引用聖句:出エジプト記15章22節-27節
イザヤ書38:17
生ける神は苦しみを平安に変えることがお出来になります。 私たちは皆いつか将来、次のように言うことが出来るでしょう。「主のあらゆる導きは完全でした。」と。 偶然は存在しません。いわゆる荒野の経験、すなわち理解することの出来ないような試練を通して、私たちは私たち人間の中に何があるかを知ることが出来るようになります。そしてこのような試練を通して、私たちは主なる神の全能、愛、恵みをさらにいろいろな形でよりよく体験出来るようになります。 すべてを環境のせいとか、他の人のせいににするのではなく、主の御手から受け取る者は幸いです。 私たちの主なる神はすべての背後に立っておられ、少しの間違いもなさいません。 イスラエルの子たちもまた、マラに行ったのは決して偶然ではありませんでした。主ご自身が彼らをそこへ導いてくださったのです。そして主はお導きになるときにいつも、はっきりとした目的をもちはっきりとした目標を追求なさいます。 イスラエルの民が大変な苦しみを味わわなければならなかったことは、主なる神のご計画でした。すなわち、彼らはそれを通して失望を経験しなければなりませんでした。 しかし、彼らはまた主なる神のみわざをも経験しました。主なる神は、マラの苦い水を少しだけ甘くなさるわけではなく、全体をあまい水に変えることがお出来になるのです。言い現わすことのできないほどの大きな激しい苦しみは、救いと平安となるべきです。 人生とは一体何なのでしょうか?それは高揚と落胆、喜びと悲しみ、祝福と呪いの繰り返しではないでしょうか。 主なる神は私たちが、主なる神の喜びと平安に満たされ、主の光の中に生きることを望んでおられます。そして実際、私たちは皆、しばしば、自分自身のことを中心に考えてしまい、主の働きの妨げとなってしまうことを経験します。 しかし、主は私たちが理解できない多くのことを赦しておられます。それにもかかわらず、全ては私たちにとって最善となるよう、また主の栄光のために配慮されています。 私たちは喜びと歓呼をもって夜眠りに就きますが、次の朝電報が来て全てが壊れてしまうというようなことがあるかも知れません。もはや日の光を見ることが出来ず、全ては厚い闇の中におおわれてしまうかのようです。すなわち、そのとき私たちはマラに来てしまったのです。 モーセは大変な課題を克服しなければなりませんでした。というのは200万人以上の人たちがモーセに信頼していたからです。 彼らは皆エジプトから引き出され、主なる神のあがないを経験し、流された血、過ぎ越しの小羊の血の価値を知っていました。彼らは信者たちでした。救われた者でした。 その信者たちを信仰的に霊的に導いて約束されたカナンの地に入るようにすることがモーセに与えられた使命でした。 イスラエルの民族が紅海を通って神の大いなる奇跡的なわざを経験したとき、例えようもないほどの歓呼の声があがり、彼らは喜びのあまり踊りだし、出エジプト記15章に書かれたモーセの歌をもって主の勝利を喜び祝いました。 しかし、こうした主のすばらしいみわざを経験したあとで彼らは3日間の試練の時をむかえました。すなわち、一滴の水もない生活が始まったのです。水のない、憩い場のない、荒野での三日間は決して簡単ではありませんでした。 しかし、突然彼らは待ち望んでいた水を見ました。「水だ。水だ。」と多くの人々が喜びながら叫んだことでしょう。彼らは気持ちも楽になって大喜びで水のところに駆けよりました。しかし、何とがっかりしたことでしょう。それは苦くて飲めないような水だったのです。 喜びは悲しみ、失望、つぶやき、落胆に変わりました。しかし、私たちはこのような状態を単純に過去に起こったこととして片づけてしまうのは明らかに間違っています。 過去の歴史的事実もまた私たちに何かを語っているはずなのです。 ローマ人への手紙15:4
コリント人への手紙第I、10:11
それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため、マラにおけるイスラエルの民の経験を通して、主が私たちに何を教えようとしているかを問わなければなりません。 それについては4つの点を上げて考えることが出来るでしょう。 (1)予想すべき試練 (2)避けるべき危険 (3)取るべき態度 (4)適用さるべき万能薬 (1)予想すべき試練 疑いもなく、私たちは誰でも皆、マラの経験を知っています。すなわち希望から外れてしまったり、失望、落胆させられたり、全ての希望を私たちから奪ってしまうような経験がここで言うマラの経験なのです。 箴言14:10
