引用聖句:イザヤ書57章15節
赤ちゃんを見ると、ある人々は、「やー、生まれたばかりのものだからたいしたことはない。我々は大人ですから。」と、言います。結局自分たちのほうがすぐれてるのではないかと思います。 もちろん、これは聖書の考え方とちょっと違います。赤ちゃんOK。大人はだめ。なぜなら、大人はたいしたことのない証拠に、イエス様はいつも大人に対して同じことを言わなければならなかったのです。 すなわち、「強くあれ、雄雄しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。」全部同じ意味の言葉です。ひとつで十分じゃないの。人間はそんなに強い者ではないから、主は何回も繰り返し、「恐れる必要はない。おののいてはならない。」 いったい どうして何回もそうおっしゃるかと言えば、おののく必要がないからです。赤ちゃんだったら心配しません、思い煩いません。結局親がそばにいれば、それで十分です。 わたしたちは、どうして心配しなくて良いかというと、主ご自身が約束しておられるからです。あなたの神、主があなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからだと。今読んでもらったイザヤ書の57章も、同じ意味です。 主は、高く聖なる所に住むのは当たり前です。誰も疑おうとしないでしょう。けどもそれだけではなく、主はちっぽけな人間と共に住みたい、それによってご自分の臨在を明らかにしたいと、心から望んでおられるのです。 イエス様について、聖書は何と言っているかと言うと、イエス様はわたしたちのために貧しくなられました。どうしてであるかと言うと、あなたがたはイエス様の貧しさによって、富む者となるためです。 富む者となるために必要なことは、主の住まいとなることです。主は内に住んでおられれば、もう問題は小さくなるのではないでしょうか。 いわゆる山上の垂訓の中で、イエス様はまことの幸せについて次のように話されたことがあります。「心の貧しい者は幸いです。」どうしてであるかと言いますと、天の御国はその人のものだからです。いわゆる幼子について、イエス様は似ていることを言いました。 天国は子供のものである。赤ちゃん、子供はみんな天国へ行けます。大人になると問題になります。従って心の貧しい者になるとは、本当に大切ですと強調しているのです。 イエス様は、いつも神の国、結局目に見えない世界について話されました。なぜならこの目に見える世界は、本当の意味での満足感を与えられないものだからです。当時の宗教家たちは、この目に見える世界の中での天国を待ち望んでいたのです。弟子たちでさえ、ある意味で同じ気持ちだったのです。 約束された救い主は、イスラエルをローマから解放する。結局当時のイスラエルは、ローマ帝国のために莫大な税金を払わなければならなかった。敵国のために働かなければならなかった。だから約束された救い主が来ると、こう言う束縛から解放してくださる。 もしイエス様が革命を起こそうとしたら、ユダヤ人たちは命がけで戦ったかもしれない。けどもイエス様は、私の国はこの世のものではありませんと語られたから、もうがっかり。 イエス様は神の国について次のように言われました。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」、ま、目に見えない世界を一番大切にしなさい。「そうすればそれに加えて、すべてが与えられます。」、すべてが与えられれば、人間は本当の意味で喜ぶことができるのではないでしょうか。 聖書に言われている天国とは、どう言うものなのでしょうか。もちろん誰でもある場所だ、と考えています。イエス様のいない天国は、本当の意味の天国ではありませんから、聖書の言う天国とは主の明らかにされた支配を意味しています。 主が中心になれば、人間は天国を経験するようになります。天国とは絶対的な義、揺るぐことのない平安、そしてとこしえの喜びです。 いわゆる主の祈りの中でも、天国のことがはっきり宣べらています。 「だからこう祈りなさい。天にいます私たちの父よ、御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように。」 もちろんわたしたちは、この主の祈りを暗記したものとして祈りたくない。なぜならイエス様は、こう祈りなさいと言いながら、しかし異邦人のように祈りの中でしゃべってはいかん。暗記した祈りを何も考えないで祈るのは、私にとて嫌なものですと言われたからです。 ですから、主の祈りについて考えながら違う言葉で祈ったら、非常に祝福されると思うのです。 「御心が天で行われるように地上でも行われるように。」、これが、主の目指す目的であります。 天国とは、イエス様の祈りを通して明らかになったのは、主の御名のみが崇められるところです。