この世の困難を解決する器


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/09/12)

引用聖句:使徒の働き26章4節-5節
4では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。
5彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。

使徒の働き26:9-19
9以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
10そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
11また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
12このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、
13その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
15私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
19こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、

ピリピ人への手紙3:1-8
1最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
2どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
3神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

コリント人への手紙第II、4:1-7
1こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
2恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
3それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

先週始まったテーマ、「この世の困難に対する主の答え」について、もう少し考えたいと思います。
先週話したように、この世の人々の一番問題とするのは、いのちであり、また、全人類の飢え渇きは、やはりいのちであるということを、もうすでにいっしょに考えてまいりました。
人は現実、また、力、満たしを欲しいのです。この困難や憧れに対する主の答えは、よみがえり、主イエス様のよみがえりであるということも、先週ちょっといっしょに考えてまいりました。

よみがえりとはいったい何なのでしょうか。すなわち、よみがえりは、十字架による新しい立場、新しい力、新しい知識、また、新しい満たしを意味します。
そして、私たちはこの前に次の大切な質問を設けたのです。すなわち、いかにしてわれわれの生活を通して、このよみがえりの力は現実となり、また、この世の困難を解決することができるか、という質問を設けたのです。この答えは次のようでした。
十字架の意味を悟ることによって。よみがえりの力を現わすことによって。また、主イエス様を示されることによってのみ、これが可能です。

今日は、「この世の困難を解決する器」というテーマをもって、ちょっと考え続けたいと思います。
この世の困難を解決するために、主によって備えられた器が必要です。確かに多くのキリスト者は、この問題について真剣に考えて、そして結論として、この世の困難を解決するために、ほかのパウロが必要だ、と言います。
けれど、もちろんこれは大間違いです。なぜなら、もし今日、ほかのパウロ、またパウロ自身が来たとしても、今日のキリスト教という宗教はパウロを決して受け入れないでしょう。パウロは、今日の組織されたキリスト教を攻撃するでしょう。

今日のキリスト教は、前のユダヤ教に非常に似ています。似るようになってしまったのです。そしてユダヤ教はイエス様を十字架につけたのです。
今日の組織されたキリスト教も、同じくほかのパウロを十字架につけるに違いない。これは恐ろしい事実です。けれど考えるべきことは、パウロはイエス様のからだなる教会の代表者。からだなる教会の象徴。からだなる教会の現われでした。
そして、この時代の一番大切なことはやはり、イエス様のからだなる教会です。だから、ほかのパウロ、ほかの教会の象徴は、別に必要ないのです。

まことの教会は主イエス様であり、また、イエス様を信ずる者のうちに住んでおられるイエス様です。
からだなる教会である霊の住まい、霊の主の住まいとはイエス様ご自身であり、また、イエス様に結び付いている兄弟姉妹の分かれていない統一です。すなわち、まことの教会は、現実になったから、教会の象徴はもう必要ないのです。
けれどもパウロの生活によって明らかになった霊的な真理は、おのおのの世代で、おのおのの教会のうちに現実とならなければならないとは、主のみこころです。

パウロの生活の霊的な際立っている特徴は、主のからだなる教会の際立っている特徴とならなければならない。だから必要なのは、ほかのパウロではなくて、パウロによって啓示された教会が必要です。
もし私たちはちょっとだけパウロの生活を観察すると、この人は主から選ばれた器であることが分かります。
パウロが回心した時、主は、「あの人はわたしが選んだ者である。」、と言われました。パウロは主から選ばれた器でした。パウロの生活の霊的な際立っている特徴は、教会の際立っている特徴とならなければなりません。

パウロは、主から選ばれた器でした。同じように教会は、主に対する用いられる器とならなければなりません。
もちろん教会の模範はイエス様であり、そして主のからだなる教会は、イエス様に似たものとならなければなりません。
けれどもイエス様が特にパウロのうちに、またパウロを通して啓示なさいましたことは明らかです。

イエス様はこの地上におられた時、あんまり教会の秘密について話さなかったのです。なぜならば五旬節の前には、だれもこの秘密を分からなかったでしょう。
けれども高く引き上げられたイエス様は、選ばれた器であるパウロを通してまことの教会の秘密についてはっきりとお語りになったのです。
まことの教会は決してパウロの教会ではなく、イエス様の教会です。

ところがイエス様は、パウロを通して、まことの教会の秘密についてお語りになりました。
イエス様から示された啓示は、器の生活のうちに生きる現実とならなければなりません。そうしなければ、啓示はあんまり役に立ちません。けれどパウロの生活はこの啓示によって、全く新しくされました。