「だれでも自分の苦しみや悩みをもっており、いろいろな問題で弱り果て、出ることも入ることも分からないような状態に置かれるという経験をもっているはずだ。」と聖書は言っています。 あなたは今まさにそうしたマラの中にいるのかも知れません。悪魔はあなたにささやくかも知れません。 「あなたが何をしても結局無意味なのです。あきらめなさい。あなたは望みの光を全然見ることが出来ないのです。」 人間的に見るならば、そこには何の望みも無いのです。しかし私たちは「人生とはそういうものだ」という事実を避けることが出来ません。誰一人マラを避けて通ることは出来ないのです。 主なる神ご自身も神の民をマラへと導きました。主なる神はあなたをもマラ、すなわち逃れ道の無い状態に導き入れるでしょう。しかし、「偶然は存在しない」ということを覚えてください。主なる神ご自身が御手のうちに手綱を持っておられ、それを他の誰にも渡しません。 おそらくあなたは今まで大切にされたことでしょう。すべてのことはうまく行き、あなたはそれほど大して困難なことを経験しなかったかも知れません。 しかし、困難はやって來るでしょう。それはひょっとすると明日かも知れません。あるいは来月かも知れません。あるいは三年後かも知れません。これは悲観論とは関係ありません。それは神のみことばの教えなのです。誰もマラから逃れることは出来ません。 次のようにいう人たちがいます。「救われる人は、もはや何の悩みも苦しみも問題も持っていません。」と。 しかし、愛する兄弟姉妹。それは根本的に間違っています。主が私たちを試練に会わせ、清めることが出来るため、悩みは沢山存在しています。すなわちこれらの悩みはそもそも信仰者になるときにはじめて始まるのです。キリスト者の人生はいつも嬉しくて嬉しくてしようがないという人生ではありません。 主は言っておられます。「この世には悩みがある。」と。 ヨハネの福音書16:33
「あなたがた救われた人々は、世にあっては悩みがあります。」と主は言われたのです。またペテロは証ししています。 ペテロの手紙第I、4:12-13
ヘブル人への手紙12:6-8、11
とあります。「主はその愛する者を懲らしめます。」と書いてあります。すなわち懲らしめられること、マラへと導かれることは、私たちが神に愛された者であるということの証明なのです。 私たちは主に関心を持たれているのです。主は私たちのことを配慮しておられます。真の信者は誰でも、困難な試練を通って主のあとに従うようになるのです。 私たちにこうした苦しみや悩みが無いとするならば、私たちは本当に主を愛し主をより良く知りたいと思っているかどうか疑わしいものです。 出エジプト記13:18
・なぜ神はまわり道をさせたのでしょうか? ・なぜ神の民は荒野を通らなければならなかったのでしょうか? ・なぜ救いに与った者、主に愛されている者がマラへ行かなければならなかったのでしょうか? その理由は出エジプト記15章26節に与えられています。 出エジプト記15:26
とあります。 心のなかにあるものは明らかにされるべきです。そのために荒野の経験はどうしても必要なのです。 申命記8章2節は私たちの問に対してもう一つの光を投げかけてくれます。 申命記8:2
とあります。 主は私たちを悲しませるために試練を与えたり、困難をゆるしたりなさるのではなく、私たちを謙遜にするため、また心の奥底にあるものを天が試すために、それらのことをなさるのです。 私たちが本当に主にとどまるかどうか、私たちが本当に主を愛するかどうか、またどんな代価を払っても主に従うかどうかが必ず明らかになるはずです。しかし主はただ単にマラへ導くだけではなく、さらにエリムへも導かれます。 出エジプト記15:27
とあります。 主がお与えになり、お許しになる試練は非常にいろいろな種類のものがあります。イスラエルは飲むことの出来ないほどの苦い水を経験しただけではなく、水が全然無かったこと、パンが一切れも無かったことをも経験し、敵から攻撃された経験もしました。 主が私たちにお与えになる試練はいろいろあります。それらはしばしば、ほとんど耐えられないほど、厳しいものです。イスラエルにとってマラは”困難な経験”でもありました。 人は誰でも水を必要とします。しかし、3日間もの間水を求め続け、見つけたと思った時には、そしてまた実際にその水を見て飲もうとしたとき、その水はとても飲めないほど”苦い水”であることが分かったのでした。 私たちは次のことを決して忘れてはなりません。すなわち、「私たちもまた試練を受けなければならない。」ということです。 試練は私たちに対する主の愛の証明です。もし私たちが試練を通らないで簡単な楽な道を選ぼうとするならば、それは私たちにとって決して好ましいものではなく、むしろ気の毒なことです。 私たちの経験がどのようなものであろうとも、私たちは次の態度を取るべきです。すなわち、「主よどうか引き続き私に臨んで働いてください。あなたのみこころだけが行われま すように。」と。 私たちが理解し難い苦しいこと、すなわち、マラの経験をするとき、私たちの反応が問題となります。 なぜなら、どうしても避けなければならない危険が存在するに違いないからです。これが私たちの第二番目の点です。私たちの避けるべき危険について考えてみましょう。 (2)避けるべき危険・・・つぶやくこと。私たちが避けるべき危険について考えて見ましょう。 イスラエルの民がマラへ行き、恐ろしい失望をしたとき彼らの反応は全然だめでした。 出エジプト記15:24
