教会の交わり


ベック兄

(「集会広場」から転載)

今日は、教会の交わりという点について少しだけ考えたいと思います。なぜなら、これもキリスト者に与えられている大切な使命であるからです。もちろん、教会の変わりに兄弟、姉妹と言った方が正しいでしょう。教会というとある人たちは、建物を考えたりして、他の人たちは一つの教団、教派を考えるようになるかも知れません。決してそうではありません。
聖書の中で教会という言葉が出てくると、結局いつも集会になっていますが、体なる教会を意味しているのであります。決して組織とは、関係のないことです。主イエス様のあわれみによって救われた信者たちの群れこそが体なる教会です。

イエス様を受け入れた方々、聖霊の宮になった兄弟姉妹たちは、真の教会であります。この教会の交わり、兄弟姉妹の交わりこそが非常に大切なのであります。もちろん救われるためではなくてこれは、もうすでにキリスト者になった使命であるからです。もしある人は、「私は、他の兄弟姉妹必要ないひとりぼっちで祈って、ひとりぼっちで聖書を読めばいいじゃないか。」と思えば、必ず壁にぶつかります。皆、お互いの助けを必要としているのですから。今、お読みになった16篇の3節に

詩篇16:3
3地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。

ダビデは結局、主にある兄弟姉妹、聖徒たちとの交わりの大切さを知るようになったから、このように告白せざるおえなかってのではないかと思うのです。

ビーレフェルド(Bielefeld)のベーテル(Bethel)の町の ボーデル・シュビング(Friedrich Boder shwing)は、ドイツにいる多くのクリスチャンたちが知り、貧乏人、ルンペンの父親と呼ばれている人なのです。その町は現在も社会的弱者の人達のためへの働きがあります。
そして、彼は召される前に聞こえなくなったのです。けれども必ず毎週、集会に行ったのです。ある人は、おかしいのではないか、不思議じゃないかと思っていたのです。そして、メモを書いて聞いたらしいのです。「何も聞こえないのにどうして、毎週毎週熱心に、出席するのか。」と。そのとき、彼は何と言ったかといいますと「聖徒たちの交わりは、なにものにも勝ってすばらしいものだよ。」と言ったそうです。ダビデの気持ちもそういうものであったと思うのです。
『地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。』
パウロも似ている言葉を書いたのですが、テサロニケ人への手紙第Iの手紙をちょっと見て見ましょうか。テサロニケ人への手紙第Iの2章の19節,20節です。

テサロニケ人への手紙第I、2:19-20
19私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。
20あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉であり、また喜びなのです。

ダビデの告白とパウロの告白は、全く同じではないでしょうか。聖徒たちには私の喜びです。私たちの喜びこそ、あなたがたではないか。あなたがたこそ私の喜びだよと、パウロは書き記したのであります。

主は、我々のあらゆる必要を御存じであり、主はその必要を主の時に豊かに満たしていてくださるのです。おそらく、皆、私たちは経験したことがあると思うのです。主は、兄弟姉妹を通して豊かに祝福してくださるということです。
たとえば、葬儀があったり、納骨式があってり、記念会があったり、修養会の時も皆、心を一つにして、主だけが中心になってもらいたいという心構えを持つ兄弟姉妹を見ると嬉しくて嬉しくてしかたがない。
自分が役割を演じたい、中心になりたいではなく、イエス様が中心になってもらいたいと思うことは決して普通ではありません。主が生きておられる証拠、主の成したもうた奇蹟ではありませんか。そして、救われていない人が、それを見るとこれは芝居じゃない、本当ではないかと思うようになり、真理を見い出そうと願うようになります。
主なる神の御霊は、なぐさめ人と呼ばれています。このなぐさめ人である聖霊は、信者一人一人の中に住んでいます。この内住の御霊によって信者は、パウロが書いているように『私たちの喜び』となるのです。教会、すなわち兄弟姉妹の交わりこそが信仰の成長のために非常に必要なのです。
もちろん一番、大切なことはイエス様との交わりを持つことです。当然です。イエス様との交わりを持つためにイエス様を知る必要があります。だれも、相手の人を知らなければ交わりを持つことができません。知るようになってから、初めて交わりを持つことができる。聖書もそれを非常に強調しています。
すなわち、イエス・キリストを知ることこそが大切です。イエス様についての知識を得ることでもない、単なる聖書知識を得ることでもないイエス様御自身を知ることが大切です。すなわち、イエス様を受け入れることによって知ることです。
イエス様を受け入れた人は、イエス様の前に頭を下げて「悪かった、赦してください。ごめんなさい。哀れんでください。」という態度をとった人は、イエス様は受け入れてくださったと素直に信じることができる。