人間のための居場所がないのです。 主はすべてのすべてです。たとえば、旧約時代で主は、荒野の幕屋に住むようになったのです。昼間は雲の柱、夜は火の柱が現れ、幕屋の中で主はモーセと語り合ったのです。 後で幕屋は古くなって比べられないもっとすばらしい、宮がソロモン王に建てられました。この宮も壊されてしまったのです。けども後で、必死になって建てられた宮は、立派だったでしょうけど、初めの宮を見た人は泣き始めました。前の宮とも、比べものにならなかった。ソロモンの宮はすばらしかった。 けどもこのソロモンの宮の中でも、主はご自身の臨在を明らかにしてくださったのです。幕屋の時も、ソロモンの宮の時も、モーセも入れなかったし、祭司たちも入れなかったし、結局主のご臨在が宮を満たしたからです。 主が中心になると、人間のための居場所がなくなる。けども、だから人間は寂しくなるのでなく、本当の意味で喜ぶことができるようになります。 天国とは、ひとつの場所よりも、イエス様です。イエス様は天国の王と呼ばれています、イエス様が支配なさる所には、いつも天国があります。全き平安と喜びがあります。 そういう意味で、信ずる者はある程度まで天国を少しづつ経験することができるのではないかと思います。パウロは、ある人々に書いたのです。 使徒の働き26:18
と、悪魔の圧政から主イエス様の支配の中に移されたと言ったのです。我々の目的とはもちろん天国であるべきです。そうでなければ、すべては意味がないのではないでしょうか。 こないだひとりの33歳の男が家まで来まして、「非常に人生は面白くない。」と言うのです。 彼の会社の社長は世界一の金持ちです。そう言えば、わかるね。マイクロソフトのビルゲイツは世界一の金持ちです。けども、やっぱりあの会社で働いてる人は、みんな圧迫を感じ、もう束縛され結局は会社の奴隷になっています。どうしていいか全くわからない。 その前の日、また同じく33歳の別の男に出会いまして、精神病院に入る前の病院だったのです。親も、「もう死んじゃう、終わり。」と思ったけど、助かって、精神病院に入ったのです。彼も33歳。 そのとき、二人の男は33歳だったけど、イエス様は33歳で十字架にかけられ殺されたのです。なんと言う違いでしょう。 もちろんイエス様と人間と比べるの失礼ですし、できませんけど、人間はどうして目的なしで生きてるとは言えない、存在してるなのでしょうか?人間は、やっぱりわがままで、自分で考え自分で行動するからです。 イエス様は自分で考えたり、行動したりしているのではない。わたしは別に無視されても結構、のけものにされても結構。私は父の思うように動きたい。私の思うようにでなく、御心だけがなるようにと言われたのです。 ま、イエス様はヨハネの福音書の中で面白いことを言ったのです。天にいる人の子(イエス)と言ったのです。天にいたとも、天に帰るとも言わずに「天にいる人の子」と言ったのです。ま、彼らは、この目の見える世界にいたのですけど。 結局人々とは、みな目的を持っている。ある人々は何も考えてないかって気持ちにもなる。働いて食べて寝て、また働いて食べて寝て、そう言う繰り返しなんです。けれどもこれは生きることではないよ。ただ存在することでしょう。 ま、ほかの人は一生かかって財産を蓄える?でも死んだら1円も持っていけない。別の人は有名人になりたい?でもこう言うのは、全部次元の低いものではないでしょうか。なぜなら永遠に残るものではないから。 ですから、イエス様はやっぱり永遠の世界について考えなさい。そうしないと本当の満足感はない。 父の栄光、父の誉れとなるように。これは天国の王となるイエス様の切なる願いであったのです。 人間は、イエス様の判断によると、どう言うふうに幸せになるかと言うと、へりくだることによって、貧しくなることによってです。 前に読んだイザヤ書をもう一回、読みます。 イザヤ書57:15
ま、主はどう言う人々を捜し求めておられるかを書いてあるのです。 頭の良い人々でもないし、多くの賜物を持つ人でもありません。主が求めておられるのは、へりくだった人々です。砕かれた人々こそが、主が捜し求めておられるのです。 心が貧しいとは、結局主の前で自分の貧しさ、自分のみじめさを素直に認めることを意味しているのであります。 よく知られるルカの福音書18章は、非常にすばらしいたとえなのではないかと思います。 すなわち、心の貧しい者とはどういう者なんでしょうと、18章の取税人によって示しています。取税人こそが心の貧しい者だったのです。そして彼が何を心から願ったかと言いますと、「神様、この罪人である私を憐れんでください。」 ルカの福音書18:9-11
