子供の教育


ベック兄

(テープ聞き取り)

ある車の後ろの窓につぎのような文章のステッカーが貼ってありました。
「どうか、私について来ないでください。私は、道に迷っています。」
子供の教育問題についても、同じようなことがいえるのではないでしょうか?

アメリカの警察は、増加する青少年犯罪について、親に次のような警告を発しました。見出しは、「いかにして、あなたの子供は、間違った教育によって犯罪者となるか?」という驚くべく言葉ではじまっています。
その内容は、10箇条にまとめられています。

第1.
あなたは、子供が欲しい物をなんでも与えるということを、子供が小さい時からしてごらんなさい。
子供は、大きくなって、世界は、自分のためにある。と思いこんでしまうでしょう。
その結果は、我が儘な人間になるだけでなく犯罪者になる可能性を持っています。

第2.
子供が下品な言葉を使ったとき、笑うようにしてごらんなさい。
その子供は、自分はたいしたもんだと思いこんでしまうでしょう。
あなたはそのような間違った教育によって、厳しい忠告を重んずるよりも、軽々しい笑いを重んずるようにしてしまっているのです。

第3.
あなたは、宗教的な教育や理想を目指した教育を、避けるようにしてごらんなさい。
子供が、18歳くらいになるまで待って、子供が自分で、何事も自由に決定させるようにしてごらんなさい。
その結果、子供は、大きくなると権威を恐れることを知らず犯罪を簡単に行う人間になっていくでしょう。

第4.
あなたは、子供が散らかしたもの(本とか、衣類とか・・・)すべて、かたずけてあげてごらんなさい。
そして、子供がそれを当たり前と思うほどに、子供のために、なんでもしてあげてごらんなさい。
その結果、子供は、いつも責任を転嫁して自分だけ正しいと思う人間になり、犯罪を犯しても、私は正しい、社会が間違っていると思うようになってしまうでしょう。

第5.
あなたは、子供がいる前で、いつも夫婦喧嘩をしてごらんなさい。
そうすると、子供は、両親がやがて、離婚するようになっても、別に驚かず、そのようなことも平気で当たり前と思うような人間になってしまうでしょう。

第6.
あなたは、子供にいつでも欲しがるだけのお金を与えてごらんなさい。
そして、子供が大きくなっても、自分で苦労して働かなくて良いように教育してごらんなさい。
あなた自身が、苦労した苦労を、子供には、同じ苦労をさせたくないと思ってる親が少なくありません。しかし、その結果はどうでしょう。その結果は、あらためていうまでもなく、その子供が大きくなった時、なまけ者で、少しも仕事せず遊んでる人間を作ることになるのです。
そして、度を過ごすと、犯罪に結びつていくことは、毎日の新聞の報道で明らかです。

第7.
あなたは、子供に何を食べたいか?何を飲みたいか?そして、何を、楽しみたいか調べて、それを満たしてあげてごらんなさい。
もしも、そのようにしてあげないと卑屈な性格な人間を作るのではないかという思いをあなたは持ってらっしゃいませんか。
しかし、なんでも、子供にの願い通りにし、いつも、子供に満足した物質生活を送らせることは、恐ろしい結果になることを正しく知る必要があります。
子供は、もっとたくさん良い物を欲しがるようになり、お金を盗んだり、犯罪に走ってしまいがちなのです。

第8.
あなたは、お年寄りとか隣人とか学校の先生に対して、いつも子供の味方をするようにしてごらんなさい。
そのような場合、心の中では、そのような人達は私の子供を理解できないだけではなく、何か子供に嫌なことを言ったり批判したりするのではないかという恐れを持ち、また、その人達は現代の教育を理解できない人達だと思っているのではないでしょうか。
しかし、そのような過保護は、子供を間違った方向へ追いやることは決して珍しくありません。

