引用聖句:ローマ人への手紙4章17節-21節
ヘブル人への手紙11:8-12
この間に引き続いて、同じテーマについていっしょに考えたいと思います。この世の困難についてです。この世の困難に対する主の答えについてです。 今日はおもに、よみがえりに基づく信仰生活の必要性についていっしょに考えたいと思います。 イエス様を通して初めて、内容ある人生へと、はっきりとした目的をもった意味のある人生が確立されます。 イエス様のみもとに来るということは、もちろん救われることを意味します。聖書は主のもとに行く人は必ず受け入れられると書かれています。 そして、だれでも経験したのではないかと思います。すなわち、最初は私たちが何を手にいれることができるかということに重点が置かれます。例えば、罪の赦し、まことの心の平安、真の喜びと生き生きとした希望などです。 けれど時代はそれからさらに進行しなければならない。というのは、いつまでも元の状態にとどまることは許されないからです。 すなわち、主イエス様を通して私たちがいただいたものは確かにすばらしいことですけれど、さらに私たちが変わらなければならない。まず第一に、主イエス様を知ること。そして次に、イエス様とともに歩むことが必要です。 すなわち今話したように、よみがえりに基づく信仰生活こそが必要です。 このような生活を送ったのはアブラハムです。今、兄弟が二ヶ所お読みになりました。結局アブラハムとは、何を経験したのか、どうして祝福されたのか、用いられるようになったかについての個所です。 このアブラハムとは、われわれ信者すべての者の父、すなわち信仰者の模範と言われています。アブラハムの生活を通して私たちは次のことを知ることができます。 すなわち私たちの信仰生活にとって、最も大切なことは、死者をよみがえらせた方、すなわち、よみがえりの主との交わりをもつことです。 信ずる者はただ単によみがえりの事実を信ずるだけではなく、よみがえりに基づいて生活を送ることが必要です。これはいったいどういうことを意味しているのでしょうか。 それは色々な状況や環境に動かされることなく、それらを超越した生活をするということにほかならない。 ちょうど、イエス様が復活して父の御座に座するようになったと同じように、私たちもまた本当のいのちをもっていれば、イエス様とともによみがえり、すでに今、天に移されているはずです。 よみがえりに至るイエス様の道は十字架を通って行きました。われわれの場合もそれと全く同じです。私たちも自己を否定し、自我に死ねば、よみがえりに基づいた生活を送ることができるのです。 私たちはよみがえられた主との交わりをもっているのでしょうか。もっていないならば、それは私たち自身の責任です。なぜならば、自分勝手な道に行ったことへの結果であるからなのです。 私たちは悪魔のせいとか、周囲の事情とか、ほかの人々のせいにしがちですけれど、根本問題は、自分の自我にあることを知らなければなりません。 パウロの祝福された奉仕の活動は、刑務所に入れられることによって一度中断されました。けれど彼はエペソ人への手紙2章6節、すなわち、 エペソ人への手紙2:6
と、書くことができたのです。 どのような困難があろうとも、そのような困難を超越して、勝利者となることはできます。私たちがよみがえりに基づいた信仰生活を送るとき、その戦いの勝利は保証されています。 五旬節のあと、イエス様の弟子たちは迫害され、憎まれました。けれどあらゆる攻撃においても彼らは圧倒的な勝利者になることができたのです。私たちがよみがえりに基づいた信仰生活をすることの必要性に対して、主によって目を開いていただきたいものです。 もう一度、よみがえりに基づいた信仰生活とはいったい何を意味しているのでしょうか。もう少し考えてみたいと思います。 そのために私たちはもう少し詳しく、アブラハムの生涯を見てみることにしましょう。なぜならばアブラハムは死者を復活させる神を信じた人だったからです。アブラハムの生涯のおもな特徴は、次の三つにまとめられます。 第一番目。主に対する全き拠り頼み。 第二番目。主の拒絶的な答えに対する了解。 第三番目。絶えず続く新しい成長。 の三つです。 まず第一番目。主に対する全き拠り頼みについて聖書から見てみましょう。 全てのことにおいてアブラハムは主に拠り頼みました。なぜならば自分自身は何にも出来なかったからです。したがってアブラハムは、主に従おうとするときには、どうしてもよみがえりの力を経験しなければなりませんでした。 私たちと同じように、アブラハムも、またおもに多くの過ちを通してこのことを学びました。 三回、アブラハムは自分勝手にことを行なってしまったのですけれど、その結果、罪の中に入ってしまいました。私たちも自分の力で何かをしようとするときは、いつも、もはやよみがえりに基づいた信仰生活を送ることが出来ず、罪の真ん中に入り込んでしまうのです。 最初の失敗は、創世記の12章に記されています。創世記の12章10節から読みます。 創世記12:10-20
