なぜかと言うと、多くの兄弟姉妹はこの事実を聞くと、もちろん反対しません。賛成しますけれど、実際生活においては、自分の力で生活する。自分の力で奉仕することが出来ると思い込んでしまっているのです。
教会の歴史を見ても、組織されたキリスト教を見ても、個人個人のキリスト者の生活を見ても、認めざるを得ない。すなわち、どこを見てもみな、よみがえりのいのち無しに、自分の力で主に奉仕しようと努力したということです。
組織されたキリスト教を見ると、人間の計画、人間の組織、人間の目的、人間の事業だけが見えます。もちろん、これらの目的を達するために、人間の理解力、人間の考え、人間の意思、人間の興味、人間の熱情を使うわけです。けれどこの結果を見てみると、もう悲しくなる。やっぱり主は祝福することができない。

初代教会の兄弟姉妹は、よみがえりの力によって証しして、そして力強い、世界的帝国でさえも教会を滅ぼすことが出来なかったのです。かえって、よみがえりの力をもって、使徒たちは世界の果てまで前進したのであります。
彼らの宣べ伝えたメッセージは、主は生きておられる。
けれど今日、世界的帝国は、組織されたキリスト教に抵抗する力をもっています。

なぜなら今日のキリスト教は、人間の計画、人間の心、人間の組織、人間の目的、人間の事業があり、そして人間の理解力、人間の考え、人間の意思、人間の興味を使って、自分の力で自分の定めた目的を達しようと努力しているからです。
主のよみがえりは、人間にとって全く新しい、主から与えられた力を意味しています。

第四番目。よみがえりは、全く新しい知識を意味しています。この知識は、ただの知ることではなくて、啓示、主なる神から示されたことを意味します。
もし私たちの生活の土台がよみがえりであるならば、私たちはこの聖霊の啓示によって、新しい、全く新しい知識をもっているはずです。
すなわち、聖霊がわれわれの心にイエス様について語るのです。もし聖霊がみことばをもって、われわれの心に語ると、私たちは本物をもつようになります。

もしある人がキリスト教の歴史を学び、そして信じ、またキリスト教の習慣をもって生活しているとき、そのような人は決して救われた者ではない。
教会に行くことによって、または教会員になることによっても救われません。伝道会によって、あるいは、教理問答書によっても救われません。
けれど、もし聖霊がみことばによって人の心に語ると、その人はイエス様の啓示を受けることによって本物を得るようになります。

この経験についてパウロは次のように書いたのです。ガラテヤ人への手紙1章の12節。よく知られている証しであります。
パウロはここではっきり、みなさん、「『教え』ではない。心の目が開かれなければダメです。」と言っているのです。

ガラテヤ人への手紙1:12
12私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

努力の結果ではない。学びの結果でもなかった。
私たちは聖書を読むとどうでしょう。私たちはただの内容だけがわかるのでしょうか。またはイエス様がこの聖書のことばを通して、透き通って見えるのでしょうか。
聖書の霊的な意味をつかむべきです。もちろんこの霊的な意味は、実際生活の経験によって初めて、自分のものとなります。だから私たちにとって困難と苦しみがどうしても必要です。

生き生きとした、実際的な主イエス様を見ることは絶対に必要です。けれどそれは聖霊の働きによってのみ可能です。
聖霊は、永遠の霊的な現実に対して私たちの心の目を開くことができるのです。よみがえりは、この全く新しい知識を意味しています。

もう一つ、五番目ですけれど、よみがえりは、全く新しい満たしを意味しているのです。
よみがえりは、境のない、無制限に歩むことを意味しています。もし私たちが生き生きとした霊的な経験を持っていたならば、私たちはこの無制限に歩むことを知るようになります。
すなわち私たちは何年間主に従ったか、また、どの程度まで私たちはイエス様を受け入れたか。または、どれほどイエス様を学んだかなどとは問題ではなく、私たちはただ一つのことを知っています。すなわち私たちはキリスト者の生活の始まりだけを経験したということです。

私たちは境のない無制限なところにはいった。そして将来に私たちは限りない知識を自分のものとしなければならないということを知っています。
けれど私たちの心は平安をもっています。私たちはイエス様によって満足しています。よみがえりは、この確信を与えます。
私たちはこの確信をもっている、私たちは満たしをもっているという、堅い確信を与えます。