第9.
あなたは、子供が重大な問題や壁にぶつかった時、それは、私の問題ではなくあの子の問題なのだから、私は、どうすることもできなかったと言って、自分を慰めるようにしてごらんなさい。
しかし、あなたは、ここで、ひとつのことを知らなければなりません。生まれつき犯罪者になるべく生まれて来たのではなく、親の間違った教育によって、子供は、そのような人間になってしまったということ。このことは認めなければなりません。

第10.
あなたは、今まで述べたような過保護の教育の結果、その報いとして、苦しまなければということを真剣に悩むことでしょう。
それ以外にいかなる解決方法もないのです。

新約聖書をお読みしましょう。マタイの福音書18章1節から3節です。

マタイの福音書18:1-3
1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
2そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
3言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。

マルコの福音書10:13-16
13さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
15まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
16そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

いったい「教育」とは、なんでしょうか?もともと教育という言葉は、ヘブル語で、「ヤサール」ですが、教育すること、訓練すること、教えること。
ギリシャ語では、「パイドヨー」と言いますが、それも同じように、教育すること、導くこと、教訓を与えること、訓練すること。
そういうような意味を持っています。しかしながら、実際は、多くの人は、教育とは、知識を与えることだと思っているのではないでしょうか。
それは、間違いです。大切なことは、教訓を与えること、啓蒙すること、訓練することのです。

教育を通して、ほんとうは、人間とは何か。人間とは何を信じ、愛し、そして望むかということが現れてくる。そのことが、教育であることを私達は、正しく理解しなければなりません。
今から、ちょっとだけ、教育の必要性。教育の責任。教育の手段について、ま、教育の目的、教育の土台と秘密について、一緒に考えてみたいと思います。

まず第一に教育の必要性についてです。

なんでも、自分の思うように我が儘勝手にふるまうような子供や若者。また、なんの要求も抵抗も知らずに、その我が儘な意志が一度も壊されないような子供は、だらしがない人間になってしまうのです。
そのような子供の多くは攻撃的となり、むなしい感情が、いつも心の奥底にあるようになってしまうのです。
子供達が、人格者になるためには、どうしても正しい教育が必要なのです。知恵とか、科学とか教養とかが大切であることがいうまでもありませんが、しかし、もっと大切なことは、生けるまことの神を恐れ、生けるまことの神を見いだすことです。
聖書は、

箴言1:7
7主を恐れることは知識のはじめでる。

と言っています。
人間は、独立しなければなりません。そして、自分の責任をはっきり自覚し意識しなければなりません。そして、そのために教育が必要なのです。しかしながら、実際に行われていることは、しばしば、その正反対なのです。
たとえば、母親が子供の入学試験につきそっていったり、あるいは、会社の入社式に母親がつきそっていくことでさえまれではないのです。また、多くの母親は、夜遅くまで、子供が受験勉強していると、一緒に起きていて、お茶やお菓子や夜食を準備したりしているのです。

しかしながら、多くの人は、学校の教育だけでは恐い。何か疑問を感ずるようになってきています。
実際、子供達が、小学校、中学校、高校。ましてや、大学のことに、どれだけの神経をすり減らしていることでしょう。
試験地獄というのは、その通りです。日本ほど、子供や若者が自殺する国はほかにはありません。大学に入るまでの、不自然ながむしゃらや、猛烈というのは、大きな問題です。
いずれにせよ、その結果は良いものではあり得ないでしょう。もちろん、私は、この教育制度から脱出することも非常にむつかしいことも知っています。
若者は、自由ではありません。彼らは学習し、さらに学習しなければならないのです。日曜日でさせ塾といわれるものに、行くのです。
そんなことは、ドイツでは政府によって許されないでしょう。ほんとうに、子供のことを思い、子供の才能を伸ばして上げるためには、総合大学を増やすだけではなく、専門学校のことを大切に考えても良いのではないでしょうか。