とあります。アブラハムはちょっとだけ約束の地にいました。けれど、それから飢饉がやって来ました。そのためアブラハムは行ないに不安を感じ、エジプトへ出て行き、もはや主を見上げる代わりに自分勝手なことをしてしまったのです。 私は約束の地を自分自身の力で見つけたのではなく、それは主の導きによるものでした。ですから今、ここに発生した大飢饉も私のせいではなく、主の責任によるものです。私を養ってくれるものは、今まで導いてくださったご自身であると、このような信仰を続けることができれば、アブラハムは幸いでした。 けれどもアブラハムはこの態度を取らなかったのです。残念ながら彼は自分勝手なことをしてしまったのです。 外側を見るならばアブラハムはより豊かになり、快適な生活を送っていました。しかし内側を見ると、彼は妥協によって弱くなり、その結果主は、彼が罪を悔い改めてカナンの地に戻って来るまでは彼を導くことができなかったのです。 信仰の父と呼ばれたアブラハムとはこういう男でした。 第二の失敗は、創世記16章に書かれています。主はアブラハムにひとりの子を約束なさいました。嘘を知らない主は約束してくださった。 けれど彼は考えました。私たちは今や主に全くすべてをゆだねることはできません。私たちにとっては主のなさることはあまりにも遅すぎて、助けとはなりませんから、自分たちの力で何とかしなければならないでしょうと思ったのです。 結局アブラハムは絶望してしまいました。 主はアブラハムに息子をお与えになることを約束されましたけれど、その約束はなかなか成就いたしません。 アブラハムは段々歳を取り、ついに85歳になってしまい、その望みはほとんど無くなってしまいました。 アブラハムはそれまで主とともに歩み、多くの幸いのことを経験しました。けれど、今、息子を与えてくださるという主の約束は望みが無くなってまいりました。 人が絶望しますと、色々な違った反応を示します。ある人は絶望状態に陥ると、諦めてしまいます。またある人は、逃れるために自分で何かしようとします。アブラハムの場合はそうでした。 アブラハムは絶望しました。妻サラは子を産みません。そこで妻サラは使い女で、名をハガルという一人のエジプトの女をアブラハムの妾として与えました。 ハガルは間もなくアブラハムの子を産みました。 これは何を意味しているのでしょうか。アブラハムはその行ないによって、「主はできない。だから自分でことを行なおう。」、といういけないアブラハムの心を表わしています。 アブラハムは、主は望みの神ではない。私がやらなければ主は成し得ないという気持ちになったのです。 結局アブラハムは絶望に陥りました。そのときアブラハムは主に拠り頼まないで、自分でことを行ないました。その結果はどうだったのでしょうか。 悪魔が勝利を取りました。悪魔は私たちの状態を見て、大喜びのときがしばしばあります。 私たちは、「主はできない。主はこの状態を解決できない。だから自分でやろう。」と、口でこそもちろんだれも言いませんけれど、実際の生活においてそれをやっている場合が往々にしてあるのではないでしょうか。 アブラハムは何でもできる主を仰ぎ見ないで、自分で問題を解決しようと思ったのです。 けれどこれは肉の思いです。すなわち、私たちは徹頭徹尾主にゆだねることはできません。「主の時が来るまで待つのは、あまりにも時間が掛かりすぎます。」と。その結果、アブラハムはエジプトの女ハガルと一緒になって、子どもが産まれました。 アブラハムは第一回目の失敗のあと、エジプトを離れましたが、今また再びエジプトと結び付いてしまいました。なぜならばハガルはエジプトの女だったからです。 そしてこのことは今日に至るまでひとつの大きな悲劇の源となりました。なぜならばイスラエル人の何千年もの敵は、ハガルの子孫であるアラビア人であるからです。 第三の失敗は、創世記20章に書いてあります。 結局アブラハムは、また自分を守るために嘘をついてしまったのです。自分で心配するか、主に頼るかのどちらかです。 イサクが生まれる前、アブラハムは嘘をついて自分の妻を自分の妹だと言いました。アブラハムは不信仰のゆえに嘘をつきましたが、それは彼が用心深く振る舞おうとしたからです。 しかし彼の心配は全く根拠の無いものでした。