パリサイ人は当時の宗教家でした。偽善者とはっきりイエス様はおっしゃいました。 取税人とは、ローマ帝国のために税金を集めた人たちです。もちろんローマだけでなく、自分のポケットにも集めて、みな金持ちになりました。結局金持ちになるために、人間は喜んで犠牲を払います。友人たちにも親戚にも、変な目で見られます。 ローマ帝国のためにやるの。ひどい。けどもそう言う人々とは、金持ちになればそれで良いのではないか。幸せを得る唯一の道なのではないか。 この二人は、結局エルサレムの宮に行ったのです。取税人はゆっくりゆっくり歩き、パリサイ人は先に入って、みんなのいる所で祈り始めました。「神よー」 神よ、と言うともうおしまい。やめたほうが良い。そういう祈りは、決して、聞き届けられないからです。 ルカの福音書18:12
典型的な宗教家です。彼は正しい教え、聖書の教えを疑わずに信じたのです。それだけではなく毎週、二度断食したのであり、十分の一を献金したのです。人間的に考えれば、なかなか立派な者だったのです。 取税人と比べられない。取税人はみんなの目から見たら、もうあいつはけしからん、ひどい。 けどもイエス様の判断は、全然違ったのです。 ルカの福音書18:13
取税人は、目を天に向ける勇気もなかった。神よじゃない。神さま。 宗教家の祈りよりずっと短くて、一文書だけ祈ったのです。一文書だけ祈って救われるの??そんなに簡単なものなの?と、普通の人は考えますけど、本当にそうなのです。 ルカの福音書18:14
知識じゃないから。イエス様の判断は本当にすばらしい。どういう気持ちで取税人は帰ったかわかるでしょう。主は赦した。私の過去、忘れちゃった。私は永久的に主のものです。うれしい。 最後の文章は、聖書全体の言わんとする所です。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。 結局へりくだれば、小さくなれば主は赦してくださる。永久的に受け入れてくださるということです。 結局主は、こういう心の貧しい人々を、へりくだる、心砕かれた人を捜し求めておられます。 ダビデは詩篇51篇で次のように記しました。 詩篇51:17
どうしてこういうふうに書いたかと言うとね、主は自分のとんでもない過ちを赦してくださったと確信するようになったからです。 イエス様を知らない人々は、結局誇って自分勝手な道を歩もうとします。実際救いのない人は、こじきよりも貧しい者です。それがわかると救いは近い。 ですから、心の貧しい者となることこそ大切なのではないでしょうか。 すなわち主の霊によって、本当の自分の姿を知り、恐れおののいて、自分には何も期待することのできない人となることは大切です。 コリント人への手紙第II、8:9
ま、イエス様の貧しさについてちょっとだけ書かれています。イエス様の永遠の昔から持っておられた富を想像することができません。 イエス様は、ヨハネの福音書17章の祈りの中で、永遠の昔から持っている栄光を持つことができるようにと言われたのです。イエス様の祈りは必ず聞かれます。私たちは、イエス様の富をいくら考えても理解することができません。 イエス様によって全てが創造された。けどこのイエス様とは、2000年前に奇跡的にお生まれになり、人間の形を取るようになり、ご自身の自由意志で私たちのために貧しくなられました。 イエス様の貧しさとは何なのでしょうか? まず赤ちゃんのようになることです。赤ちゃんとは何も知りません。何にもできません。イエス様は、あなたがたもそういう者になってもらいたいとおっしゃったのです。イエス様の模範も、見てましょう。 ヨハネの福音書5:19
御父に対しての依存です。ま、イエス様の告白であり証しです。私は自分では何事も行うことができません。 イエス様は、確かに徹頭徹尾、夜・昼、父に頼ったのです。私の思いは大切ではない。あなたの御心だけがなるように。この祈りとは私たちの主イエス様の絶えざる態度だったのです。 恵みと憐れみに富んでおられたイエス様は、たとえ困ってる人がいても自分勝手に何かを行おうとはされなかったのです。行う前にすぐ祈ったのです。御心だけがなるように。 これこそが、心が貧しいということになるのかもしれません。そして聖書がはっきり言っているのは、そういう人々だけが救われ、天国に入ることになる。 ヨハネの福音書3章に、イエス様とニコデモの出会いについて書き記されています。 ニコデモとは、おそらく聖書学者の中のナンバー1だったのではないでしょうか。彼はもちろん、救い主はいつ来るかとずっと待ち望んでいたし、考えていたし、それからある夜でかけたのです。 昼間でかけても、個人的に話せる可能性は少ない。夜だったら普通の人は断っても、イエス様だったら求めている人を必ず受けれてくださると、確信した通りに話せました。 もちろんイエス様は、天国について話されたのです。そして天国に入る条件についても、 ヨハネの福音書3:3、5