つぎに、教育の責任について考えてみましょう。
子供の教育は親の義務であります。それですから、円満な家庭生活は、本当に、大切なのです。
今日、いったいどこで、家庭の団らんが見られるでしょうか?家庭の中でお互いに気持ちを語り合い。いろいろな問題について話し合い。また、妻や子供のために、時間を作り出す。ということが行われいることは、まれではないでしょうか。

今日、多くの母親は教育ママとなっているといわれています。すなわち母親と子供は、その意味では一緒になってるといえるでしょう。
それに対して父親は、そのための時間がぜんぜんなく、ただ会社のために生きているということです。父親にとっては、いわゆる自分の子供教育よりも大切なのです。すなわち、会社とは、彼の生活手段だけではなく、彼の全世界とすべてであるといっても、決して言いすぎではありません。
子供のお父さんたちは、自分がまず第一に自分の家族のために時間を作らなければならないということを、知らなければなりません。
家族のためにお金を与えるだけでは、なく、時間を作ることは、なくてはならない大切なことなのです。
金を儲けることよりも、ずーーと大切なのは、自分の子供の教育です。しかし使命感が欠けると、視野も狭くなります。そのために、多くの人は、枝葉のこと、また、はかないこと、過ぎゆくことに満足を見いだそうとしてしまうことになります。

もしも母親が、教育ママとなり子供のことばかり考え、他方、父親は会社のためばかりに、つまり彼の仕事の世界のためだけに生きるとするならば、それは、たいへん危険なこと。第一の危険な状態であるといえるでしょう。
子供達は、両親に従わなければなりません。しかし、両親が本当にひとつになっていなければ、子供達は、どちらに従ったら良いのかわからないのでしょう。
子供達は、本当に、親に振り回されてしまうのです。
父親は家族の中で権威のある者でなければなりませんし、また権威を、持たなければなりません。しかし、実際はそうでないために、父親の代わりに母親が、何かをするように強制されるために、その結果、良きことさえもおかしなことになってしまうのです。
子供の教育は、親の責任でありますが、この責任感が欠けると悲劇となります。

ですから、まず、次のことをはっきりと知らなければなりません。すなわち子供は、創造者なる神から与えられたものであり、託されたものであるから、ゆえに、子供達を、甘やかしたり、自分だけのものとせずに、子供達が人格者となるように教育すること、これが大切なことなのです。

ここで、人格者というのは、いわゆる大衆人間?と違い、しっかりした心の支えを持ち、また自分自身の意見を持ってる人間のことなのです。
ここで、人格者は、群衆とか大衆とか呼ばれてる者とは違い、考えふるまうことができる人です。
自分自身の良心に従って、行動しようという人はなんと少なくなったことでしょう。
西郷隆盛、二宮尊徳、とか、このような代表的な日本人は、今日、いったいどこにいるのでしょうか。
多くの人々は、自分のことばっかり、自分の利益ばっかりを考えているから、順応するのです。このような順応者に育てられる子供は、我が儘な状態に留まるようになりますが、そえは、いわば当然な結果であるといえましょう。

第三番目は、教育のための手段です。

はじめに申しましたように、教育とは、教えること、導くこと。教訓を与えること。そして訓練することであります。
従って、子供達は親から、何が正しく、なにが間違っているかを、正しく教えられなければならないのです。しかし、何が間違っているか、何が正しいかということを、実は、人間は、はっきり分からないのです。
ですから、生けるまことの神は、聖書を通して、何が正しく、何が間違っているかをはっきりといっているのです。
従って、自分の子供を、責任感を持って、教育したいと思う人は、聖書を読み、そのことを自分の子供に言わなければなりません。旧約聖書の申命記をお読みしましょう。

申命記6:4-7
4聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
5心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
7これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

申命記31:13
13これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

子供が、いかにあるべきか?親は、何をなすべきか?聖書は、はっきり語っています。

エペソ人への手紙6:1-4
1子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
2「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
3「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
4父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