言えることは、パウロのうちに教会の形ができたということです。だから私たちにとって、この主から選ばれた器の生活は非常に大切です。
ですから私たちは、このパウロの生活をちょっとだけ観察してみたいと思います。そして、いつも一つのことを覚えましょう。すなわち、パウロの生活の霊的な際立っている特徴は、教会の際立っている特徴とならなければなりません、と。
五つの点について、ちょっと触れたいと思います。

第一番目は、古い器は排斥された。
第二番目、全く新しい器は必要である。
第三番目、主によって捕えられること。
第四番目、自由にされること。そして
第五番目、土の器となることです。

まず古い器が排斥されたことについて、ちょっとだけ考えたいと思います。
一つのことが明らかでしょう。すなわち、ユダヤ教はパウロの生活によって排斥されました。今、兄弟がお読みになりました個所を見るとはっきり分かります。
ご存知のように主なる神は、混沌たる創造から一つの国民、すなわちイスラエルを取り出されました。そして、イスラエルについて主は何と言ったかと言いますと、「イスラエルはわたしの栄光である。喜びをもって、誇りをもって、イスラエルはわたしの栄光である。」と言われたのです。

何ということばでしょう。「イスラエルは私の栄光です。」
ソロモン王の時の初めにはそうでした。イスラエルは主なる神の栄光でした。イスラエルの民は、主の民として、力、能力、ダイナマイトのような信仰をもっていましたけれど全部ダメになってしまって、混乱と罪だけが残ったのです。
もちろんイスラエルの民は、礼拝や色々な儀式をもっていましたし、けれど前の生き生きとした信仰はダメになって、その代わりに、死んだ冷たい、力のない、習慣的な信仰がやって来ました。

パウロの住んでいる時のユダヤ教の場合はそうだったのです。
主はイスラエルの民によって、ご自分の栄光を現わすことができませんでした。だから主はパウロの生活を通して、ユダヤ教を排斥なさいました。
二つの聖句を読むと分かります。一つはエレミヤ書の18章。よく知られている個所です。

エレミヤ書18:3-4
3私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
4陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。

エレミヤ書18:6-10
6「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
7わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
8もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。
9わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、
10もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。

もう一ヶ所。内容的には同じですけれど、ローマ人への手紙の9章。

ローマ人への手紙9:21-25
21陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
22ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
23それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
24神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
25それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

イスラエルの民は、今話したように、とんでもない方向に行ってしまったのです。
主はご自分の目的を達するために、結局ほかの器を必要としました。だから古い器、すなわちユダヤ教、イスラエルの民は排斥されたのです。この新しい器は、パウロに啓示されたイエス様のからだなる教会です。
パウロはユダヤ教の指導者たちに対して、クリスチャンたちに非常に警告しました。ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、コリント人への手紙、またヘブル人への手紙を読むとはっきり分かります。

ユダヤ教の指導者たちはいつも、私たちこそ神から選ばれた民であり、私たちだけが主なる神の器であるなどと宣言し、自分が主なる神から排斥されたことは認めようとしなかったのです。
けれど、世の困難を解決する器は、罪と形式的な信仰にまみれたイスラエルの民ではなく、パウロの啓示された主イエス様のからだなる教会です。
イスラエルの民は失敗しましたから、主は新しい器を必要としました。イスラエルは主なる神の栄光であった時に、主に敵対している国の間でイスラエルは、霊的な力を持っていました。

けれどこの霊的な力が段々無くなってしまったのです。残っているものは、今話したように、組織された宗教、習慣を守る組織に過ぎなかったのです。人間によって組織された宗教、また、習慣と迷信によって目くらにされた者は、もう主の器ではありません。
これを考えると、まことの教会の一番大事な使命は、霊的な力を持つこと。また、主の目的を達する器となることです。
イエス様のからだなる教会の代表者であるパウロの生活を見ると、これをよく分かることができます。もし人間が主の力だけに拠り頼まないと、知らないうちに一つの組織になり、主の器として用いられないのです。

第二番目。全く新しい器が必要になってしまったのです。
パウロは自分の宗教的な生活を捨てなければなりませんでした。彼は一生懸命になって、いわゆる宗教的なものを全部捨てなければなりませんでした。パウロは全く徹頭徹尾、新しい立場を取らなければなりませんでした。
前に全然知らなかった立場を取ったのです。これは過去に対する終わりを意味していました。全く新しい歴史が始まったのです。