アブラハムの失敗は、よみがえりに基づかない信仰生活は、どのようなものであるか、また、どのような実を結ぶものであるかを私たちに示しています。 しかしそれ以外の点では、アブラハムはよみがえりに基づいた信仰生活を送り、全く主に拠り頼んで、全てを主にささげました。 私たちは主の導きと主の助けが無ければ、全く無力な者であるということを知るようになり、その結果、本当に主に拠り頼んだ信仰生活を送っているのでしょうか。 アブラハムの祝福された生活の特徴は、主に対する全き拠り頼みであり、それから第二番目になりますけれど、主の拒絶的な答えに対する了解、あるいは主の否に対する了解です。 アブラハムはこれを願ったり、思ったり、望んだりしましたが、それに対して主は再三再四、否、と言われました。この否という主のことばは、アブラハム自身の考えや目的の死を意味しました。 しかしその死に続いてよみがえりが成就されたのです。このよみがえりの力は、ただ十字架を経験すること、すなわち、自己否定の結果としてのみ上げられるのです。 この否という主のことばの意味、内容は、病気になったり、お金が無かったり、その他色々な困った状態を意味しますが、しかし、そのような否定的な状態に対しても、然り、という肯定的な返事をすることができれば祝福され、新しく生かされ、用いられるようになります。 アブラハムはこのことを何回も経験しましたし、そしてアブラハムは結局七回了解し、その都度自分自身の死を、すなわち自分自身の考えを否定することを学びました。 それ以来アブラハムは勝利から勝利への信仰生活を送るようになったのです。アブラハムの経験、七つの経験についてちょっと考えたいと思います。 第一番目の経験は次のようなものでした。創世記の11章の31節です。 創世記11:31
とあります。アブラハムは多くの人と同じように、自分の利益やこの世の財産を求めるという自然の要求を持っていました。 自分の故郷における安全と快適さは、アブラハムが好んだものでした。しかし主は、否とおっしゃり、別の所へ移ることを命令しました。アブラハムは慣れ親しんだ故郷を離れなければなりませんでした。 私たちはわれわれの将来についてどのように考えているのでしょうか。もし主が全てを捨てて別の所へ移りなさいとわれわれに命令するならば、私たちはどのような態度を取るのでしょうか。 第二番目の経験は、創世記の11章31節の後半に書いてありますが、彼らはカナンの地まで行く予定だったのですが、その途中のカランまで来て、そこに住みついたとあります。 アブラハムの父は中途半端なことしかしませんでした。つまり何かを始めても、それは完成まで続けなかったのです。多くの信者は、このアブラハムの父と同じようなことをしていないでしょうか。 この世から引き出されたものですが、しかし、彼らは自分の財産や利益などのためにこの世の誘惑に負けて、中途半端な状態にとどまってしまうのです。アブラハムの家族はカランで非常に好ましい場所を見い出し、そこで快適な生活をしました。 実際、今日も多くの信者は妥協してしまったり、あれやこれやと心を動かしたりする適当な生活をします。 それは快適な生活であるかもしれません。けれど主はそのようなアブラハムの快適な生活に対して、否とおっしゃり、アブラハムはそのみことばに従いました。 創世記12:4-5
とあります。主はわれわれの生活に満足しているのでしょうか。私たちの生活は妥協によって特徴づけられてはいないのでしょうか。 確かに私たちは主にだけ仕えたいと思うのですけれど、しかし実際、心は燃えても肉体は弱いということを経験し、そのため諦めてしまって、もうどうなっても仕方が無いと思う信者は多いのではないでしょうか。 けれどもここにおいても主は、否とおっしゃいます。私たちが自分の自我を捨てて、すべてを主に明け渡す時に初めて、私たちは内面的、霊的に成長することができるのです。 第三番目の経験は次のようなものです。アブラハムはそこから出て、カナンの地に着きましたけれど、妥協者であるアブラハムの父はそこに着く前にカランの地で亡くなりました。アブラハムはそこでひとつの選択の前に立たされました。 すなわち、彼はソドムとゴモラの周りの実り豊かな土地を取るべきか、あるいは、それよりも実りの少ない地を取るべきかという二者択一です。 アブラハムは実り豊かな地域を見て、それが気に入り、欲しいという気持ちをもっていたでしょう。 アブラハムはロトよりも年上でしたから、選択の権利はアブラハムにあったわけです。アブラハムは、主よ、私はどうしたらいいのと祈り、その時主は、否とおっしゃり、アブラハムはそれに従いました。 この場合にもアブラハムは自分自身の考えを大切にせず、主の導きに従ったのですが、結局それは結果的に見て、正しい選択であったことが判明いたします。 私たちは自分の利益を取るのでしょうか。あるいは、自分はどうなっても構わない。ただ主の導きだけに従いたいという態度を取るのでしょうか。そのどちらかの道を選ぶかによって私たちはよみがえりの力を経験するか、しないかが決まります。創世記の13章からちょっと二、三節読みます。 創世記13:1-11