理解できたからではありません。聖書がそう約束してくださっているからです。そして神は、嘘つきではないからです。イエス様をこういうふうに知ることこそが大切です。
イエス様を知ることなしに私たちは、神との交わりはありえませんし成長も望めませんし、恵みも真の奉仕もやってきませんし、できません。これら、全てのことは私たちがイエス様を知るか、知らないかにかかっていることを心に明記したいと思います。

けれども、肉体の体をとっているこの地上では、イエス様を完全に知り尽くすことはできません。また、非常に早く霊的に成長したとしてもイエス様を知り尽くすことは全く不可能です。ですからよく、パウロは手紙の中で「イエス様をよりよく知りたい」と何回も何回も書き記しているのであります。
彼は、もちろんイエス様を普通の人ではちょっと経験できないことで経験したのですね。イエス様をこの目で見たのです。イエス様の声をこの耳で聞くことができたのです。彼は、天に引き上げられることも経験したのです。人間の言葉で言い表せない言葉も聞いたと聖書は、言って居るのですが、彼は全然満足しない「私は、イエス様をよりよく知りたい」という切なる願いをもっていたのです。

イエス様との交わりについてキリスト者どうしの交わりについて考えるといつも、ヨハネの福音書15章を思い出します。

ヨハネの福音書15:5
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

これは、決して組織的な関係を意味するのではなく、一つの有機体だともちろん分かります。ぶどうの木と枝は、同じ生命をもっています。イエス様との結び付きによってイエス様との同じ永遠の命を持っている人たちは、聖書の中で教会と呼ばれています。
聖書を見るとただ一つの交わりが書かれています。それは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです。コリント人への手紙第Iの手紙1章の9節にパウロは次のように書き記したのでありますが、

コリント人への手紙第I、1:9
9神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

このコリントの教会は、決していい教会ではなかってのですメチャクチャな教会だったのでありますが、それにしてもパウロは、喜びを持って、確信を持ってこのように書き記すことができたのです。

『神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。』
この御子イエス・キリストとの交わりこそキリスト者、兄弟姉妹の交わりの源です。

わたしたちは、本当に父ならび御子イエス様との交わりを知っているのでありましょうか。
この交わりは、もちろん表面的なものではありません。議論によって生れるものではありません。この交わりは、たとえば同じ教理を持つことによって生れるものではないし、会議を通して決議された結果でもありません。
この交わりは、いのちと霊との交わりです。この交わりの間には、少しの暗いところも陰もあってはなりません。
父ならび御子イエス様との交わりには、完全な信頼に基づいた交わりです。福音書を読むとはっきり分かります。
父なる神は、御子なるイエス様を心から信頼され、ご自分の思っていること計画していることを全部、イエス様に教えてくださっただけでなく全てを委ねられたのです。全部の計画を少しの不安もなく委ねることこそが全き信頼です。
もちろん逆の事も言えます。イエス様の父の対する態度も全くそういうものだったのです。
イエス様は、父なる神に完全に寄頼み少しも疑わないで父の御心を行われたのです。あのように驚くべき深い悩みにあるときも十字架に向かって歩まれるときも少しも疑わないで全き信頼を父なる神においておられたのです。イエス様と父なる神は、そんなにお互いに信頼し合っておられたのでその間にはいつも絶えざる平安と静けさがあったのです。このお互いの信頼こそが、聖書の中で交わりと呼ばれているのです。

このイエス様の素晴しい交わりに、われわれ人間も加わることができるとは、本当に驚くべき事実です。そして、主なる神は、何故に私たちのような者を交わりに召してくださったか、いくら考えても知ることはできません。ただ一つわかることは、計り知れない主の愛の故であるということです。