子供は、神から親に託されたものですから、親は子供に対して、権威を持ち、権威を現さなければなりません。すなわち親は、子供達の健康や教養のことに心を配らなければなりません。
しかし、親は、また、聖書的な責任をも持っているのです。しかし、そのことを知っている人は、本当に、少ないために、このような教育の問題に直面して、何をして良いかわからない親が、少なくないのです。

神の言葉である聖書は、正しく子供達に教えられなければなりません。しかし、子供達を日曜学校にやるだけでは不十分であり、親も一緒に教会に行き家庭でも子供と一緒に、神の言葉である聖書を読むべきです。
今から、やく3000年前にダビデ王という有名な王様はつぎのように言いました。

詩篇119:105
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

神の言葉である聖書を信じない者は、暗闇を手探りで歩むような者であり、なんの光も見いだせず永遠に滅びてしまうのです。
それに対して、神の言葉によって、定められる者は、この地上においても責任を自覚した生き方をし、多くの者のための祝福となり、永遠に救われる者なのです。

聖書は、つぎのことをはっきり言っています。
すなわち人間は、失われたものですから、救われなければなりません。ただ、イエス・キリストだけが、とこしえの神であり、イエス様だけが罪を赦すことのできるただ一人の方です。
そして、救いの道は、悔い改めと、イエス・キリストを信じる信仰以外には、ありません。

このことは、子供達にはっきりと語られなければならないのです。
決して倫理や道徳の問題ではなく、人間に対する神の判断であり、救うための神の愛なのです。
親の関心事は、子供達の教養ではなく、子供達が、イエス・キリストによって、救われることでなければならないのです。

では、子供達は、いかに教育されるべきでしょうか?答えは見えるようです。
【神の言葉である聖書によって】というのが、その答えです。
次に、【厳しさ】によって。厳しく子供を教育することが、第二の答えです。厳しさのない児童教育は、あり得ません。ですから、神の言葉である聖書は、つぎのことをはっきり言っているのです。すなわち、【むちを軽んじては、ならない。】

箴言から、数カ所をお読みします。

箴言13:24
24むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

箴言19:18
18望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。

箴言23:13-14
13子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。
14あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。

箴言29:15
15むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。

箴言29:17
17あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える

親も教育者も、自ら生けるまことの神を求めようとせず、聖書を心を開いて
読もうとしないならば、それは本当に、無責任なことになるのです。

第四番目に、教育の目的について考えたいと思うのです。

ヨハネの黙示録3:19
19わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

聖書はつぎのように言っています。「わたしは、愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって、悔い改めなさい。」ま、ここでも、原語をみるとわかります。
教育するという言葉が使われています。ま、これを守ると、その結果人間は、自分自身のために生きるのではなく、意識して、神に仕え、自分の周囲の人々の救いのために一生懸命になるのです。
罪、わがまま、不従順は、罰せられ、従順は報いられるというふうに親は子供を教育せねばなりません。子供のわがままを通させることは、災いです。しかし、従順は、ただ苦しみによってのみ、学ぶことができるのです。

大人は、自分自身、不確かで、しっかりとした心の支えを持っていない故に多くのことをあいまいに許してしまうのです。
そのような大人は、人生の目的について、何もわかっていないのです。一応、まとめて一言で、いうなら、「聖書にのっとっていけば問題ない。」だから間違った民主主義によって惑わされている人間は、聖書に戻らなければならないのです。
前に読みましたマルコの福音書10章とマタイの福音書18章の言葉を読むと、正しい子供の教育と土台は何であるか、知ることができると思うのです。