もちろん祈らないで 創世記13:11-12
云々とあります。 アブラハムの第四の経験は次のようなものです。アブラハムは敵に対する圧倒的な勝利者のあとで戻って来たとき、ソドムの王はアブラハムに対して贈り物によって影響を与えようとしました。 しかし主は、否と言われたので、アブラハムはそれに従い、何一つ受け取ることをしませんでした。すなわち、この世から認められることを意識して退けたのです。 創世記14:22-23
このような名誉は何もいらない。この世から認められることは必要ない。これこそがアブラハムの態度であり、初代教会の祝福された秘訣でもありました。 今日しばしば見られることは、この世の手段でもって主に仕えようとしたり、この世から認められたいというような行ないです。ですから、そのような方々はよみがえりの力を経験することができないのです。 第五の経験は次のようなものです。主はイシュマエルに対してはっきりと、否とおっしゃいました。 創世記17:15-22
とあります。イシュマエルは肉の結果、すなわち、自分の努力の結果として生まれたものです。 それから13年間の間、アブラハムは主がイシュマエルを認めてくださるのではないかと思いました。今読みました17章18節。しかしアブラハムは神に祈って言いました。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」と。 けれども主は、否と仰せになりました。それは私たち人間の肉の努力とは結び付かないのです。そのためにアブラハムは結局、主の、否というみことばを了解せざるを得ませんでした。アブラハムは主に従って、イシュマエルを追放しました。イシュマエルに対してはっきりとした態度を取ったのです。 第六の経験は次のようなものでした。アブラハムは主が決して代用品を了解なされないということを知っていました。 主はアブラハムとサラにひとりの息子を約束してくださいましたが、そのために主は、人間の自分の努力や助けを必要とはなさいません。 主は奇蹟をなしてくださり、人間の目には全く不可能と思われたこと、すなわち、アブラハムとサラにひとりの息子が生まれるということを実現なさいました。21章10節。 それから神は、「このはしためを、その子といっしょに追い出しなさい。」とアブラハムに命令なさいました。これもまた、再び主の、否というご返事でした。 主は、否というみことばは常に自我の死を意味しています。アブラハムもまた、われわれと同じような人間でした。そのことは21章11節に記されています。 創世記21:11
とあります。イシュマエルをのけ者にするということだけではなく、それだけでは十分ではなかったのです。彼は家族から追放されなければなりませんでした。主は妥協に対して長く忍耐することがおできにならない。 アブラハムはまず、ウルを捨てて、次にカランを捨て、それから実り多いヨルダン、平和を捨て、そして今や彼はイシュマエルをも追い出さなければならなかったのです。 分離は深刻な、したがって耐え難いほどのものとなってきました。しかしそれによってアブラハムは信仰的、霊的に深められ、成長したのです。 第七の経験は次のようなものでした。 最後にもっと辛い分離がやって来ました。創世記の一番大切な章とはもちろん22章ではないでしょうか。 創世記22:7-8
長い旅でした。彼らは3日間いっしょに歩いたのです。主はイサクに対して、否と仰せになりました。イサクは主によって与えられたものであり、それは本当に考えられない、信じられない奇蹟でした。 わが子イサクを縛って、祭壇の上に置くこととは、アブラハムにとってどれほど辛いことだったでしょうか。けれどアブラハムはその備えをしました。彼は主に然り、と言いましたが、それは彼にとって最も高価な代価でした。 私たちはそのような状態からどれほど離れているのでしょうか。ローマ人への手紙13章の11節に、 ローマ人への手紙13:11