けれどこの満たしはそんなに大きい、そんなに広いのですから、私たちは永遠に進むことができるのです。これはよみがえりです。よみがえりはすばらしいことです。
よみがえりは十字架により新しい立場、新しい力、新しい知識、新しい満たしを意味します。この世の困難に対する主の答えは、主イエス様のよみがえりです。

最後に、もう一つの点について、すなわち、主は同労者を捜し求めておられます。
信ずる者だけではなく、従順に従う人々を用いようと望んでおられるのです。結局、いかにしてこのよみがえりの力は、現実になるのでしょうか。いかにしてわれわれの生活を通して、この世の困難を解決することができるのでしょうか。
私たちひとりひとりが実際生活において十字架の意味を新たに悟らなければなりません。

前に話したように、全人類はいのちに対する飢え渇き、憧れをもっています。いのちに対する困難があれば、死の状態があるはずです。すなわち、霊的な死があるはずです。
けれども、この霊的な死の理由とはいったい何なのでしょうか。この霊的な死の状態からのがれ道があるのでしょうか。
この死の理由というのは、十字架の事実を知らないこと。または、この十字架の意味を悟りたくないことです。

多くの兄弟姉妹は、十字架の本当の意味を知りません。もちろん主を信ずるようになった者は、イエス様の十字架は、神の御子がご自分の救いの働きを完成された場所です。
神の小羊としてイエス様は、この世の罪のために十字架で亡くなられ、そうすることによって主なる神のみこころを満たしたのです。
ですから主なる神はイエス様をよみがえらせ、引き上げ、将来の世界の支配者とされたのであることは、イエス様を信ずる者は、一度みんな知っている。別に拒む気持ちもない。

けれど、十字架のもっともっと深い意味を私たちは経験しなければならない。イエス様のなされたことは、われわれのうちに現実とならなければなりません。
そのためにイエス様は亡くなられたのです。イエス様の死は、われわれのうちに現実となり、われわれはイエス様とともに死ななければならない。
私たちの自分の考え、自分の欲すること、自分の思い、自分の志すこと、自分の目的などは全部ダメだということを知るべきです。もし私たちが反対したら、私たちは従順の意味を少しも分からない。

イエス様の十字架で流された血潮は、私たちの罪を洗いきよめることができます。イエス様の血は全ての罪、無意識のうちに犯した罪も赦す力をもつものです。
けれども、われわれの古き人を洗いきよめることが出来ない。古き人を十字架につけるために、十字架が必要です。
われわれの全ての罪は、血によって取り扱われ、けれどわれわれの古き自己は十字架によって取り扱われなければなりません。イエス様はわれわれの代わりに、すなわち、私たちの古き人として、十字架につけられたのです。

したがって、もし私たちは自分の力で、自分の思いに従って主に奉仕しようと思うと、私たちはこの考え方によって、イエス様は嘘つきだ。十字架は別に必要ないということになってしまうのです。これは非常に恐ろしいことではないでしょうか。
もちろん。あらゆる主イエス様を信ずる者は、私たちの古き人は、イエス様といっしょに死んだと言うでしょう。教えとして、もちろん疑わずに信じます。けれどこれは実際的になると、多くの兄弟姉妹はこの十字架の意味を退けて、嫌います。
もし私たちは実際生活において、イエス様の死の様と等しくならなければ、私たちはイエス様を信ずる者として気の毒な、あわれむべき存在です。十字架の満たしをわれわれの生活によって表わさなければならない。

パウロもこれを経験したから、次のように書いたことがあります。コリント人への手紙第II、4章の10節から12節までお読みいたします。

コリント人への手紙第II、4:10
10いつでも

たまにだけではなくて、いつでも

コリント人への手紙第II、4:10-12
10イエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
12こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

よみがえりの力は、この世の困難に対する答えとして、新しく現われなければならない。
どうして今日、よみがえりの力があまり現われないのでしょうか。どうして自分の家族の中で、親戚の中で、また、知り合いの人々の中で、主は力あるわざを、あまりできないのでしょうか。どうしてイエス様の偉大なる力が、あんまり働くことができないのでしょうか。
私たちは十字架につけられていない者だからです。

もし、この上の力が、私たちのうちに現わそうとしたら、この腐っている古い自己は、十字架につけられなければならない。古いものは全部過ぎ去らなければならない。
疑いもなくパウロの生活によって主は、働くことができたのです。パウロの生活によってよみがえりの力が現われたのです。けれど、このパウロこそ、自分の習慣、自分の知恵、自分の習った教え、自分の力を捨てなければならなかったのです。
パウロは、実際生活において十字架の意味を理解して、経験しました。コリント人への手紙第Iを見ると次のように書かれています。