回心までの生活は終わってしまいました。パウロは回心を経験したあとで、アラビヤへ隠遁したと聖書は言っています。
それからあとのパウロの生活は、全く違ったものでした。古いものは全部過ぎ去ったのです。パウロの書いた手紙を読むと分かります。
すなわち彼はイエス様を知らなかった生活と回心した生活との関係が少しも無かったのです。全く。徹頭徹尾、新しい生活でした。

前に言いましたように、パウロの生活の霊的に際立っている特徴は、まことの教会の際立っている特徴とならなければなりません。なぜならばパウロによってまことの教会の秘密は明らかになって、パウロはまことの教会の代表者だったからです。
だからイエス様のからだなる教会は、全く、徹頭徹尾、新しい創造です。教会は古い生活の関係が全部断ち切られました。すなわち、イエス様に属する者はどのような者であるかと言いますと、古い生活と新しい生活との関係を少しも持っていません。新しく生まれた者です。
古い生活が終わって、新しい歴史が始まるわけです。パウロはコリント人への手紙第II、よく読む個所なのですけれども、5章の17節に次のように書いたのです。

コリント人への手紙第II、5:17
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は

「その人」、というのはちょっと間違って訳されています。下のほうに書いています。「そこには新しい創造があり。」
すなわち、うちに住んでおられるイエス様なのです。新しく造られたのは、信ずる者の中に住んでいるイエス様です。結果として、

コリント人への手紙第II、5:17
17古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

これを経験した者の集まりは、主イエス様のからだなる教会です。古いものは過ぎ去った。罪にまみれた古い生活はダメだということを、みな分かるのです。
けれども多くの信者は古い宗教的な考えや思いを捨てたくない。
けれどもパウロの生活を見ると分かります。この前に読んでもらいました個所。ピリピ人への手紙3章の6節の後半と7節をもう一回お読みいたします。

ピリピ人への手紙3:6-7
6律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

パウロは自分の信心深い生活、自分の宗教的な考えや思いが、全部ダメだったということを告白しました。なぜなら聖霊が支配者では結局なかったからです。
私たちは熱心に集会に来ても、熱心に聖書を読んでも、また一生懸命主に仕えようとしても、けれどこれらのことを自分の力で、聖霊の支配無しにすると、私たちは非常に騙された者です。
サウロ、あとのパウロは、自分の力を尽くして主に仕えようと、本当に心から努力しました。その結果はパウロ自身に言わせると、私自身も以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって、反対の行動をすべきだと思っていました。

彼は自分の思っていることを熱心にしてまいりましたが、けれどこれは間違っていたのです。パウロは主に仕えようと努力していましたが、主を迫害してしまったのです。
自分の力を使うこと、自分の思い、自分の考え、自分の計画などは非常に危険です。私たちは絶えず覚えるべきではないでしょうか。すなわち、自分の思い、自分の欲すること、自分の志すことや目的は、絶対ダメだということです。
私たちは主にだけ仕えようと思うかもしれないが、しかし、古いものは全部過ぎ去らなければ、主の邪魔者にすぎないのです。

主のみこころにかなったまことの教会は、全く、徹頭徹尾、新しい器です。まことの教会の力は、少しも人間の力ではありません。教会の力の源は聖霊です。
けれど古いものが全部過ぎ去らなければ、この新しいことがらがあり得ないことです。どうでしょうか。
自分の生まれながらの気持ちによって支配されている生活は終わったのでしょうか。実際生活において、聖霊の支配を知っているのでしょうか。聖霊の支配は私たちが、聖霊の標準や聖霊の方法と一致すること、一つになることを意味しているのです。

もし私たちが聖霊の支配の下にいると、生まれつきの考えや決定、生まれつきの考えなどは使わないで、聖霊と一つになることによって、聖霊の判断、聖霊の考え、聖霊の標準をもっているわけです。
これはパウロのメッセージでした。けれどそれだけではなく、このメッセージはパウロの実際生活において現実だったのです。そしてパウロの生活の霊的な際立っている特徴は、教会の際立っている特徴とならなければなりません。
この世の困難を解決する主の器は、このような教会です。

この器は、第三番目の特徴は、イエス様によって捕えられていることです。
パウロは、私はキリスト・イエスによって捕えられている。私はイエスのしもべ。イエスに仕える奴隷ですと、喜びをもって、感謝をもって告白したのです。
ダマスコへの道の途中で経験した回心は、主によって捕えられていることでした。パウロは実に主によって閉じ込められ、監禁されてしまったのです。