結局ひとことばで言いますと、「わが霊による」聖霊が働かなければもう無理。聖霊の働きによってのみ、人間は自分のあやまちや、主に対するそむきが、わかるようになります。 また御霊の働きによってのみ、人間はイエス様の流された血潮の力を知ることができるようになります。 御霊の働きによってのみ、自分のあやまちやわがままは赦され、私も受け入れられていると、永遠の命を持っているという確信を持つことができるのです。 天国の王であるイエス様は、わが国はこの世のものでないとおっしゃったのです。天国にはいる前提条件は、新しく生まれ変わることです。ひとは新しく生まれなければ、神の国を見ることも、入ることもできません。天国の約束は誰に当てはまるのでしょうか。 心貧しく、ほんとうに悔い改めた人こそ、その人です。 聖書はまた次のようにも言っています。「私を呼び求めている、私の民が、自らへりくだり祈りを捧げ私の顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るならば、私が親しく天から聞いて彼らの罪を赦し、彼らを癒す。」 へりくだることこそが、全てです。 人間同士の間も、へりくだればもう反対するすべがなくなる。人間にとって一番大切なこととは、へりくだることです。へりくだればOK。 昔のある王様は非常に傲慢になり、結果として用いられなくなったのです。主は憐れんでくださって、いろいろな悩みを与えたのです。結果はしかし、悩みを受けた時マナセ王は、主に嘆願しその父祖の神の前に大いにへりくだった。 ヨブは、同じように大いに悩んだのです。結果はヨブは、自分をさげすみ塵と灰の中で悔い改めたとあります。 もちろんダビデも、何回も何回も、「まことに主は高くあられるが、低い者を顧みてくださる。」と、証ししたのであります。 彼の子供のソロモンも、「へりくだって貧しい者と共にいるのは、高ぶる者とぶんどりものを分かつのにまさる。」「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」「謙遜と主を恐れることの報いは、富と誉れと命である。」 主は、何をあなたに求めておられるのか。へりくだってあなたの神と共に歩むことではないかと、預言者ミカは書いたのです。 ミカ書6:8
イザヤは、また、次のように言ったのです。 イザヤ書29:19
ま、内容として全部同じです。すなわちイエス様の約束どおりです。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くされる者は高くされる。 ヤコブの手紙4:6
ま、主は天国の王として言われました。心の貧しい者は幸せ。天国は彼らの者であるからです。 ある聖書学者は、イエス様のもとにやって参りました。彼は教養のある人で、聖書をよく研究した人でした。道徳的にも高い生活をして、正直にイエス様にいろいろ質問したのです。 もちろんイエス様は答えました。「あなたは、神の国から遠くない。」もうちょっと、遠くないよ。けどまだ入ってないよ。 多くの人々はこのように、「あなたは神の国から遠くない。」と言われる状況なのではないでしょうか。パウロは、 コロサイ人への手紙1:13
いつか移してくださるであろうではなくて、もう移してくださった。ですから初代教会の人々は、私たちの国籍は天国ですと言えました。いつか天国になるのではない。 またある日、別の人がイエス様に従っていく覚悟でイエス様の所に来ました。けど彼はちょっと残念でした。神の国を第一にしようと考えようとしなかった。だからイエス様は、「誰でも手を鋤につけて、後ろを見る者は神の国にふさわしくありません。」 ま、天にお帰りになったイエス様は、いまのトルコにあった7つの教会に手紙を書いたのです。全部、黙示禄の2章と3章に書かれています。 私はあなたの貧しさを知っています。しかしあなたは実際は富んでいる。彼らは確信したのです。もう集まる場所ないし、立派な人もいないし、人数もないし、お金もないし、もう顔上がられない。私たちは貧しい者です。何もできません。 けれども、主の答えは、富んでいると言ったのです。 結局自分の貧しさを感じる者は、主に頼るようになります。結果として富む者となります。 なぜならば、イエス様はからっぽの者を満たしてくださり、用いてくださるのです。結局自分の力で何かをしようとせずに、自分の思いではなくて御心がなるようにと祈るべきなのではないでしょうか。 ダビデという王様は、詩篇の86篇の1節で、 詩篇86:1
「主よ。私は、悩み、貧しいのです。」 詩篇86:2-5
結局、このダビデのような態度を取る者は大いに祝福されます。彼は決して完全ではなかったのです。 けども彼は、正直に祈ったから、満たされ用いられたのです。彼の祈りとは本当にすばらしい祈りです。 「わたしは、悩み、そして貧しいのです。」 |