そして、ヨハネの福音書15章は、イエス様の弟子たちに話されたことについての箇所でありますが、イエス様どうしていろいろなことを話されたかと言いますと、彼等にいろいろなことを教えるためではありません。彼等に一つの教えを与えよう。ためではありません。
イエス様の願ったことはこの交わりに入ること。
イエス様は、私たちのような者をどうして救ってくださったか分かりません。そして私たちは、救われるためにだけに救われたのではないということも、もちろん、みんな分かっています。よく言われることは用いられるためです。確かにそうですが、用いられるためにもう一つ大切な面があるのではないかと思います。すなわちこの交わりにあずかるために私たちは、救われたのであり、召されたのであるということです。
私たちは、どうして救われたのでありましょうか。聖書はいろんなことを言っています簡単にまとめてみますと次のことが言えるでしょう。本当の自由を持つためです。聖い生活のためです。
キリスト御自身の平和が我々の心を満たすためです。またイエス様の御自身の持っておられる喜びが我々の内に宿るためです。又、あふるるばかりの祝福を受け継ぐためである。一言で言いますと主との交わりに入らせるために私たちは救われたのだということです。

マルコの福音書の中で、イエス様の弟子たちが召されたことについて次のように書き記されています。マルコの福音書3章13節です。

マルコの福音書3:13
13さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。

と書いてあります。遣わされるために用いられるために召されたのだとよく強調されます。けど、その前に、イエス様のご目的は何であったかといいますと、それは彼等を身近に置くためであると書いてあります。
すなわち弟子たちは、まず第一に御自分の御元に置くために召されたのである、その後で、遣わされるために召されたのです。
イエス様は、永遠の初めから持っておられた父との交わりに弟子たちも入ることを願われたのです。イエス様は、今日もまったく当時と同じようにこの交わりに私たちがあずかることを願っておられます。
父ならび御子イエス様との交わりにあずかることができるとは、なんという特権でありましょうか。この交わりを喜ばずして他のもので満足することがあっては本当に残念なんです。
多くの人が、奉仕こそが大切だ、主に仕えようと思えば教会の中で奉仕しなければいけないと多くに人は考えているのです。決してそうではありません。イエス様にとっては、まず御自分との交わりを持つようにと我々に求めておられます。人々は、熱心な働き人ならば、よい働き人だと言いますけど、主の考えは違います。

主のために熱心に奉仕をしますが主との交わりを持っていない人々がたくさんいます。これこそ哀れなことです。

私たちは、弟子たちと同じようにこの世と罪から逃れるために選び出されましたが、それだけではなく父ならび御子イエス様との交わりにあずかるために召されたのです。
ぶどうの木とその枝が結び付いているように、わたしたちが主との交わりを持っていなければならない。それでなければ、何をやっても実が残りません。
イエス様の体の交わり、すなわち兄弟姉妹の間の交わりも、霊の交わりですから、そこには制限がなく不安がなく互いがなく全き信頼、本当の愛がなければならないはずです。この交わりに私たちは、召されたのです。
けど、問題はどういうふうにこの交わりに、この全き信頼に入ることができるかということです。

弟子たちも最初は、イエス様との親しい交わりを持っていなかったのです。彼等は、間違いなくイエス様を、100パーセント信じたのであり、イエス様を心から愛した人だったのです。しかし、本当の意味での交わりを持っていなかってのです。ただ、イエス様と関わりあいがあるといった程度だったのではないでしょうか。

もちろん、イエス様は弟子たちを召し、彼等は3年間イエス様と共に生活したのであります。夜昼一緒だったのです。素晴しい特権だったと思います。3年間イエス様は、ご自分のご目的を弟子たちに明らかにするために何とかして弟子たちと親しい交わりに入ろうとなさったのです。けれども、弟子たちは、イエス様のことをぜんぜん理解することができなかったのです。

イエス様は、彼等を父なる神との交わりに導こうとなさったのですけれど、彼等は理解しなかったのです。
主は、弟子たちと少しの疑いもない全き信頼をおく交わりに入りたかったのですけれども、いざ、イエス様が御心を示そうとなさるとイエス様を誤解してしまったのです。ペテロは、悪魔の道具になってしまったのです。
そのとき、イエス様は「悪魔よ退け。」と言わざるおえなかった。いなくなったのです。