母親たちは、最愛の子供をイエス様のもとに連れて来ます。母親達は、どういうわけか、自分の子供について、イエス様が必要なお方であるということを知っていました。子供達は、決して、病気ではなく健康でした。ですから癒される必要はなかった。この子供達は、イエス様の教えを受けるには若すぎました。まだ、何も理解することができなかったからです。
母親達は、イエス様に、子供達を祝福して頂きたい。本当の祝福に預からせて頂きたい。そう思いました。彼女たちの願いは、まことに当を得た者でした。
すべての母親が、そのような願いを持っていたら、今日、この世界は、様相を一変していたでしょう。

その母親が、信者でありながら、毎日のようにイエス様に座っていただきたいという願いを持たなければ、その人の信仰は、根本的に間違っています。そこには、悪魔が勝利をおさめてしまいます。
なんと、多くの母親が、イエス様と子供達の出会いを妨げていることでありましょう。それは、まことにとこしえまで、恐るべきことであるに違いないのです。
学校に入学すること、大きな会社に就職すること、美しい人と結婚することとかはたいしたことではありません。
イエス様と出会って、親しい交わりを持ち、イエス様をよく知ることのほうが、はるかに大切なことなのです。

テモテへの手紙第I、5:8
8もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

したがって、母親がわが子のために毎日祈らないことは、不信者以上に悪いことであるということなのです。
信者がまだ、救われていない家族のために毎日祈らないことは、悲劇です。その結果は、他人に対するつまずきや妨げになるだけで、何の益にもなりません。そればかりでなく、その人自身の信仰も成長しなくなってしまうのです。
母親たちは、わが子を祝福して頂くことができるという確信をもって、万難を排してイエス様のもとにやって来たのです。わが子のために、そして自分の家族のために真剣に祈る者は、誰でも、イエス様のもとに来るのです。

ここで注意しなければならないのは、彼女たちを迎える態度が、イエス様と弟子達と全く違っていたということです。
弟子達は、彼女たちが、子供達を連れて来るのを見て、たしなめたのです。弟子達は、幼子など連れて来ても、イエス様のおっしゃることは、何もわからない。無意味であると考えたのです。従って、もっと大きくなってから来るべきであると、考えたのです。
今日でも、弟子達と、同じ考えの人々が大勢います。そこで、イエス様が、いかなる態度をとられたかを知ることは重要な意味を持つことになります。
いったいこの子供たちは、イエス様に対して、いかなる権威を持っているのでありましょうか。イエス様はその時、子供達の側につき、弟子達の側につきませんでした。幼子が、イエス様のみもとに来るのを妨げたので、弟子達の側につくことができなかったのです。

確かに弟子達は、イエス様を信じていましたが、イエス様の所へ行こうとする人々にとって妨げとなることもしてしまったのです。信者が単に、イエス様の働きの役に立たないだけでなく、妨げになってしまう。これは、まことに悲しむべきことです。
そのために弟子達は、イエス様に対して、憤りを覚えたのであります。そして、子供たちを妨げては、ならない。私の所に来るままにしておきなさいと、きっぱり言われたのです。
子供は、イエス様のみもとに来るべきです。これこそまことに正しい子供の教育なのです。この道を求めない者は、間違った道に行ってしまうのです。
また子供がイエス様と出会うことを真剣に祈り求めない者は、わが子を誤らせてしまうのです。
神の国は、子供達のものです。神の国は、子供達のためです。子供達が、イエス様を理解できるかどうかが問題ではなく、イエス様のみもとに来るかどうかが問題なのです。
もちろんその時、自分ひとりで行くのではなく、母親に連れられて、イエス様のみもとに行ったのです。信者の家族といえども、未信者の家といえども必ずしも自発的にイエス様を信じようとしないでしょう。
従って、イエス様のみもとに、連れて行くことは、信者の責任なのです。これは、祈りによってなされるものです。ま、その時、イエス様は、革命的な言葉を言われたのです。

マルコの福音書10:15
15まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

この言葉に対して、しばしば次のような疑問が生じるかもしえません。
いったい子供達が、イエス様を受け入れることができるのだろうか。回心することができるのだろうか。
それに対して、イエス様は、子供のような者だけができるであって、子供以外の者は、不可能であると答えているのです。