イエス様はパウロに、「わたしはあなたを捕まえた。」と言われました。そしてパウロは捕えられた者として、主に使える奴隷として、主のためだけに生きることは、まことの自由であり、最高の幸せであると経験したのです。
前に話したようにパウロは、教会の代表者、教会の象徴でした。したがってパウロの生活によって明らかになった霊的真理は、おのおのの教会のうちに現実とならなければなりません。これこそが主のみこころです。
パウロの生活の際立っている特徴は、イエス様によって捕えられていることでした。私がイエス様を選んだのではない。捕えられてしまった。

同じく、まことの教会の際立っている特徴は、イエス様によって捕えられることです。したがってまことの教会は、人間に作られたものではなく、人間から組織されたものではありません。人間は自分の力でまことの教会にはいることはできません。
確かに多くの人は、あの人もキリスト教にはいってしまったと言います。もちろんキリスト教にはいろうと思えばできますけれど、救いを得るために主によって捕えられなければ救われません。
今のキリスト教というものは人間によって作られたもので、決して主を主権者としての創造されたものではありません。

まことの教会とは、主ご自身の造られたものです。人間のできることは、イエス様を紹介することであり、主イエス様のなさったことを宣べ伝えることにすぎません。ほかの残っている仕事は、全部聖霊の仕事です。
人間の力で教会へ導いた人々、また、形式的に教会員になった者は、まことの教会の妨げにすぎない。どうでしょうか。私たちはみなイエス様によって捕えられた者になったのでしょうか。
パウロは大喜びで、私はキリスト・イエスによって捕えられたと言うことができたのです。そして前に言いましたように、パウロの生活の霊的な際立っている特徴は、まことの教会の際立っている特徴とならなければならない。

四番目。この器は自由にされた器です。
もし私たちがガラテヤ人への手紙を読むと、この自由の大切さが分かります。パウロは何回も、キリストにある私の自由ということばを使いました。
もちろんイエス様は、わたしはあなたがたを自由にするために来ましたと言われたのです。

ユダヤ教の指導者たちは何と言ったかと言いますと、私たちこそ主なる神によって選ばれた民であり、私たちだけが神の器であり、しかしもうすでに主なる神からの排斥されたことを認めようとしませんでした。
ユダヤ教の指導者たちは、私たちこそまことの教会である。相変わらず大切なのは律法を守ることであり、儀式や形式や自分の組織こそが大切であると。
これに対してパウロは、もう憤激して反対しました。キリストにあって私は儀式や形式や律法から解放された。そしてパウロは啓示によってこの事実を自分のものとし、聖霊の力によって宣べ伝えたのです。

イエス様は祭壇であり、イエス様は神と人間との会合の場である。主イエス様はささげものであり、イエス様は全人類の罪を取り扱われました。
イエス様は祭司であり、主イエス様は主なる神と人間との間の仲介者です。イエス様ご自身が会合の幕屋であり、だから特別な建物は必要ない。
集まりの中心とは主イエス様ご自身です。まことの教会とは、イエス様ご自身であり、またイエス様に結び付いている兄弟姉妹の分かれていない統一です。

だから、外面的な組織されたものは必要ない。その代わりに、生き生きとしたイエス様との霊的な交わりは、まことの教会の際立っている特徴です。
けれどユダヤ教の信者たちは正反対しました。決してそうではない、と。
使徒の働きの15章を見ると分かります。

使徒の働き15:1
1さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

パウロはこれを聞いて、命懸けで戦いました。主の救いとは全く違う。主が恵んでくださらなければ、だれも救われ得ないとパウロは宣べ伝えたのです。
言うまでもなくわれわれの今日の敵対するものは、ユダヤ教ではなく、人間によって作られた、組織されたキリスト教ではないでしょうか。
いわゆるキリスト教そのものは、多くの場合形式的なものであり、いのちのないものです。

教会生活によって多くの人は束縛され、また、支配されているのではないでしょうか。パウロはこのような偽物に対して戦ったのです。なぜなら、彼は宗教的な束縛から、イエス様によって全く自由にされたからです。
パウロは、主イエス様のうちに全てがあり、そしてイエス様とつながっていれば、本当の意味で喜ぶことができ、また、ほかの人々も導かれて救われるのです。と経験しました。
掟から解放されたパウロは、まことの自由へ、また、イエス様との交わりはパウロにとって、すべてのすべてでした。今日も、本当の意味で解放された者だけが主に用いられるのです。

最後に五番目ですけれど、この器は、本当は大したものではない。土の器です。
前に兄弟がお読みになりました、コリント人への手紙第IIの4章6節、7節をもう一回引用いたします。