もちろん、弟子たちはそれだけでなくお互いの中にも本当の意味での交わりがなかったのです。
ただ、関わりあいがあるといった程度でした。彼等の間には、交わりがなかっただけでなくて、時々、喧嘩をし言い争いもありイエス様は、その仲裁をしなければならないという有様でした。どなたが一番偉いかということについて議論してしまったのです。
けれども、12人の弟子たちは、ユダを除いて、心からイエス様を愛したのであります。そのために、全てを捨てて、イエス様に従って来たのです。
イエス様に従うことは、もちろんそんなに簡単なことではなかったのです。彼等は、月給をもらいませんでした。イエス様は「布団一枚さえない。」とはっきり言われたのです。寝るところがない、家がない、屋根がない、そういう乞食の乞食に従うことは、ちょっとおかしいのではないですか。
けれども、弟子たちは、そうしたのです。やっぱり勘でわかったのです。この方こそが、本物だ。この方に従うと絶対損をしません。幸せになると感じたのです。そして、彼等は本当に心からイエス様を愛したのであります。

それにもかかわらず、彼等は、イエス様との本当の意味での交わりを知らなかったのですし、お互いの交わりも知らなかったのです。お互いに妬み、誤解し、争ったのです。本当の交わりは、いつから始まったかといいますと、使徒の働き2章に書かれている、五旬節の時です。

彼等は、聖霊によって一つにされたときすなわち、彼等は聖霊の宮になることによって本当の意味での交わりが始まったのです。そのときから、弟子たちは、完全に変わったのです。五旬節の時から、本当の交わりを持つようになったのです。
たとえば、ペテロが立ち上がったとき、他の12人も共に立ち上がったと書いてあります。前に相談してああしよう、こうしようと賛成した結果ではなく、自発的にそうなったのです。彼等は、一つになったのです。12人は12人の別々な人ではなかったのです。みんな一つだったのです。結局12人の人々は、12人の人、一人一人ではなく12人が一つの体を成したのです。

五旬節の時から始まりだったのです。このときから、信者は一人一人ばらばらではなく、イエス様を頭とする主体とする綴合わされたのです。
ペテロと他の弟子たちは、本当に一つだったのです。彼等は、霊の交わりを持っていたのです。使徒たちは、お互いを全く信頼し、そこには、他の人たちを互いに喧嘩し、疑い、恐れるということは、見受けられないのです。この交わりは、もちろん外から来るのではなく、内に住みたもう御霊のゆえに生れた交わりだったのです。

交わりとは、全てを共有にすることです。初代教会のクリスチャンたちは、ほんとうに一つだったのです。だから、彼等は、生き生きとした証しだったのであり、だから周りの人たちは「兄弟たち、私は、どうしたらいいのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。
彼等は、特別伝道集会を持とうとしなかったのです。福音を宣べ伝えようということよりも、彼等は、まず一つにした結果、周りの人たちは、求めるようになったのです。
「どうしたらいいの教えてください、導いてください。」
これは、兄弟姉妹の霊の交わりの結果だったのです。
弟子たちは、イエス様と共に過ごした3年間、この真の交わりを知らずに過ごしていたのです。これは、交わりにはいる準備期間だったのですこの3年間実りのない、3年間のように見えるかもしれませんが、この3年の年月の間に彼等の古い性質は、少しずつ取り除かれたのです。
もし弟子が、イエス様に従わず、自分の職業をもっていたならば、彼等はみんな信心深い人として、立派な人格者として尊敬されながら生涯を終わったことでしょう。イエス様と共に歩んでいたから、自分の姿が教えられ、イエス様の御もとで本質的に変えられていきました。主の光に照らされ、彼等の心の暗いところは、だんだん取り扱われ明るみに出されました。彼等の心に隠された思いが、表わされていきました。