今や私たちも眠りからさめるべき時、また、主イエス様によって用いられるべき時が来ています。 けれどこのことは自分自身に対して死ぬことによってのみ可能となります。 私たちもアブラハムと同じように、主の否に対して然りと答え、それを了解できるようになれば本当に幸いです。 今まで私たちは、アブラハムの祝福された秘訣として第一に、主に対する全き拠り頼み。 第二に、主の否に対する了解を学んできました。 最後にちょっとだけ第三番目ですけれど、絶えず続く新しい成長について考えて終わりたいと思います。 アブラハムの経験は何であったかと言いますと、アブラハムは毎回、主の否に対して、然りという態度を取りましたので、あふれるばかりの豊かな祝福を受けることができたのです。自我の死はいつもよみがえりの力の新たなる経験に私たちを導いてくれます。 そこで最後に、アブラハムが自我に死ぬことによってどのような祝福を受けたか、ちょっと手短に見てみたいと思います。 まず第一に、アブラハムは自分の故郷であるウルを離れる前に、主なる神からの祝福が約束されていました。そしてアブラハムは主に従順に従ったとき、主は偽らないお方であるということを体験的に知ることができたのです。 第二に、アブラハムは目的地の手前にあるカランの地を去る前に主は、従順に対する豊かな祝福を約束してくださいました。それを通して主はアブラハムにご自身が真実であることを体験的に教えてくださり、アブラハムは豊かな祝福にあずかることが許された。 第三に、アブラハムがロトに土地の選択を任せたとき、そしてこの世的には大変な損失を被ったとき主は次のように言われました。 創世記13:14-15
アブラハムは主に従ったとき、このすばらしい約束を与えられました。私はどうでもいいという態度を取ると、常に成長、拡張、豊かさが与えられます。 第四に、アブラハムがこの世の賜物、ソドムの王の贈り物を断固として断った時、その時初めて主は次のように仰せられました。 創世記15:1
ここで、非常に、という言葉が使われていますが、それは大切な意味をもっています。なぜならば、アブラハムはソドムの王からの贈り物を拒んだ時、天の王はアブラハムに非常に大きな報いを提供してくださったからです。 主のために全てを捨て、自分が認められることを少しも望まない人は、主ご自身によってあふれるばかりの豊かな恵みを与えられます。 創世記15章5節に記されているようにアブラハムは、上を、すなわち、天を見上げました。 上、あるいは、天とは、豊かな報いを意味しています。なぜならば、まことの報いは常に上から与えられるものであるからです。 よみがえりに基づく信仰生活とは、あらゆる環境、あらゆる不可能なこと、あらゆる人間に超越していることを意味しています。 創世記15:5
この約束は私たちにも当てはまります。 パウロはコロサイ人への手紙3章2節に書いてありますように、地上のものを思わず、天にあるものを思うと、豊かなる祝福を与えられます。 コロサイ人への手紙3:2
第五に、アブラハムがイシュマエルに対する神の否を受け入れ、そして主なる神が自分の息子を必ず与えてくださると信じたとき、13年後に主はアブラハムに新たに啓示してくださいました。これは創世記の17章2節。 創世記17:2
という約束が与えられたのです。 第六に、アブラハムはイシュマエルを追放して、主なる神の側に立ったとき、17章6節の約束を与えられました。 創世記17:6
要求されることは、自分の力や努力に拠り頼むことをやめること。そして自分の思いどおりにことが進まなくても、主に信頼し、拠り頼むこと。そうすると豊かな祝福が与えられます。 最後に第七に、アブラハムは自分のすべてであった息子イサクを犠牲にささげることを、良しとした時、その時からもっとも実り多い信仰生活の実現が始まるようになったということです。 アブラハムによってささげられたイサクは、小羊なるイエス様を象徴するものでした。私たちはイエス様がささげられた犠牲のことを思い起こすことによって、自分自身を新たに主にささげようではありませんか。 われわれの人生は果たしてアブラハムの人生と同じようなものなのでしょうか。すなわち、主に対する全き拠り頼みの人生なのでしょうか。 また、主の拒絶的な答えに対する了解の人生なのでしょうか。そして、絶えず続く新しい信仰の人生なのでしょうか。 パウロの人生の特徴は、アブラハムの人生の特徴と全く同じでした。パウロは次のように言ったのです。よく知られているピリピ人への手紙3章10節、11節。 ピリピ人への手紙3:10-11
そのよみがえりの力は、いかにして私たちの人生において有効なものとすることができるのでしょうか。それはイエス様の十字架が私たちの人生において本当の経験となることによって実現されます。 パウロは言いました。 ガラテヤ人への手紙2:20
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