したがって、いったい大人になった者は、イエス様を回心して受け入れることができるのだろうかと、尋ねたほうが正しいといえるでしょう。
大人になった者は心を入れ替えて、幼子のようにならなければ天国にはいることができませんと、はっきり言われました。
子供は、自分が求める物は、一生懸命になって、願い求めるのです。
たとえば、とみえさん?のようこちゃん?は、お腹がすくと、泣き叫んで、ぜんぜん押さえることはしないでしょう。子供は、一途になるのです。子供は、決して飾らないのです。子供は、社交家と違って外交術を知らないのです。
それですから、「大人になった人は、神の国に入ることができるだろうか?」という問いは正しいのです。心を入れ替えた者だけが可能であり、心を入れ替え
なければ不可能であるとイエス様は言われます。

イエス様、どうぞ、私を憐れんでください。私の罪を赦してください。
あなたが、私のために命を、捨てて下さり、尊い血を流し私の債務をすべて、支払ってくださって罪を赦してくださって贖ってくださったことを心から感謝します。

このように幼子のように、イエス様にすべてありのまま告白することほど、大切なことはありません。
母親のふところに抱かれている子供は、全く満たされているのです。満足仕切って、なんの心配もないのです。母親のふところにいる幼子は心から喜んでいるのです。そして、なんら隠すこともしないのです。
そういう子供は、安心しきって、安らかな眠りにはいっていくのです。ま、そのために多くの人は、もう一度、幼子になりたいと願うのです。そして、幼子のように、何物にも煩わされないことを望むのです。
私達は、そのような状態からなんと遠ざかっていることでしょう。

子供は、ただ母親のふところにいるだけで、快い眠りにはいっていきますが、今日の多くの場合には、睡眠薬を飲んでやっと眠ることが少なくないのです。
大人は、多くの場合、自分たちを愛し、配慮し、愛して下さるイエス様よりも、自分自身の不信仰を大切にしたり、配慮したりするのに一生懸命になっているのです。
言葉を換えて言うなら、
「多くの人は、罪の赦しよりも、罪のほうを大切にしているのです。」
そして、イエス様よりも、悪魔のほうを大切にしているのです。
主イエス様が、私達、ひとりひとりに向かって、私はあなたを贖った。わたしはあなたの罪をもう心にとめない。あなたの罪は赦されたのだと、イエス様に感謝し、それを受け入れない者は、イエス様よりも、悪魔のほうを大切にしてしまうのです。

母親のふところにいる幼子は、もう何の恐れも不安も持っていません。
幼子の特徴は、絶対的な信頼です。幼子にとって、母親がすべてであるように、私たちにとって、イエス様がすべてになりたいものです。

マタイの福音書23:37
37ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

ひながめんどりの翼の下に安らぎ、幼子が母親のふところで安んじているように、私たちが、主イエス様のみもとで全たき平安を得ることを主イエス様は切に、望んでおられるのです。
主イエス様に、完全に依り頼む者は、喜びと平安に満たされ、望みに溢れさせて頂くのであります。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

ほんとに、主に完全に依り頼む者は、こういうふうに主の喜びと、主の平安に満たされるようになり、生き生きとした望みに溢れさせて頂けます。そして、それを体験した者は、何ものによっても、いかなることによっても、主イエス様から離れることはありません。

幼子は、お腹がいっぱいになるまで、ミルクを飲み続けます。幼子のような、キリスト者は、その満ち満ちているものの中から、すなわち主イエス様の中から、受けて、恵みに恵みを加えられるのです。