もちろん、弟子たちは他の人々よりも悪い人ではなかったのですけれども、主の光に照らされたとき、絶望的な自分の真相を教えられたのです。
イエス様が十字架におかかりになったとき彼等は、全く絶望してしまったのです。そのとき彼等は、皆逃げてしまったと聖書は、いっているのですね。
一つの群れとして逃げたのではないと思うのですね。皆ばらばらになって、逃げてしまったと思います。けれどもこの、いわゆる破産は彼等にとってどうしても必要だったのではないかと思います。
用いられるために。
霊的破産なしでは、だれも主との生きた交わりを持つことはできません。霊的破産してしまいますと、もうおしまいです。だめです。主が助けて下さらなければ、壊れたとわかってる人だけが本当の意味で主に頼るようになります。すなわち、主との交わりの尊さを理解するようになるのです。
我々のすべきことは、本当にあんまり大切じゃない、大切なことは、主の成したもうた救いのみわざです。主は、救いの代価を払って下さったから主は生きておられるから、主は必要なとき必要な物を提供してくださっているから、だから、安心して将来に向かうことができるのです。

破産すること、自分の惨めさを本当に知ることこそが、用いられるための秘訣です。
多くの信じる者は、自分で意識しないかもしれないけで、自分の力で、自分のためにいろいろなことをやります。
イエス様は、私たちの身代わりに死に、私たちのために復活なさり、すべての背後に支配しておられる万物の支配者であられます。どうしてでありましょうか。それは私たちを担いで聖霊により、そして主のために御霊を通して全てを行うようになるために、私たちが御霊によって歩むようになるためであります。
何かことが起こるとすぐにいつも主の御前に行き「私は何もできません。あなたは、私のうちにある柔和であり謙遜であり愛であり全てですから、どうかあなたがこのことを解決を与えてください。」と言うのが御霊によって歩む人の特徴です。主との交わりを持っている人の特徴(特長)です。
もし私たちが、無力になって何もやらないと、御霊が変わりに成して下さるのです。

傲慢と主に依存する気持ちのないことが我々の信仰生活を一番大きく妨げております。あなたは、その自分の傲慢を認め、その傲慢は神の嫌われることを知り、主があなたの傲慢のために十字架につけられたことを悟ならば、あなたは、主に感謝するはずです

主を真心から礼拝せざるおえなくなるでしょう。イエス様は、父なる神に完全に頼っていました。「子は、父のなさることを見てする以外に自分から何もすることができない。」とイエス様は、告白してくださったのです。
私たちは、すでに自分に頼ることをやめましたでしょうか。イエス様は

ヨハネの福音書15:5
5わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

と言われたのです。ヨハネの福音書15章5節です。「私から離れては、あなたがたは何一つできない。」結局何をやっても永久的な実が残らない、ということです。
イエス様がこのことを言われたのですからこの言葉は嘘ではなく真実です。ですから、私たちは、他に何か試みる必要はありません。もし私たちが、試みるならそれは、罪です。今日、学びました交わりの秘訣、秘密とは、いったいどういうものなのでありましょうか。
聖書には、「彼が、光でいますように我々も光のうちを歩むならば真の交わりを持つ。」と書いてあります。光のうちを歩むことこそが交わりの秘密です。多くの信じるものの悩みは、光のうちを歩むどころか、光のうちに立つことすらできないでいることではないでしょうか。

イエス様の光に照らされますと私たちの生まれつきのものは、決定的に駄目であり、役に立たない汚れたののであることが分かるようになります。
もしイエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも正しくなります。この交わりとは、どういうものであるかといいますと、一言で言いますと光の交わりです。命の交わりです。愛の交わりです。
イエス様から離れては、私たちは、真の実を結ぶことができませんし、お互いに愛することもできませんし、又、世に対してはっきりとした態度をとることもできません。
一つのことを覚えましょう。すなわち私たちが、必要なことは、イエス様を知ることであり、主との交わりを持つことです。イエス様は、命であり、聖きであり、謙遜であり、愛であられます。
聖きとは何でしょうか。私たちは、だんだん少しずつ聖くなることでしょうか。決してそうではありません。これは、聖きの実です。表われです。主とのつながっていることの結果です。聖きは、主イエス様御自身です。
コリント人への手紙第Iのなかで、「キリストは、神にたてられ、我々の知恵となり、義と聖とあがないとなられた。」と書いてあります。私たちは、忍耐を必要としているのでありましょうか。忍耐は、イエス様御自身です。私たちに聖きと愛が欠けているのでありましょうか。イエス様は、聖きであり、愛であられます。主に任せることと、自分で試みることとの間には、本当に天国と地獄程の差があります。

主に頼ること、全てを主に明け渡すことこそが 真の交わりの秘訣であります。




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