つぶやき、心の憂さ晴らし、信頼しなくなる、神の民は度を失いました。イスラエルの民は神の僕モーセに対してつぶやき、そのことによって、実際には神ご自身に対してつぶやくことによって、心の憂さ晴らしをしました。 つぶやく者はもはや信頼しません。外部の事情によって動かされる者は簡単に度を失います。 イスラエルの人たちは彼らを解放してくださった力強い主に対してほめ歌を歌いました。しかし、そのすぐあとで彼らは完全に打ちのめされ、主に対して不平不満をつぶやきました。 私たちもこのようなイスラエル人たちと同じではないでしょうか? 主は、私たちが理解出来ない苦しみを経験することを許しておられます。私たちの心の中が夜、すなわち暗嘆となるのは如何にたやすく起こることでしょうか。 私たちは絶望の淵にたやすく立たされるのです。しかし、主を見上げる者はマラからエリムへ進んで行くこと、すなわち大変な苦しみを通して、全く新しく変えられることを経験できます。 すなわち私たちは新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。不信仰は私たちをつぶやきや反発へと導きます。目に見えるものに支配される者はとんでもない方向に行ってしまいます。 苦しみや悩み、多くの問題、理解できない導きを見る者は自己憐憫に陥ります。私たちはつぶやき、次のように言い始めます。 ・「主が私たちに飲める水を与えることがお出来にならなかったのだろうか?」 ・「主がこのこと、あのことをやめることがお出来にならなかったのだろうか?」 ・「主がなぜ守ってくださらなかっただろうか?」 もちろん主はお出来になったでしょう。主にとって不可能なことは何一つありません。問題は、信仰者が本当に主に信頼しなかったことだったのです。 主はいつも信仰者の近くに居られ、助けたいと思って居られ、ご自身を啓示したいと思っておられ、祝福したいと思って居られました。 ・私たちが試練に会うとき、私たちの反応はどのようなものであるべきでしょうか? ・私たちの上に困難が襲いかかり、逃れ道が見えないときはどうでしょうか? ・私たちが苦しいマラの状態に置かれたとき、そしてどうなるのか、本当に分からない時にはどうでしょうか? そこで、私たちは第三番目の点について考えたいと思います。すなわちとらなければならない態度について考えてみましょう。 (3)取るべき態度・・・祈る 私たちは「避けるべき危険はつぶやくことである」ということを見てきました。私たちつぶやくことによって少しも前進しません。全てが途方に暮れるような状態、またあらゆる反発は私たちの不信仰のしるしです。 私たちは試みすなわち、つぶやいたり、反発したりする誘惑に対してどうすれば勝利をもって立ち向かうことが出来るのでしょうか?・・・それが問題です。 私たちが読んだ聖書の箇所には次のように記されています。「民はモーセに逆らってつぶやきました。しかし、モーセは主に叫びました。」 「しかし、モーセは主に叫びました。」、これこそ勝利の秘訣です。モーセは主に叫んだのです。モーセは怒って人々を叱りつけることをしませんでした。 モーセは次のように言うことが出来たでしょう。「どうか、愚かなことをしないように。主なる神を信じなさい。主は今もなお、何でもお出来になるからです。主は決して來るのに遅すぎるということはありません。主にとって不可能なことは何も有りません。」 モーセは人間を叱る代わりに、主のみもとに行き、全てを主に委ねました。またモーセは次のように言うことも出来たでしょう。 「もう十分です。私はあきらめます。自分勝手にしたいことをしなさい。」 また、モーセは主に向かって次のように言うことも出来たでしょう。「おお主よ。私には荷が重過ぎます。200万人もの世話をするのは大変です。」 しかしモーセはそのような態度を取りませんでした。モーセは精神的な重荷を持ちながら主のところに行きました。そして愛するみなさん。それによって、問題は解決されてしまっていたのです。 というのは、主は祈りを必ず聞き届けてくださるからです。御名のゆえに主は答えてくださり、ご自身を啓示してくださるのです。自分の重荷をもって主イエスのみもとに行き、その重荷を主に委ねることの出来る人は本当に幸いです。 ヤコブの手紙5:13