ヨハネの福音書1:16
16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵を受けたのである。

ローマ人への手紙8:15
15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

あなたは、主イエス様を受け入れた時、聖霊を受けるのであります。すなわち主イエス様を受けれた者は聖霊の宮となるのです。
そして、聖霊とは、決して信じた者を束縛する者ではなく、むしろ子たる身分を授けることによって、完全な自由を与えるものなのです。
聖霊が導き支配する所には、本当の喜びと平安と自由があります。
しかし、今日いかに、多くの人々が、信者でさえも、恐怖におののいていることでしょうか。
たとえば将来に対する恐れ、結婚の相手に対する恐れ、良心の呵責に対する恐れ、人間に対する恐れ、などが、あります。あなたが、信じた時、受け取った霊は、そのような恐れや、不安の霊でなく、アバ父よと呼ぶことのできる霊なのです。

子たる身分を授ける霊。聖霊によってのみ、私たちは、幼子のような心を与えられます。その特徴は、父なる神に対する絶対的な信頼。絶対的に安全、保護されている状態。主との密接な交わりです。
私たちは、恐怖の霊に支配されているのでありましょうか。それとも、主を喜ぶ霊によって満たされているのでしょうか。
あなたは、光の中にいるのですか?それとも闇の中にいるのですか?
あなたは、光の子ですか。それともこの世の子ですか。
あなたは、神の子ですか。地獄の子ですか。あなたが、きょう、神の子でないなら、きょう、神の子になることができます。それは、あなたが、自分の救い主として受け入れ、救いの御技のために感謝することによって成就されるのです。

エペソ人への手紙1:5
5神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

このマルコの福音書の箇所で、幼子は、イエス様について、私たちになんといっているのでしょうか?もちろん幼子は、まだ、何も話すことができませんが、その態度によって、いろいろなことがわかります。
子供は、母親の腕から離れて、イエス様の所に連れて行かれた時、本当に、喜んだのです。イエス様は、母親たちには他人でしたが、幼子たちは、全く信頼したのです。
主イエス様の愛はなんと自然な愛に満ちていたでしょう。イエス様は、彼らを抱き、手をその上に置いて祝福されたのです。
あなたも、今、子供がしたように、イエス様に全く信頼したいと思いませんか?
イエス様は、全き完全な愛を味わってもらいたいのです。主は、あなたに心配と不安のない状態。本当の自由を体験的に知ってもらいたいのです。

わたしたちは、きょう、少し子供の教育の重要性について、考えて参りました。
子供は、神から与えられたものです。託されたものです。だから、子供を甘やかしたり自分だけのものとせずに、子供が本当に主に従う人格者となるように教育すること、これが大切なことです。
これは、親の責任です。
ダビデは「あなたのみことばは、あなたの足の灯火です。道の光です。」と言いました。
ほんとうに、教育の問題について考えると、聖書を真剣に考えなければならないし、そして、子供のように主の命令に従わなければならないのです。

いったい、何が、私たちの人生に意味と内容を与えるのでしょうか。
今日、多くの人々がこのように質問しているしているのです。現代人は確かに近代的かもしれませんが、一番深い心の奥底では満たされてはいません。
多くの人は、本当の意味で頼るべきものがなにもないのです。すなわち、不満足の感情がそこにあるのです。人生とは、こんなにむなしいものであるはずがないと、多くの人は、真理や、ほんとうの救いを求めているのです。
教育の問題について考えてみても、次のことがいえると思うのです。すなわちイエス・キリストを体験的に個人的に経験するまで、ほんとうの解決が救いがない。
ただ、イエス様に出会って、従う者だけが、永遠の幸せと、満足、満たされた人生を体験することができるのです。

ある運転手が、道で歩行者に道を尋ねました。聞かれた人は、道を教えました。運転手は聞いたのです。「これが、本当に、一番良い道ですか?」すると、その人は答えました。「これしか、道は、ないのです。」
教育についても、私たちが、必要としているのは、新しいものでも、近代的なものでも、なく、本当のものを必要としています。本当の道を必要としています。
それは、ただ、イエス・キリストの内にのみあります。




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