コリント人への手紙第I、2:1-2
1さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

またパウロは、ガラテヤ人への手紙6章の14節に次のように書いたのです。

ガラテヤ人への手紙6:14
14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

もうアウトです。十字架につけられたイエス様、復活なさったイエス様、近いうちに来られるイエス様こそがパウロにとって全ての全てでした。
彼は霊的だけではなく、肉体的にも主イエス様に全く従属するようになったのです。もう一ヶ所読みましょうか。
コリント人への手紙第IIの1章。パウロの正直な告白であり、証しです。

コリント人への手紙第II、1:8-9
8兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。

もう終わり。主を第一にしたパウロたちはこういうふうに苦しめられたのです。
もちろん、目的をもって主はこういうふうに導いたのです。目的とは、これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。まだなっていなかった。
十字架は自分の心の内に現実になると、よみがえりの力を経験することができるのです。

いかにして私たちはイエス様のよみがえりの力を経験することができるのでしょうか。イエス様の死のさまに等しくなることによってです。イエス様の死のさまに等しくなることは、よみがえりの力の秘訣です。
パウロはキリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまと等しくなるということを経験したのです。主イエス様の死のさまと等しくなることは、よみがえりの力の秘訣そのものです。
これは本当に覚えるべき大切な知識、事実ではないでしょうか。

どうでしょうか。私たちは自分の考えをつかんで、自分の思い通りに前進したいのでしょうか。自分の人気をよみがえりの力より欲しいのでしょうか。
私たちは毎日、イエス様をよりよく知りたいと望むのでしょうか。あるいはその代わりに、人の歓心を買いたいのでしょうか。
パウロは証ししたのです。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストのしもべではあるまいと、証ししたのです。これこそパウロの努力の結果ではなくて、御霊の働きの結果でした。

そしてイエス様は言いました。「地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのです。だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負ってわたしについて来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない。」、とイエス様ははっきり言われたのです。
なぜなら、人間の力で主に仕えたい、また、人間の考え、人間の思いを使って主に奉仕したいなどとは、本当にもう全く意味のないことであり、愚かなものです。

もし、人間の考え、人間の計画を使うことができたら、十字架は必要ないはずです。大切なのは、主イエス様について話すこと、また、イエス様を紹介するよりも、聖霊によって与えられた主イエス様に対する啓示です。
イエス様をよりよく知ったということになれば、本当にすごいのではないでしょうか。
この世の困難を解決するために、イエス様から備えられた器が必要です。この器は十字架を徹頭徹尾経験しなくてはならない。十字架によって、生まれながらの思い、人間的な考え、自分の力を過ぎ去らなければなりません。

この器は全く新しい立場を取らなければいけない。この器は人間の力に少しもよらないで、ただ主にだけ従属しているのです。
この世の人々みなが、いのちに対する飢え渇きをもっています。この困難を解決するために、よみがえりのいのちが必要です。
けれどよみがえりは、初めに、死の場所を意味しています。死なしに、よみがえりはあり得ないことです。これは十字架です。

よみがえりの力は、全然人間の力ではなく、徹頭徹尾主の力です。この主の力を、人間が経験し、毎日の生活を支配したら、この人こそが主の器となります。
教え、または教理が大切よりも問題なのは、聖霊が私たちにイエス様についての啓示を与えることが出来るか出来ないかということです。
イエス様でさえも父なる神の考えなしに、自分の考えによって何もしませんでした。聖霊の働きによって、みことばを通して、また私たちが段々イエス様の満たしまでに成長しなければいけません。これがよみがえりです。

そしてこのよみがえりの力は、器を通して働き、現わされなければなりません。
もし、今述べたことを考えると、祈りの材料を持っているようになります。これらを持ってきて主の御前に出ましょう。このことがらがわれわれのうちに現実になるように、そしてひとりひとりがイエス様の死の様と等しくなるように祈りましょう。
そうしたら初めて、生きておられる主イエス様は、われわれの生活の支配を持っており、よみがえりの力を現わすことができ、聖霊は力あるわざを私たちの家族の中、われわれの親戚の中、知り合いの人々の中で行なうことができるのです。

十字架につけられた者だけが、主の器となります。
十字架につけられた者だけが、聖霊の主に対する啓示を受け、また、良き管として、この世の困難を解決します。
主に頼ると主は、大いに働いてくださり、恵んでくださいます。




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