とあります。ここで、ヤコブは次のようには言いませんでした。「あなたがたの内に苦しんでいる人がいるならば、医者に急報しなさい。」あるいは、「長老を呼びなさい。」誰でも分かることは「祈る」ということです。 苦しんでいる人がいるなら、その人は試練にあっているのであり、別の表現をすれば、先ほど述べたマラの状態にいるのであって、つぶやく全ての理由を持っているでしょうが、その人は主に呼び求めてください。 私たちはどのような経験をしようとも、まず第一に主を尋ね求め、主が配慮してご栄光を現してくださることがお出来になるように、全てを主に委ねてください。 サムエルの母ハンナも、マラの経験を持ちました。聖書は彼女が「心を痛めていた」ことを述べています。 サムエル記第I、1:10
とあります。 たしかに、彼女は苦しみましたが諦めませんでした。彼女は全てを主に委ね祈りました。 これこそ勝利の秘訣です。主のみもとに行く者は捨てられません。その人は神の偉大な解放を経験します。 エリシャもまた一人のやもめとともにマラの経験をしました。彼女が預言者に「私の息子が亡くなりました。」と言いました。このシュネン人の女が如何に苦しんだか、私たちは想像出来るでしょう。 エリシャはこの苦しみ悩んでいる、シュネンの女をもはや見ることが出来ないほどでした。そのときエリシャはいろいろな慰めの言葉をかけようとはしませんでした。 列王記第II、4:33
とあります。その結果主は死んだ子を生き返らせ栄光を現してくださいました。 私たちが苦しいマラの状態に置かれ、試練にあるとき、祈ることこそ勝利の秘訣なのです。 ヒゼキヤ王は一通の驚くべきひどい手紙を受取ました。しかし彼はそのことを怒ったり、不満を言ったりしませんでした。またその手紙を公に見せたり、苦情を言ったりしませんでした。ヒゼキヤは何をしたのでしょうか? イザヤ書37:14
主に至る戸はいつも開かれています。主は、私たちが私たちの問題と悩みをもって主のみもとに行き、主に信頼することを待っておられます。 ヒゼキヤは主の前に進み出た、私たちは問題や悩みをもって主の前に行き、主に呼び求めることこそ大切です。主は奇跡を行う神です。主にとって不可能なことは一つもありません。 主なる神に非常に忠実に仕えたダニエルは絶望的な状態に置かれたことがありました。ダニエルの敵対者は王に嘆願し、一か月以内に王ではなく神に願い求める者は皆ライオンの穴に投げ込まれるべきであるという、変えることの出来ない法律を発令するよう迫りました。 ダニエルはその時何をしたのでしょうか? ・ダニエルは怒って王のところに行ったのでしょうか? ・ダニエルは敵の卑劣なやり方に対して怒ったのでしょうか? ・ダニエルは大勢の友達を呼び集め逃れ道を求めたのでしょうか? その内の何一つ彼はしませんでした。 ダニエル書6:11
ダニエル書6:10
置かれている絶望的な状態を知りながら、彼は「感謝した」とあります。すなわち、ダニエルは法律によって許されていないことをしたわけですが、その時彼は主に叫び祈り、全てを主に委ねました。だから主に感謝することが出来たのです。 ダニエルは意識的に、全ての事柄を主の前に申し述べました。ダニエルは主なる神が必ずみわざを為していてくださると確信していました。このような信頼は決して失望させられません。 不可能と思われたことが起こったのです。すなわち、ライオンはダニエルに敢えて触れようとはしませんでした。信じられないようなことですが本当だったのです。 私たちの神は生きておられます! 主なる神は主に避け所を求める人たちの人生において、主が全能者であられることを現してくださいます。 無実の罪で牢獄に入れられた、パウロとシラスも同じ態度を取りました。彼らは鞭打たれ、凶悪犯罪者のように取り扱われました。しかし彼らは決して反抗的な態度を取りませんでした。 また、彼らは「なぜ神はそんなことを許しておられるのですか?」、「私たちは主に仕えただけなのに、許し難い暴挙ではないですか?」とは言いませんでした。 使徒の働き16:25
とあります。彼らはなぜそのように導かれたのか理解出来ませんでした。しかし神は決して間違いをなさらない。このような導きも私たちにとって最善の益となるに違いないということを知っていました。 ですから彼らは主に祈りつつ賛美の歌を歌うことが出来たのです。 モーセの状態も同じように絶望的な状態でした。しかしモーセは祈りました。主に叫びました。モーセは全ての悩みをもって主の所に行きました。そこで主は答えてくださいました。 出エジプト記15:25