コリント人への手紙第II、4:6-7
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、

持っている。けれど、

コリント人への手紙第II、4:7
7土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

パウロは、私たちはこの宝を、土の器の中に持っていると言ったのです。何という宝なのでしょうか。キリストの顔に輝く神の栄光の知識です。
まことの教会の使命とはどういうものなのでしょうか。まことの教会の使命は、また、働きや目的は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにすることです。これこそ偉大なる特権です。
私たちはイエス様の顔に輝く主の栄光の知識を明らかにしているのでしょうか。これこそわれわれに与えられている使命です。ほかのことをいくら熱心にやっても役に立たない。

主の栄光を表わすのは、よみがえりのいのちの現われです。パウロの生活そのものは、主のよみがえりの力の現われでした。
パウロは、「私は土の器にすぎません。」、死に面したこともしばしばあった。また、生きる望みさえ失ってしまった。いつも主イエスの死をこの身に帯びているとパウロは告白しました。
こういう告白を見ると、私たちはパウロの弱さを見ることができますけれど、もし私たちがパウロの働きの深さ、満たし、また結果を見ると、もうびっくりします。いったいどうして主は彼をそんなに用いることができたのでしょうか。

パウロが特別に強かったからでしょうか。普通の人よりもずっと賢い者だったのでしょうか。決してそうではありません。パウロは正直に証ししました。
「私は、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
パウロは、「私は土の器にすぎない。」

もし忍耐があれば、もし力があれば、もしいい結果があれば、これは決して私のせいではない。これは、測り知れない主ご自身の力です。
これは、よみがえりの力の現われそのものです。土の器に宿っているよみがえりの力は、パウロの生活の秘訣でした。
パウロはまことの教会の代表者であるから、パウロの生活の特徴は、教会の特徴とならなければなりません。

われわれの場合はいったいどうでしょうか。私たちも単なる土の器でしょうか。ある人は言うでしょう。「私だって、私は弱い。あんまり役に立たない。主は私を用いることができないでしょう。」と。
パウロも実に土の器でした。ところが、彼は、この土の器こそ、それが、主の測り知れない力の器であるべきだと確信したのです。
主がこの土の器によってのみ、ご自分の測り知れない力を現わすことができるのです。

今日の教会はいかがでしょうか。今日の教会は、土の器となりたくない。かえって、自分のことしか考えていないのではないでしょうか。今日の教会は、この世と同じようにさせるために努力をしている。初代教会は、土の器でした。
そして初代教会と今日の教会の働きの結果を比べれば分かる。この世の困難を解決するために、主から備えられた器が必要です。パウロはこのような器でした。
そしてパウロの生活の霊的な際立っている特徴は、教会の際立っている特徴とならなければならないというのは、私たちの個人個人の生活のうちに、この霊的な特徴は現実にならなければならない。私たちも、ひとりひとりこのような器になれば幸いです。これこそ主の目指す目的です。

主から、ご自分の教会に対する示された啓示は、器の生活のうちに、生きる現実とならなければなりません。
言うまでもなく、御霊の啓示によってこれが可能となります。これは生まれながらの歴史の終わり、また、霊的な出発点を意味します。これは御霊のみの仕事であり、人間の努力の結果ではありません。
このような器は、主イエス様によって、本当の自由をもっていますし、イエス様のうちに何でももっています。イエス様こそが、このようなあらゆる困難を満たすお方です。

旧約時代の象徴したもの、すなわち、いわゆる儀式、また、預言者たち、祭司たち、祭壇、恵みの座、ささげ物、宮などはイエス様にあって初めて全部、成就されました。
イエス様こそがわれわれの預言者であり、祭司であり、王であり、また、私たちの恵みの座であります。
そしてイエス様によって主なる神の栄光の知識が明らかになりました。

またイエス様は、われわれをも土の器として用いようと望んでおられます。
主の測り知れない力、また、主のよみがえりの力は、土の器を通して初めて明らかになります。今の世の困難を解決する器は、イエス様のからだなる教会です。私たちはこの主の器を心の目で見たことがあるのでしょうか。
私たちは主の器となるべきです。

確かにイエス様は、「わたしはわたしの教会を建てる。」と約束してくださいました。イエス様はそのための力をもつお方です。
言うまでもなく、これは新しい教派、新しい組織、新しい諸教派ではありません。
イエス様と救われた者との生き生きとした交わりは、このような用いられる教会であり、主の必要な器であります。




戻る