とあります。 木を示すことはモーセの祈りに対する神の答えでした。祈る者は以前に見たことのないものを見ます。主は祈る人にご自身を啓示なさいます。 苦しんだ苦しみは如何にして平安に変えられるのでしょうか?主が示された木によってなのです。 人間は絶望的な状態、苦しい状態において、いつ主に叫んでも、その人達は主が聞いてくださるだけではなく、必ず叶えてくださることを経験します。主は大いなるみわざをなさってくださり、その状態をだけではなく、人間の心をも変えてくださいます。 モーセは主に叫びました。すると主はモーセの願いを聞き届け、問題全体の解決として一本の木を彼に示しました。しかし、それは何を意味しているのでしょうか?そこで私たちは第4の点について考えることが必要です。 (4)適用さるべき万能薬・・・主イエス様と主の成就してくださったみわざ 万能薬はどんなことにも効き目があり、いつでも適用されるべき薬です。モーセに示されたこの木は疑いもなく、主イエス様ご自身です。この木が苦くて飲むことの出来ないマラの水に投げ入れられると、すべての問題が解決され甘くなって飲めるようになります。 旧約聖書においては約束された救い主イエス様について次のように述べられています。 エレミヤ書23:5
とあります。この預言で約束されたみことばは主イエス様にあって成就されました。主イエス様は罪の大問題を解決してくださいました。 ペテロの手紙第I、2:24
そして自分から十字架において私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは癒されたのです。もちろん若枝が木の一部であることは言うまでもありませんが、その若枝とは主イエス様のことを意味しているという点に注意してください。 しかも、救いのみわざは主イエス様が木で作られた十字架に架かられたことによって成就されました。したがって、ここでいう木とは、まず第一に主イエス様ご自身のことを言い、第二に主イエス様によって成就された救いのみわざを意味している訳です。 ここで覚えていただきたいことは、私たちに何が起ころうとも、私たちに悩みが如何に大きなものであろうとも、万能薬はイエス様と主の成就してくださったみわざであるということです。 イエス様は苦しみと死を通して、永遠に救われる道を開いてくださいました。主イエス様は大祭司として瞬間瞬間、どのような一瞬であっても、私たちのことを覚えてくださり、私たちのために弁護してくださり、私たちのために働いてくださるのです。 おそらくあなたは今、途方に暮れた状態に置かれているかも知れません。もはや何の望みもないかも知れません。確かにそのような状態で不平や不満を言ったり、自分の殻に閉じこもってしまうことは理解できますが、しかし、それはあがなわれ解放される道ではありません。 私たちが私たちよりも遥かに苦しまれ、底知れぬ深みを通って行かれた主イエス様を見上げなければなりません。 私たちの主は、苦しんだ苦しみを味わってくださいましたが、その結果は何だったでしょう。「比類なき救い」でした。 全人類の罪の問題は解決されました。サタンは力を失い、死の力を奪われました。私たちは、私たちが皆、如何なるマラの経験に対しても、それがどれほど私たちを苦しめ落胆させようとも、そのことに対して、いつか必ず主に感謝できると確信しています。 主イエス様が十字架につけられ捨てられ呪いとなられたことによって、主なる神は最大の勝利を勝ち取られました。 外側を見ると決してそのようには見えず、悪魔が勝利したように見えました。私たちもまた何度も次のように思うかも知れません。 「それは悪魔の勝利ではないか?」、・「どうして神はそんなことを許し給うのか?」 私たちは万能薬を適用しなければなりません。私たちは木を苦い水の中に投げ入れるべきです。すなわち、ありのままの状態で私たちの悩み全てをもって、私たちは十字架につけられた方、すなわち主イエス様のみもとに行こうではありませんか。 主は、苦しんだ苦しみを平安と祝福に変えてくださいます。私たちは、完全に打ちのめされた状態から、溢れるばかりの喜びに至ります。 パウロは木を苦い水の中に投げ入れた人でした。ですから彼は次のように告白することが出来たのです。 コリント人への手紙第II、4:16-18
避け所であるイエス様の所に行ってください。主はその状態を変えてくださるだけではなく、あなたのまわりの人たち、それどころかあなた自身を変えてくださいます。 全ての重荷と悩みをもって主のみもと行く者は今日もなお、「私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。」と言うことを経験することが出来ます。 |